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第二章
41.仄かな靄(2)
「残念だったな」
教室を出て暫く歩いたところで、それまで黙って隣を歩いていたハザルが話しかけてきた。フィノを気遣っているのか、その声音はいつもより優しい。
「うん。でも、別の人を紹介してもらえたから」
フィノは努めて明るく答え、受け取った紙を開いた。そこに記された魔術師の住居は、この教室からそれほど離れてはいなかった。
「ここから近いみたい」
「ああ。このまま行ってみるか?」
「うん」
(……学びたいと望む限り、きっと道がある)
魔術師の言葉を反芻する。まだ諦める必要はない。フィノは前を向き、ハザルと並んで歩を進めた。
紹介された魔術師の住まいは、ペルカの住宅街に位置していた。フィノは軒先の表札と、手元の紙に記された名前とを見比べながら、家が建ち並ぶ通りをゆっくりと進んでいく。やがて一角にある煉瓦造りの家の前で足を止めた。
「ここ、だね」
(今度は、うまくいくといいけど……)
そう祈りながら一度深く息を吸い、フィノはコン、コンと扉を叩く。ほどなくして、中から一人の男が姿を現した。先ほど会った魔術師より幾分か若く、三十代半ばほどに見える。事情を告げ、紹介の紙を見せると、男はすぐに二人を室内へ招き入れた。
「彼の紹介なら話くらいは聞こう。魔法を学びたいんだったね」
「はい」
促された椅子に座りながら、フィノは頷いた。その隣にハザルも並び、男は二人の向かいへ腰を落ち着けた。
「ぷっ、ぷ」
鞄からギニアンが顔を覗かせ、興味深そうに辺りを見回す。部屋の壁一面には書棚が並び、本や紙の束が隙間なく詰められていた。机の上には魔導具や大小さまざまな魔石が置かれており、先ほどの教室とはまるで違う眺めに、フィノもつい視線を巡らせる。
「私はマナや魔法について調べることを生業にしていてね」
男はそう前置きすると、フィノへ幾つか質問を投げかけた。自分の属性は知っているか。どうして魔法を会得する機会がなかったのか。フィノは言葉を選びながら、研究施設で育った過去と、自身の体質について説明した。
「マナが? 体液と一緒に?」
途端に、男が身を乗り出す。フィノは戸惑いながらも頷いた。
「は、はい」
男の表情が変わった。見開かれた瞳には好奇の色が浮かび、声に熱が混じる。口調も次第に早くなっていった。
「それは興味深いな……濃度に違いはあるのかい? 汗や涙、血液では?」
「え、っと……」
フィノは反射的に身を引き、肩を窄めた。
(知っている)
指先が震え出す。それを隠すように、両手をきつく握り合わせた。
(この顔を、僕は知っている)
脳裏に、真っ白な部屋が浮かんだ。机の上に並べられた硝子の器。紙の上を走る筆先。そして、それを握る研究者たちの顔。
(あの人たちと、同じ顔だ)
「記録はどこかに残っていないのかな? ないなら今ここでまず調べて——」
「今日は」
低い声が、男の言葉を遮った。フィノがはっと顔を向けると、隣に座っていたハザルが、真っ直ぐ男を見据えている。
「魔法を教えてもらえるかどうかを聞きに来ただけだ」
口調は至って落ち着いている。けれど、普段フィノに向けるそれより淡々としていて、鋭い。
「……ハザル」
思わず名前を呼ぶと、男は我に返ったように「ああ」と漏らした。
「そうだったね。すまない。つい、興味が先立ってしまって」
その声からは熱が引いていた。男は前のめりになっていた身体を戻し、気まずそうに咳払いをする。
「君のような体質は私も初めて見るが、慎重に確認しながら、基礎から教えることはできると思うよ」
本来ならば、喜ぶべき言葉だ。それなのに、フィノは素直に頷けなかった。男に悪意がないことは分かっていても、先ほどの表情が脳裏に焼き付いて離れない。
「……少し」
漸く絞り出した声は、酷く乾いていた。
「考えてもいいですか? 突然押しかけたのに、すみません」
「ああ。もちろん」
