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第六章・熊谷にて
第18話 長七郎、号泣
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寅之助は卯三郎と友山から説得され、栄一郎たちの横浜襲撃計画に参加することを断念した。それで、そのあと四方寺村に戻ってから苦悶した。
近いうち、血洗島村の栄一郎のところへ行って土下座して詫びねばならぬ。腹を切れと言われたら、切って詫びるしかない。
そう思いつめていたところへ、当の栄一郎が、四方寺の寅之助のところへやって来た。
「ああ、ちょうど良かった。実はこちらから伺って話をしたいと思っていたところでした」
と言って寅之助は、話の内容が内容だけに母屋では話せないので、離れの家屋に栄一郎を案内した。
二人は座敷にあがると向かい合って座った。
一通りの挨拶などが済んで、さあ、これから事情を打ち明けて謝罪せん、と寅之助が頭を下げようとしたところ、なんと逆に、栄一郎が頭を下げて寅之助に謝った。
「誠に申し訳ござらぬ!あの計画は中止になり申した。皆の期待を裏切る結果となってしまい、お詫びのしようもござらぬ。腹を切れと言われれば腹切ってお詫び申し上げる!」
「え……!?」
寅之助はあぜんとした。
このあと、栄一郎が寅之助に説明した話というのは、こうである。
十月十六日、栄一郎が帰郷を待ち焦がれていた長七郎が、ようやく京都から戻ってきた。
そして十月二十九日の夜、計画の首謀者たちが尾高家の二階に集まって、あらためて長七郎に意見を聞くことになった。集まったのは栄一郎、新五郎、喜作、真田範之助、それと長七郎である。
以前、安藤老中を斬り殺そうとし、つい最近、関西で大和挙兵の様子を見てきた長七郎であれば、喜んで計画に参加してくれるであろうし、また有益な作戦も立ててくれるであろう、と一堂は期待した。それで栄一郎たちは嬉々として計画の全貌を長七郎に説明した。
長七郎は黙ってそれを聞いていた。そしてすべて聞き終わってから口を開いた。
「私はこの計画には大反対だ」
栄一郎は耳を疑った。そして皆が長七郎に問うた。
「なぜだ!一体この計画のどこがいけないというのだ?!」
「全部だめだ。これはまったくの愚挙である。この程度の蜂起では百姓一揆と同然だ。最後には全員、斬首されて失敗に終わるのは目に見えている」
この長七郎の意見に対して
「臆したか!長七郎!」
「卑怯者め!」
と叫んで喜作や真田などは刀を抜こうとしたが、最年長の新五郎が「待てっ!」と言って二人を止めた。
「長七郎。なぜだめなのか?もっと詳しく理由を説明してくれ」
「承知しました、兄上。七十人やそこらの兵が刀を振り回して戦っても、おそらく高崎城さえ落とせません。万一落とせたとしても、横浜を攻めるなどは思いもよらぬこと。よほどの戦力がないと横浜を攻めるのは不可能です。大和挙兵でさえ、藤本(鉄石)や松本(奎堂)といった俊秀が中山卿をかつぎ、およそ千名の十津川郷士を糾合して戦ったものの、大和五条の代官を倒しただけに終わりました。我らの計画は、上手くいってもその大和挙兵程度のことで、しかし残念ながらそれすらも難しいでしょう。それで何十人も討ち死にするのはあまりに残念。私は絶対に反対です」
この長七郎の意見に栄一郎が反論した。
「確かに私は大和の戦を見てないので、それはその通りかも知れません。しかし誰かが大和の戦のように立ち上がらなければ、誰も後に続かないではありませんか。たとえ敗北するとしても、我々も陳勝・呉広となるために大和の戦に続くべきではないですか」
「いや。こんな暴挙では山賊か何かの類として全員、縛り首にされるだけだ」
大和挙兵は九月末には鎮圧されている。また十月には生野でも挙兵事件があったが、これもすでに鎮圧されている。
そして栄一郎が言った陳勝・呉広とは、中国の秦を倒すきっかけとなる最初の反乱を起こした人物のことで、革命の先駆け的な人物の例えとしてよく使われる。余談だが、この大和挙兵(天誅組の変)、生野の変、さらに言えば清河八郎の決起計画などは「幕末の陳勝・呉広の乱」とでも言うべき決起事件のように思われるが、戦前であればいざ知らず、最近ではそんな声を筆者は、寡聞にして聞いたことがない。
このあと新五郎が長七郎に反論した。
「もはや幕府も武士もアテにはできぬ。日本のためであれば百姓でも立ち上がらねばならぬ。それで一命を投げ打って尊王攘夷に身を捧げようというのに、我々の一番先頭を走ってきたお前がそのような言い逃れをするとは、おかしいではないか?」
