朱のゆりかご

久画嵜ミロ

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第一章

21.光の名を知る(1)

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 白い廊下をただひたすら駆け抜ける。扉のひとつひとつに目を走らせながら進んでいくうちに、やがて観測室で見たものと同じ符号が記された扉が視界に飛び込んできた。
 
(ここだ)
 
 ハザルは足を止めると、そのまま勢いよく扉を押し開いた。
 
「フィノ!」
 
 ばん、と扉を開く音と共に、呼び声が部屋の中に響き渡る。
 
「はざ、る、さん……?」
 
 寝台の上に横たわっていた細い影が、ぴくりと肩を震わせた。かろうじて顔だけを持ち上げ、扉の方を向く。乱雑に脱がされたのだろう、ローブは床にぐしゃりと広がり、フィノは薄い衣服だけを身につけた姿で、寝台に横たわっていた。もともと線の細い体つきが、いっそうはっきりと分かる。興奮剤のせいか肌は赤く火照り、こめかみや首筋から噴き出した汗が、髪や衣服をぐっしょりと濡らしていた。
 扉の前に立つハザルの姿を捉えた瞬間、フィノの目がぱあっと見開かれる。困惑とも安堵ともつかない表情を浮かべ、熱に潤んだ瞳がぐらりと揺れた。
 
「ハザルさん!」
 
 勢いのまま上体を起こそうとして、腕にうまく力が入らず、フィノの身体がぐらりと傾ぐ。その気配にハザルは大剣を壁に立てかけると、殆ど飛び出すような勢いで寝台へ駆け寄り、崩れかけた細い身体の背に片腕を回して支えた。

「――っ。無理に起き上がるな」
 
 間近でハザルの顔を目にした瞬間、フィノの瞳の縁に大粒の涙が膨らむ。それは堰を切ったように溢れ出し、頬を伝ってぽろぽろとこぼれ落ちていった。
 
「ハザルさん、……ハザルさん!」
 
 その涙を目にした瞬間、ハザルは心臓を鷲掴みにされた気がして、息が詰まった。
 
「怖い思いをさせたな。お前をここへ連れてきたやつは、俺が倒したから」
 
 自分でも驚くほど優しい声音で言いながらハザルは空いている手を伸ばし、親指の腹で頬を伝う涙の筋を拭った。そこへ腰に下げた革袋からギニアンが顔を覗かせる。寝台の上へ降り立つと「ぷ、ぷぅ」と不安げに喉を鳴らし、丸い瞳でじっとフィノを見上げた。
 
(ああ、フィノだ。間に合った)
 
 間近でその顔を見る。涙に滲んだ大きな翡翠色の瞳と、しゃくり上げる息に合わせて震える口許。触れて、息遣いを肌で感じて、漸く、自分がどれほど焦ってここまで来たのかを思い知らされる。そして、彼が二度と手の届かない場所へ連れ去られてしまうことが、どれほど怖かったのかも。
 
「ハザルさん、ギニアンも……きて、くれた……っ」
 
 息をひゅ、ひゅ、と吸い上げながら、フィノが泣きじゃくる。ハザルは涙を拭っていた手を、そのまま頭へと滑らせた。
 指先で優しく髪を梳く。普段はふわりと揺れる柔らかな髪が、今は汗に濡れ、頬や額に張り付いている。その様子だけで、どれほど長く、この狭い部屋で一人苦しみ続けていたのかが、ありありと見て取れた。
 
「お前が残してくれた伝言、あれを見て、ここじゃないかと思った」
 
「っ、ごめんなさい。頼ってしまって……こんな、傷を負わせてしまって」
 
 フィノの表情がまたくしゃりと歪む。ハザルは首を振ると「謝るな」と静かに告げ、そのまま背に回した手に力を込めて、フィノの身体を抱き寄せた。細い身体が、躊躇うように一瞬強張る。しかし、おずおずとその両手がハザルの胸元辺りまで上げられると、ゆっくりと寄りかかるように体重をかけてくるのが分かった。
 ハザルがさらに力を込めてそれを受け止めようとした瞬間――。
 
「……っ」
 
 脇腹の辺りにじん、と鋭い痛みが走った。思わず息を呑むと、腕の中のフィノがはっと顔を上げる。
 
「傷……まだ、塞がって、ないんですか」
 
「大丈夫だ。これくらい、どうってことない」
 
 努めて誤魔化そうとするが、漏れる息と、僅かに寄った眉根に痛みは隠しきれない。
 
「どうってことないわけ、ないじゃないですか」
 
 ハザルの胸元に触れていた指先にきゅ、と力が込められる。フィノは口を引き結び、数拍押し黙ると、俯きながらもう一度「……ごめんなさい」とこぼした。ハザルの上衣が、掴まれた指の形にぐしゃりと歪む。
 
「ハザルさんに、助けてもらって、優しくしてもらって……っ、僕は、いつも護られて、救われてばかりで」
 
 言葉を紡ぐたびに、フィノの肩が小刻みに震えた。堪えるように唇を噛み締めても、涙は止まらない。ぽた、ぽた、とハザルの胸元を濡らしていく。
 
「ハザルさんに何かできたら、っていつも思うのに……こんなふうに怪我までさせて……っ、何もできない自分が、いやで」
 
 掴んだ指先にさらに力が込められ、フィノは肩を竦めるように身体を丸めた。
 
「情けなくて……っ」
 
「フィノ。やめろ、自分を責めるな。俺は――」
 
 嗚咽混じりに吐き出された言葉に、ハザルは「そんなことない、ずっとその明るさと優しさに助けられていた」そう諭そうとする。しかしそれを遮るように、腕の中のフィノがぶんぶん、と激しく首を振った。
 
