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第四章・イギリス
第18話 下関と上海にて
しおりを挟む文久三年五月頃の長州藩は、後から考えればバカバカしくなるほど両極端であった。
かたや横浜からは若者五人をロンドンへ密航留学に送り出し、かたや下関ではアメリカ商船に砲撃を加えて攘夷実行を開始していた。
これほど自己矛盾が激しく、非合理的な行動をした藩というのは他に例がないであろう。
とはいえ、これはある意味「結果がどちらに転んでも対処できるようにしておく」というリスクヘッジの一種と言えるかもしれない。そういう意味では長州は「抜け目がない」とも言えよう。ただ、人によっては「なんと無節操な連中であることよ」と呆れるかもしれない。
冷静な人間から見ればバカバカしいとしか言いようがないかもしれないが、この「とにかく行動する」「とにかくやってみる」という馬車馬のようなエネルギーがなれば、後の結果もおそらくなかったであろう。
さて、この長州藩の行動について見る前に前回の話で触れた、幕府が出した「外国人追放(鎖港)令」のことをまず書かなければならない。
生麦事件の賠償金(44万ドル)支払い問題については、幕府の一橋慶喜と小笠原長行が謀略を駆使してイギリスに支払ったことはすでに書いた。
そしてその支払いの際、幕府は各国に対して「外国人追放(鎖港)令」を通告した。
この通告は攘夷期日である五月十日に合わせたもので、日付は五月九日付けになっており、さらに小笠原長行(図書頭)の署名が入っている。
その内容を現代語訳すると大体次の通りである。
「書類でもって申し上げます。日本国民が外国との交際を望んでいませんので外国人には退去してもらい、港を閉鎖するよう京都にいる将軍から命令があり、私が交渉するよう委任されました。委細は面談の席で申し上げますが、まずは書類でお知らせします。 小笠原図書頭」
この通告を出す時に神奈川奉行の浅野氏祐がフランスのベルクール公使に対して「断固とした抗議声明を通告してもらって結構です」と述べていたが、実際各国代表からは浅野も青ざめるほど激烈な抗議声明が返ってきた。
例えばイギリスのニール代理公使の場合は
「このような通告は全ての国の歴史において前例を見ないものであり、事実上全ての条約締結国に対する“宣戦布告”に等しい」
といったような内容だったが、他国も概ね同様だった。
そしてサトウには「この小笠原が通告してきた外国人追放令を英訳する」という仕事が任された。
サトウは通訳として初めて公式な仕事を任されたのである。
ただしニールはこの仕事をサトウの同僚通訳であるユースデンとシーボルトにもやらせており、三通りの翻訳を作成させるようにした。
ユースデンの肩書は日本語書記官で、当時の一番正式な通訳である。ただし彼はオランダ語(蘭語)と英語の通訳であり、日本側に蘭語の通訳がいることを前提とした通訳だった。江戸時代には長崎に蘭語の通訳がいたので蘭語を使える通訳は日本側にかなり存在した。そして彼らがいないとユースデンの仕事は成り立たず、さらに言うと日本語と英語を直接通訳できる人間があらわれると彼の仕事はなくなるのである。ちなみにこの時も彼は、日本側が蘭語で提出してきた外国人追放令を英語に翻訳した。
そしてシーボルトの肩書は臨時通訳官である。彼についてはちょっと詳しく解説する必要がある。彼はオランダ生まれのドイツ人で、サトウより三歳年下の十六歳である。父は1828年に「シーボルト事件」を引き起こして日本から追放された人物で、1859年に再来日を許可された父に同行して来日した。ところがその父はこの来日した年に単身で帰国する事になり、その際父はオールコック公使と面談して息子をイギリス公使館に雇ってもらった。それ以来すでに三年以上日本語を勉強し、さらに蘭・仏・独の三ヵ国語を使えた。ただし英語は母国語ではないので決して上手ではない。ちなみに彼は長崎に女性産科医の“楠本いね”という異母姉もいる。
一方、サトウの肩書は通訳生である。まだ日本に来てから一年も経っておらず、この三人の中では一番の新米である。
とはいえ、日本語の読解は非常に難しく、サトウもシーボルトも単独では不可能なので、二人とも日本語教師(サトウの場合は高岡)の助けを借りてこの外国人追放令を翻訳した。
