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第四章・戊辰大乱
第62話 赤報隊と高松隊(十)
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京都へ行って釈明するため二月九日に下諏訪を発った相楽はその道中で、大垣の東山道軍総督府からの召喚状(二月八日付)に接した。
その召喚に応じて相楽が大垣に出頭したのは二月十八日のことである。
下諏訪と大垣のあいだには結構な距離があるとはいえ、九日もかかる距離ではない。相楽は前にも馬を駆って短期間で美濃と京都を往復したことがある。その相楽であれば遅くとも三日もあれば着いたはずだろう。
この九日間は歴史の謎とされている。史料がないのだ。
「おそらく一旦京都へ行ってから大垣へ出頭したのではないか?」
と見る向きもあるようだが、馬籠と中津川のあいだにある落合宿で「二月十五日、赤報隊長など四名が御宿泊」という記録があることから、
「その間、相楽は病気になってどこかの宿場で寝込んでいたのではないか?」
とも言われている。何度も寒風をついて京都と行き来していたから風邪をひいたとしても無理はない。が、これはあくまで一説。真相は不明である。
なんにせよ、この九日間の行方不明がのちのち尾を引くことになる。
その大垣の総督府から二月十日に発せられた、
「相楽たち嚮導隊は“偽官軍”なので捕縛せよ」
という通達が信州の諸藩に届くのは数日後のことである。そしてまた、下諏訪の嚮導隊がそれを知るのも、その頃である。
そんなことになっているとはつゆ知らず、嚮導隊は下諏訪から東へ分遣隊を派遣して東信州の平定に励んでいた。
まだ雪が残る和田峠や笠取峠を越えつつ中山道を東進し、それから千曲川の渡しを過ぎると岩村田宿に着く。
ここは岩村田藩領なので「城下町」である。と言いたいところだが小藩なので城はない。陣屋があるだけだ。
この周辺は千曲川に沿うように信州諸藩が南北に並んでいる。
岩村田の南には「五稜郭の龍岡城(ただし城の本丸はない)」で有名な龍岡藩があり、北には小諸藩、そして上田藩がある。さらに北へ行くと松代藩や須坂藩などもあるが、中山道を東進して碓氷峠の確保を目指す嚮導隊としては、とりあえず上田藩あたりまでが守備範囲だ。
そして岩村田宿の次が小田井宿で、そこから先にある浅間山麓の追分、沓掛、軽井沢は「浅間三宿」と呼ばれている。このあたりは幕府領で御影陣屋の支配下にある。御影陣屋は小諸、小田井、岩村田の中間に位置し、この地域の要となっている。この少し前にここで不穏な動きがあった際には下諏訪から援軍を送り込んで取り鎮めたことがあった。
隊長の相楽が不在の間、分遣隊はこの地域の諸藩や幕府領を正式に恭順させ、さらに軽井沢の先にある碓氷峠も確保しようとした。
それを担当したのは金原忠蔵、桜井常五郎、神道三郎、水野丹波といった幹部たちだった。
全員、草莽の志士である。身分の高かろうはずはない。
しかし彼らも小沢一仙と同じように、交渉相手に家老や重臣を引っ張り出し、ときには藩主と直談判することさえあった。
特に桜井は元々この佐久地方の農民だった男で、上級武士に対する怨嗟の念がいちじるしい。年貢半減は無論のこと、農民たちの「世直し一揆」によって武士の世の中を無くしてしまおうとまで思っている男だ。いきおい、諸藩の重臣や御影陣屋の幕府役人たちに対する態度も、人を人とも思わぬ無体なかたちとなる。
彼ら武士たちの憤りは募る一方だった。
とはいえ、彼らが一番恐れているのは、その農民たちの「世直し一揆」であった。御一新の勢いを借りて農民たちが一斉に立ち上がることを何よりも恐れたのだ。もしそうなったら手がつけられなくなる、と。
彼ら武士たちからすると嚮導隊は、朝廷という上からの権威を見せつけられる存在であると同時に、農民たちという下からの脅威を感じさせられる存在でもあった。
二重の意味で忌まわしい存在だったのだ。
ちなみに神道三郎と水野丹波は平田門人である。
神道三郎は長谷川伸の『相楽総三とその同志』によると「六尺近い大男で『絵にかいた真田幸村』と評された」とのこと。「神道」というのはもちろん変名で、国学者だから付けた名前だろう。それまでは三浦秀波とか佐藤倭文雄などと名乗っていた。美濃人の家系に生まれた男だが、友人で佐久出身の水野丹波から推挙されて二年前に佐久で神主をやっていたことがある。
