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第二章
39.綻び(3)
瞼の裏に滲む光に誘われるように、フィノは目を覚ました。身体が僅かに重い。昨夜、涙や汗などの体液と共に、マナが流れ出てしまったせいだろうか。酷い倦怠感ではないが、手足には甘い気怠さが残っていた。
「ん……」
小さく声を漏らしながら目を開く。すぐ目の前にはハザルの顔があった。とうに目を覚ましていたらしく、フィノを抱き寄せたまま、静かにこちらを見つめている。掛布の下では、二人とも一糸も纏っていない。寝台に広がる煉瓦色の髪や、床に無造作に散らばった下衣が、数刻前の激しさを物語っていた。
——期待と不安の入り混じっていた一度目とはまるで違った。何度も名前を呼んだことも、そのたびに奥深く穿たれたことも。身体はそのすべてを、はっきりと快感として拾い上げていた。じわじわと満ちてくる多幸感に耐えきれず、フィノは唇をきゅっと結んで俯く。
「おはよう、フィノ」
頭上から降ってきたハザルの声は、穏やかで優しかった。
「おはようございま……」
フィノはいつものように返しかけて、言葉を詰まらせる。交わりながら、何度も名前を呼んだ。敬称はいらない。〝ハザル〟と呼ばれたい——そう告げられながら抱かれたことを思い起こし、掛布の端を指先で握りしめた。
「……お、おはよう」
おずおずと口を開き、ハザルをちらりと上目に見る。
「……ハザル」
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、彼の琥珀色の瞳を照らしていた。その目が驚いたように見開かれ、すぐに細くなる。口許が緩やかな弧を描き、柔らかな笑みが浮かんだ。それを見た途端、フィノの胸がきゅう、と締め付けられた。
「身体、つらくないか?」
ハザルの大きな掌が、労わるように背中を撫でていく。ゆっくりと往復する温かな手に、フィノは素直に身体を預けた。
「うん。少し重いけど、大丈夫」
敬語を使わずに話すだけなのに、一気にハザルとの距離が近くなった気がして、なんだかくすぐったい。
「なら、支度するか」
もう一度フィノが「うん」と返すと、ハザルは身を起こし、寝台から下りた。いつまでもこうしているわけにもいかず、フィノも掛布を押し退け、その後に続く。床に散らばった衣服を拾い集め、下衣へ脚を通していると、部屋の隅から微かな鳴き声が聞こえた。
「ぷ……」
振り向くと、昨日買ったばかりの鞄から、ギニアンが顔を覗かせている。前脚を伸ばして身体を反らし、大きく欠伸をすると、床へぽてりと降り立った。
「あ……お、おはよう、ギニアン」
「ぷきゅ」
ギニアンはいつもと変わらない調子で鳴き、床に落ちていたフィノのローブを踏み越え、部屋の中を歩き始めた。——ギニアンも昨夜、この部屋にいたのだ。鞄の中で眠っていたとはいえ、どこまで聞こえていたのだろう。急にそんなことを意識してしまい、フィノの頬が熱くなる。当のギニアンは朝食を探すように、鼻先を忙しなく動かしているだけだ。ハザルを窺うと、彼も何食わぬ顔で、拾い上げた下衣を身につけている。それから寝台の縁に腰を下ろし、背に流れた煉瓦色の髪へ手を伸ばした。大きな手で乱れを梳き、長い髪を三つの束へ分けていく。フィノは床から拾ったローブを羽織る手を止め、その様子に見入った。
「どうした?」
気づいたハザルが、髪を掴んだままこちらを向く。
「あ……うん」
フィノは一瞬目を逸らしたものの、すぐに彼の手元へ視線を戻した。
「編むの、大変そうだなって」
「まあな。だが、いつもやってることだ」
答えながら、ハザルは分けた束を器用に編み始めた。
「切ろうとは思わないの?」
何気なく尋ねると、ハザルは小さく首を振った。
「故郷じゃ、殆どの男が髪を伸ばしてる」
そう言って、ハザルは俯いた。数拍の沈黙は、どこか言葉を選んでいるようにも感じられる。
「……昔からの習わしみたいなもんだ」
「へえ……」
フィノは感心しながら、編まれていく長い髪を目で追った。それにしても、自分では見えない位置でこれだけの髪を編むのは、手間ではないだろうか。ふとそう思い、口を開く。
「よかったら、僕がやろうか?」
その提案に、ハザルは手をぴたりと止め、黙り込んでしまった。何かまずいことを言っただろうかと、不安が頭を掠める。
「あ、触られるの嫌だったら……」
「いや」
フィノの言葉を遮って、ハザルが口を開いた。そしてそっと髪を手放すと、遠慮がちに続ける。
「頼んでもいいか?」
フィノは一度目を瞬かせ、すぐに頷いた。
