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怖がりな二人が交わる夜 ~とある男が夢見た純猥談~

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 会社恒例の月末飲み会。

 そこそこ楽しく、そこそこ早く帰りたい社内行事。
 しかし今日は、いつもとは少し心境が違っていた。

 正直、家に帰りたくない。家にいたら、一人になってしまった事を痛感させられる。俺は自分の弱さ、そしてこの障害を呪う。
 しかし、着実に終わりに近づく飲み会。
 そろそろお開きか… そう思った時、一人の同僚が声をかけてきた。

 「先輩~。少し飲みすぎちゃいました~」


――そして、二人の物語は動き出す。


……
………

 飲み会の帰り道。
 ザアァと突然の雨が俺達を襲う。

「まいったな。急にかよ」

 2LDKのありふれたアパートに帰ると、俺はまずタオルを2枚取った。
 1枚は俺が使う為。そしてもう1枚は……

「お邪魔しまーす」

 玄関に立つ同僚の河田さんに手渡す為だ。

 河田未彩、25歳。先月入社した新入社員。
 俺は彼女の教育係として一緒に仕事している。

 同じ大学かつ学科の出身だと判明して、彼女からは「先輩」と呼ばれている。
 更に住んでるアパートが近くて共通する趣味も多く、今では何でも話せる気心の知れた友人だ。
 
「ほらタオル」
「ありがとうございます。先輩のお家に入るのは初めてですね」

「とりあえず片づけるから少しだけ待ってて」
「はーい」

 河田さんの家はここから歩いて20分くらい。
 本当は先に河田さんを家まで送った後、Uターンして自宅に戻るつもりだったが、雨で予定が崩れてしまった。

『先輩の家すぐ近くでしょ? 雨宿りさせてくださいよー。そうだ。この前オススメしていたDVD見せてください』

 と、不意打ちで言われたら『お、おぅ』と答えるしかないじゃないか。

………

「先輩、お酒ありますかー?」
 と言いながら河田さんが近づいてきた。

「あるけどダメ。さっきかなり飲んだだろ」
「ケチー。歩いたから半分醒めちゃいましたよー」

「……って、何勝手に上がってるの!?」
「大丈夫ですよ、片付いてるじゃないですかぁ。こんなに綺麗に片付けてる男の人の部屋は初めてみましたよー」
「んー。まぁ、ね」
「あっ。ごめんなさい……」

 河田さんは棚に残されていた元彼女の物を見て、申し訳なさそうな顔を見せた。


……
………

 それから1時間くらい経過しただろうか。
 結局、冷蔵庫から強奪された缶チューハイを一緒に飲みながら、お気に入りのライブDVDを見ている。

 一か月前まで彼女といた部屋で、今は別の女性がすぐ傍に座っている。
 いつもは身体のラインがわかりにくい服を着けているが、さっきの雨でラインがハッキリわかる。
 思ったより大きな胸にどうしても意識がいってしまう。

 黒髪のショートカットで小柄、コンビニで酒買う時に必ず年齢を聞かれる河田さんを女性として見るのは初めてかもしれない。
 
「やっば! やっぱり凄いカッコイイですね!」
「うおっ」

 DVDを見て盛り上がっている河田さんがくっついてくると、不意を突かれた俺は思わず身体を離してしまう。

「あっ。何、反応してるんですかぁー。おおげさだなぁ」

 その様子を見て河田さんは楽しそうに笑う。
 酔ってるからか、いつも地味系な娘がはしゃぐのを見てるとそれだけで幸せに感じる。

 彼女と別れてから一か月。こんなに楽しい気分になれたのは初めてだ。
 雨は嫌いだが、今日だけはこの雨に感謝した。


……
………

「あ。前々から気になってたんですが」

 ライブも見終わり酒を片手にダラダラと談笑していた時、河田さんが聞いてきた。

「ん?何だ」
「何で先輩は彼女さんにフラれたんですか?」

 不意打ちのド直球にブホォ!とチューハイを吹きそうになった。

「いきなりぶっこんで来るなよお前」
「だって彼女さんから、付き合おうって言ってきたんですよね?』
「まぁ、そうだな」
「それなのに、突然彼女さんから別れを切り出されたって。『何かあったな』って女性社員の間で噂になってましたよ」
「あー」

