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第5章 契約と誓約の戦
第258話 希望の魔力「赦しと癒し」
しおりを挟む椿は、霧ノ都での拘束に関する報告のため、会議室へと向かっていた。
ひんやりとした無機質な廊下を、革靴の音だけが硬く反響する。どこまでも続くように思えるその廊下は、妙な静けさに包まれていた。
ただ歩くだけなのに、背筋が冷たくなる。
何かがおかしい──直感が、そう告げていた。
「失礼します」
扉の前で深く一礼し、コンコンと控えめにノックしてから入室する。
その瞬間、椿は息を呑んだ。
会議室にはすでに、機構の幹部たちがずらりと並んでいた。張り詰めた空気が、顔に刺さる。全員の視線が、一斉に椿へと向けられていた。
「あ、あれ…?遅れてしまいましたか?それに…サミラ総監まで……?」
サミラは机に肘をつき、指を組んだまま椿を見つめていた。その瞳は氷のように冷たく、圧力を感じるものだった。
「椿契約管理官、問題ありません。会議は先に始めさせてもらいました。少し、事情が変わったのです」
そう言ったのは、クリスティーナ総監補佐。
「サミラ総監をはじめ、ここにいる全員があなたの話を直接聞くことになりました。──問題ありませんね?」
視線と声の重圧に、椿は一歩だけ無意識に後ずさる。それを悟られまいと、無理やり笑みをつくって頷いた。
「は、はい。契約には参加者変更の可能性も記載されていましたので……大丈夫です」
その時、サミラが静かに口を開いた。
「はじめまして。椿契約管理官。私は新総監のサミラ。よろしくね」
優しい言い回しとは裏腹に、声は乾いていた。
手を差し出されることもなければ、挨拶に笑顔もない。
「は、はい。椿です。よろしくお願いします」
言葉が口から出るのに、ひどく時間がかかった。喉が乾いていた。自分でもわかるほど、声が上ずっていた。
椿の視線は、部屋に並ぶ面々へと移っていく。
誰一人、表情を緩めてはいない。
──それが怖かった。
この場にいるのは、いずれも機構の中枢を担う面々。
サミラ・デザイア:新総監
クリスティーナ・ハイアット:総監補佐(外交担当)
モン・ブラン:総監補佐(組織運営)
ケーキ・ショート:総監補佐(指揮官総括)
マカロン・パリエ:契術研究所(魔法局)所長
小鷹 結衣子:医療局長
アイス・モナカ:防衛局長
アザール・ド・ペインハル:資源管理局長
カーラ・コールドハート:記録局長
そして、その後方には、
アシャ・カレンジ:契術研究所副所長
ミレン・ザフラウィ:医療局副局長
椿は、机を挟んでずらりと並んだ幹部たちを前に、ぎこちなく立ち尽くしていた。
まるで裁判か、尋問を受けに来たかのようだった。ふと、前の前の席から柔らかな視線を感じた。
──サナエだった。
彼女は椿に向かって微笑んでいたが、その笑顔はどこか引きつって見えた。
額には冷や汗が滲み、緊張を隠せていない。
そんなサナエが、隣の席をそっと引く。椿はその隣に腰を下ろし、深く息を吸った。高鳴る心臓を、何とか内側から抑え込む。
そのとき、前方のサミラ総監が口を開いた。
「議題は二つある。一つは、あなたが霧ノ都で経験したこと。もう一つは、“希望の魔力”に関する今後の研究方針。──まずは都で何があったのかを聞かせてちょうだい」
椿は静かに頷き、口を開いた。
一千人を超える女性たちとの魔力融合、雷雨大名の狂気と優しさ、兵士たちから受けた戦闘訓練、激化する内乱、そして雷雨大名の娘・夏希の野望と失踪──
思い出せる限りの出来事を、椿は正確に、誠実に語った。
しかし、会議室の空気は終始冷ややかだった。
反応は乏しく、関心があるのかないのかも分からない。
静寂のなか、言葉をつなぐ自分の声だけがやけに大きく感じられた。
やがて、その静けさを破るように、医療局長・小鷹結衣子が吐き捨てるように言った。
「よくもまあ、そんな顔で話せるわね。千人の女と過ごしただなんて……気持ち悪い。まさか数に酔ってるんじゃないでしょうね?ほんと、男ってやつは」
椿は眉一つ動かさず、その言葉を受け止めた。
すると今度は、契術研究所のマカロン所長が皮肉っぽく口を挟んだ。
「で?実際のところどうなのよ?気持ちよかったんじゃないの?言ってみなさいよ」
会議室に微かな笑いが広がる。
それは椿をからかうというより、彼の存在そのものを軽んじるような、冷たい嘲笑だった。
しかし、その空気を断ち切るように、サミラが口を開いた。
「やめなさい。……都の話は十分よくわかった。報告ご苦労だったわ。霧ノ都の件については、今後の方針を別途協議する。あなたの話は参考にさせてもらうわ」
椿が軽く頭を下げると、サミラの声色がわずかに硬くなった。
「次に、“希望の魔力”の研究とサナエについて、はっきり伝えます」
幹部たちの視線が一斉にサナエへと向けられる。
「機構としては、あなたの魔力を“機構の共有財産”と見なす立場を変えるつもりはありません。サナエ研究員は、これまで確かによく研究を進めてきました。
しかし──あなたとの私的な関係が、研究の公平性を著しく損ねている。
彼女はあなたを自分のもとに囲い込むばかりで、機構全体への貢献が不足している。これは、倫理規定違反に相当します」
椿の隣で、サナエがわずかに肩を震わせる。
「したがって、今この場をもって、サナエ研究員を研究から正式に排除します。追放処分とし、以後の関与を一切認めません。