この新五郎の意見に、栄一郎、喜作、真田が「そうだ!そうだ!」と叫んで呼応した。
すると長七郎は号泣して叫んだ。
「あああー!!これほど事情を説明しても理解して下さらないとは、まったく情けない!天もまた無情だ!しかし何と言われようと私は皆を止めます!体を張ってでも止めます!」
この時の長七郎の泣き方は、栄一郎がかつて見たことが無いほど鬼気迫る様子だった。栄一郎は長七郎の様子から、何かただならぬものを感じた。
激論は夜が明けても続き、お互いが「相手を刺してでも」挙行する、いや挙行を止める、といったふうに激する場面もあった。
そして結局は、京都の政情を詳しく見てきた長七郎の意見が勝った。
京都では「八月十八日の政変」以降、長州などの尊王攘夷派が勢いを失っており、「今は決起する時期ではない」ということになったのだった。
「という訳で、計画は中止となりました。誠に面目次第もございません」
栄一郎は寅之助に平謝りに謝った。
これに対し寅之助は、言うか言うまいか迷ったが、言わないのも信義にもとると思い、結局、自分のほうも身内に止められて参加できなくなっていたのだ、ということを栄一郎に打ち明けた。
すると栄一郎のほうも一瞬驚きの表情を見せ、そしてすぐに安堵する表情になった。寅之助から叱責されるのを覚悟していたので、それがなくてホッとしたのである。
それから栄一郎は、他の同志たちにも事情を説明しなければならないので、と言って早々に寅之助のところから辞去した。
このあと栄一郎は計画に参加する予定だった同志たちに対し、謝罪した上で必要な者には手当を支払って、一同を解散した。
また、同様に計画を進めていた桃井儀八のほうも、同志の一部や盟主の岩松満次郎が幕府に自訴してしまったため、桃井自身も川越藩に出頭して自首した。当然、計画は消滅した。そのあと桃井は福江藩預けとなり、翌年、預け先で絶食死した。享年六十二。
一方、栄一郎たちの計画は幕府に露見したわけではなかったが、いずれそうなる可能性は十分ある。特にこの頃は、折りからの政情不安で幕府の探索も厳しくなっていた。
それで栄一郎と喜作は身を隠すため、今度は長七郎に代わって京都へ行くことになった。
表向きは伊勢神宮に参拝する、という名目であった。この当時「伊勢神宮に参拝する」と言えば、大体のことは大目に見られた。
とはいえ、実際のところは「一橋家の平岡円四郎の家来」という名目で上京した。素浪人では道中、何かと嫌疑をかけられる恐れもあるため、このような手段をとったのだった。
以前、寅之助、栄一郎、喜作の三人が平岡家を訪問したことは第十三話で書いた。ただし栄一郎と喜作はそれ以降も何度か平岡家を訪れていた。この時すでに平岡は京都へ行ってしまっていたが、平岡の夫人が二人に許可証を出してくれた。以前から平岡は二人に京都へ来るよう勧めていたので、事前に夫人へ「二人が来たら許可証を出してやるように」と言い含めておいたのだった。
栄一郎と喜作は十一月十四日に江戸を出発して東海道を上っていった。
さて、話が多少前後してしまうことになるが、ここで一応「八月十八日の政変」について述べておきたい。
幕末の歴史の中では相当有名な事件なので説明不要かも知れないが一応簡単に説明しておくと、京都で日の出の勢いだった長州藩が会津・薩摩の両藩によって京都から追放されたクーデター事件である。
そしてこの事件と密接に関わっていたのが、いわゆる大和行幸、大和挙兵(天誅組の変)だった。この挙兵の延長線上に「倒幕」計画があったことは以前書いた通りである。
しかしながら孝明天皇は攘夷を望んではいても、妹の和宮が嫁いでいる将軍家、すなわち幕府を倒すつもりなどない。むしろ、朝廷と幕府が力を合わせて攘夷を行なうべきだ、という考え方の持主だった。要するに「公武合体」論者ということである。それゆえ、長州藩などの過激な「攘夷倒幕」論者が立案した大和行幸や大和挙兵などは容認できなかった。
そこで孝明天皇は会津・薩摩両藩によるクーデターを支持し、長州藩の勢力を京都から追放したのである。これにより、三条実美ら七卿も雨の中を都落ちしていった。
この「八月十八日の政変」によって、大和行幸は取り止めとなり、京都の尊王攘夷勢力も都落ちし、大和で挙兵した人々は孤立した。
八月十七日に大和五条の代官所を襲って蜂起した彼らは、そのあと吉野の山中を転戦し、幕府が討伐を命じた諸藩軍によって九月末頃までには鎮圧された。幹部の藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎は戦死した。