 元彼女とは違う部署だが、ちょこちょこ文句を言ってる噂は聞いていた。

「で、実際のところ何があったんです? 絶対他の人に言わないんでチラッと!」
「んー。まぁ、いいか」

 酒の場でもあるし、楽しい時間を過ごさせてもらったお礼だ。
 俺は缶に少し残っていたチューハイを飲み干して、雰囲気を壊さないようなるべく明るめに言った。

「Hの時に色々と嫌な思いさせちゃったから、怒って別れを切り出されたよ」

「……あー。そこですか」

 予想外の内容だったのだろう。少し戸惑ってる。

「……先輩は何をしちゃったんですか」

 今までした事なかった下ネタだから、話を流すかと思ったら食いついてきた。意外だ。

「しちゃったというか、最後まで出来なかったんだよ」
「……?」

 よくわかってないような表情を見せる。

「何度頑張っても中で射精する事が出来なかったから、『私の身体は気持ち良くないんだね!』とキレられた」

「それってインポって事?」
「いや、入れる事は出来るんだ。でも途中で萎えたり射精までイケない」
「膣内射精障害って奴ですか…… 結局先輩はイカないまま終了?」

 さっきから凄い単語を出してくるなー。と驚きながら俺は話を進める。

「いや、前戯で彼女をイカせた後に一人で抜いてる」
「彼女さんの口とか手ではダメなんですか!?」
「それでもダメだったなー」
「それは彼女としてショックですねー。でも、これって先輩の一人Hのし過ぎが原因でしょ? ダメですよスケベなんだからー」

 河田さんも気を使ってか、明るく話を振ってくれるのが嬉しい。

「まぁ、オナニーのし過ぎもあるけれど、正直怖かったのが大きかったかも」


「へっ? 怖い、ですか……? 怖かったんですか? 相手は彼女なのに?」


 河田さんは今までとは明らかに違う表情を見せる。
 何か変な事でも言ってしまったのだろうか。

「うん。怖い。抱かせてもらうからには気持ち良くさせたい。いや、させなければいけない。嫌な思いさせたらいけない。イかせないといけない」

「……」

「彼女は気にしなくても良いとは言ってくれるけど、やっぱりどうしても気になっちゃうんだよね」

「……」

 河田さんは真剣な目で俺を見ている。

「そして挿入後は元々イキにくくなっているから余計に焦る。自分もイキたい。イカなければ彼女に失礼だ。とか考えれば考えるほど、逆に射精感が遠のいてしまう」

「……」

「エロ漫画やエロ動画であるような、本能のままに獣のように腰を振って一気に射精するシーンがあるけれど、男はあれが普通だと思ってた」

 だから、俺はAV男優には絶対なれないね。と自嘲的に笑ってみせたけど、河田さんは真剣な表情を崩さない。

「……そんな事を考えている男の人っているんですね」

 少しして、河田さんは小さな声でそう言った。

「河田さん?」

「私って、身長低いし、色々ちっちゃいし、ちょっとおとなしいじゃないですか」
「んー。うん」
「だからかな。私の場合は乱暴にされちゃう事が多いんですよね」
「……」