「いやです」
 
 か細かった声に芯が宿る。その拍子に、フィノはハザルの方へと顔を上げた。泣き腫らして赤く滲んだ瞳が、真っ直ぐにこちらを見据える。
 
「いやです……!」
 
 止めどなく溢れる涙を拭おうともせず、フィノは感情を吐き出すように声を張り上げた。
 
「いやだ、こんなのもう、――いやだ!」
 
 そのとき、フィノの胸の辺りからぼう、と翡翠色の光が現れる。とく、とく、と、緩やかに脈動しながら輝くそれに、まるで生命が宿っているようだと、ハザルは思った。
 
「……フィノ?」
 
 思わず息を詰め、腕の中のフィノを見下ろす。彼自身も、自分の身に何が起きているのか分からないのだろう。僅かに唇を開いたまま、呆然と胸元の光を見つめていた。
 次の瞬間、その光が波紋のように広がり、二人の身体を包み込む。翡翠色に染まった視界の中で、ハザルの肌を柔らかな感触が撫でていった。皮膚の表面をなぞったそれは、すぐに肉体の内側へと染み込み、筋肉や骨の奥へと伝っていく。
 
(……この感覚は)
 
 ――魔法だ。
 そう気づいたときには、全身に駆け巡っていた痛みは驚くほど和らいでいた。脚も、脇腹も、腕も、血で濡れていたはずの箇所から、じくじくとした痛覚が殆ど消えている。身体を見下ろせば、抉られていたはずの傷口はいつの間にか塞がり、新しい皮膚に覆われていた。
 やがて翡翠色の光は、ゆっくりと収縮していく。源であるフィノの胸元へと戻り、そのまま吸い込まれるようにして消えた。残されたのは先ほどまでと同じ、薄暗い室内の灯りだけだった。
 
「……ハザル、さん……?」
 
「フィノお前、今……魔法を」
 
 問われたフィノは、きょとんと目を瞬かせる。自分の胸元に視線を落とし、次いでハザルの方を見上げた。
 
「わ、わかりません……。勝手に身体が熱くなって……それで……」
 
 自分でも説明がつかないのか、言葉は途切れ途切れで、瞳は不安げに揺れている。ハザルはその様子を見つめながら、先ほどまでの言葉を思い起こす。
 
『ハザルさんに何かできたら、っていつも思うのに……こんなふうに怪我までさせて……っ、何もできない自分が、いやで』
 
『いやだ、こんなの、――いやだ!』
 
 そんなフィノの想いが形をもったもの。それがさきほどの光なのだとしたら。そう思った途端その光が、これまでハザルの胸の奥でくすぶり続けていた得体の知れない感情に、ひとつの輪郭を浮かび上がらせてくれたように思えた。フィノに向けた言葉も、視線も、触れ方も。その全てに、この感情が根ざしていたのだと、否応なく思い知らされる。
 
(俺はずっと理屈ばかり並べて、自分の気持ちにも、こいつがどう思っていたのかにも、ちゃんと向き合おうとしなかった)
 
 ハザルはフィノの背を支える手に力を込めるともう一度、細い身体をしっかりと抱き寄せる。もうこの衝動に、言い訳なんてできなかった。
 
「ハザル、さん?」
 
「……フィノ」
 
 自分が思うよりずっと掠れていて、熱のこもった声だった。頬を擦り寄せるように耳元へ唇を寄せ、名を呼ぶ。途端に、腕の中でフィノの肩がびくりと大きく震えた。
 
「……っ、は」
 
 フィノは短く吐息を漏らすと、身を捩って慌てたように顔を背けた。投薬に赤らんでいた頬は、さきほどよりいっそう色を増して見える。
 
「フィノ?」
 
 ハザルは咄嗟に腕の力を緩め、その身体を見やった。下衣越しに下腹部の辺りが、僅かに盛り上がっているのが目に入る。視線に気づいたフィノが、慌てたように腿をきゅっと閉じた。
 
「ぁ、の……薬が、まだ抜けて、なくて……。近くで、そんなふうにされると」
 
「……苦しいか?」
 
 ハザルは低い声音で問いかけながら、フィノの耳朶をなぞるように指先を滑らせた。濡れた肌に触れた指先が、微かに震える。
 
「ん、ぅっ」
 
 フィノの肩がびくん、と跳ね、ぎゅっと目を瞑った。堪えようと口を引き結ぶも、鼻から抜ける声はひどく甘い。
 
(薬のせいばかりじゃない。そう思っても――もう、いいよな)
 
「なぁ、フィノ」
 
 フィノの身体が示す反応に、胸がずきんと疼く。名前を呼べば、声が勝手に熱を帯びてしまう。
 
「少しでも楽にしてやりたい。俺に、委ねてくれないか」
 
 そう告げると、フィノは静かに顔を上げた。熱に潤んだ翡翠色の瞳が、とろりと光を宿したまま、真っ直ぐにハザルを見つめる。ふるりと睫毛を震わせ、フィノは何も言わずに、小さく頷いた。
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