椿契約管理官、あなたは今後、マカロン所長および小鷹局長が主導する“融合者選定委員会”の監督下で研究に従事してもらいます。
以上です──異議はありますか?」
椿は怒り、机を勢いよく叩いた。
「あるに決まってるじゃないですか! なんでサナエさんを追放するんですか!? あまりにも理不尽すぎます!!」
その声は、抑えていた怒りを突き破って噴き出した。
「第一、以前も同じような結果になりましたが、その時は僕の尊厳と自由を尊重してくれたじゃないですか! なぜ
その決定を、今になって覆すんです!? 機構は契約を重んじる組織ではなかったのですか!?」
椿の瞳は赤く、唇は震えていた。
「──落ち着きなさい!」
思わず怒鳴ったのは、クリスティーナ総監補佐だった。その鋭い一声に、会議室全体が静まり返った。
椿は息を詰まらせ、目を瞬かせた。隣にいたサナエがそっと腕を引き、彼を椅子へと座らせた。
「……契約は重んじる。しかし、あなたと交わした研究契約の前に、機構従事者としての契約がある。そこには、機構の意志に沿って全面協力する義務が記されている。研究契約の改定は正当。問題なのは、機構の共有財産、つまりあなたをサナエが私情で囲い込んでいた点。彼女の追放は決定事項。本人も同意済みよ」
その言葉に、椿はサナエを見た。サナエは微かにうなずいた。瞳は濡れていたが、泣いてはいなかった。
「今、サナエさんの研究は“よくやった”と、そう言いましたよね? なら、その成果はどうなるんですか!?」と椿は再び怒りを込めて詰め寄った。
マカロンがゆっくりと頷いた。
「はい。魔力量と魔力純度の変化に関する研究はよくやってくれました。例えば、どうすれば効率的に魔力量を増やせるか──この点についての貢献は明確です。しかし、これらは我々の優先順位では下位。なぜなら、それは“予想の範囲”だったからです。我々が求めているのは、魔力融合において“自然と同じ魔力型”を作れるかどうか──それだけです」
「自然と同じ……?」
「……我々が知りたいのは、魔力量の増加に関する情報ではない」
マカロン所長が低く言い放った。
「ご存知の通り、魔力には血液型のように膨大な型が存在する。A~Z、その間にAA~ZZ型があり、さらに±が加わり、千種類以上。型が異なると魔力の共有は困難で、場合によっては拒絶反応を起こし、命に関わる。だから通常、他人に魔力を与えることは避けられる」
マカロンの目が冷たく光る。
「だが自然界の木、水、石などは、例外なくZZZ型──“はじまりの魔力”を持っている。これは全ての型と調和する特異な性質。あなたの魔力融合による魔力変化で再現できれば、魔力共有の革命が起きる」
「そのために、“魔力融合でZZZ型を作れるかどうか”を調べることが、我々にとって最も優先度の高い研究なのです」
「……!」
椿は、言葉を失った。
サナエの研究は軽視された。否定こそされていないが、端的に言えば「的外れ」と言われたのだ。
「以上です。異議はありますか?」
マカロンの問いかけに、静寂が支配した会議室で、椿だけが震える声を上げた。
「……あります」
彼はゆっくりと立ち上がり、テーブルに手を置いた。
「……あります!!」
声が、揺れた。怒りと、悔しさと、信じたものを壊された衝撃で、彼の目が潤んでいた。
「彼女は僕に最も向き合ってくれた研究者です!機構が僕を“共有財産”と呼ぶなら、そのために最も貢献したのは彼女です!!」
会議室の空気が凍りつく。
椿の目が、誰ともなく睨みつけた。怒りに染まり、剣のように鋭い視線だった。
「契約とは何ですか……!? 都合が悪くなれば一方的に変更するんですか!? それでも“契約を重んじる機構”なんですか!?」
椿の体から、薄い魔力の波が立ち上った。
空気がピリつき、会議室に見えない刃が走る。
──その時だった。
椿の目の前に、ひとりの女がすっと立ち上がった。
波打つ深いこげ茶の髪を銀糸の紐で一束にまとめ、青と白のローブを優雅に揺らす姿は、どこか神殿の巫女を思わせた。
淡い琥珀色の瞳が光を受けて金色に揺らぎ、優しさと威厳を湛えたその横顔には、一瞬だけ母のような包容力が滲んでいた。
「赦しの花は、怒りの棘を溶かす──静かに咲け、赦しの光花」
彼女──医療局副局長、ミレン・ザフラウィは、黒木の杖をゆるやかに構え、柔らかく詠唱を終えた。
風も音もないはずの会議室に、淡い光の花が咲いたような錯覚が広がる。
椿の体が僅かに揺れ、目の奥の憤怒がふっと和らいだ。
彼の表情から力が抜けていく。
しかし、それだけでは終わらなかった。
「赦しの種子よ、心の奥へ──過ちを許し、争いを鎮めよ。芽吹け、受容の光」
さらに一言、ミレンが重ねた。今度は、胸の奥から広がるような、静かな温かさが会議室に満ちた。
怒りが静まり、そして──赦すという感情が、意識にゆっくりと芽吹く。まるで別人のように、椿は深く息を吐き、静かに座り直した。
「……そうですね。機構の決定に従います」
その口調は穏やかで、怒りの残滓すらなかった。
まるで、自分の意思で赦したかのようにさえ見えた。
──それを見ていたサナエが、驚きと、ほんの少しの怯えを隠せずにいた。
彼女は椿の顔を見つめながら、自分の肩を抱いた。
その肩も、小さく震えていた。
まるで、彼女も同じ魔法を受けたかのように──。
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