その水野丹波は同じく長谷川伸によると『生まれ変わった平知盛』と風采を評されたとのことだが、江戸の薩摩藩邸から出流山へ派遣された一人で、なんとか出流山の惨敗の中から生還して地元の佐久に逃げ帰っていた。そして美濃から赤報隊に参加した神道三郎が、信州に入ってから水野のところへやって来て隊に入るよう勧めた。信州では多くの平田門人が隊に参加しており、神道と水野も佐久にゆかりのある国学者として隊に参加して信州平定に尽力しているのだった。
分遣隊によるこの地域の鎮定は順調に進み、いよいよ碓氷峠の占拠に取りかかることになった。
これこそが相楽の悲願であり、隊員たちもそのことをよく承知している。相楽隊長が留守のうちにここを押さえて後で隊長を喜ばせてやろう、と皆が意気込んだ。
当時の中山道は、現在軽井沢の駅前を走っている中山道よりかなり北にあったのだが、東の山中へ向かうと峠道の入り口付近に熊野神社があり、そこが信州と上州の国境となっている。そこから峠道を下っていくと上州側の坂本宿に着く。のちの明治の世で鉄道を通す際に「アプト式」という特殊な歯車式のラックレールを使わないと汽車が登れなかった、というぐらい急勾配の坂道で「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と謳われた中山道最大の難所である。
そしてその坂本宿から少し進んだところに安中の関所(碓氷関所)がある。
この関所を押さえなければ碓氷峠を占拠したことにはならない。
関所を管理しているのは上州の安中藩である。譜代板倉家三万石。さして大きな藩ではない。
それで隊の数人が出向いていって関所と安中城で安中藩士と談判した。隊の中に坂本宿出身の中山仲という者がおり、この地域のことに精通していた彼が中心となって関所の引き渡しを要求した。
安中藩側は、あまりにも早く新政府軍がやって来たことに驚いた。突然の新政府軍襲来に慌てふためくばかりだった。そして談判の結果、安中藩はやむを得ず新政府への恭順を受け入れた。
こうして信州諸藩に引きつづき安中藩も軍門に下り、とうとう碓氷峠は嚮導隊の手中に落ちたのである。
この日は二月十五日。
嚮導隊は更なる幸運に恵まれた。
京都の白川家の公子、白川千代丸の一行がこの日、碓氷峠にやって来たのだ。
以前紹介した通り、千代丸は江戸の平田塾気吹舎で学んでいたのだが、このとき江戸から京都へ戻るところだった。人数は千代丸含めて五名。
千代丸一行は碓氷峠を登ると上信国境にある熊野神社に入った。そして千代丸のことをよく知っている平田門人の神道三郎と水野丹波が一行を出迎えた。
このとき二人は思いきって千代丸に、
「おそれながら、隊の盟主になっていただけませんでしょうか?」
と願い出た。
以前「赤報隊」と名乗っていたころは綾小路俊実という公家の盟主がいた。
また甲州へ向かった高松隊にも高松実村という公家の盟主がいた。
神道三郎は三日前に甲州へ偵察に行って高松隊の様子を見て来たのだが、どうも高松隊による甲州平定は上手くいってないように見えた。その頃はちょうど高松隊が解隊の憂き目にあって甲州内をウロウロとしていた時のことだ。
綾小路卿がいなくなっても、いざとなったら高松卿を頼れば良いだろう。
と嚮導隊は当初考えていたのだが高松卿を頼りにするのは難しくなり、どうにも雲行きがあやしくなっていた。
そんな風に行きづまっていたところへ、なんという幸運、白川家の公子がたまたま通りかかったのである。
この御一新は王政復古、すなわち天皇が頂点に返り咲く政変であり、神道家や国学者は、
「これからは仏教ではなくて神道の時代が来る」
と確信して、歓喜にわいていた。それは一応、のちに廃仏毀釈運動となって一時的には実現されるのだが、日本の宗教戦争はヨーロッパや中東ほどの激烈さはなく、数年後にはそういった運動も収まって旧来通り神仏両存というかたちとなる。
が、それはともかくとして、このとき公家で神道の名家白川家の公子が碓氷峠へ舞い込んで来たことは、平田篤胤が遺した言葉、
「一切は神の心であろうでござる」
と、思わず神道や水野に感じさせるほどの奇瑞であった。
「この白川千代丸様を隊の盟主として戴けば、我が嚮導隊はこれからも縦横無尽に活躍できるに違いない」
神道や水野だけに限らず、他の嚮導隊士たち皆がそう思った。
そして千代丸も、この提案を受け入れて隊の盟主となる決断をしたのである。
