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7_教訓
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二人が森から戻った翌日。リーズの父、男爵トマシュの屋敷の一角にて。
主人であるトマシュに呼びつけられたヴィーリは、痛む体を引きずりながらこの部屋へと足を踏み入れた。
部屋の中央には大きな椅子が置かれ、その手前には古びた台座が鎮座する。脇には小ぶりな机と棚があり、壁際には鞭や棍棒といった、おどろおどろしい道具が掛けられていた。しかしそのいずれもが埃を被り、この場所が長らく使われていないことを伺わせる。
「この、恩知らずめ!」
そんな折檻部屋の中心に立つトマシュの顔は怒りに満ち、日頃の温厚な姿とは似ても似つかない。小太りの身体を震わせながら振り上げられた彼の握りこぶしを見て、ヴィーリは反射的に傷口を庇う動きを取る。それを見たトマシュは、唇を噛みながら彼の背後の壁を殴りつけた。
壁際に座り込み頭を垂れるヴィーリの内心には、驚きと恐怖が混在していた。トマシュがここまで激昂し、物を殴りつけたり、人間を痛めつけたりする姿を、彼は見たことがない。自分の行いがそれほどまでに彼を怒らせたと思うと、彼はある種の罪悪感、申し訳ないという気持ちすら覚えるのだった。
「ふう、ふう……お前、娘にもしものことがあったら、どうするつもりだったんだ!」
「申し訳ございません。旦那様……」
「どうするつもりだったのかと聞いているんだ!」
トマシュは溢れる感情を壁や手近な棚へ向けて当たり散らす。本当はヴィーリのことを殴りつけてやるつもりだったのだが、怪我をしている相手に更に追い討ちを掛けるほど、彼は非情になれないのだ。
「俺は……い、命に替えてでも、お嬢様を守ります」
「たわけたことを抜かすな!」
トマシュが再び背後の壁を叩く。彼はヴィーリの顔へ頭を近づけて、今にも噛みつきそうな、目を見開いた姿で睨みつける。
「剣の握り方も知らんくせに、騎士気取りか? ブラシを掛けてやる内に、馬の乗り方を覚えたとでも言うのか? お前に与えた仕事がなんだったのか思い出してみろ。お前はただ薪を割って、飼い葉を運んでいればいいんだ。ただの下男風情が、なにを思い上がって……ああ、くそっ!」
トマシュは感情的な大声で喚き散らしてから、先ほど自分が蹴り飛ばした椅子にどすんと腰掛ける。
「エリザヴェータはお前のことを随分と気に入っているようだから、これまで多めに見てやった。だがその結果がこれなら……儂は、やり方を変える」
その言葉を聞いてヴィーリは青ざめる。リーズと過ごす時間が、本来彼には許されないものであること。今まではお目溢しを受けていたということを、彼自身も理解していた。
「いいか、ヴィエスラフ。自分の立場をよく弁えろ。もう二度と、二人で屋敷から出ることは許さん。馴れ馴れしく呼ぶことも許さん。次また娘に色目を使ってみろ……あれを使ってでも、身分というものをお前に叩き込んでやる!」
彼が指差す壁には、埃にまみれた鞭が掛けられている。トマシュにそれを使った経験はないが、だからといって、使い方を知らない訳ではない。
そしてヴィーリもまた、この道具をよく知っている。彼が飼い葉を運ぶとき、トマシュに仕える騎兵たちがそれを振るう姿を幾度となく目にしていた。日によっては、あの華奢なリーズですらも、この鞭で軍馬を躾け、思うように操っているのだ。
長鞭の先端部に作られた瘤のような結び目。そしてそれが振られるときの、あの引き裂くような音。もしこれが自分へ振るわれたらと想像するだけで、ヴィーリは臆病風に吹かれそうになる。しかし、それでも彼は主人へ反論したい気持ちを抑えられなかった。
「畏まりました、旦那様。ですが……お名前については、短く呼ぶようにと、お嬢様ご自身から仰せつかって……」
少年の言葉に、トマシュは口角を吊り上げる。