この大和挙兵に呼応するかたちで、十月十二日に生野(兵庫県朝来市生野町)の代官所を襲って攘夷倒幕派が蜂起した。しかし幕府側の対応は素早く、この「生野の変」は数日で鎮圧された。
なるほど確かに、この二つの挙兵事件は倒幕挙兵の先駆けとして評価すべき事件ではある。しかしこの文久三年後半の時期は、長州や七卿が都落ちし、まさに尊王攘夷派が劣勢に転換し始めた時期でもあった。
栄一郎たちの横浜襲撃計画は、元よりお話にならないほど貧弱な計画だったが、時代の趨勢から見ても、てんで的外れで、まったく頓珍漢な代物であった。計画を中止したのは当然だったと言うべきだろう。
栄一郎と喜作が京都へ向かった翌月、すなわち十二月に入ると、下奈良村で潜伏していた五代が、ついに我慢しきれなくなった。
「松木さん。俺はもう我慢できません。やっぱり長崎へ行きます!」
「またか。五代君。まだまだ危険だと皆が言ってるだろう?最低でもあと半年は我慢したまえ。発覚すれば私はともかく、卯三郎さんや吉田家の皆さんにも迷惑がかかる」
「しかしこの前、卯三郎さんから聞いた話では既に先月、我が藩とイギリスとの間で和議が成立したという話じゃないですか。おそらくこれで我が藩は、戦争の責任を問うよりも、イギリスに接近する方針をとるはずです。であれば、我々が温めてきた例の計画を、藩が受け入れてくれる可能性も高い、と俺は思います」
「私はまだ時期尚早だと思うがなあ……」
九月から十月にかけて、横浜のイギリス公使館で薩英戦争の戦後交渉が行なわれた。談判が壊れた場合、再びイギリス艦隊が鹿児島へ向かう可能性もあり得た。
交渉が始まる前、卯三郎は薩摩藩の大久保一蔵(後の利通)から
「イギリスにしばらく休戦するよう持ちかけてくれないか?」
と頼まれた。卯三郎が薩英戦争中、イギリス艦に乗り合わせていた縁を頼ってのものだった。卯三郎は一応イギリスのニール代理公使にその旨を伝えたが、ニールは
「イギリスは再度、すぐにでも鹿児島を攻める準備をしている」
と卯三郎に答えて大久保の休戦案を一蹴した。それで薩摩側も交渉の席に着かざるを得なくなったのだった。
イギリス公使館での薩英交渉は難航したものの、最後には薩摩がイギリスの要求通り「賠償金2万5千ポンド(約8万両)を支払う」ということで合意し、十一月一日に支払った。ただしもう一つの要求だった「生麦事件の犯人の処刑」については「犯人逃亡中」ということでウヤムヤのまま消滅した。また、このとき薩摩藩は賠償金2万5千ポンドを幕府から借りて支払い、そのあと薩摩藩は借金を踏み倒したので結局幕府が損をかぶるかたちになった。
とにかくこれで薩摩藩とイギリスの間には和議が成立した。
ちなみにこの談判の最中、薩摩藩はイギリスに
「イギリスへ留学生を送りたい。また軍艦の買い入れを依頼したい」
といった提案も行なっており、五代の予想通り、薩摩藩はイギリスへの接近を試み始めていた。
このとき五代が長崎へ行きたがっていた理由は二つある。
一つ目は、この下奈良村には手を出せる女がいない、と言っては五代に気の毒だ。そうではなくて、実は五代には長崎に広子という内縁の妻がおり、この年に長女の治子が生まれていた。それで長崎に置き去りにしてきた彼女たちのことが心配だった、ということ。
二つ目は、小松帯刀やグラバーといった友人たちに会いたかったということ。五代は長崎での滞在経験が長く、江戸や横浜には頼りになる友人がほとんどいない。長崎に戻りさえすれば、小松やグラバーといったツテを頼って何とか藩と連絡を取り、この間温めてきた「海外雄飛」の策を上申することができる、と考えたのだった。
そしてこの時、吉田二郎が部屋に入ってきた。
「五代さん!喜んでください。長崎行きの道中手形が手に入りました。これで約束通り、私も長崎へ連れて行ってください!」
「おおっ、道中手形が入手できたか!いいとも。一緒に長崎へ連れて行ってやる。すぐに出発の準備にかかろう!」
「おいおい、五代君、二郎君。本気で長崎へ行くつもりか?私はまだ危ないと思うがなあ……」
と松木が二人を説得しているところへ、たまたま寅之助がやって来た。
「これはちょうど良かった、寅之助君。この二人がとうとう本気で長崎へ行くと言い出したんだ。君からも是非言ってやってくれ。危ないからやめろ、と……」
「はあ……。そうなんですか……」
「どうした?元気がないじゃないか」
「いえ、別に……」
寅之助は、五代と二郎が楽しそうに長崎行きの話をしているのを眺めつつ、答えた。
「まあ、良いんじゃないですか。やりたいようにやらせてあげれば……」
「何を言い出すんだ、君は」