初めて正式な仕事を任されたサトウの喜びは相当なもので、彼は完成した翻訳を親友のウィリスに見せて喜びを分かち合った。
後年サトウは次のように語っている。
「私が初めて自分の訳文を作った時、友人のウィリスが自分のことのように喜んでくれた。その時の嬉しさは決して忘れられない。三人の翻訳の内どれが最も忠実な訳であるか誰も言い得る者はいなかったが、ウィリスと私にはもちろん分かりきっていた」
ただし一応本当のところも言っておくと、イギリス政府への報告にはユースデンが蘭語から翻訳したものが正式な報告書として提出され、サトウとシーボルトの翻訳は参考資料として添付されるにとどまった。
この賠償金支払い問題が決着したあと、慶喜は賠償金の支払いを止められなかった責任を取って関白の鷹司輔煕に宛て将軍後見職の辞表を提出した。しかしその辞表は朝廷から否決された。
一方、小笠原も責任を一身に背負って辞職する覚悟を決めているのだが、彼の場合、その前にもう一つ重要な仕事が残っていた。
それは蒸気船で幕府歩兵を率いて京都へ攻め上る、という仕事である。
しかしながらその小笠原の「率兵上京」の話をする前に、まずは下関での砲撃事件のことを書かなければならない。
現在、下関市と北九州市を隔てている関門海峡は、かつては下関海峡あるいは馬関海峡と呼ばれていた。日本海と瀬戸内海、そして太平洋を繋ぐ海上交通の要衝で、海運のチョークポイントである。チョークポイントとは、その狭い地域を確保するだけで戦略的に絶大な影響力を行使できる場所のことをさす。
「五月十日の攘夷期日」というのは、これまで見てきたように幕府にとっては「建前上の外国人追放(鎖港)令」に過ぎず、攻撃されてもいないのに「無差別に外国船を打ち払う」というものではなかった。
けれども長州藩の過激な攘夷主義者たちは、まさに文字通りの攘夷実行期日として受けとめた。
五月十日、下関対岸の小倉藩領の田野浦にアメリカ商船ペンブローク号が潮待ちのため停泊していた。
下関海峡は狭いため潮の流れが急で、最も速い所では約10ノット(時速20km弱)に達することもある。それゆえ逆流では進みづらく、下手をすると座礁するおそれもあるため潮待ちをしていたのだった。このペンブローク号を、下関側で見張りをしていた長州藩兵が発見した。
この日の夜、下関の光明寺に久坂玄瑞、入江九一ら長州攘夷主義の精鋭たちが集結した。
ちなみにこの一党に高杉晋作は加わっていない。
彼はまだ萩の山奥で庵に引きこもったままだった。おそらく久坂や藩の正規兵がどれだけやれるか「お手並み拝見」といった心持ちであったろう。
長州藩は藩内すべてが過激な人間ばかりだったという訳ではない。
この日、下関に出張してきていた総責任者の毛利能登は砲撃を自重していた。その煮え切らない態度に光明寺の一党はいきり立っていた。
「何?お奉行様が攻撃を自重せよ、だと?」
「バカな!幕府が攘夷期日を本日と決めた以上、誰に遠慮する必要があるんじゃ!」
「そうだ!夷狄討つべし!」
この興奮状態の中で入江が久坂に決断を迫った。
久坂は師松陰のことを少し思い浮かべて、それから決断した。
「今の世に欠けているものは“果断”の一語なり!他人が何と言おうとも、己の信念を貫くのみ!今宵、我が長州が攘夷決行の先陣を切る!」
長州の攘夷戦争は、この久坂の決断によって始まったと言っていい。
砲台からの砲撃では対岸の田野浦まで砲弾が届かないので、庚申丸と癸亥丸の二隻の船で攻撃をしかけることになった。二隻は大砲を発射する準備をして静かに夜の海を進んで行った。
日付が変わった深夜午前二時頃、亀山砲台の号砲を合図に、長州の二隻はペンブローク号への攻撃を開始した。
夜中にいきなり砲撃をうけたペンブローク号の船員たちは、何が起きたのか訳が分からなかった。船員たちは最初右往左往するばかりだった。ただしちょうど出航準備のため蒸気機関を動かし始めたところだったので、とにかくすぐにその場からの脱出を試みた。
しばらくの間ペンブローク号は長州の二隻から砲撃をうけつづけた。しかしなんとか振り切って脱出することに成功した。長州側からは十数発の砲弾が発射されたものの直撃弾は無く、二、三発、軽微なかすり傷を受けただけにとどまった。