「おお、なんと素晴らしいんだ。お前も凡百の召使いらしく、主人の言葉尻を捕まえることを身に着けたようだな。次はエリザヴェータに何と吹き込むつもりだ? お前の父に折檻されたから、慰めてくれとでも頼むのか?」
「そ、そんなつもりでは……」
反論されたトマシュは興奮した様子で息を荒げ、肩を震わせながら大声を張り上げた。
「口答えするな。この、卑しい羽虫めが! そうやって娘を誑かそうとしても、好きにはさせんぞ!」
リーズを誑かし、利用するだなんて、そんなこと一度だって考えたことはない。ヴィーリはそう言いたかった。彼はそんな企みを抱いたことなどない。むしろリーズの期待に応えるよう振る舞ってきたつもりだった。けれども彼の行いは、父親には受け入れられなかった。
トマシュの目には憎悪すら浮かび、激しい炎のような熱を持っている。ヴィーリにはその瞳が、角で彼の肩を貫いた、あの親鹿の瞳と重なって見えた。
(旦那様はただリーズを……娘を守りたいだけなんだ)
そう感じた途端、ヴィーリは何ひとつ反論できなくなる。トマシュの怒りが、これ以上なく正当なものに思えるのだ。彼はひたすらに頭を床に擦り付け、嵐のような怒りを耐えるしかなかった。
「儂は、エリザヴェータを守るためならなんだってするぞ。お前みたいな、毒牙を隠し持った蛇、今すぐにでも追い出してやる!」
トマシュは再び握りこぶしを振り上げる――しかしそれは振り下ろされず、ゆっくりと下げられていく。
「だが……だが、お前は身を呈して娘を守った! だから、今回は許してやる」
トマシュは椅子から立ち上がり、力なく扉まで歩く。彼は扉を開けて、去り際に一言呟きながら、部屋から出ていった。
「二度と、あの娘をリーズと呼ぶんじゃない」
トマシュが立ち去った後も、ヴィーリは折檻部屋の中で頭を垂れたままだった。身動きひとつないその姿はまるで、主人の言葉によって床へ縫い付けられてしまったかのようだ。
(俺は、リーズを利用してなんかいない。むしろその逆で、俺は、リーズを守るために戦ったじゃないか。にも関わらず、あんな言い方……ただ身分が違うだけで、俺はこんな目に遭わないとならないのか?)
ヴィーリは心の内で、トマシュから与えられた言葉へ反論しようとしていた。彼に悪意はなかった。自身の行動が正しいと思わせる理由だってあった。
(俺は何も悪くない。リーズのために、こんなに尽くしているじゃないか)
けれども、彼はいつまでも立ち上がることが出来なかった。心に刺さった言葉の針を、抜き取ることが出来なかった。
(でも、旦那様はそうは思っちゃいない。俺のことを、獣のように見ていた……旦那様だけじゃない。屋敷の誰もがそう思っているんだ。そんな俺と仲良くして、親しげに呼ばせていたら、いつかはリーズの名誉だって……)
「おい小僧、いつまでそこにいるんだ」
扉の向こうからの呼びかけで、ヴィーリは物思いから現実へと引き戻された。頭を上げるとそこにはジェラルドが立っており、心配するような呆れるような、何とも言い難い顔つきで彼を眺めていた。
「まさかと思うが、トマシュの旦那にぶたれでもしたのか?」
「ジェラルド……いや、別に」
ジェラルドは部屋の中へ踏み込みヴィーリの腕を取って立ち上がらせると、そのまま彼に肩を貸して部屋を出る。
「なんだ、つまらん……でも、随分と絞られたみたいだな」
口が固く結ばれつつもどこか生気の抜けたヴィーリの顔を一目見て、部屋の中で何が起きたのかの大凡をジェラルドは察した。
「……ま、あまり気にするな。お嬢さんが危険な目に遭って、旦那も気が気じゃないのさ」
うなだれる少年を慰めながら、ジェラルドはヴィーリを部屋まで連れて行く。部屋に戻るまでの間、少年は一言も口を開かなかった。
少年の寝床である屋根裏部屋は狭苦しく、湿気が溜まり、粗末な寝具以外に家具らしきものはない。それでも彼は、主人から与えられたこの部屋を気に入っていた。孤独な時間を過ごすことができるからだ。
