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第二章
42.掌の重さ(1)
翌朝、フィノが髪を結い終えると、ハザルは礼を述べ、すぐさま身支度に取りかかった。
「出かけるの?」
「ああ。ギルドで日帰りの仕事を請けてくる」
「夕方には戻る」と告げながら、ハザルは大剣を背負う。
「ついでに、魔法を教えられそうなやつが見つかったかどうかも聞いてくる」
「うん、ありがとう」
部屋を出かけたところで、何かを思い出したようにハザルが振り返った。
「フィノ」
「うん?」
「一人で危ないところへは行くなよ」
念を押す重い口調に、フィノは思わず「大丈夫だよ」と苦笑する。ハザルはまだ何か言いたげだったが、やがて短く「行ってくる」と言い残し、部屋を出ていった。扉が閉まるとすぐ、室内は静寂に包まれる。——ハザルはもう、新しい街で仕事を始めている。それなのに自分は、魔法を教わる相手さえ未だ見つけられていない。
(僕も、できることから始めないと)
胸の奥に浮かぶ焦りを振り払うように、フィノは卓へ向かった。
「今日は入門書を読んでみよっか」
「ぷ」
部屋をとてとてと歩き回っていたギニアンが、足元まで寄ってきて、じっとこちらを見上げる。
「一緒に読む?」
「ぷきゅ」
ギニアンが文字を読めるのかは定かではないが、フィノは屈んで小さな身体を抱き上げ、卓の上へと乗せてやった。自身も椅子に腰かけ、書店で買い求めた入門書を開く。そこには、光の筋が身体の中を巡る人影の挿絵とともに、こう記されていた。
わたしたちの身体には、ふたつの属性のマナが宿っています。
ひとつめは、光と闇のどちらか。これを〝第一属性〟と呼びます。
ふたつめは、火・水・風・土・雷・氷のうちのひとつ。これが〝第二属性〟です。
(僕の属性は、光と、風)
頁の隅には、それぞれの属性を表す小さな絵が添えられている。どれも子どもが見て分かるよう、簡素に描かれたものだった。
マナは、身体のなかにある〝回路〟をぐるぐると巡っています。
そのマナを『こうしたい』と想像しながら身体の外へ出すと、火を灯したり、
風を起こしたりすることができます。これが、〝魔法〟です。
身体の中を巡る矢印と、掌から外へ飛び出す光。平易な挿絵を辿るうち、フィノは無意識に自分の手へ目を落としていた。
魔法は、戦うためだけのものではありません。
料理や畑仕事、遠く離れた人と会話をするときにも役に立ちます。
また、魔法を使わなくても、マナの力を利用することはできます。
マナを蓄え、その力で働く道具を〝魔導具〟と呼びます。
みなさんの家にも、ひとつはあるかもしれません。
読み進めるにつれ、内容はそれぞれの属性が持つ性質へと移っていった。これまでの暮らしで見聞きしたものも多かったが、その仕組みや意味まで詳しく知るのは初めてだ。気づけばフィノは、夢中で頁を捲っていた。
「ぷぅ」
ふと、卓の隅から小さな鳴き声がした。目を向けると、ギニアンの丸々とした黒い瞳がじっとこちらを見上げている。
「ギニアン、どうしたの?」
「ぷ、ぷ」
首を傾げて尋ねると、ギニアンは鳴きながら手元まで近づき、フィノの指先へちょこんと前脚を乗せた。
「……お腹空いた?」
「ぷぃっ」
威勢のいい返事に、フィノは笑う。
「そっか。もうそんな時間なんだ」
窓の外では、いつしか陽が随分と高く昇っていた。どうやら思いの外読み耽っていたらしい。買い置きの食材でギニアンと共に腹を満たすと、フィノは再び卓へ向かい、入門書を開いた。やがて頁は、魔法を実際に扱うための練習方法の解説へと進んでいく。
まずは目を閉じ、身体の内側へ意識を向け、巡るマナの感覚を探してみましょう。
そこまで読んだところで、フィノの手が止まった。
「……どうやって?」
どのように意識を向ければいいのか。どんな感覚を〝マナを感じる〟と呼ぶのか。以前、魔法が発現したとき、身体の奥から熱が湧き上がった覚えはある。思い当たるのはそれくらいだが、あれが〝巡るマナ〟だったのか、フィノには確信が持てなかった。