「ハッキリとやりたいことがあるだけ、あの二人は幸せですよ」
「……?」
この頃、寅之助は目標を見失っていた。
栄一郎たちの計画は消滅し、長州は京都を追われ、寅之助はまさに視界不良のただ中に置かれている状態だった。
五代と二郎はこの月のうちに下奈良村を出発して長崎へ向かった。松木は当然このまま残り、もうしばらく時を待つことになった。
二郎は、長崎までの長い道中を五代と同行し、翌年三月に長崎へ入った。そしてしばらく滞在したあと実家へ帰り、後日あらためて長崎へ留学することになった。
後年の話になるが、この吉田二郎は下奈良村で五代、松木と知り合ったのをきっかけとして、明治政府において大蔵省および外務省の高官となる。特にニューヨークやロンドンなどの在外公館で外務官僚として働くようになる。
そして同じく吉田四郎は、のちに市右衛門の後を継いで市十郎と名乗るようになるのだが、この時の縁で維新後、五代から半田銀山の管理を任されたり、内務省の高官になったりするのである。
ところで、この文久三年の十二月には、もう一つ書いておくべき出来事がある。
この月、幕府はヨーロッパへ「横浜鎖港の交渉使節」を送ることになった。
いわゆる「池田使節」である。
スフィンクスの前で侍たちが写っている有名な写真があるが、あれがこの使節の時に撮った写真である。
池田長発(筑後守)を代表とする三十四人の使節団で、その中には外国奉行の役人、田辺太一も含まれていた。この田辺が、地位はさほど高くないものの実務のベテランで、鎖港交渉の鍵を握る人物だった。
外国奉行の一員である田辺は、以前から海外への渡航を強く望んでいたので今回のヨーロッパ行きに喜んではいたのだが、その一方で、外国奉行役人の大半がそうであるように「開国派」である彼にとって、今回の任務は気が重いものだった。田辺自身は「横浜を鎖港するなどバカげている」と思っていたからである。
有名なエピソードがある。
これより少し後のことになるが、京都で一橋慶喜がわざと酔っ払って
「この三人は天下の大愚物、天下の大奸物でござる!」
とクダをまいて、島津久光らが参加する参与会議をぶち壊した。
いや。確かにそれも有名なエピソードだが、今、筆者が言おうとしているエピソードはその話ではない。
その参与会議が開かれていた頃、久光が慶喜に
「横浜鎖港使節を欧州へ派遣するのは止めるべきだ」
と忠告したエピソードのことである。
このとき久光は「横浜鎖港は無意味であり、むしろ幕府にとって害悪となる愚挙である。使節派遣はやめるべきだ」と慶喜に忠告した。
これに対して慶喜は「使節を派遣する意味は十分にある」として、その忠告を受け入れなかった。
「談判の成否など問題ではありません。欧州は遠いのです。使節が帰ってくるのは三、四年先のことです。その頃になれば人心も落ち着いているでしょう」
この慶喜の回答を聞いた久光は
「それは実に姑息な手段と言わざるを得ません」
と憤慨したという。
要するに幕府上層部も田辺と同じく「横浜を鎖港するなどバカげている」と分かっているのである。
ただ、朝廷から無理やり攘夷を命令され、さらに攘夷派や一般民衆が「横浜を閉ざせ!」とうるさいので
「これこの通り。外国とはちゃんと横浜鎖港の交渉をやってますよ」
とアピールするために、ただそれだけの目的で使節を派遣するのである。
頭が良いというか悪知恵が働くというか、慶喜や幕府上層部は、今回もこのような姑息な作戦で危機を乗り切ろうとしたのだった。
幕府上層部としては、元より外国側がこのような鎖港要求を受け入れるはずもなかろうし、しかも表向きは真剣に鎖港交渉をしているフリをせねばならず、池田や田辺たちに対して「数年、外国をぶらぶらして時間稼ぎをしてこい」とまでは言わなかった。
実際のところ、このようにハッキリと言っておいたほうが、お互いのためにも良かったであろう。おそらく、万一の可能性として「鎖港交渉が成功するかも知れない」といった甘い願望を捨て切れなかった、という側面もあったであろう。
池田や田辺たちも人間なのだ。感情もあれば意志もあり、矜持もある。
団員のほとんどが初めての海外渡航で、その上このような無理難題を背負わされて彼らは途方に暮れるのである。そして旅先で様々な人物と出会って話を聞き、それに触発されることになる。
その結果、上層部が求めていた以上に彼らは真剣に横浜鎖港を考え、最終的には上層部の思惑を超えた行動に出てしまうのである。
かてて加えて彼らは、パリで日本人従者を連れた奇妙なフランス人と出会うことになる。
池田使節の一行は十二月二十九日、横浜を出港してヨーロッパへ向かった。