 俺は河田さんが怒ったり、不機嫌になったのを見た事が無い。嫌な仕事を振られても受けてしまったり、断るとしても明確に言わずに、愛想笑いで誤魔化す事が多い気もする。

 実際に隣でその光景を見ているから、十分ありえるなと話を聞きながら考えていた。

「だから、Hする時はいつも”食べられてる”感じがするんです。Hな事には凄い興味もあるのに、乱暴が怖くて濡れないし、それで更に怖くなって……」

「うん」

「フェラをする時も頭を掴まれて、乱暴に動かされて最後吐いちゃったり、毎回生で入れようとしてきたり……」

「うっ……」

 やはり出てくる「生」やイラマチオの話を聞いて、流石に少し眉をひそめてしまう。

「あー。そういう男多いよな。俺の場合は逆に彼女に生を強要された事があるよ。『もういい! ゴム無しならイケるでしょ!?』と言ってきて」

「うわ。それも大変ですね…… 結局どうしたんですか?」

「生で入れて少し頑張ってみたけど、とても怖くてすぐに止めようと懇願したよ。中の感触とか気持ち良さなんて、とても考えられなかった」

「そうですよね…… 男の人も大変なんだ」
「お互い大変だね。恋愛ドラマみたいにスムーズにいければいいのに」
「……そうですねっ」

 河田さんはクスっと笑った。


「……うんっ」 

 そう言うと、表情を緩めた河田さんは、さっきの俺と同じ様に残った缶チューハイをグイっと飲んだ後、自分の所にくっついてきて言った。


「先輩。私が先輩の為にひと肌脱いであげましょうか」

「はいっ?」

「ゴム、待ってます?」


 楽しげな表情でとんでもない事を言ってきた河田さんに、思わず動揺してしまう。

「ちょ、ちょっとまて。お前男とするの怖いんだろ?」
「えー。さっき言ったじゃないですか。Hな事に興味あるって。今は彼氏を作る気ありませんが、性欲は普通にあるんですよ?」

「しかし……」
「それに、先輩だったら大丈夫な気がします。今の私、”怖そう”よリ”楽しそう”という気持ちが勝ってます」

 河田さんは俺の手にそっと手を重ねながら、楽しそうに言った。

「私、気づいていますよ? 先輩が時々私の胸とか見ていた事に」
「あ、あぁ。やっぱり気づくよな……」

 ドギマギしながら答える俺の手をギュッと握り、河田さんは俺の目をしっかりと見ながらハッキリと言った。

「私は先輩とHな事したいです。私、Hが怖くて消極的な態度しか取れず、愛想を尽かされてばっかでした。だから私も性行為に関して悩んでいて、どうにかしたいんです」

「河田さん……」

「でも、先輩となら今までとは違う、怖くない時間を過ごせると思うんです。先輩は私としたくありませんか?」

「……!」

 からかいでも、何となくでもない事は真剣な河田さんの表情を見たら明らかで、その目を前にしたら嘘や誤魔化しは出来ない。

 だから、俺も河田さんに本当の気持ちを伝えなければいけない。

「うん。俺も河田さんとしたい。今まで河田さんの事をそういう目で見た事なかったけど、今日河田さんと一緒にいて初めて女性として意識した。もし、河田さんがいいなら一緒にこの“壁”を超えたい」

「……よかった。ありがとうございます」
「こちらこそありがとう。とっても嬉しい」

 俺の答えを聞いた河田さんはホッとしたような、そして嬉しそうな顔を見せながら、俺の吐息が触れ合うくらい顔を近づけ、ゆっくりと目を閉じた。

 俺はゆっくりと河田さんの唇に唇を重ねて、優しい感触と共に幸せと不安が入り混じった、あの独特の感覚を思い出す。

 そして、河田さんの舌がゆっくりと入ってきてアルコールの臭いを感じた瞬間、自分の中に別の意識が生まれた。


とうとう
始まってしまった
始まってしまった

どうしよう
どうしよう

  怖い


 これは今までにもよくあった事。それが彼女だとしても最初の頃は発生する現象。

 頭ではわかっていても、実際に始まったと感じた時に出てしまう感覚。特に今回は予定外の初めての人が相手だ。出ない方がおかしい。

「……?」

 童貞みたいに動きがぎこちなくなったからか、河田さんはキスをしながらも微かに声を出す。
 それでも自分は頭を撫でたり、首筋にキスしたり舌を動かしていると、今度はハッキリ声を出して笑いはじめた。