男は引き留めることなく頷く。フィノはどうにか頭を下げ、椅子から立ち上がった。ハザルもすぐにその後へ続く。
「……ありがとうございました」
改めて礼を告げ、二人は家を後にした。
「ふう」
外へ出た途端、フィノは大きく息を吐いた。そこで初めて、自分の呼吸が浅くなっていたことに気づく。背中に、大きな掌がそっと触れた。
「大丈夫か?」
振り向かなくても、その手つきでハザルだと分かる。労わるように背を撫でられ、身体の強張りがすう、とほどけていった。応えるように笑ってみたが、浮かんだのは頼りない笑みだけだった。
「うん。ちょっと、昔のこと思い出しちゃって」
ハザルは「そうか」と返したきり、何も聞いてこなかった。その距離感に安堵しながらも、フィノは先刻のやり取りを思い返し、視線を足元へ落とす。
「でもあの人、悪い人じゃなかったし……魔法を教えてくれるって言ってたから」
半ば自分に言い聞かせるように続ける。
「もしほかに見つからなかったら、あの人に——」
「フィノ」
名前を呼ばれ、言葉が途切れた。顔を上げると、ハザルの眼差しがこちらへ向けられている。
「ギルドのやつらも、知り合いを当たってくれるはずだ」
フィノの背を撫でていた手が肩へ移り、ぽん、と励ますように軽く叩いた。
「……うん」
頭では分かっている。まだ訪ねたのは二人だけで、この街に着いて二日しか経っていない。——それでも。
「やっぱり、そううまくはいかないね」
こうしてひとつずつ躓くたび、改めて思い知らされる。フィノは口許に自嘲めいた笑みを浮かべた。ハザルは眉根を寄せ、唇を引き結ぶ。肩に置いていた手を持ち上げ、フィノの髪をくしゃりと撫でた。
「まだ始めたばかりだろ? 今日見つからなくても、明日また探せばいい」
「……そうだね」
その言葉と手の温もりに、胸がとくん、と鳴る。フィノはほんの少しだけ、ハザルのほうへ身を寄せた。
「ありがと」
「ああ」
いつもと変わらないぶっきらぼうな返事に、フィノの顔も幾分か綻ぶ。けれど、胸の奥にかかった靄までは、すぐには晴れてくれそうになかった。
教室を出て暫く歩いたところで、それまで黙って隣を歩いていたハザルが話しかけてきた。フィノを気遣っているのか、その声音はいつもより優しい。
「うん。でも、別の人を紹介してもらえたから」
フィノは努めて明るく答え、受け取った紙を開いた。そこに記された魔術師の住居は、この教室からそれほど離れてはいなかった。
「ここから近いみたい」
「ああ。このまま行ってみるか?」
「うん」
(……学びたいと望む限り、きっと道がある)
魔術師の言葉を反芻する。まだ諦める必要はない。フィノは前を向き、ハザルと並んで歩を進めた。
紹介された魔術師の住まいは、ペルカの住宅街に位置していた。フィノは軒先の表札と、手元の紙に記された名前とを見比べながら、家が建ち並ぶ通りをゆっくりと進んでいく。やがて一角にある煉瓦造りの家の前で足を止めた。
「ここ、だね」
(今度は、うまくいくといいけど……)
そう祈りながら一度深く息を吸い、フィノはコン、コンと扉を叩く。ほどなくして、中から一人の男が姿を現した。先ほど会った魔術師より幾分か若く、三十代半ばほどに見える。事情を告げ、紹介の紙を見せると、男はすぐに二人を室内へ招き入れた。
「彼の紹介なら話くらいは聞こう。魔法を学びたいんだったね」
「はい」
促された椅子に座りながら、フィノは頷いた。その隣にハザルも並び、男は二人の向かいへ腰を落ち着けた。
「ぷっ、ぷ」
鞄からギニアンが顔を覗かせ、興味深そうに辺りを見回す。部屋の壁一面には書棚が並び、本や紙の束が隙間なく詰められていた。机の上には魔導具や大小さまざまな魔石が置かれており、先ほどの教室とはまるで違う眺めに、フィノもつい視線を巡らせる。
「私はマナや魔法について調べることを生業にしていてね」
男はそう前置きすると、フィノへ幾つか質問を投げかけた。自分の属性は知っているか。どうして魔法を会得する機会がなかったのか。フィノは言葉を選びながら、研究施設で育った過去と、自身の体質について説明した。