書かれているとおりに目を閉じ、あの熱を探して身体の内側へ意識を向けてみる。それでも感じ取れるのは、自身の呼吸と鼓動ばかりだった。
「……うーん」
何度試してみても、それらしいものは掴めない。フィノは大きく溜め息を吐き、椅子の背にだらりと身を預けた。
(やっぱり、一人で本を読むだけじゃ魔法は使えないよね……)
そう思った途端、昨日訪ねた二人の魔術師や、今朝仕事へ向かったハザルの背中が脳裏を過る。考え始めると、自分にできていないことばかりが目につき、気持ちが沈んでしまいそうだった。
(少し、外に出ようかな)
外の空気でも吸えば、気分も変わるかもしれない。フィノは本を閉じると、ギニアンを鞄へ入れて宿を出た。
あてもなく、市場のほうへ足を向ける。昼時を過ぎても、通りには多くの人が行き交っていた。鞄から顔を覗かせるギニアンと共に、フィノは店先を眺めながら人波の中を歩く。
「ぷっ、ぷ」
「今日は何も買わないよ」
苦笑混じりに釘を刺す。行き交う人や漂ってくる匂いが気になるのか、ギニアンは忙しなく鼻をひくつかせていた。華やかな市場を眺めているうちに、心も幾らか軽くなってくる。やはり、外へ出てきてよかったかもしれない。そう思いながら歩いていると、一軒の食堂の前で足が止まった。
「……ん?」
入口の脇に、一枚の紙が貼られている。
『手伝い募集。皿洗い、掃除など。短時間でも可』
「手伝い……」
書かれた文字をなぞるように、フィノは呟いた。掃除なら、研究施設にいた頃からしてきた。皿洗いも、ロウシェ村の老夫婦の家で殆ど毎日のようにしていた。どちらも苦ではない。寧ろ、汚れていたものを綺麗にしていく作業は好きだった。
(これなら、僕にもできるかもしれない)
村を発つときに持たされた金も、ハザルが使って構わないと言ってくれた報奨金もある。当面の滞在には充分だ。それでも、宿に泊まり、食事をし、必要なものを買えば、当然少しずつ減っていく。この先どれだけの時間と金が要るのか、今は見当もつかなかった。
(このままだったら、ハザルに頼りきっちゃう)
今朝見送った、彼の背中を思い出す。ハザルばかりに負担をかけたくない。その思いはペルカに着いてから日を追うごとに強くなっていた。何かにつけてフィノを優先し、自分のことは後回しにする彼を、傍で見てきたからだ。フィノは鞄の肩紐を握りしめ、意を決して店の扉を開いた。
「助かったよ! ありがとな」
店主は朗らかに笑いながら、フィノの手に数枚の硬貨を握らせた。さらに「こっちは持って帰りな」と、賄い料理を包んだ紙袋まで手渡してくれる。
——貼り紙を見て店へ入ると、成り行きで皿洗いを任され、気づけば外はすっかり夕暮れに染まっていた。掌の硬貨を見つめたまま動かずにいるフィノに、店主が怪訝そうに尋ねる。
「どうした?」
「あ……す、すみません。ありがとうございます!」
フィノは慌てて頭を下げた。研究施設が崩壊し、イルマヤ政府に保護されていた頃、買い物や家事といった、外で暮らすための訓練は受けていた。だが、自ら働き、その対価として金を受け取ったことは一度もない。掌にあるのは、初めて自分で稼いだ金だった。ハザルが仕事で得る大金には遠く及ばない。それでも、これは紛れもなく、自分の力で手にしたものだ。手の中の重みを確かめながら、フィノは硬貨をぎゅっと握りしめた。
「この街にいる間は、いつでも来てくれよ。手際もいいし、毎日来てほしいくらいだ」
「……はい!」
これで、ハザルの負担をほんの少しでも減らせる。喜びを噛み締めながら、フィノは賄いの入った紙袋を片手に提げ、いつになく軽い足取りで宿への道を歩いた。
(今日は、これを夕飯にしよう)
ハザルも、もう仕事を終えている頃だろうか。帰ったら今日あったことを話して、初めて金を稼いだことも伝えたい。
(どんな顔するかな。褒めてくれるかな)
逸る気持ちのまま宿へ戻ると、入口の前に見慣れた姿があった。
「……ハザル?」
ハザルは険しい表情で、辺りを見回している。
(どうしたのかな?)
