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第十章・パリ万博
第28話 一橋家から幕府へ
しおりを挟む六月七日に始まった「幕長戦争」は、幕府軍が周防大島の長州軍に完勝するという順当な結果で始まった。
長州を取り囲む幕府軍の総数は十数万人に及び、五千人しかいない長州軍の二十倍以上である。そして周防大島の戦いでも威力を発揮したように、幕府海軍は優秀な蒸気船を数多く戦線に投入しており、粗末な小型蒸気船が二隻あるだけの長州海軍など物の数ではなかった。
この客観的な状勢からすれば、誰だって幕府軍が楽勝すると思うだろう。
ところがこの初戦から何日も経たないうちに、長州軍が戦況をひっくり返した。
長州軍は周防大島に逆上陸作戦を敢行して幕府軍を島から追い出し、さらに山陰の「石州口の戦い」でも連勝を重ね、逆に敵地の浜田城を陥落させた。そして下関海峡の「小倉口の戦い」においても敵地の小倉藩領へ上陸作戦を決行し、砲台や上陸用舟艇を焼き払った。
この幕長戦争は、またの名を四境戦争と言い、周防大島の戦い(大島口の戦い)、石州口の戦い、小倉口の戦い、そして両軍の主力部隊が激突した「芸州口の戦い」という四つの戦場を指して、この呼び名が使われている。
幕府軍の本営は広島に置かれた。
幕府軍の主力はこの芸州口から長州へ攻め込むのである。
現在の地図で言えば、広島県広島市から山口県岩国市へ攻め込む形である(実に不穏当な言い草だが)。しかしこの芸州口でも逆に長州軍が広島側、すなわち芸州(浅野)藩領へ攻め込む形となり、現在で言えば大竹市や廿日市市のあたりで両軍が激突することになった。ちなみに芸州藩は広島の本営を幕府軍に提供してはいるものの、出兵は拒絶するという立場をとっていた。
それにしても、人数の少ない長州軍がなぜ、このように四境で優勢に戦い得たのか?
その理由はいろいろある。
「長州の兵士は長射程のミニエー銃を標準装備して、しかも散兵戦術などの西洋戦術を習得していた」
「長州の兵士は下関砲撃戦、禁門の変、下関戦争、長州内戦など数々の戦争を経験して戦慣れしていた」
「長州の兵士および民衆は『長州を守る』という祖国防衛の意識が強く、士気が高かった。その一方で幕府軍の大半は諸藩の兵士で、彼らはそれほど長州を敵視しておらず、兵士の士気が低かった」
といったことが理由として挙げられるであろうが、これらに加えて
「幕府上層部が無能ぞろいで、特に各戦場で指揮を執った殿様たちが無能ぞろいだった」
という理由が何と言っても大きかったであろう。なにしろこの殿様たちは何か技能や職能があって指揮官に選ばれたわけではない。単に「殿様だから」という理由で指揮官になっただけの人物である。こんな連中が有能であろうはずがない。
そして何より幕府軍は「運が無かった」。これが致命的だった。
開戦から一ヶ月半を経て、大坂城に幕府軍の敗戦が続々と届けられている最中
「将軍、徳川家茂が病死」
したのだった。七月二十日のことである。
死因は脚気であった。享年二十一。
家茂は人徳や思いやりのある誠実な青年だった。が、それだけに、大坂の町民たちから「米騒動の原因は将軍でござる!」などとなじられ、そのうえ幕府軍の敗報を次々と聞かされて神経がもたなかったとしても無理はあるまい。周りに気を使い過ぎて「そんなんじゃ長生きしないよ」と人から言われそうなタイプである。そして事実、その通りになった。
なんにしても長州人からすると「まったく絶妙な時期に死んでくれたものだ!」と(不謹慎だが)小躍りしたくなったことだろう。
この将軍の急死は幕府軍にとってとてつもなく致命的だった。
まったくもって不運、としか言いようがない。
こういった幕府軍の劣勢をうけて、京都の一橋家では寅之助と篤太夫が一橋兵の出兵について話し合った。
篤太夫は深刻な表情で寅之助に語りかけた。
「幕軍の劣勢はともかく、公方様の薨去は、さすがに予想外でした。まだ二十歳そこそこのお歳で、このように突然お亡くなりになるなんて……、誰が想像できたでしょうか」