その翌日は大晦日である(旧暦なので三十一日は存在しない)。
これでようやく激動の文久三年(1863年)が終了した。
そして、よりいっそう激動の文久四年(元治元年、1864年)へと突入するのである。
近いうち、血洗島村の栄一郎のところへ行って土下座して詫びねばならぬ。腹を切れと言われたら、切って詫びるしかない。
そう思いつめていたところへ、当の栄一郎が、四方寺の寅之助のところへやって来た。
「ああ、ちょうど良かった。実はこちらから伺って話をしたいと思っていたところでした」
と言って寅之助は、話の内容が内容だけに母屋では話せないので、離れの家屋に栄一郎を案内した。
二人は座敷にあがると向かい合って座った。
一通りの挨拶などが済んで、さあ、これから事情を打ち明けて謝罪せん、と寅之助が頭を下げようとしたところ、なんと逆に、栄一郎が頭を下げて寅之助に謝った。
「誠に申し訳ござらぬ!あの計画は中止になり申した。皆の期待を裏切る結果となってしまい、お詫びのしようもござらぬ。腹を切れと言われれば腹切ってお詫び申し上げる!」
「え……!?」
寅之助はあぜんとした。
このあと、栄一郎が寅之助に説明した話というのは、こうである。
十月十六日、栄一郎が帰郷を待ち焦がれていた長七郎が、ようやく京都から戻ってきた。
そして十月二十九日の夜、計画の首謀者たちが尾高家の二階に集まって、あらためて長七郎に意見を聞くことになった。集まったのは栄一郎、新五郎、喜作、真田範之助、それと長七郎である。
以前、安藤老中を斬り殺そうとし、つい最近、関西で大和挙兵の様子を見てきた長七郎であれば、喜んで計画に参加してくれるであろうし、また有益な作戦も立ててくれるであろう、と一堂は期待した。それで栄一郎たちは嬉々として計画の全貌を長七郎に説明した。
長七郎は黙ってそれを聞いていた。そしてすべて聞き終わってから口を開いた。
「私はこの計画には大反対だ」
栄一郎は耳を疑った。そして皆が長七郎に問うた。
「なぜだ!一体この計画のどこがいけないというのだ?!」
「全部だめだ。これはまったくの愚挙である。この程度の蜂起では百姓一揆と同然だ。最後には全員、斬首されて失敗に終わるのは目に見えている」
この長七郎の意見に対して
「臆したか!長七郎!」
「卑怯者め!」
と叫んで喜作や真田などは刀を抜こうとしたが、最年長の新五郎が「待てっ!」と言って二人を止めた。
「長七郎。なぜだめなのか?もっと詳しく理由を説明してくれ」
「承知しました、兄上。七十人やそこらの兵が刀を振り回して戦っても、おそらく高崎城さえ落とせません。万一落とせたとしても、横浜を攻めるなどは思いもよらぬこと。よほどの戦力がないと横浜を攻めるのは不可能です。大和挙兵でさえ、藤本(鉄石)や松本(奎堂)といった俊秀が中山卿をかつぎ、およそ千名の十津川郷士を糾合して戦ったものの、大和五条の代官を倒しただけに終わりました。我らの計画は、上手くいってもその大和挙兵程度のことで、しかし残念ながらそれすらも難しいでしょう。それで何十人も討ち死にするのはあまりに残念。私は絶対に反対です」
この長七郎の意見に栄一郎が反論した。
「確かに私は大和の戦を見てないので、それはその通りかも知れません。しかし誰かが大和の戦のように立ち上がらなければ、誰も後に続かないではありませんか。たとえ敗北するとしても、我々も陳勝・呉広となるために大和の戦に続くべきではないですか」
「いや。こんな暴挙では山賊か何かの類として全員、縛り首にされるだけだ」
大和挙兵は九月末には鎮圧されている。また十月には生野でも挙兵事件があったが、これもすでに鎮圧されている。
そして栄一郎が言った陳勝・呉広とは、中国の秦を倒すきっかけとなる最初の反乱を起こした人物のことで、革命の先駆け的な人物の例えとしてよく使われる。余談だが、この大和挙兵(天誅組の変)、生野の変、さらに言えば清河八郎の決起計画などは「幕末の陳勝・呉広の乱」とでも言うべき決起事件のように思われるが、戦前であればいざ知らず、最近ではそんな声を筆者は、寡聞にして聞いたことがない。
このあと新五郎が長七郎に反論した。
「もはや幕府も武士もアテにはできぬ。日本のためであれば百姓でも立ち上がらねばならぬ。それで一命を投げ打って尊王攘夷に身を捧げようというのに、我々の一番先頭を走ってきたお前がそのような言い逃れをするとは、おかしいではないか?」
この新五郎の意見に、栄一郎、喜作、真田が「そうだ!そうだ!」と叫んで呼応した。
すると長七郎は号泣して叫んだ。
「あああー!!これほど事情を説明しても理解して下さらないとは、まったく情けない!天もまた無情だ!しかし何と言われようと私は皆を止めます!体を張ってでも止めます!」