客観的に見て、これが「戦勝」と言えるのかどうか疑問である。
けれども下関の長州陣営はこの「戦勝」をおおいに喜んだ。そしてこの「戦勝」の報せはすぐに長州全体に(かなり大げさな尾ひれを付けて)ひろがり、人々を歓喜させた。
ペンブローク号は横浜から長崎へ向かう途中だったのだが、この長州藩からの攻撃によって下関海峡を通ることをあきらめ、長崎行きも断念した。そして南の豊後水道(四国と九州の間を通って太平洋へ出るルート)から直接上海へと向かうことにした。
数日後、ペンブローク号は上海に到着した。
その更に数日後、横浜から出発した俊輔たちのチェルスウィック号も上海に到着した。
チェルスウィック号は長江(揚子江)河口付近から黄浦江に入り、上海の租界のほうまで進んで行った。
その辺りまで来ると港には外国船が数え切れないほど停泊していた。まだ上海近郊では太平天国軍と交戦している状態とはいえ、街には商館が林立しており、五人はその発展ぶりに目を見張った。
聞多はこれらの無数の外国船に衝撃をうけ、即座に攘夷の不可を悟った。
「こんな大勢の船に攻撃されたら日本はひとたまりもない。攘夷なんて無理だ!そうだろう?俊輔」
「日本を出てまだ何日も経ってないのにもう信念を変えるとは、だらしないぞ、聞多」
「いや。今までは国のためと思って攘夷を唱えてきた。だが本当は開国のほうが国のためになると分かった以上、正直に自分の非を改めたとしても、恥でも何でもあるまい」
「いやいや。意志薄弱だ、無節操だ。ワシは認めん」
とにかく五人は上陸してジャーディン・マセソン商会の上海支店へ向かうことにした。
この前年に高杉晋作や五代才助(友厚)が乗った千歳丸が上海に来た時は、高杉は上海の発展ぶりに目を見張りながらも上海が西洋列強の植民地状態になっていることに衝撃をうけ、西洋に対して強烈な闘志を抱いて帰国したものだが、聞多もまた上海の様子に衝撃をうけ、こちらは強烈な開国主義者になってしまった。
人の見る目は十人十色であるのが世の常といっても、この二人はちょっと両極端すぎるであろう。
このあと聞多は上海から周布政之助に手紙を送り「攘夷は不可能、開国は不可避」と説明したところ、周布は「わずか上海を見ただけでにわかに豹変するとは」と一笑に付した。
ちなみに、これは余談と言うべきかどうか少々微妙なのだが、高杉たちの千歳丸が上海に来た時に汚水が原因と思われるコレラで三名の病死者が出ていた。そして第3話で図書館から借りてきた本をサトウに見せた兄エドワードも、二年後にこの上海でコレラにかかって客死することになる。二人の兄弟が極東の地で再会することは、残念ながら無かった。
さて、五人はジャーディン・マセソン商会の上海支店長にかけ合ってロンドン行きの手配をしてもらおうとした。五人の中では野村弥吉が多少は英語を使えたので彼が支店長にかけ合った。
一応、横浜支店長ガウアーからの紹介状を持って来ていたので五人がロンドンへ行きたいことは伝わったようだが、この上海支店長が何を言っているのか、野村でさえ聞き取れなかった。
むこうは日本語がわからず、こちらは英語がわからない。いろいろとゼスチャーを交えて会話を試みたところ、ようやく少し意味が通じた。
「どうやら、我々がイギリスへ行く目的は何か?と聞いているらしい」
と野村は言った。
それを聞いた聞多は、あらかじめ“海軍”を意味する英語だけ覚えていたので
「ナビゲーション!(Navigation)」
と即答した。が、山尾はそれに疑問を感じた。
「ちょっと待ってくれ、聞多。“海軍”はネイビー(Navy)じゃなかったか?」
それでも聞多は気楽に受け流した。
「まあ似たようなもんだろう。大丈夫、大丈夫」
山尾は心配だったので少し考えてみたが、結局聞多と同じ結論に至り、そのまま放置した。
(俺の記憶では確かナビゲーション(Navigation)は航海術。でも実際俺は壬戌丸や癸亥丸を動かしたくて留学したんだから航海術を習うのは本意でもある。聞多の言う通りナビゲーションでもネイビーでも似たようなものか……)
この「ネイビー」と「ナビゲーション」を間違えて俊輔と聞多がエラい目にあったというエピソードは、この「長州ファイブ」に関する本では必ず出て来る有名なエピソードだが、実際本当のところはどうだっただろう?