「私は幕軍の苦戦すら予想していませんでした。長州は一体どんな奇術を使って勝っているのですか?篤太夫さん」
「どうやら長州は全員が新しい鉄砲を使って、しかも西洋式の戦術を使っているらしい。小隊が別々に行動して、それらが物陰から攻撃してくるとのことです。一方幕軍は、特に諸藩の軍は鉄砲も古く、戦い方も昔さながらで、殿様が弁当持ちなどの奉公人を引き連れて戦場へおもむいているようですが、たちまち長州軍に打ち破られ、奉公人は弁当を持ったまま逃げ出すという有り様だと聞きました」
寅之助はこの話を聞いて、長州の新しい戦術に戦慄するとともに、幕府軍の時代錯誤な武士連中に呆れ果てもした。寅之助が所属する一橋家の農兵部隊は鉄砲隊が主力で、長州兵のような散兵戦術は学んでいないものの組織として見れば長州兵の形態に近い。なるほど、長州軍が奇術を使っているのではなくて、幕府軍の武士連中が自滅したのだ、と寅之助は納得した。
「それで我々の部隊は長州へ向かうのですか?それとも京で薩摩の兵に備えるのですか?」
「それよりもまず、君公(慶喜)が新将軍になられるかどうかが問題です」
「あっ……」
と寅之助は今さらながら、そのことに気がついた。
今は「戦争の最中に将軍が急死する」という非常事態である。
征長軍の士気を下げないために、そして幕政を混乱させないためにも、すぐに新しい将軍が必要だった。
家茂は一年前、江戸を発つ時に
「万が一の時は田安家の亀之助に徳川宗家を相続させる」
としていた。
けれども亀之助はこのとき四歳である。とてもではないが、この非常事態の場面で継がせるわけにはいかない。
次期将軍の候補でもっとも有力なのは、やはり一橋慶喜だった。
他の候補としては、この時まさに芸州口で「征長先鋒総督」として指揮を執っていた紀州藩の徳川茂承がいたぐらいのもので、それでもやはり、これまでずっと京都で活躍してきた慶喜こそが次期将軍に相応しい、と見るのが衆目の一致したところだった。
寅之助は、また篤太夫もそうだが「自分たちの君公が新将軍になる」などとは、その直前までまったく考えてもいなかった。
慶喜よりもずっと若い家茂が将軍職に就いているのだ。普通に考えれば慶喜が将軍職に就くなどあり得ない話だった。まさか家茂がこのように急死するとは、まったく想定外の出来事だった。
(俺が仕えている君公が将軍様になる……?)
と思うと寅之助は身震いする感じがした。
幕府の価値が著しく下落しているご時世とはいえ、なにしろやはり「将軍」である。
およそ二百五十年という長きににわたり最高権力者として君臨してきた存在なのである。
かつては長州とともに「倒幕」を考えたことがある寅之助としても
(ひょっとして俺は将軍直参の武士になるのか?)
という浮ついた気持ちが少しは心にわき起こってきていた。
「寅之助さん。あなたは君公に将軍職を継いで欲しいと思いますか?」
「うーん……、やはりそう思う気持ちが少しはあります。なにより君公の周囲がそのようにしようとするでしょうし、断る理由も無いんじゃないですか?」
「断る理由は大アリです」
「えっ?どういうことです?」
「君公が将軍として相応しい能力をお持ちなのは疑いありません。そして他に将軍として相応しい人物がいない、というのも確かにその通りでしょう。ですが、今の幕府は根っこから腐っている。誰が将軍になったところで、立て直すのは容易ではない。もし君公が将軍になれば、善政であれ悪政であれ、どのみち幕府に対する憎しみを一身に受けることになるでしょう。ですから君公は今まで通り、補佐の立場で幕政に関わったほうがよろしいのです」
「それはもっともな話ですけど、少し姑息なやり方なんじゃないですか?」
「損な役回りを自ら引き受けなくても良い、ということです」
「しかし意外ですね。あなたなら『君公が新将軍になれば、きっと幕府をよみがえらせることができるでしょう』とでも言うのかと思いましたよ」
「いくら君公が名君でも、死人を生き返らせることはできません」
さて、当の慶喜の反応はどうであったか?