「うん。もちろん」
ハザルは編みやすいよう、僅かに背を丸めた。フィノはその背後へ回り、途中まで編まれた毛束へと触れる。少し硬い毛質にどこかハザルらしさを感じながら、それらを重ね合わせていった。不意に、髪の隙間から覗く耳が目に入る。褐色の肌が、耳の縁だけ仄かに赤く染まっていた。
(恥ずかしいのかな)
そう思うと、なんだか微笑ましい。フィノがふふ、と小さく笑うと、ハザルが僅かに顔を動かした。
「なんだ」
「なんでもない」
フィノは笑って誤魔化し、再び手元へ意識を戻した。束が緩まないよう指先で押さえながら、手際よく髪を編んでいく。
「慣れてるな」
フィノは「うん」と答えながら、編み目をひとつ重ねる。
「財団の施設にいた頃、紐で腕輪を編んだりして遊んでたんだ」
「腕輪?」
「うん。色の違う紐を三本使って、こんなふうに編んでた」
話しながら、脳裏に過去の光景が蘇った。窓のない、無機質で真っ白な部屋。備えつけられた寝台と机のほかには、何もなかった。そんな室内で幼いフィノは、職員から与えられた紐を机に広げ、黙々と指を動かしていた。
「上手くできると、職員さんが褒めてくれたから。何個も作ったよ」
見回りに来た職員へ出来上がった腕輪を見せると、『綺麗に編めたね』と頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、紐を四本にしてみたり、色の並びを工夫したりしたものだった。
「みんなとは殆ど遊ばせてもらえなかったし、勉強と掃除の時間以外は暇だったから。そんなことばっかりしてた」
「……そうか」
フィノにとっては、ただ昔のことを何気なく話しているだけだった。けれど、返ってきたハザルの声音は随分と重かった。気づけば毛先の近くまで編み目が連なっていた。フィノは寝台の脇机に置かれた結い紐を手に取り、解けないようしっかりと結ぶと、ぱっと両手を離す。
「はい、できた」
ハザルは結われた髪へ手を伸ばし、指先で何度か確かめてから、フィノのほうへ向き直った。
「ああ。ありがとう」
「これくらいなら、いつでもできるよ」
フィノは笑いかける。
「毎朝、やってあげるね」
ハザルの眉がぴくり、と動いた気がした。ひと呼吸置いて、その視線がフィノから逸れる。
「ああ。……頼む」
先ほどまで耳だけに留まっていた赤みが、頬にまで広がっている。フィノは不思議に思いつつも、微笑みながら頷いた。
「ん……」
小さく声を漏らしながら目を開く。すぐ目の前にはハザルの顔があった。とうに目を覚ましていたらしく、フィノを抱き寄せたまま、静かにこちらを見つめている。掛布の下では、二人とも一糸も纏っていない。寝台に広がる煉瓦色の髪や、床に無造作に散らばった下衣が、数刻前の激しさを物語っていた。
——期待と不安の入り混じっていた一度目とはまるで違った。何度も名前を呼んだことも、そのたびに奥深く穿たれたことも。身体はそのすべてを、はっきりと快感として拾い上げていた。じわじわと満ちてくる多幸感に耐えきれず、フィノは唇をきゅっと結んで俯く。
「おはよう、フィノ」
頭上から降ってきたハザルの声は、穏やかで優しかった。
「おはようございま……」
フィノはいつものように返しかけて、言葉を詰まらせる。交わりながら、何度も名前を呼んだ。敬称はいらない。〝ハザル〟と呼ばれたい——そう告げられながら抱かれたことを思い起こし、掛布の端を指先で握りしめた。
「……お、おはよう」
おずおずと口を開き、ハザルをちらりと上目に見る。
「……ハザル」
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、彼の琥珀色の瞳を照らしていた。その目が驚いたように見開かれ、すぐに細くなる。口許が緩やかな弧を描き、柔らかな笑みが浮かんだ。それを見た途端、フィノの胸がきゅう、と締め付けられた。
「身体、つらくないか?」
ハザルの大きな掌が、労わるように背中を撫でていく。ゆっくりと往復する温かな手に、フィノは素直に身体を預けた。
「うん。少し重いけど、大丈夫」
敬語を使わずに話すだけなのに、一気にハザルとの距離が近くなった気がして、なんだかくすぐったい。
「なら、支度するか」
もう一度フィノが「うん」と返すと、ハザルは身を起こし、寝台から下りた。いつまでもこうしているわけにもいかず、フィノも掛布を押し退け、その後に続く。床に散らばった衣服を拾い集め、下衣へ脚を通していると、部屋の隅から微かな鳴き声が聞こえた。
「ぷ……」