この時の長七郎の泣き方は、栄一郎がかつて見たことが無いほど鬼気迫る様子だった。栄一郎は長七郎の様子から、何かただならぬものを感じた。
激論は夜が明けても続き、お互いが「相手を刺してでも」挙行する、いや挙行を止める、といったふうに激する場面もあった。
そして結局は、京都の政情を詳しく見てきた長七郎の意見が勝った。
京都では「八月十八日の政変」以降、長州などの尊王攘夷派が勢いを失っており、「今は決起する時期ではない」ということになったのだった。
「という訳で、計画は中止となりました。誠に面目次第もございません」
栄一郎は寅之助に平謝りに謝った。
これに対し寅之助は、言うか言うまいか迷ったが、言わないのも信義にもとると思い、結局、自分のほうも身内に止められて参加できなくなっていたのだ、ということを栄一郎に打ち明けた。
すると栄一郎のほうも一瞬驚きの表情を見せ、そしてすぐに安堵する表情になった。寅之助から叱責されるのを覚悟していたので、それがなくてホッとしたのである。
それから栄一郎は、他の同志たちにも事情を説明しなければならないので、と言って早々に寅之助のところから辞去した。
このあと栄一郎は計画に参加する予定だった同志たちに対し、謝罪した上で必要な者には手当を支払って、一同を解散した。
また、同様に計画を進めていた桃井儀八のほうも、同志の一部や盟主の岩松満次郎が幕府に自訴してしまったため、桃井自身も川越藩に出頭して自首した。当然、計画は消滅した。そのあと桃井は福江藩預けとなり、翌年、預け先で絶食死した。享年六十二。
一方、栄一郎たちの計画は幕府に露見したわけではなかったが、いずれそうなる可能性は十分ある。特にこの頃は、折りからの政情不安で幕府の探索も厳しくなっていた。
それで栄一郎と喜作は身を隠すため、今度は長七郎に代わって京都へ行くことになった。
表向きは伊勢神宮に参拝する、という名目であった。この当時「伊勢神宮に参拝する」と言えば、大体のことは大目に見られた。
とはいえ、実際のところは「一橋家の平岡円四郎の家来」という名目で上京した。素浪人では道中、何かと嫌疑をかけられる恐れもあるため、このような手段をとったのだった。
以前、寅之助、栄一郎、喜作の三人が平岡家を訪問したことは第十三話で書いた。ただし栄一郎と喜作はそれ以降も何度か平岡家を訪れていた。この時すでに平岡は京都へ行ってしまっていたが、平岡の夫人が二人に許可証を出してくれた。以前から平岡は二人に京都へ来るよう勧めていたので、事前に夫人へ「二人が来たら許可証を出してやるように」と言い含めておいたのだった。
栄一郎と喜作は十一月十四日に江戸を出発して東海道を上っていった。
さて、話が多少前後してしまうことになるが、ここで一応「八月十八日の政変」について述べておきたい。
幕末の歴史の中では相当有名な事件なので説明不要かも知れないが一応簡単に説明しておくと、京都で日の出の勢いだった長州藩が会津・薩摩の両藩によって京都から追放されたクーデター事件である。
そしてこの事件と密接に関わっていたのが、いわゆる大和行幸、大和挙兵(天誅組の変)だった。この挙兵の延長線上に「倒幕」計画があったことは以前書いた通りである。
しかしながら孝明天皇は攘夷を望んではいても、妹の和宮が嫁いでいる将軍家、すなわち幕府を倒すつもりなどない。むしろ、朝廷と幕府が力を合わせて攘夷を行なうべきだ、という考え方の持主だった。要するに「公武合体」論者ということである。それゆえ、長州藩などの過激な「攘夷倒幕」論者が立案した大和行幸や大和挙兵などは容認できなかった。
そこで孝明天皇は会津・薩摩両藩によるクーデターを支持し、長州藩の勢力を京都から追放したのである。これにより、三条実美ら七卿も雨の中を都落ちしていった。
この「八月十八日の政変」によって、大和行幸は取り止めとなり、京都の尊王攘夷勢力も都落ちし、大和で挙兵した人々は孤立した。
八月十七日に大和五条の代官所を襲って蜂起した彼らは、そのあと吉野の山中を転戦し、幕府が討伐を命じた諸藩軍によって九月末頃までには鎮圧された。幹部の藤本鉄石、松本奎堂、吉村寅太郎は戦死した。
この大和挙兵に呼応するかたちで、十月十二日に生野(兵庫県朝来市生野町)の代官所を襲って攘夷倒幕派が蜂起した。しかし幕府側の対応は素早く、この「生野の変」は数日で鎮圧された。
なるほど確かに、この二つの挙兵事件は倒幕挙兵の先駆けとして評価すべき事件ではある。しかしこの文久三年後半の時期は、長州や七卿が都落ちし、まさに尊王攘夷派が劣勢に転換し始めた時期でもあった。