実は慶喜の反応も、篤太夫の考えと同じであった。
幕閣から、特に老中の板倉勝静から再三「徳川宗家の相続」を懇請された。が、慶喜はそれを辞退した。
ちなみに「徳川宗家の相続」と「将軍の継嗣」は、従来であればこれを分けて考えるということはあり得なかったのだが、松平春嶽などが唱える「大政奉還」という政策、すなわち「朝廷へ大政を奉還して、徳川家も一大名家に戻る」という政策が、将軍の死を契機としてこの時、有力な考えとは言えないまでも、その可能性がなくはない、というレベルにおいては選択肢として浮上してきたため、いっきに「将軍の継嗣」までは慶喜に懇請せず、とりあえずお願いしやすい「徳川宗家の相続」だけを幕閣は慶喜に懇請したのだった。なぜなら、すぐにでも慶喜に宗家を相続してもらわないと征長の継続、ならびに円滑な幕政運営に支障をきたすからである。
しかし慶喜は「徳川宗家の相続」すらも辞退した。
確かに慶喜の側にも「はい、分かりました。では謹んでお受けします」などとは言えない理由があった。
安政の頃に起きた将軍家定の継嗣問題以来、慶喜派と家茂派の間には、朝廷も巻き込むかたちで複雑な対立関係が続いてきた。
要するに慶喜には幕府内に敵がたくさんいたのだ。しかも大奥も慶喜を嫌っている。
そして篤太夫も言う通り、これほど根本的に腐りきっている幕府の責任者、すなわち徳川宗家の相続者になるなど、いかにも割の合わない話である。少なくとも自分から進んで手を挙げるバカはいない。
という訳で慶喜は焦らすだけ焦らした。
徳川宗家や将軍が不在で困るのは、彼ら幕府内の政敵たちのほうなのだ。三拝九拝してお願いして来ない限り、絶対に受けつけるつもりはない。
松平春嶽は、大政奉還論者なので「将軍の継嗣」は慶喜に勧めなかったが、「徳川宗家の相続」は強く迫った。春嶽も徳川宗家の一員であり、その存続を強く願っていたからである。それで慶喜に対して
「朝廷から宗家相続の命が下ってもお受けしないおつもりか?」
と強く迫った。これに対し慶喜は
「もし朝廷からそのような命が下されれば拙者は切腹するか、江戸へ逃げ帰ります」
と答えて申し出を辞退した。
が、その数日後の七月二十六日、慶喜は手の平を返すように徳川宗家の相続を承諾した。
彼が手の平を返すのは別に珍しいことではない。
かつては幕議で開国説を唱えておきながら文久三年の五月に攘夷実行を命令し、攘夷実行を命令しておきながらイギリスに賠償金を支払い、賠償金を支払って開国に戻ったかと思えば今度は横浜鎖港を命令し、横浜鎖港を命令して攘夷に戻ったかと思えば強引に朝廷から条約勅許を引き出して開国を確定させた男である。
伊達に人々から「二心殿」と陰口を叩かれてはいない。筋金入りのブレる男なのである。
とにかく慶喜は
「自分の思う通りに幕政を改革しても良いという確約を与えよ」
と幕閣に条件を飲ませた上で、宗家の相続を承諾したのであった。
その上で慶喜は、孝明天皇から長州征討の勅許および節刀を賜り、居並ぶ幕臣たちの前で長州への「大討込」を宣言した。
「此度、予が出馬するからには、たとえ千騎が一騎になろうとも山口城まで進入し、戦を決する覚悟なり。その方たちも予と同じ決心なら予に随従すべし。その覚悟がない者は随従するにおよばず!」
慶喜自ら幕府軍の精鋭を率いて芸州口から攻め込み、現在芸州口を担当している紀州茂承の隊を石州口へ回し、両面から一気に大攻勢をかける計画を立てた。
慶喜が率いる精鋭は従者や奉公人などを引き連れない西洋式の鉄砲隊で、その中には一橋家の約千三百人の部隊も含まれる。もちろんそこには寅之助が指揮する農兵隊もいる。
篤太夫はこのとき勘定組頭の役に就いていたが、君公の出陣にあたって戦場で働く御使番格を命じられた。寅之助が農兵隊の組頭として従軍するのは当然のことである。
京都の一橋家で出陣準備をしながら篤太夫は寅之助に語った。
「先日、君公が幕臣たちの前で檄を飛ばした時、皆が発奮して出陣を願い出ました。これだけ幕軍の士気が高ければ必ず長州を制圧できるでしょう。ただ、悔やまれるのは相手が長州ということです。あなたもそうですが、我々にとって長州は以前の盟友です。今回は天狗党の時のように相手が降伏することはあり得ません。必ず彼らと戦うことになります。かつての盟友を討ち果たすのは残念ですが、君公に一身を捧げるのは、まさにこの時をおいて他にありません」