二人は狭小な空間に身を押し込み、森での出来事を語り合いながら粗末な食事を口にする。
ジェラルドはヴィーリが森の中で取った行動――樹洞で親鹿をやり過ごした手口や、リーズとの川渡り、親鹿との対決に対して、意外にも称賛の声を掛けた。
「なかなか勇敢じゃないか。お嬢さんを連れて逃げるのは大変だっただろ。俺なら御免だな……でもな」
ジェラルドは懐から取り出した白パンを小さく千切り、口元へ運ぶ。そして残りの柔らかな塊をヴィーリへ差し出しながら、その表情を真剣なものに変える。
「あの時、俺が来るのが遅けりゃどうなってたか、分かるよな?」
「……ああ、分かってるさ」
白パンを受け取りながら、ヴィーリは答えた。
「旦那にぎゃあぎゃあ言われた後に言うのもどうかと思うが……お前、何が良くなかったと思ってる?」
「それは、リーズを――」
自分が彼女を何と呼んだか、気付いたヴィーリは慌てて口元を抑えた。
「お嬢様を、守りきれなかったこと……」
「違うな」
ジェラルドは小さく溜息をついて続ける。
「お嬢さんを危険な目に遭わせたこと、だ」
「危険な、目に……?」
「ああそうだ」
ジェラルドはそう返事をしてから、おもむろにパイプを取り出して火を付ける。薬草の苦い香りと煙が漂い、ヴィーリは目をしかめた。
「お嬢さんがお前を連れ出して、狩りごっこをしたんだろうが……危険があることは、お前ならわかるだろ?」
「そう、だけど……」
「それで、その危険からお嬢さんを守り抜く自信がお前にあったのか?」
ヴィーリはうつむき、拳を握りしめる。その振る舞いが質問への応えを如実に表していた。
「だったら、お嬢さんを止めなくちゃいかん。言われるがままに何でもハイハイ応えるのは駄目だ……お嬢さんのことを大切に想うらな」
「…………」
男はパイプから吸った煙を吐き出す。ヴィーリは彼の言葉に何も言えない。
「今回はなんとかなったが、次も上手くいくとは限らんからな」
それだけ言うとジェラルドは立ち上がり、背を屈めながら屋根裏部屋を後にする。
とっとと元気になれよという励ましの言葉は、ヴィーリには聞こえていなかった。
主人であるトマシュに呼びつけられたヴィーリは、痛む体を引きずりながらこの部屋へと足を踏み入れた。
部屋の中央には大きな椅子が置かれ、その手前には古びた台座が鎮座する。脇には小ぶりな机と棚があり、壁際には鞭や棍棒といった、おどろおどろしい道具が掛けられていた。しかしそのいずれもが埃を被り、この場所が長らく使われていないことを伺わせる。
「この、恩知らずめ!」
そんな折檻部屋の中心に立つトマシュの顔は怒りに満ち、日頃の温厚な姿とは似ても似つかない。小太りの身体を震わせながら振り上げられた彼の握りこぶしを見て、ヴィーリは反射的に傷口を庇う動きを取る。それを見たトマシュは、唇を噛みながら彼の背後の壁を殴りつけた。
壁際に座り込み頭を垂れるヴィーリの内心には、驚きと恐怖が混在していた。トマシュがここまで激昂し、物を殴りつけたり、人間を痛めつけたりする姿を、彼は見たことがない。自分の行いがそれほどまでに彼を怒らせたと思うと、彼はある種の罪悪感、申し訳ないという気持ちすら覚えるのだった。
「ふう、ふう……お前、娘にもしものことがあったら、どうするつもりだったんだ!」
「申し訳ございません。旦那様……」
「どうするつもりだったのかと聞いているんだ!」
トマシュは溢れる感情を壁や手近な棚へ向けて当たり散らす。本当はヴィーリのことを殴りつけてやるつもりだったのだが、怪我をしている相手に更に追い討ちを掛けるほど、彼は非情になれないのだ。
「俺は……い、命に替えてでも、お嬢様を守ります」
「たわけたことを抜かすな!」
トマシュが再び背後の壁を叩く。彼はヴィーリの顔へ頭を近づけて、今にも噛みつきそうな、目を見開いた姿で睨みつける。