「フフフッ。大丈夫ですよ。先輩っ」

 唇を離して河田さんは楽しそうに話す。

「やっぱり相手が初めての人だと緊張しますか? 怖いですか?」

「……」

 否定出来ないから何も言う事が出来ない。

「そうですよね。わかります」

 そう言いながら、河田さんはゆっくりと俺の首に腕を回すと、目を見ながら呟いた。


「よかった。やっぱり先輩、怖くない」


 チュッと軽くキスをした後、河田さんは話を続ける。

「ありがとうございます。私の事、大事に思っているんですね。でも、先輩はもっと自分の性欲に素直になっていいんですよ?」

「えっ?」

「私は大丈夫です。仮に嫌になったり怖くなったらちゃんと言います。だから先輩は私の事を忘れて、先輩自身の事だけを考えてください」

 そう言うと河田さんはニッコリと笑った。

「……ありがとう。出来るかどうかわからないけどやってみるよ」

「はいっ」


……
………

 ベッドに移動した俺達は、下着姿で抱き合いながらお互いの唇を求める。
 ブラを外し露わになった、手の中にきれいに納まる二つの膨らみに触れ、その先端を口に含む。
 河田さんの呼吸が乱れ、時折我慢できなくなって声を出す。

 今まで見た事の無い河田さんの姿と表情を見て、興奮と同時に不安が襲う。
 俺はなんて事をしているんだ、と。

 いつもより下手な前戯になっているだろう。
 しかし、河田さんは不安を感じている事を気づいていて、その都度、俺の顔を見て微笑んだり、頭を撫でたりするのだ。

 そろそろいいかな。と手を河田さんの下着の中に入れて秘部に触れた時、
 驚くくらい濡れていたので、思わず口に出して言ってしまう。

「……凄い」

 その言葉に、河田さんは息を乱しながら答える。

「先輩、だから……」

 濡れている事を知ると俺は心から安心する。確定ではないにせよ、興奮してくれている、感じてくれていると考える事が出来るからだ。

……

「せ、先輩……」

 それから少しした後、河田さんはそう言って枕の横に置いてあるコンドームの箱をチラっと見る。それ以外の言葉はないし、首を横に向けてこっちを見る事もない。

 このタイミングで「入れて」と言ったり目を合わせたら、俺が緊張して萎えるのを知っているのだろう。

 しかし、それでも怖くなる事には変わらない。
 袋から取り出し、慌てて装着するのに時間がかかると完全に萎えるのはわかっている。

 はたして大丈夫だろうか……

 と思ったその時、河田さんは独り言のように小さな声で呟いた。


「……先輩、大丈夫です。私は”食べられて”はいません」


 その河田さんの一言に救われた気がした。
 受け入れられているという安心感。色んな思いと優しさに包まれた言葉だと感じた。

「うん」

 俺も同じように呟き、挿入出来る硬さを保ったままゴムを装着して、正常位でついに河田さんと一つになった。

「あぁんっ!」

 その瞬間、河田さんは今までで一番大きい声を出して反応した。
 呻き声と河田さんの中の温かさ、そしてペニス全体を締め付ける感触に、脳が焼け付くような快感と興奮で一気に陰茎は硬さを取り戻す。

 これなら……!

 俺はゆっくりと腰を動かす。
 そのリズムに合わせて「うんっ… うんっ…」と押し殺した吐息が聞こえてくる。
 
 河田さんの締め付けが強いからか、それとも久しぶりだからか、いつもより気持ちよく感じる。

 今までの彼女は"イッて欲しい"と目で訴えながら、俺の上で腰を一生懸命に振っていた。しかし逆にそれがプレッシャーに感じていた。

 今回はそんな事はない。焦ってはいけない。俺は河田さんの感触と気持ち良さだけに集中して腰を振り続ける。

…………

 そうしていく内に少しずつ射精感が湧き上がってきた。ここまでは過去にもあった。
 しかし、ある程度高まった後、急速に醒めてしまう事がある。原因はわからない。それさえなければ……

「……!」

 その時、河田さんは自分の下半身に手を伸ばし、一番敏感な場所を弄り始めた。

「はぁ… あっ…!」

 快感に酔いしれている河田さんは、さっきまでの押し殺した声ではなく、少しずつ喘ぎ声が大きくなり、完全に自分の世界に入っている。

 目の前の光景に激しく興奮したと同時に、射精感が急速に上がってきた。
 額に汗が浮かび、呼吸も荒くなる。胸がドキドキする。こんな感覚は初めてだ。

「はぁっ、はぁっ……!」
「あっ…ああっ…んっ、ああっ……くっ、あっ……!」

 二人の声が重なる。

 俺の腰も河田さんの指も止まらない。もう何も考えられない。
 俺はとにかく気持ち良くなる為に、出来るだけ深く、出来るだけ速く腰を振って叩きつける。

「……くっ!!」
「あっっ、あっあっ、ああッ!」


――――そして俺は、生まれて初めて女性の膣に射精する事が出来た。


……
………

「はぁ。はぁ」
「はぁっ……はぁっ」

 二人の乱れた呼吸が、全てが終わった事を告げている。
 俺は乱れた呼吸を整えながら、頭の中で同じ言葉を繰り返す。

 凄い……! 凄い……! 凄い……!

