朱のゆりかご

久画嵜ミロ

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第一章

10.秘密(2)

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 瞼の裏側で淡い光が揺れている。皮膚越しにじわじわと増していく明るさに、ハザルはゆっくりと目を開いた。視界に飛び込んできたのは、見慣れた木目の天井板。ここが自分にあてがわれた家の寝床だと理解するまでに、数拍を要した。

「生きている、のか」

 胸の内で呟いたつもりの言葉が、そのまま声になって漏れる。ハザルは毒に侵されたはずの腕を持ち上げてみた。痺れも、痛みも、どこからも感じられない。掌を握ったり開いたりしてみても、指一本動かすだけで苦痛だったはずの腕が、なんの抵抗もなく動いた。
 上体を起こすと寝台がきし、と鳴った。身体は嘘のように軽い。僅かな倦怠感こそ残っていたが、村の入り口で倒れたときに感じた、骨の髄まで焼かれるような熱は、まるで悪い夢だったかのように消えている。
 そのとき調理場の方から、ちゃぽん、と水の揺れる音がした。続いて、きゅっと布を絞る音と、ぽたぽたと水滴の落ちる音が重なる。

「ハザルさん!」

 音のする方へ向き直るより早く、弾けるような声が響いた。駆け寄る足音が近づき、視界の端からフィノの顔が飛び込んでくる。

「……フィノ」

 まだ少し掠れた声で名を呼ぶと、フィノの瞳がぱっと見開かれた。

「よかった、本当によかった!」

 胸の前で握っていた布巾をさらにぎゅっと握りしめながら、フィノはふう、と長く息を吐く。潤んだ翡翠色の瞳を細め、安堵している様子が見てとれた。
 ハザルはふと自分の額へ手をやった。あれほど熱に浮かされていたというのに、汗が張り付くような不快感がない。傷を負った腕には包帯が綺麗に巻かれ、そこから薬草の匂いが微かに漂っていることにも気づく。

「看てくれていたのか?」

 問いかけると、フィノはこくりと頷いた。

「はい。毒は引いたみたいですけど……もしものことがあったら、って」

 そこまで言って、フィノは唇を引き結ぶ。その目がどこか気まずそうに揺れ始めた。
 確かに毒は引いた。それは身体の感覚からしても間違いない。しかし、どうしてここまで回復しているのか。ハザルにはどうにも釈然としなかった。

(あの夜、ここで)

 意識を手放す直前の感覚が、断片的に蘇る。舌の上を滑っていった、どろりとした液体の感触と、腹の内側から広がっていった温もり。そして、顔のすぐ上から聞こえた、今にも泣き出しそうな声。

「フィノ。……俺に何をした」

 眉を顰め、ハザルが真っ直ぐに問いかける。フィノは俯き黙り込んだまま、布巾を握る手にさらに力を込めた。

「何かを、飲まされた気がした」

 あのとき目にしたフィノの姿と、口の中へ流し込まれたものの粘性と苦味。あれらが全て、毒熱に侵された頭が見せた幻であればいい。そう願いながら、ハザルは言葉を絞り出した。
 フィノはすぐには答えなかった。沈黙の中で喉がごくりと鳴る音だけが聞こえる。やがて何かを決意したように息を吸い、目を逸らしたまま口を開いた。

「……精液、です」

 その一言にハザルはぐらりと目眩がした。やはり幻ではなかったのだ。フィノは確かにあの夜ハザルに跨がり、半ば強引に口へとそれを飲ませた。

「おかしな話だと、思うかもしれません」

 固い声でフィノが静かに続ける。握りしめた両手は小刻みに震えていた。

「僕、生まれたときから、体内のマナの廻りがおかしくて。制御できずに、体液と一緒に流れ出てしまうんです」

 本来なら意志によって魔法として放たれるはずのマナを、フィノは体液と一緒に流し出してしまう。にわかには信じ難い話だった。だが、初めて夕餉を共にした日、薬草を塗られたときの汗ばんだ指先の熱や、倒れたハザルの頬へ落ちた涙の温もり――それらに覚えていた違和感の正体はこれだったのかと、今になって合点がいく。

「それで、俺の毒を治すために……飲ませた、ってことか」

「ハザルさんをどうしても助けたくて。気持ち悪いことをしてしまったのは、分かってます」

 フィノは絞り出すように謝ると、その場で深く頭を垂れた。肩が小刻みに震え、握りしめた手の甲には白くなるほど力が入りきっている。

「〝これ〟が一番マナの濃度が高いって、言われていたから」

「言われていた? 誰に」

 問いかけても、それ以上フィノからは何も返ってこない。ただ「ごめんなさい」と掠れた声で繰り返すばかりだった。
 ハザルはその縮こまった背中を黙って見つめた。気持ち悪いだとか、許せないだとか、そんな言葉をぶつけてやろうという気持ちは、不思議と湧いてこなかった。

「……ありがとな。助けてくれて」

 しばしの沈黙ののちハザルは低く口を開いた。フィノの肩がびくりと震える。

「それと――……嫌な思い、させたな」

 フィノがゆっくりと顔を上げた。眉根を寄せ大きく目を見開いたまま、困惑とも動揺ともつかない色を瞳に揺らしている。

「なんで。嫌な思いなら、ハザルさんが」

「村の連中も、知らないんだろ」

 フィノの言葉を遮るように、ハザルは問いかけた。『癒やし手はいない』と、口々に言っていた村人たちの顔が脳裏に浮かぶ。誰もフィノを癒やし手として見てはいなかった。フィノはこくりと頷く。

「はい。おじいさんとおばあさんにも、黙っています」

 共に暮らしてきた老人たちにさえ打ち明けられなかった秘密を、たった数日しか共に過ごしていない自分に晒してまで救おうとしてくれた。そんな相手を嫌悪の一言で切り捨てることなど、ハザルにはできなかった。

「誰にも言いたくない秘密を晒してまで、俺の命を繋ごうとしてくれた。それを嫌だなんて、思うわけがねえだろ」

 言い切ると、フィノははっとしたように瞬きをした。頬にじわじわと赤みが差し、瞳が落ち着きなく揺れる。戸惑いなのか別の感情なのかは、ハザルにはうまく測りかねた。

「……ありがとうございます」

 フィノはもう一度、深々と頭を下げた。声はまだ小さいが、さきほどまでの震えは幾分か収まっている。

「なんでお前が礼を言うんだよ」

 呆れたように、しかしどこか笑うような声音で言いながら、ハザルはそっと手を伸ばした。垂れた頭に掌を置き軽く撫でると、強張っていたフィノの肩から、少しずつ力が抜けていくのが伝わってきた。
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