不思議に思いながら歩み寄ろうとした、そのときだった。彼がフィノに気づき、琥珀色の瞳を大きく見開いた。
「ハザ——」
名前を呼びきるより早く、ハザルはこちらへ向かってくる。大股で距離を詰め、途中からは殆ど駆け足になっていた。
「ハザル、おかえり。あのね——」
言いかけると、がし、と腕を掴まれる。
「っ……」
無骨な指が食い込むほどの強さに、フィノは顔をしかめる。思わず見上げると、ハザルの眉間には深い皺が刻まれていた。
「どこへ」
「……え?」
「どこへ行ってた」
咎める響きを帯びた、低く鋭い声だった。
「出かけるの?」
「ああ。ギルドで日帰りの仕事を請けてくる」
「夕方には戻る」と告げながら、ハザルは大剣を背負う。
「ついでに、魔法を教えられそうなやつが見つかったかどうかも聞いてくる」
「うん、ありがとう」
部屋を出かけたところで、何かを思い出したようにハザルが振り返った。
「フィノ」
「うん?」
「一人で危ないところへは行くなよ」
念を押す重い口調に、フィノは思わず「大丈夫だよ」と苦笑する。ハザルはまだ何か言いたげだったが、やがて短く「行ってくる」と言い残し、部屋を出ていった。扉が閉まるとすぐ、室内は静寂に包まれる。——ハザルはもう、新しい街で仕事を始めている。それなのに自分は、魔法を教わる相手さえ未だ見つけられていない。
(僕も、できることから始めないと)
胸の奥に浮かぶ焦りを振り払うように、フィノは卓へ向かった。
「今日は入門書を読んでみよっか」
「ぷ」
部屋をとてとてと歩き回っていたギニアンが、足元まで寄ってきて、じっとこちらを見上げる。
「一緒に読む?」
「ぷきゅ」
ギニアンが文字を読めるのかは定かではないが、フィノは屈んで小さな身体を抱き上げ、卓の上へと乗せてやった。自身も椅子に腰かけ、書店で買い求めた入門書を開く。そこには、光の筋が身体の中を巡る人影の挿絵とともに、こう記されていた。
わたしたちの身体には、ふたつの属性のマナが宿っています。
ひとつめは、光と闇のどちらか。これを〝第一属性〟と呼びます。
ふたつめは、火・水・風・土・雷・氷のうちのひとつ。これが〝第二属性〟です。
(僕の属性は、光と、風)
頁の隅には、それぞれの属性を表す小さな絵が添えられている。どれも子どもが見て分かるよう、簡素に描かれたものだった。
マナは、身体のなかにある〝回路〟をぐるぐると巡っています。
そのマナを『こうしたい』と想像しながら身体の外へ出すと、火を灯したり、
風を起こしたりすることができます。これが、〝魔法〟です。
身体の中を巡る矢印と、掌から外へ飛び出す光。平易な挿絵を辿るうち、フィノは無意識に自分の手へ目を落としていた。
魔法は、戦うためだけのものではありません。
料理や畑仕事、遠く離れた人と会話をするときにも役に立ちます。
また、魔法を使わなくても、マナの力を利用することはできます。
マナを蓄え、その力で働く道具を〝魔導具〟と呼びます。
みなさんの家にも、ひとつはあるかもしれません。
読み進めるにつれ、内容はそれぞれの属性が持つ性質へと移っていった。これまでの暮らしで見聞きしたものも多かったが、その仕組みや意味まで詳しく知るのは初めてだ。気づけばフィノは、夢中で頁を捲っていた。
「ぷぅ」
ふと、卓の隅から小さな鳴き声がした。目を向けると、ギニアンの丸々とした黒い瞳がじっとこちらを見上げている。
「ギニアン、どうしたの?」
「ぷ、ぷ」
首を傾げて尋ねると、ギニアンは鳴きながら手元まで近づき、フィノの指先へちょこんと前脚を乗せた。
「……お腹空いた?」
「ぷぃっ」
威勢のいい返事に、フィノは笑う。
「そっか。もうそんな時間なんだ」
窓の外では、いつしか陽が随分と高く昇っていた。どうやら思いの外読み耽っていたらしい。買い置きの食材でギニアンと共に腹を満たすと、フィノは再び卓へ向かい、入門書を開いた。やがて頁は、魔法を実際に扱うための練習方法の解説へと進んでいく。
まずは目を閉じ、身体の内側へ意識を向け、巡るマナの感覚を探してみましょう。
そこまで読んだところで、フィノの手が止まった。
「……どうやって?」
どのように意識を向ければいいのか。どんな感覚を〝マナを感じる〟と呼ぶのか。以前、魔法が発現したとき、身体の奥から熱が湧き上がった覚えはある。思い当たるのはそれくらいだが、あれが〝巡るマナ〟だったのか、フィノには確信が持てなかった。
書かれているとおりに目を閉じ、あの熱を探して身体の内側へ意識を向けてみる。それでも感じ取れるのは、自身の呼吸と鼓動ばかりだった。