栄一郎たちの横浜襲撃計画は、元よりお話にならないほど貧弱な計画だったが、時代の趨勢から見ても、てんで的外れで、まったく頓珍漢な代物であった。計画を中止したのは当然だったと言うべきだろう。
栄一郎と喜作が京都へ向かった翌月、すなわち十二月に入ると、下奈良村で潜伏していた五代が、ついに我慢しきれなくなった。
「松木さん。俺はもう我慢できません。やっぱり長崎へ行きます!」
「またか。五代君。まだまだ危険だと皆が言ってるだろう?最低でもあと半年は我慢したまえ。発覚すれば私はともかく、卯三郎さんや吉田家の皆さんにも迷惑がかかる」
「しかしこの前、卯三郎さんから聞いた話では既に先月、我が藩とイギリスとの間で和議が成立したという話じゃないですか。おそらくこれで我が藩は、戦争の責任を問うよりも、イギリスに接近する方針をとるはずです。であれば、我々が温めてきた例の計画を、藩が受け入れてくれる可能性も高い、と俺は思います」
「私はまだ時期尚早だと思うがなあ……」
九月から十月にかけて、横浜のイギリス公使館で薩英戦争の戦後交渉が行なわれた。談判が壊れた場合、再びイギリス艦隊が鹿児島へ向かう可能性もあり得た。
交渉が始まる前、卯三郎は薩摩藩の大久保一蔵(後の利通)から
「イギリスにしばらく休戦するよう持ちかけてくれないか?」
と頼まれた。卯三郎が薩英戦争中、イギリス艦に乗り合わせていた縁を頼ってのものだった。卯三郎は一応イギリスのニール代理公使にその旨を伝えたが、ニールは
「イギリスは再度、すぐにでも鹿児島を攻める準備をしている」
と卯三郎に答えて大久保の休戦案を一蹴した。それで薩摩側も交渉の席に着かざるを得なくなったのだった。
イギリス公使館での薩英交渉は難航したものの、最後には薩摩がイギリスの要求通り「賠償金2万5千ポンド(約8万両)を支払う」ということで合意し、十一月一日に支払った。ただしもう一つの要求だった「生麦事件の犯人の処刑」については「犯人逃亡中」ということでウヤムヤのまま消滅した。また、このとき薩摩藩は賠償金2万5千ポンドを幕府から借りて支払い、そのあと薩摩藩は借金を踏み倒したので結局幕府が損をかぶるかたちになった。
とにかくこれで薩摩藩とイギリスの間には和議が成立した。
ちなみにこの談判の最中、薩摩藩はイギリスに
「イギリスへ留学生を送りたい。また軍艦の買い入れを依頼したい」
といった提案も行なっており、五代の予想通り、薩摩藩はイギリスへの接近を試み始めていた。
このとき五代が長崎へ行きたがっていた理由は二つある。
一つ目は、この下奈良村には手を出せる女がいない、と言っては五代に気の毒だ。そうではなくて、実は五代には長崎に広子という内縁の妻がおり、この年に長女の治子が生まれていた。それで長崎に置き去りにしてきた彼女たちのことが心配だった、ということ。
二つ目は、小松帯刀やグラバーといった友人たちに会いたかったということ。五代は長崎での滞在経験が長く、江戸や横浜には頼りになる友人がほとんどいない。長崎に戻りさえすれば、小松やグラバーといったツテを頼って何とか藩と連絡を取り、この間温めてきた「海外雄飛」の策を上申することができる、と考えたのだった。
そしてこの時、吉田二郎が部屋に入ってきた。
「五代さん!喜んでください。長崎行きの道中手形が手に入りました。これで約束通り、私も長崎へ連れて行ってください!」
「おおっ、道中手形が入手できたか!いいとも。一緒に長崎へ連れて行ってやる。すぐに出発の準備にかかろう!」
「おいおい、五代君、二郎君。本気で長崎へ行くつもりか?私はまだ危ないと思うがなあ……」
と松木が二人を説得しているところへ、たまたま寅之助がやって来た。
「これはちょうど良かった、寅之助君。この二人がとうとう本気で長崎へ行くと言い出したんだ。君からも是非言ってやってくれ。危ないからやめろ、と……」
「はあ……。そうなんですか……」
「どうした?元気がないじゃないか」
「いえ、別に……」
寅之助は、五代と二郎が楽しそうに長崎行きの話をしているのを眺めつつ、答えた。
「まあ、良いんじゃないですか。やりたいようにやらせてあげれば……」
「何を言い出すんだ、君は」
「ハッキリとやりたいことがあるだけ、あの二人は幸せですよ」
「……?」
この頃、寅之助は目標を見失っていた。
栄一郎たちの計画は消滅し、長州は京都を追われ、寅之助はまさに視界不良のただ中に置かれている状態だった。
五代と二郎はこの月のうちに下奈良村を出発して長崎へ向かった。松木は当然このまま残り、もうしばらく時を待つことになった。