「私もまったく同じ思いです。これが長州との戦ではなくて、イギリスとの戦であればどれほど嬉しかったか。ともあれ、徳川宗家の直属部隊としては恥ずかしい戦はできません。私も君公の楯となって死ぬ覚悟です」
ところが数日後、慶喜はまたしても手の平を返した。
小倉口の戦いで幕府軍が敗れ、小倉城が落城し、諸藩の兵がすべて小倉から退却した、という情報が八月十一日、京都の慶喜に届いた。出陣予定日の前日のことだった。
慶喜はこれを聞いて即座に出陣を断念した。
一応この敗報以外にも、直前の八月八日に近畿地方を台風が襲って大洪水になったという事情、さらにフランスから譲り受けた新式大砲を大量に投入するつもりだったのに芸州口の地図を見ると山がちで大砲を有効利用できないことに気づいた、などの理由もあったようだが、小倉口の敗北が一番の理由だったことは間違いない。
長州征討の勅許を受けておきながら舌の根も乾かぬ内に征討を中止した慶喜に対し、孝明天皇は激怒した。そして長州とは仇敵同士である会津藩も慶喜に激怒した。
が、慶喜はこれらの怒りをなだめ、勝海舟を休戦の使者として長州へ派遣し、幕長戦争は休戦となった。
休戦とは言いながらも、戦争結果は明らかに幕府軍の惨敗である。幕府の威信に大きな傷をつけた、致命的な惨敗である。
とにかく寅之助と篤太夫は、慶喜の手の平返しによって肩すかしをくらったとはいえ、長州と戦わずに済んだことは素直に喜ばしく思った。
そして慶喜が徳川宗家を相続したことで、必然的に、一橋家を中心として様々な変化が起きた。
一橋家の重臣だった水戸藩士の原市之進と梅沢孫太郎は、幕府の旗本となり目付という重職に就くことになった。
そして寅之助と篤太夫も一橋家を離れ、幕府の御家人となった。
二人とも、とうとう正式に幕臣となったのである。
篤太夫は陸軍奉行調役という職に就いた。
しかしこの昇進は、篤太夫にとって大いに不満だった。
一橋家では君公である慶喜にお目見えが出来る立場だったのに、幕府の御家人では慶喜にお目見えが出来ず、直接意見を申し述べることが出来なくなるからだ。そして一橋家でやっていた財政の仕事こそが篤太夫にとってやりがいのある仕事だったのに、陸軍奉行調役では自分にふさわしいとも思えないし、大した仕事も出来ない。
その上なにより、幕府は根本的に腐りきっていて手の施しようがないと思っている篤太夫としては、幕臣になること自体が遺憾なことだった。
一方、寅之助は幕府の別手組に回されることになった。
別手組とは外国の公使館員などを護衛する警備兵である。この頃は減っていたとはいえ、江戸や横浜では以前から何度も攘夷派浪士が外国人を襲撃していた。まあ、その当時は、寅之助も篤太夫もどちらかと言えば「襲撃する側」だった訳だが、そういった襲撃から外国人を守るためにいるのが幕府の別手組だった。むろん、寅之助の剣術の腕を見込まれてのことである。さらに言えば、いずれ将軍職を継ぐであろう慶喜としては、外国人との接触が増えることを見込んで別手組を強化したかったのだった。
(外国人を打ち払うことを望んでいたこの俺が、外国人を守る仕事に就くとは……。時世とはいえ、とんでもねえ時代になったものだ……)
寅之助も篤太夫と同じく不満ではあったものの、ともかくも、これでとうとう寅之助は、子どもの頃から念願だった「正式な武士」となったのである。
そして慶喜が抜けた一橋家の当主には前尾張藩主の徳川茂徳が入り(この際に茂栄と改名。ちなみに茂栄は高須四兄弟の一人で慶勝、容保、定敬の兄弟である)、同じく御三卿清水家の当主には慶喜の弟の昭武が入ることになった。昭武はこの時まだ十四歳だった。
ここでやや唐突だが、久しぶりに清水卯三郎の話をしたい。
卯三郎はこの頃、翌年のパリ万博に参加する準備のため忙しかった。
以前モンブランの話をした際にパリ万博の話をしたが、そのパリ万博の開催がいよいよ近づいて来ていた。
パリ万博が開かれるのは翌1867年の4月(慶応三年の三月)である。
この年の初め頃、卯三郎は語学の師匠である箕作秋坪から万博への参加を勧められ、すぐさまこの話に乗った。それで卯三郎は、親戚の吉田六左衛門と共同で参加願いを申し込むことにした。