「剣の握り方も知らんくせに、騎士気取りか? ブラシを掛けてやる内に、馬の乗り方を覚えたとでも言うのか? お前に与えた仕事がなんだったのか思い出してみろ。お前はただ薪を割って、飼い葉を運んでいればいいんだ。ただの下男風情が、なにを思い上がって……ああ、くそっ!」
トマシュは感情的な大声で喚き散らしてから、先ほど自分が蹴り飛ばした椅子にどすんと腰掛ける。
「エリザヴェータはお前のことを随分と気に入っているようだから、これまで多めに見てやった。だがその結果がこれなら……儂は、やり方を変える」
その言葉を聞いてヴィーリは青ざめる。リーズと過ごす時間が、本来彼には許されないものであること。今まではお目溢しを受けていたということを、彼自身も理解していた。
「いいか、ヴィエスラフ。自分の立場をよく弁えろ。もう二度と、二人で屋敷から出ることは許さん。馴れ馴れしく呼ぶことも許さん。次また娘に色目を使ってみろ……あれを使ってでも、身分というものをお前に叩き込んでやる!」
彼が指差す壁には、埃にまみれた鞭が掛けられている。トマシュにそれを使った経験はないが、だからといって、使い方を知らない訳ではない。
そしてヴィーリもまた、この道具をよく知っている。彼が飼い葉を運ぶとき、トマシュに仕える騎兵たちがそれを振るう姿を幾度となく目にしていた。日によっては、あの華奢なリーズですらも、この鞭で軍馬を躾け、思うように操っているのだ。
長鞭の先端部に作られた瘤のような結び目。そしてそれが振られるときの、あの引き裂くような音。もしこれが自分へ振るわれたらと想像するだけで、ヴィーリは臆病風に吹かれそうになる。しかし、それでも彼は主人へ反論したい気持ちを抑えられなかった。
「畏まりました、旦那様。ですが……お名前については、短く呼ぶようにと、お嬢様ご自身から仰せつかって……」
少年の言葉に、トマシュは口角を吊り上げる。
「おお、なんと素晴らしいんだ。お前も凡百の召使いらしく、主人の言葉尻を捕まえることを身に着けたようだな。次はエリザヴェータに何と吹き込むつもりだ? お前の父に折檻されたから、慰めてくれとでも頼むのか?」
「そ、そんなつもりでは……」
反論されたトマシュは興奮した様子で息を荒げ、肩を震わせながら大声を張り上げた。
「口答えするな。この、卑しい羽虫めが! そうやって娘を誑かそうとしても、好きにはさせんぞ!」
リーズを誑かし、利用するだなんて、そんなこと一度だって考えたことはない。ヴィーリはそう言いたかった。彼はそんな企みを抱いたことなどない。むしろリーズの期待に応えるよう振る舞ってきたつもりだった。けれども彼の行いは、父親には受け入れられなかった。
トマシュの目には憎悪すら浮かび、激しい炎のような熱を持っている。ヴィーリにはその瞳が、角で彼の肩を貫いた、あの親鹿の瞳と重なって見えた。
(旦那様はただリーズを……娘を守りたいだけなんだ)
そう感じた途端、ヴィーリは何ひとつ反論できなくなる。トマシュの怒りが、これ以上なく正当なものに思えるのだ。彼はひたすらに頭を床に擦り付け、嵐のような怒りを耐えるしかなかった。
「儂は、エリザヴェータを守るためならなんだってするぞ。お前みたいな、毒牙を隠し持った蛇、今すぐにでも追い出してやる!」
トマシュは再び握りこぶしを振り上げる――しかしそれは振り下ろされず、ゆっくりと下げられていく。
「だが……だが、お前は身を呈して娘を守った! だから、今回は許してやる」
トマシュは椅子から立ち上がり、力なく扉まで歩く。彼は扉を開けて、去り際に一言呟きながら、部屋から出ていった。
「二度と、あの娘をリーズと呼ぶんじゃない」
トマシュが立ち去った後も、ヴィーリは折檻部屋の中で頭を垂れたままだった。身動きひとつないその姿はまるで、主人の言葉によって床へ縫い付けられてしまったかのようだ。
(俺は、リーズを利用してなんかいない。むしろその逆で、俺は、リーズを守るために戦ったじゃないか。にも関わらず、あんな言い方……ただ身分が違うだけで、俺はこんな目に遭わないとならないのか?)
