朱のゆりかご

久画嵜ミロ

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第一章

14.傷跡と微笑み(2)

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 夜が明け、朝陽が山の端から顔を覗かせる頃には、ハザルはいつも通り巡回の道を辿っていた。見慣れた獣道を進みながら、ふと広げた手を見つめる。
 あのあと、『汚れちゃいましたね』と苦笑混じりに後始末をしていたフィノに、まともな言葉ひとつかけられなかった。ただ『おやすみ』とだけ言って、何事もなかったかのように背を向けた。それがひどく虚しいとすら思った。自分はこうして歩いていても、昨夜の行為を思い出せば、指先にじんと熱が蘇るというのに。

(俺は、フィノに何を期待した?)

 毒牙に襲われた夜、治癒だと銘打ってあんな真似をしたくらいだから、それなりに経験もあるのだろうと、心のどこかで思い込んでいた。だが実際のフィノは、まるで初めて熱を交わしたかのように、拙い呼吸を繰り返しながら、終始小さく震えていた。そこまでして、ハザルの治癒のためにと身を差し出しただけなのだとしたら――そう思えば思うほど、いたたまれなかった。そしてその感情こそが、自分がフィノそのものに欲情したという証に他ならないのだと、今になって思い知らされる。

「……っ」

 その瞬間、ぴり、とした痛みと共に、ハザルの頬に一本の傷が走る。思考に囚われていたせいで、注意が散漫になっていたらしい。慣れきった獣道だというのに、生い茂った枝葉で頬を掠めてしまった。裂かれた皮膚から、じわりと赤い血が滲み出す。その感覚がハザルの思考を一瞬にして掻き消した。

(ああいうのは、よくない)

 フィノの優しさを、あんな形で利用してはいけなかった。そう思えば思うほど、頬の小さな痛みが、やけに鮮明に感じられる。

(口では偉そうに『お前はお前のままでいればいい』なんて言いながら、一番あいつを振り回してるのは俺じゃないか)

 滲んだ血を指先で拭いながら、ハザルは大きく息を吐いた。その情けない溜め息が、尚更自己嫌悪を煽った。

 
 村へ戻ると、フィノは家の前で洗濯物を取り込んでいるところだった。張られた縄にかかった布や衣服が夕風に揺れている。

「ハザルさん」

 こちらの足音に気づいたフィノが、顔を向けてきた。その声音は、どこかよそよそしさを含んでいるようにも聞こえる。それでもいつも通りを装おうとしているのが、その瞳の揺れ方から見て取れた。やがて視線がハザルの頬へ流れ、傷に気づいたのか、「あ……」と小さな声が漏れる。

「頬、痛くないですか?」

 両腕に抱えていた洗濯物を片方へ寄せ、空いた手がそっと伸ばされる。指先が頬へ届く前に、ハザルは咄嗟にその手首を掴んだ。ごく僅かに力を込めて動きを制すると、「どうして」とでも言いたげに、フィノが目を丸くする。ハザルは慌てて、弁明するように口を開いた。

「さっき薬を塗った。大丈夫だ」

「そう、ですか……よかった」

 フィノはほっと息を吐き、伸ばしかけていた腕を下ろした。その顔を見つめながら、ハザルは意を決したように息を呑む。

「……フィノ」

 名を呼ぶと、フィノは小首を傾げた。

「昨日のことは、その、悪かった」

「え?」

 謝罪の言葉に、フィノは眉を顰めて瞬きを繰り返す。なんのことか測りかねているような表情だった。ハザルは視線を逸らしながら、言葉を継ぐ。

「強引に、お前の身体を試すような真似をした。本当に、すまない」

「そんな」

 フィノは大きく首を横に振った。洗濯物を抱きしめる腕に、ぎゅっと力がこもる。

「僕は、ハザルさんに何かできたらいいって思っただけで――」

「分かってる」

 フィノの揺れる声を、ハザルは静かに遮った。

「お前がそう思ってくれていたのも分かってる。その優しさに俺が勝手に調子づいて、させちまった」

「あんな、こと……?」

 その言葉をなぞるように呟いたフィノの表情は、固まっていた。瞬きを忘れたようにハザルを見つめたまま、翡翠色の瞳からすうっと光が失われていく。そして短い沈黙ののち、フィノはゆっくりと睫毛を伏せた。

「……そう、ですよね」

 夕風に消え入りそうなほど、小さな声をこぼす。フィノが再び顔を上げると、唇の端には笑みが浮かんでいた。けれどその笑顔は、どこかぎこちない。頬の筋肉だけを引き攣らせたような、痛々しい笑みだった。

「すみませんでした」

「フィノ?」

 思わず名を呼ぶ。フィノが謝る謂れなどどこにもないはずだ。それなのにどうしてそんな言葉が出てくるのか。問いただすより早く、フィノが先に口を開いた。

「洗濯物、しまってきますね」

 ただそれだけ告げると小さく会釈をして、胸に洗濯物をぎゅっと抱き寄せる。そのままハザルの脇をすり抜けていった。

「おい、フィノ――」

 呼び止めようとしても、フィノが振り返る気配はない。伸ばしかけた手は、宙でぴたりと止まる。行き場を失った指先を下ろしながら、ハザルは家の中へ消えていく小さな背中を、ただ黙って見届けるしかなかった。
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