吉田六左衛門は、寅之助の実家がある四方寺村の、あの吉田本家の当主である。そして卯三郎と六左衛門はこの年の二月、幕府に万博への参加願いを申し出て、幕府の担当者である小栗上野介から許可された。
その参加願いの文言には
「博覧会に日本の良い産品を展示して、外国人の耳目を驚かせ、お国のご恩に万分の一も報いたい」
とあり、卯三郎の意気込みがひしひしと感じられた。
パリへ行くのは卯三郎の他に弟の季六、それに四方寺村から数名の人々が加わることになったのだが、その中には六左衛門の代理である吉田二郎もいた。二郎は六左衛門の後継ぎで、五代と一緒に長崎へ行った、あの二郎である。
さらに江戸柳橋の芸者三名も同行することになった。
卯三郎と季六は一月に幕府の使節と同行するのだが、それ以外のパリ行きの人々は先遣隊として十二月にパリへ出発する予定である。
が、その少し前の十一月末日に、篤太夫が原市之進に呼び出された。
以前、篤太夫の上司だった黒川嘉兵衛に代わって、現在では原が慶喜側近の重臣となっていた。
そして原は篤太夫に重大な話を伝えた。篤太夫の運命を大きく変えることになる、とてつもなく重大な話である。
「他でもない。お主、民部様のお供をしてフランスへ行く気はないか?」
篤太夫にとっては寝耳に水の話で、原が何のことを言っているのか、すぐには理解できなかった。ちなみに民部様とは清水民部大輔、すなわち水戸家から清水家当主に入った慶喜の弟、昭武のことである。
「フランスへ……?行くとおっしゃいますと……?」
「フランス行きと言えばもちろん、パリで開かれる博覧会のことだ。その博覧会に民部様が、我が国からの大使として参加されるのだが、お主にそのお供をしてもらいたい。民部様はそのあと欧州各国を回られ、さらに数年のあいだフランスに留学されるご予定だ。外国との折衝や民部様のご教育は他の幕臣が担当することになるが、お主には会計や書記を担当してもらいたい」
「あの……、私は外国語が話せませんし、それどころか、黒川様や亡き平岡様からお聞き及びかと存じますが、私は以前……」
「攘夷家だったのだろう?よく知っている。実は今回、民部様のお守り役として水戸の攘夷家が数名、どうしてもついて行くと言って参加することになったのだ。それで元は攘夷家だったお主なら、彼らをなだめるのに適任だろう、それに何よりお主は会計のことに明るい、ということで上様が直々にお主をご推挙なさったのだ」
「ははっ。謹んでお受けいたします」
「おいおい。いやにすんなりと引き受けるではないか?元は攘夷家だったというから、もっと不平を言うのかと思ってたぞ」
「いえ、上様のご推挙に不服を申すなど滅相もないことでございます」
事実、篤太夫は上様、すなわち慶喜の推挙を心底嬉しく思っていた。そしてフランス行きの話自体も、まさに渡りに船、というありがたい話だった。幕府の将来を危ぶみ、幕臣としての現在の仕事に不満を抱いていた身としては、これほど心機一転にもってこいの仕事はない。不平を言うどころか、諸手を挙げて大賛成、といったところだった。
この五日後の十二月五日、徳川慶喜が将軍宣下を受け、第十五代将軍に就任した。
それからさらに数日後、寅之助は新しい勤務地となった大坂で、篤太夫の送別の宴を開いた。
篤太夫は酒を飲みながらフランス行きの事情を寅之助に説明した。
「……という訳で、私は年明けに、フランスへ行くことになりました」
「いやしかし、あなたという人は本当に分からん人ですな。横浜を焼き討ちしようとしていた人が一橋家に入ったのも珍事ですが、今度のフランス行きはそれ以上の珍事だ」
「あなたは外国人を護衛する別手組に入り、私は外国人と交流するためにフランスへ行く。かつては横浜を焼き討ちして攘夷をやろうとしていたのに、まさかこんなことになろうとは夢にも思いませんでした」
「地下で眠っている真田さんや千葉道場のみんなにこんな話をしたら腰を抜かすか、あるいは怒鳴りつけられるでしょうな。だが、確かにあの頃とは時世が大きく変わってしまった。将軍職にお就きになった上様は、遠からず大坂城に外国公使を招待されるらしい。私はそれらを警備しなければなりません。これは上様のためであり、日本国のためでもあるのです……」