 最後にオナニーで終わらせるのとは、疲労感が違う。そして、女性の中でイケたという達成感が凄すぎる。

 これが本当のセックスだったのか……

「……先輩っ」
「ん?」

 河田さんは満面の笑みで両手を広げて俺を迎える。

「よかったですね、先輩!」
「……」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の視界が歪んだ。

「……あれっ?」

 とめどなく涙が溢れていく。止まらない。

「ちょ、ちょっとオーバーです ……そんなに泣かれたら私も困っちゃいますよぉ」

 少し声を震わせている。そして少し涙を浮かべているようにも見えた。

 この涙は初めて中で射精出来た喜びと、河田さんへの感謝。そして今までの彼女への謝罪の涙だ。

「んも~。そろそろ泣き止んでくださいっ」

 河田さんは俺を抱きしめて頭を優しく撫でながら、独り言のように話しはじめた。

「……私ね? 今まで彼氏とのHが始まった時、さっきの先輩みたいに怖くてビクビクしてた。でも好きだったから、頑張って無理に合わせようとしてた」

「それが間違っていたのかな。私、バカみたい。そんな事しても良い結果にはならないのにね」

「でも、さっきちょっとだけ良い事もありました」

「?」

 そう言うと河田さんは、とても満足げで楽しそうな表情を見せる。

「先輩の“はじめて”を頂いちゃいましたから。フフッ」

「……何を言ってるんだよ」

 そう面と言われたら恥ずかしくなる。
 そして、俺の目をしっかり見ながら改まった感じで続ける。

「先輩。今日は本当にありがとうございました。気持ち良かったですし、何よりリラックスしながら出来ました。セックスってこんなに楽しかったんですね」

「……うん。俺も嬉しかった。本当にありがとう」
「はいっ!」

 俺達は、明日には元の関係に戻るだろう。
 だから、この僅かな時間を愛しむように指を絡める。
 河田さんの手から伝わる温かさ、そして優しさを感じながら……


……
………
 
――こうして、怖がりな二人の夜は終わった。


 * * *


 夢のような週末はあっという間に終わり、俺はいつもの通勤路を歩き、いつもの建物、いつもの部屋、いつもの机に向かいパソコンの電源を入れる。

 隣の机の主はまだ来ていない。
 小柄で大人しくて目立たないけれど、とても優しい人だ。


――次の彼女さんとは、いっぱい気持ちよくなってくださいねっ。


 別れ際の言葉が心に響く。

 やはりあの夜の事は思い出として、このまま過ぎ去ってしまうのだろうか。
 そんな事を考えながら週明けのメールチェックをしている時、会社の扉が開き彼女の声が聞こえてくる。


「おはようございまーす」


 いつもと比べて少し明るめでテンションの高い声。
 気だるい月曜の朝というより、金曜日の退勤を彷彿とさせるテンションだ。

「なになに? 河田さんいい事でもあったの?」

 他の女子社員が軽い挨拶的な感じで話を振ると、河田さんはその社員に笑顔でこう答えた。

「はいっ。週末に”人助け”をしまして、良い事したなーと思い出していました」
「そ、そうなんだ」
「困ってる人を助けるのは気持ちの良い事なんですね」

 そう言いながら、河田さんは俺の隣の椅子に座っていつものように仕事の準備を始める。

「さてと。今週もよろしくお願いしますね。先輩」
 
 河田さんは、あの夜と同じ笑顔で俺を見る。

 その笑顔を見て、俺達の中の何かが動き出したような気がした。


「うん。よろしく」
「はいっ!」


----- 終わり ----
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