「マナが? 体液と一緒に?」
途端に、男が身を乗り出す。フィノは戸惑いながらも頷いた。
「は、はい」
男の表情が変わった。見開かれた瞳には好奇の色が浮かび、声に熱が混じる。口調も次第に早くなっていった。
「それは興味深いな……濃度に違いはあるのかい? 汗や涙、血液では?」
「え、っと……」
フィノは反射的に身を引き、肩を窄めた。
(知っている)
指先が震え出す。それを隠すように、両手をきつく握り合わせた。
(この顔を、僕は知っている)
脳裏に、真っ白な部屋が浮かんだ。机の上に並べられた硝子の器。紙の上を走る筆先。そして、それを握る研究者たちの顔。
(あの人たちと、同じ顔だ)
「記録はどこかに残っていないのかな? ないなら今ここでまず調べて——」
「今日は」
低い声が、男の言葉を遮った。フィノがはっと顔を向けると、隣に座っていたハザルが、真っ直ぐ男を見据えている。
「魔法を教えてもらえるかどうかを聞きに来ただけだ」
口調は至って落ち着いている。けれど、普段フィノに向けるそれより淡々としていて、鋭い。
「……ハザル」
思わず名前を呼ぶと、男は我に返ったように「ああ」と漏らした。
「そうだったね。すまない。つい、興味が先立ってしまって」
その声からは熱が引いていた。男は前のめりになっていた身体を戻し、気まずそうに咳払いをする。
「君のような体質は私も初めて見るが、慎重に確認しながら、基礎から教えることはできると思うよ」
本来ならば、喜ぶべき言葉だ。それなのに、フィノは素直に頷けなかった。男に悪意がないことは分かっていても、先ほどの表情が脳裏に焼き付いて離れない。
「……少し」
漸く絞り出した声は、酷く乾いていた。
「考えてもいいですか? 突然押しかけたのに、すみません」
「ああ。もちろん」
男は引き留めることなく頷く。フィノはどうにか頭を下げ、椅子から立ち上がった。ハザルもすぐにその後へ続く。
「……ありがとうございました」
改めて礼を告げ、二人は家を後にした。
「ふう」
外へ出た途端、フィノは大きく息を吐いた。そこで初めて、自分の呼吸が浅くなっていたことに気づく。背中に、大きな掌がそっと触れた。
「大丈夫か?」
振り向かなくても、その手つきでハザルだと分かる。労わるように背を撫でられ、身体の強張りがすう、とほどけていった。応えるように笑ってみたが、浮かんだのは頼りない笑みだけだった。
「うん。ちょっと、昔のこと思い出しちゃって」
ハザルは「そうか」と返したきり、何も聞いてこなかった。その距離感に安堵しながらも、フィノは先刻のやり取りを思い返し、視線を足元へ落とす。
「でもあの人、悪い人じゃなかったし……魔法を教えてくれるって言ってたから」
半ば自分に言い聞かせるように続ける。
「もしほかに見つからなかったら、あの人に——」
「フィノ」
名前を呼ばれ、言葉が途切れた。顔を上げると、ハザルの眼差しがこちらへ向けられている。
「ギルドのやつらも、知り合いを当たってくれるはずだ」
フィノの背を撫でていた手が肩へ移り、ぽん、と励ますように軽く叩いた。
「……うん」
頭では分かっている。まだ訪ねたのは二人だけで、この街に着いて二日しか経っていない。——それでも。
「やっぱり、そううまくはいかないね」
こうしてひとつずつ躓くたび、改めて思い知らされる。フィノは口許に自嘲めいた笑みを浮かべた。ハザルは眉根を寄せ、唇を引き結ぶ。肩に置いていた手を持ち上げ、フィノの髪をくしゃりと撫でた。
「まだ始めたばかりだろ? 今日見つからなくても、明日また探せばいい」
「……そうだね」
その言葉と手の温もりに、胸がとくん、と鳴る。フィノはほんの少しだけ、ハザルのほうへ身を寄せた。
「ありがと」
「ああ」
いつもと変わらないぶっきらぼうな返事に、フィノの顔も幾分か綻ぶ。けれど、胸の奥にかかった靄までは、すぐには晴れてくれそうになかった。
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