このあと上海からロンドンまでの道のりは、俊輔と聞多がペガサス号という300トンクラスの小さな帆船で、山尾、野村、遠藤はホワイト・アッダー号という500トンクラスの一回り大きめの帆船で行くことになるのだが、のちの山尾の話では山尾たちはそれほど酷い扱いはされなかったという。もちろんそれは山尾たちの側に多少英語の話せる野村がいたので、ちゃんと事情を説明して支払った金額に見合う待遇をうけられた、ということもあっただろう。
しかしもし仮に聞多がちゃんと「ネイビー」と答えていたとしても、俊輔と聞多がしっかりと英語で事情を説明できない以上、おそらく二人の待遇は変わらなかったであろう。
「ネイビー(海軍)」であれ「ナビゲーション(航海術)」であれ、船の動かし方を教わるために実地研修をさせられることに変わりはないのだから。
大体「ネイビー(海軍)」の勉強を商社であるジャーディン・マセソン商会に依頼すること自体「初手から間違っている」と気づくべきであったろう。
彼ら五人は横浜から出発する時に村田蔵六から「技術」を学ぶように訓示を受けた。これ以降の彼らの人生をながめてみても山尾たち三人はまさに「技術屋」(テクノクラート)の道を歩むようになる。一方、俊輔と聞多は「政治」の道を歩むようになる。
山尾たちの船では測量の方法なども学んで山尾は「勉強になった」と述べている。最初から「ナビゲーション(航海術)」を学ぶつもりだったのだから、それを苦痛とも思わなかっただろう。
しかし俊輔と聞多は技術を学ぶことに向いてなかった。だから彼らにとって「ナビゲーション(航海術)」しかも蒸気船でもない風帆船の航海術を学ぶことなど苦痛以外の何ものでもなかっただろう。
ところで前述したように、五人が上海へ到着する少し前に、彼らの故郷下関で砲撃を浴びたアメリカ商船ペンブローク号も、このとき上海に入港してきていた。
実はこの事件のことが江戸や横浜へ伝わるのは十数日後のことになるのだが、この上海ではすでに英字新聞でこの事件が報じられていた。被害を受けた当事者が上海にいたのだから当然のことだった。
ただしその英字新聞の記事に五人が気づいた形跡はまったく無い。
この五人の英語力では、それもやむを得なかったと言える。まあ、もし知ることが出来たとしてもどうする術もなかったであろうが……。
とにかく彼らがこの事件、ならびに「これ以降の事件」について知ることになるのは、彼らがロンドンに着いてからのことである。
そんな訳で俊輔たち五人はしばらく上海で渡航の準備をし、そのあと別々の船でロンドンへ向かって出発した。
そして五月十五日(6月30日)、横浜のサトウにとってちょっと大事なことがあった。
サトウが二十歳の誕生日をむかえたのだ。
下関の砲撃事件のことなど知る由もないサトウとウィリスは、相変わらず二人で祝杯をあげて楽しんでいた。
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