二郎は、長崎までの長い道中を五代と同行し、翌年三月に長崎へ入った。そしてしばらく滞在したあと実家へ帰り、後日あらためて長崎へ留学することになった。
後年の話になるが、この吉田二郎は下奈良村で五代、松木と知り合ったのをきっかけとして、明治政府において大蔵省および外務省の高官となる。特にニューヨークやロンドンなどの在外公館で外務官僚として働くようになる。
そして同じく吉田四郎は、のちに市右衛門の後を継いで市十郎と名乗るようになるのだが、この時の縁で維新後、五代から半田銀山の管理を任されたり、内務省の高官になったりするのである。
ところで、この文久三年の十二月には、もう一つ書いておくべき出来事がある。
この月、幕府はヨーロッパへ「横浜鎖港の交渉使節」を送ることになった。
いわゆる「池田使節」である。
スフィンクスの前で侍たちが写っている有名な写真があるが、あれがこの使節の時に撮った写真である。
池田長発(筑後守)を代表とする三十四人の使節団で、その中には外国奉行の役人、田辺太一も含まれていた。この田辺が、地位はさほど高くないものの実務のベテランで、鎖港交渉の鍵を握る人物だった。
外国奉行の一員である田辺は、以前から海外への渡航を強く望んでいたので今回のヨーロッパ行きに喜んではいたのだが、その一方で、外国奉行役人の大半がそうであるように「開国派」である彼にとって、今回の任務は気が重いものだった。田辺自身は「横浜を鎖港するなどバカげている」と思っていたからである。
有名なエピソードがある。
これより少し後のことになるが、京都で一橋慶喜がわざと酔っ払って
「この三人は天下の大愚物、天下の大奸物でござる!」
とクダをまいて、島津久光らが参加する参与会議をぶち壊した。
いや。確かにそれも有名なエピソードだが、今、筆者が言おうとしているエピソードはその話ではない。
その参与会議が開かれていた頃、久光が慶喜に
「横浜鎖港使節を欧州へ派遣するのは止めるべきだ」
と忠告したエピソードのことである。
このとき久光は「横浜鎖港は無意味であり、むしろ幕府にとって害悪となる愚挙である。使節派遣はやめるべきだ」と慶喜に忠告した。
これに対して慶喜は「使節を派遣する意味は十分にある」として、その忠告を受け入れなかった。
「談判の成否など問題ではありません。欧州は遠いのです。使節が帰ってくるのは三、四年先のことです。その頃になれば人心も落ち着いているでしょう」
この慶喜の回答を聞いた久光は
「それは実に姑息な手段と言わざるを得ません」
と憤慨したという。
要するに幕府上層部も田辺と同じく「横浜を鎖港するなどバカげている」と分かっているのである。
ただ、朝廷から無理やり攘夷を命令され、さらに攘夷派や一般民衆が「横浜を閉ざせ!」とうるさいので
「これこの通り。外国とはちゃんと横浜鎖港の交渉をやってますよ」
とアピールするために、ただそれだけの目的で使節を派遣するのである。
頭が良いというか悪知恵が働くというか、慶喜や幕府上層部は、今回もこのような姑息な作戦で危機を乗り切ろうとしたのだった。
幕府上層部としては、元より外国側がこのような鎖港要求を受け入れるはずもなかろうし、しかも表向きは真剣に鎖港交渉をしているフリをせねばならず、池田や田辺たちに対して「数年、外国をぶらぶらして時間稼ぎをしてこい」とまでは言わなかった。
実際のところ、このようにハッキリと言っておいたほうが、お互いのためにも良かったであろう。おそらく、万一の可能性として「鎖港交渉が成功するかも知れない」といった甘い願望を捨て切れなかった、という側面もあったであろう。
池田や田辺たちも人間なのだ。感情もあれば意志もあり、矜持もある。
団員のほとんどが初めての海外渡航で、その上このような無理難題を背負わされて彼らは途方に暮れるのである。そして旅先で様々な人物と出会って話を聞き、それに触発されることになる。
その結果、上層部が求めていた以上に彼らは真剣に横浜鎖港を考え、最終的には上層部の思惑を超えた行動に出てしまうのである。
かてて加えて彼らは、パリで日本人従者を連れた奇妙なフランス人と出会うことになる。
池田使節の一行は十二月二十九日、横浜を出港してヨーロッパへ向かった。
その翌日は大晦日である(旧暦なので三十一日は存在しない)。
これでようやく激動の文久三年(1863年)が終了した。
そして、よりいっそう激動の文久四年(元治元年、1864年)へと突入するのである。
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