ヴィーリは心の内で、トマシュから与えられた言葉へ反論しようとしていた。彼に悪意はなかった。自身の行動が正しいと思わせる理由だってあった。
(俺は何も悪くない。リーズのために、こんなに尽くしているじゃないか)
けれども、彼はいつまでも立ち上がることが出来なかった。心に刺さった言葉の針を、抜き取ることが出来なかった。
(でも、旦那様はそうは思っちゃいない。俺のことを、獣のように見ていた……旦那様だけじゃない。屋敷の誰もがそう思っているんだ。そんな俺と仲良くして、親しげに呼ばせていたら、いつかはリーズの名誉だって……)
「おい小僧、いつまでそこにいるんだ」
扉の向こうからの呼びかけで、ヴィーリは物思いから現実へと引き戻された。頭を上げるとそこにはジェラルドが立っており、心配するような呆れるような、何とも言い難い顔つきで彼を眺めていた。
「まさかと思うが、トマシュの旦那にぶたれでもしたのか?」
「ジェラルド……いや、別に」
ジェラルドは部屋の中へ踏み込みヴィーリの腕を取って立ち上がらせると、そのまま彼に肩を貸して部屋を出る。
「なんだ、つまらん……でも、随分と絞られたみたいだな」
口が固く結ばれつつもどこか生気の抜けたヴィーリの顔を一目見て、部屋の中で何が起きたのかの大凡をジェラルドは察した。
「……ま、あまり気にするな。お嬢さんが危険な目に遭って、旦那も気が気じゃないのさ」
うなだれる少年を慰めながら、ジェラルドはヴィーリを部屋まで連れて行く。部屋に戻るまでの間、少年は一言も口を開かなかった。
少年の寝床である屋根裏部屋は狭苦しく、湿気が溜まり、粗末な寝具以外に家具らしきものはない。それでも彼は、主人から与えられたこの部屋を気に入っていた。孤独な時間を過ごすことができるからだ。
二人は狭小な空間に身を押し込み、森での出来事を語り合いながら粗末な食事を口にする。
ジェラルドはヴィーリが森の中で取った行動――樹洞で親鹿をやり過ごした手口や、リーズとの川渡り、親鹿との対決に対して、意外にも称賛の声を掛けた。
「なかなか勇敢じゃないか。お嬢さんを連れて逃げるのは大変だっただろ。俺なら御免だな……でもな」
ジェラルドは懐から取り出した白パンを小さく千切り、口元へ運ぶ。そして残りの柔らかな塊をヴィーリへ差し出しながら、その表情を真剣なものに変える。
「あの時、俺が来るのが遅けりゃどうなってたか、分かるよな?」
「……ああ、分かってるさ」
白パンを受け取りながら、ヴィーリは答えた。
「旦那にぎゃあぎゃあ言われた後に言うのもどうかと思うが……お前、何が良くなかったと思ってる?」
「それは、リーズを――」
自分が彼女を何と呼んだか、気付いたヴィーリは慌てて口元を抑えた。
「お嬢様を、守りきれなかったこと……」
「違うな」
ジェラルドは小さく溜息をついて続ける。
「お嬢さんを危険な目に遭わせたこと、だ」
「危険な、目に……?」
「ああそうだ」
ジェラルドはそう返事をしてから、おもむろにパイプを取り出して火を付ける。薬草の苦い香りと煙が漂い、ヴィーリは目をしかめた。
「お嬢さんがお前を連れ出して、狩りごっこをしたんだろうが……危険があることは、お前ならわかるだろ?」
「そう、だけど……」
「それで、その危険からお嬢さんを守り抜く自信がお前にあったのか?」
ヴィーリはうつむき、拳を握りしめる。その振る舞いが質問への応えを如実に表していた。
「だったら、お嬢さんを止めなくちゃいかん。言われるがままに何でもハイハイ応えるのは駄目だ……お嬢さんのことを大切に想うらな」
「…………」
男はパイプから吸った煙を吐き出す。ヴィーリは彼の言葉に何も言えない。
「今回はなんとかなったが、次も上手くいくとは限らんからな」
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