振り向くと、昨日買ったばかりの鞄から、ギニアンが顔を覗かせている。前脚を伸ばして身体を反らし、大きく欠伸をすると、床へぽてりと降り立った。
「あ……お、おはよう、ギニアン」
「ぷきゅ」
ギニアンはいつもと変わらない調子で鳴き、床に落ちていたフィノのローブを踏み越え、部屋の中を歩き始めた。——ギニアンも昨夜、この部屋にいたのだ。鞄の中で眠っていたとはいえ、どこまで聞こえていたのだろう。急にそんなことを意識してしまい、フィノの頬が熱くなる。当のギニアンは朝食を探すように、鼻先を忙しなく動かしているだけだ。ハザルを窺うと、彼も何食わぬ顔で、拾い上げた下衣を身につけている。それから寝台の縁に腰を下ろし、背に流れた煉瓦色の髪へ手を伸ばした。大きな手で乱れを梳き、長い髪を三つの束へ分けていく。フィノは床から拾ったローブを羽織る手を止め、その様子に見入った。
「どうした?」
気づいたハザルが、髪を掴んだままこちらを向く。
「あ……うん」
フィノは一瞬目を逸らしたものの、すぐに彼の手元へ視線を戻した。
「編むの、大変そうだなって」
「まあな。だが、いつもやってることだ」
答えながら、ハザルは分けた束を器用に編み始めた。
「切ろうとは思わないの?」
何気なく尋ねると、ハザルは小さく首を振った。
「故郷じゃ、殆どの男が髪を伸ばしてる」
そう言って、ハザルは俯いた。数拍の沈黙は、どこか言葉を選んでいるようにも感じられる。
「……昔からの習わしみたいなもんだ」
「へえ……」
フィノは感心しながら、編まれていく長い髪を目で追った。それにしても、自分では見えない位置でこれだけの髪を編むのは、手間ではないだろうか。ふとそう思い、口を開く。
「よかったら、僕がやろうか?」
その提案に、ハザルは手をぴたりと止め、黙り込んでしまった。何かまずいことを言っただろうかと、不安が頭を掠める。
「あ、触られるの嫌だったら……」
「いや」
フィノの言葉を遮って、ハザルが口を開いた。そしてそっと髪を手放すと、遠慮がちに続ける。
「頼んでもいいか?」
フィノは一度目を瞬かせ、すぐに頷いた。
「うん。もちろん」
ハザルは編みやすいよう、僅かに背を丸めた。フィノはその背後へ回り、途中まで編まれた毛束へと触れる。少し硬い毛質にどこかハザルらしさを感じながら、それらを重ね合わせていった。不意に、髪の隙間から覗く耳が目に入る。褐色の肌が、耳の縁だけ仄かに赤く染まっていた。
(恥ずかしいのかな)
そう思うと、なんだか微笑ましい。フィノがふふ、と小さく笑うと、ハザルが僅かに顔を動かした。
「なんだ」
「なんでもない」
フィノは笑って誤魔化し、再び手元へ意識を戻した。束が緩まないよう指先で押さえながら、手際よく髪を編んでいく。
「慣れてるな」
フィノは「うん」と答えながら、編み目をひとつ重ねる。
「財団の施設にいた頃、紐で腕輪を編んだりして遊んでたんだ」
「腕輪?」
「うん。色の違う紐を三本使って、こんなふうに編んでた」
話しながら、脳裏に過去の光景が蘇った。窓のない、無機質で真っ白な部屋。備えつけられた寝台と机のほかには、何もなかった。そんな室内で幼いフィノは、職員から与えられた紐を机に広げ、黙々と指を動かしていた。
「上手くできると、職員さんが褒めてくれたから。何個も作ったよ」
見回りに来た職員へ出来上がった腕輪を見せると、『綺麗に編めたね』と頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、紐を四本にしてみたり、色の並びを工夫したりしたものだった。
「みんなとは殆ど遊ばせてもらえなかったし、勉強と掃除の時間以外は暇だったから。そんなことばっかりしてた」
「……そうか」
フィノにとっては、ただ昔のことを何気なく話しているだけだった。けれど、返ってきたハザルの声音は随分と重かった。気づけば毛先の近くまで編み目が連なっていた。フィノは寝台の脇机に置かれた結い紐を手に取り、解けないようしっかりと結ぶと、ぱっと両手を離す。
「はい、できた」
ハザルは結われた髪へ手を伸ばし、指先で何度か確かめてから、フィノのほうへ向き直った。
「ああ。ありがとう」
「これくらいなら、いつでもできるよ」
フィノは笑いかける。
「毎朝、やってあげるね」
ハザルの眉がぴくり、と動いた気がした。ひと呼吸置いて、その視線がフィノから逸れる。
「ああ。……頼む」
先ほどまで耳だけに留まっていた赤みが、頬にまで広がっている。フィノは不思議に思いつつも、微笑みながら頷いた。
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