「まったく今回のフランス行きは上様のおかげです。私は上様のため粉骨砕身、向こうでお勤めを果たしてまいります」
「で、何年ぐらい戻ってこれないんですか?」
「分かりません。博覧会が終わればすぐ帰れるかも知れませんし、民部様の留学にずっとお供することになれば三年……、いや、事によっては五年は戻れないかも知れません」
「ご家族はどうされるんですか?今でも離れ離れなのに、今度はそれどころの話じゃない。地の果てですよ、フランスは」
「それが一番の悩みの種です。本当はそろそろこちらへ家族を呼ぼうと思ってたんですが、これでそれもご破算になりました……。それに伝馬町の獄に入れられている長七郎さんのことも心配だし……。寅之助さん、あなたならどうします?フランスへ行きますか?」
「私ですか?私が外国へ行くわけがないでしょう?そんなことは考えたこともない。あなたが変なんですよ。昔、攘夷家だったくせに、家族をおいてまでフランスへ行こうとするなんて」
「いや。おそらく欧州には、私たちの知らない何かがあるような気がして、私はどうしてもそれを見てみたいのです……」
(そういえば、昔、健次郎もそんなことを言ってたっけ……。そうだ。あいつもフランスへ行ってたんだよな。今頃あいつはどうしているのか……)
そして送別の宴も終わり、寅之助は篤太夫に別れの言葉を述べた。
「万里の波涛を乗り越えて、無事フランスから帰って来られることを祈ってます、篤太夫さん」
「寅之助さんも、お達者で。またいずれ、必ずお目にかかりましょう」
さて、パリ万博に派遣される幕府使節団のことを簡単に説明しておきたい。
使節の代表は将軍慶喜の弟で将軍名代をつとめる清水民部大輔、徳川昭武、十四歳である(数え年なので年明けの出発時には十五歳になる)。
実務的な使節の代表は外国奉行で駐フランス日本公使として赴任する向山一履(隼人正)。
昭武の傳役(後見役)は山高信離(石見守)。
そして池田使節の時に実務を担当していた田辺太一が向山の推挙によって復職し、今回もパリへ行くことになった。
渋沢篤太夫は御勘定格陸軍付調役として会計および書記を担当する。
他にフランス語通訳などの幕臣が数名、さらに昭武のお守り役として強引に参加した水戸藩士が七名いる。
また、幕府奥詰め医師の高松凌雲や会津藩士二名、そして清水卯三郎といった大昔の大河ドラマ『獅子の時代』でお馴染みの面々もいるにはいるが、それらの話は省略するとして、もう一人重要な人物を挙げておくとイギリス公使館員の身でありながらこの使節に参加することになったアレクサンダー・シーボルトがいる。
そう。第十五話の薩英戦争の時にユーリアラス号の甲板で卯三郎と一緒に震えていた、あのシーボルトである。
“パリ万博”というだけあって、この幕府使節団はフランス政府の意向、すなわち駐日フランス公使ロッシュの意向を強く受けていた。実際、ロッシュは使節団にヨーロッパで幕府の威光を示すように、そしてフランス政府の援助、特に600万ドルとも言われる巨額の借款契約を成功させるよう助言して、使節団を送り出すのである。
にもかかわらず、なにゆえイギリス公使館員で、しかもドイツ人のシーボルトが参加しているのか?誰しもが疑問に思うところだろう。
むろん、通訳として参加したのである。なにしろなんと、シーボルトは日・英・仏・独・蘭の五ヶ国語が話せたのだ。が、本当の理由は別のところにある。
「実はシーボルトはイギリス公使館が送り込んだスパイだった」
と見るむきも一部ではあるようだが、事実、確かにシーボルトはこの欧州行きの最中、各地からイギリス外務省へ秘密情報を送ることになるのでスパイであったには違いないが、普通であればそんなスパイの同行など、幕府もフランスも受け付けなかったはずだろう。
シーボルトが幕府使節団にすんなりと入り込めたのは、この数ヶ月前、「大シーボルト」こと父のフィリップ・シーボルトがドイツのミュンヘンで亡くなったからである。九月十日(1866年10月18日)のことだった。享年七十。
それでシーボルトは父の遺産や遺品の整理のために一旦ヨーロッパへ帰ることになったのだが、その情報を聞きつけた幕府が「ぜひ通訳として同行して欲しい」とシーボルトに頼み込んだのだった。
要するに、確かにスパイには違いないが、スパイになったのはまったく偶然の賜物だったということだ。