「……うーん」
何度試してみても、それらしいものは掴めない。フィノは大きく溜め息を吐き、椅子の背にだらりと身を預けた。
(やっぱり、一人で本を読むだけじゃ魔法は使えないよね……)
そう思った途端、昨日訪ねた二人の魔術師や、今朝仕事へ向かったハザルの背中が脳裏を過る。考え始めると、自分にできていないことばかりが目につき、気持ちが沈んでしまいそうだった。
(少し、外に出ようかな)
外の空気でも吸えば、気分も変わるかもしれない。フィノは本を閉じると、ギニアンを鞄へ入れて宿を出た。
あてもなく、市場のほうへ足を向ける。昼時を過ぎても、通りには多くの人が行き交っていた。鞄から顔を覗かせるギニアンと共に、フィノは店先を眺めながら人波の中を歩く。
「ぷっ、ぷ」
「今日は何も買わないよ」
苦笑混じりに釘を刺す。行き交う人や漂ってくる匂いが気になるのか、ギニアンは忙しなく鼻をひくつかせていた。華やかな市場を眺めているうちに、心も幾らか軽くなってくる。やはり、外へ出てきてよかったかもしれない。そう思いながら歩いていると、一軒の食堂の前で足が止まった。
「……ん?」
入口の脇に、一枚の紙が貼られている。
『手伝い募集。皿洗い、掃除など。短時間でも可』
「手伝い……」
書かれた文字をなぞるように、フィノは呟いた。掃除なら、研究施設にいた頃からしてきた。皿洗いも、ロウシェ村の老夫婦の家で殆ど毎日のようにしていた。どちらも苦ではない。寧ろ、汚れていたものを綺麗にしていく作業は好きだった。
(これなら、僕にもできるかもしれない)
村を発つときに持たされた金も、ハザルが使って構わないと言ってくれた報奨金もある。当面の滞在には充分だ。それでも、宿に泊まり、食事をし、必要なものを買えば、当然少しずつ減っていく。この先どれだけの時間と金が要るのか、今は見当もつかなかった。
(このままだったら、ハザルに頼りきっちゃう)
今朝見送った、彼の背中を思い出す。ハザルばかりに負担をかけたくない。その思いはペルカに着いてから日を追うごとに強くなっていた。何かにつけてフィノを優先し、自分のことは後回しにする彼を、傍で見てきたからだ。フィノは鞄の肩紐を握りしめ、意を決して店の扉を開いた。
「助かったよ! ありがとな」
店主は朗らかに笑いながら、フィノの手に数枚の硬貨を握らせた。さらに「こっちは持って帰りな」と、賄い料理を包んだ紙袋まで手渡してくれる。
——貼り紙を見て店へ入ると、成り行きで皿洗いを任され、気づけば外はすっかり夕暮れに染まっていた。掌の硬貨を見つめたまま動かずにいるフィノに、店主が怪訝そうに尋ねる。
「どうした?」
「あ……す、すみません。ありがとうございます!」
フィノは慌てて頭を下げた。研究施設が崩壊し、イルマヤ政府に保護されていた頃、買い物や家事といった、外で暮らすための訓練は受けていた。だが、自ら働き、その対価として金を受け取ったことは一度もない。掌にあるのは、初めて自分で稼いだ金だった。ハザルが仕事で得る大金には遠く及ばない。それでも、これは紛れもなく、自分の力で手にしたものだ。手の中の重みを確かめながら、フィノは硬貨をぎゅっと握りしめた。
「この街にいる間は、いつでも来てくれよ。手際もいいし、毎日来てほしいくらいだ」
「……はい!」
これで、ハザルの負担をほんの少しでも減らせる。喜びを噛み締めながら、フィノは賄いの入った紙袋を片手に提げ、いつになく軽い足取りで宿への道を歩いた。
(今日は、これを夕飯にしよう)
ハザルも、もう仕事を終えている頃だろうか。帰ったら今日あったことを話して、初めて金を稼いだことも伝えたい。
(どんな顔するかな。褒めてくれるかな)
逸る気持ちのまま宿へ戻ると、入口の前に見慣れた姿があった。
「……ハザル?」
ハザルは険しい表情で、辺りを見回している。
(どうしたのかな?)
不思議に思いながら歩み寄ろうとした、そのときだった。彼がフィノに気づき、琥珀色の瞳を大きく見開いた。
「ハザ——」
名前を呼びきるより早く、ハザルはこちらへ向かってくる。大股で距離を詰め、途中からは殆ど駆け足になっていた。
「ハザル、おかえり。あのね——」
言いかけると、がし、と腕を掴まれる。
「っ……」
無骨な指が食い込むほどの強さに、フィノは顔をしかめる。思わず見上げると、ハザルの眉間には深い皺が刻まれていた。
「どこへ」
「……え?」
「どこへ行ってた」
咎める響きを帯びた、低く鋭い声だった。
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