旅費は全部幕府がもってくれて、しかもやりたい放題スパイ活動ができるのだ。こんな良い話を断るバカはいない。むろん上司のパークスも「ぜひ一緒に行け!」とシーボルトに同行を推奨した。
幕府がシーボルトを頼った理由としては、父の「大シーボルト」がフランス皇帝ナポレオン三世の知り合いで、息子のシーボルトもフランス政府に多少の知り合いがいた、という事もあったのだが、なにしろ通訳として優秀だったからである。この使節団にはフランス人のレオン・デュリーという人物も通訳兼世話役として同行するのだが、彼はあまり日本語が上手くなかった。いきおい、使節団の人々は本来の世話役であるデュリーよりもシーボルトを重用するようになっていくのである。
さらに言うと、この使節団の実質的な代表である向山が、あまりフランス人を信用していなかった。
特に、ロッシュ公使の通訳として働いていたメルメ・カションという人物を酷く嫌っていた。
カションがカトリックの神父だった、という理由も大きい。この当時、日本人にとってキリスト教は“邪宗門”であり、ほとんどの人が生理的に受けつけなかった。一応カションはこの年に神父をやめているらしいのだが長年日本で神父として活動していたので、そう簡単には受け入れられなかっただろう。
が、それ以上に、カションは人間的に問題があったようだ。
カションにとって日本で一番の親友だった幕臣の栗本鯤(鋤雲)からも「小人」と評されるぐらい、人格的には欠陥の目立つ人間だったようで、勝海舟からは「妖僧」と言われ、西郷隆盛からも「奸物」と言われるほどだった。しかも神父であるにもかかわらず横浜に“メリンスお梶”という愛人を抱えていた、とも言われている。
そのカションはこの年の九月に一足早くフランスに帰国していた。
それより少し前に「駐日公使ロッシュの解任騒動」がフランス政府内で起きたために「仕事がなくなる」と思って帰国したらしい。そしてフランスで昭武たち幕府使節の仕事をするつもりだったようだが、まあ自分勝手な男である。結局留任することになったロッシュは、通訳がいなくなって非常に困ることになった(のちに日本人のフランス語通訳である塩田三郎に頼ることになる)。
ちなみにロッシュの「いきすぎた幕府支援策」はロッシュの「個人営業」的な色合いが強く、本国のフランス政府はロッシュほど積極的に幕府を支援する気はなく、ロッシュ解任の騒動はこのあと何度もフランス政府からわき起こるのである。
ともかくも向山としては、この一足先に帰ったカションを雇うつもりはなく、できれば有能なシーボルトを雇い続けたいと思っていた。
当時のフランス人通訳で一番有能な人物がこの妖僧カションだったというのだから、フランス公使館の人材不足は推して知るべし、といったところだろう。
篤太夫たち幕府使節団は翌年一月十一日に横浜を出発する予定である。
しかしながら、それより二ヶ月ほど早く、斎藤健次郎を加えた薩摩藩の使節団が鹿児島を出発してパリへ向かっていた。
もちろん、パリ万博に参加するための使節である。
幕府は諸藩にも万博への参加を呼びかけ、それに薩摩藩と佐賀藩が応えて参加することになった。
佐賀藩の参加は別に問題ない。そして佐賀藩自身も、別にパリで問題を引き起こすつもりはない。
ただし薩摩藩は違う。パリで問題を引き起こす気がマンマンだった。そしてその計画はすべて、パリにいるモンブランが立案しているのである。
幕府使節団は、そんな薩摩藩の陰謀などまったく知る由もなかった。
この年の暮れ、十二月二十五日に孝明天皇が崩御した。
明くる年は慶応三年(1867年)。
幕末最後の年である。
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戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
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あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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