十八歳という若さゆえの過ち、というか勢いに乗せられたのであろう。
それに、この嚮導隊が政治的に危ない賭けをしているなどと、この若き公子に分かるはずもなかった。
彼はこの二日後、師の平田鉄胤に対して手紙を出し、その中で「神道三郎の勧めによって隊に加入し、“神祇隊”を立ち上げることになりました」云々と書くのだが、それにつづけて「ただしこの事は他言無用に願います。また古川帯刀にも内緒にしておいてください」と書き添えることになる。ということは、少しは「危ないことをしている」という自覚はあったのだろう。
この古川帯刀は勝蔵を白川家へ迎え入れるのに尽力した人物で、このときは千代丸の世話役として一緒に江戸の平田塾に来ていたのだった。
こうして相楽不在の嚮導隊は、ここに絶頂期を迎えていた。
その一方で、下諏訪の嚮導隊本部には西から暗雲が近づきつつあった。
まず二月十三日、以前相楽が京都へ使者として送った幹部の竹貫三郎が早駕籠に乗って下諏訪に到着した。竹貫は例の「相楽たち嚮導隊は“偽官軍”なので捕縛せよ」という二月十日付の通達文書を手にしており、それを隊士たちに見せた。
赤報隊の基本史料『赤報記』には、この時の様子について、
「隊中愕然」
と記している。
隊員は皆憤激した。が、隊長の相楽が不在ということもあり、ここは怒りを抑えて一同謹慎するよう申し合わせた。
そして二日後、相楽の親友の落合源一郎と権田直助が下諏訪を訪れた。
二人は中国地方の鎮撫軍に加わったあと京都へ戻り、相楽が赤報隊に加わって東へ向かったことを知った。それで相楽のあとを追おうとしたのだが岩倉具視が二人に関東探索の仕事を命じたのだった。
それで、とにかく二人は関東へ行く途中、相楽に会おうと思った。そして下諏訪までやって来たところ相楽は不在だった。仕方がないので相楽へ伝言を残し、隊員たちにも同様の忠告をしてから関東へ向かった。
「京都には隊の悪い噂ばかり届いている。我々は相楽君や君たちのことをよく知っているのでそのような噂は信じないが、念のため謹慎して総督府の指示を待ったほうが良い。各地へ送った分遣隊も下諏訪に呼び戻すべきだろう」
これでいよいよ、下諏訪の嚮導隊本部は碓氷峠へ派遣した分遣隊を引き戻すことに決めた。
この十五日、幹部の西村謹吾が下諏訪から碓氷峠へ向かって出発し、十七日には丸山梅夫もあとを追って碓氷峠へ向かった。ところが丸山は和田峠にさしかかったところで故郷の上田藩兵によって捕縛された。その際「房山村の百姓徳五郎、神妙にしろ」と丸山は叱りつけられたという。この頃にはすでに相楽たちが“偽官軍”であるという通達が信州諸藩に届いており、そのために捕縛されたのだが、丸山の場合は上田から逃亡した百姓という理由もあって捕縛されたのだ。ただしこの捕縛は、丸山にとっては「怪我の功名」という結果をもたらすことになる。
信州諸藩にはすでに「“偽官軍”を捕縛せよ」という通達が届いている。
通達はあくまで「捕縛せよ」である。文面を正確に言うなら「取り押さえ置け」ということになる。
が、諸藩のなかには血気にはやって「“偽官軍”を討伐すべし」と動き出した藩もあった。
小諸藩である。
譜代牧野家一万五千石で、長岡藩牧野家の分家である。長岡藩牧野家というと、この半年後、北越戦争でガトリング砲をぶっ放す河井継之助がいる藩だ。その牧野本家の過激さが伝播したわけでもないだろうが、この直前に嚮導隊へ金穀を献納させられたことを恨みに思ったか、あるいはその事実を打ち消そうと思ってのことか、いやおそらく、百姓同然の連中から無礼な対応をされたのが一番腹に据えかねたのだろう。
小諸藩は百人の兵を動員し、御影陣屋の農兵二百人と合同して嚮導隊の分遣隊を討伐する方針を固めた。さらに安中藩、岩村田藩、上田藩にも声をかけて作戦への参加を求めた。
そういった諸藩の動きまで察知していたわけではなかったが、時を同じくして、下諏訪から碓氷峠へやって来た西村謹吾は分遣隊に下諏訪へ撤収するよう命じた。二月十七日のことである。
多くの隊員は西村の命令を受け入れ、この日のうちに碓氷峠から引き返した。金原が率いる部隊は追分宿に、西村が率いる部隊は沓掛宿まで戻った。
しかし桜井常五郎など数人は命令に従わず、別行動を取るといって軽井沢宿に入った。白川千代丸の一行もその桜井たちについて行った。これは多分、何も事情を知らされないまま桜井たちと同行しただけのことと思われる。
桜井が西村と別れて分宿したのは「年貢半減」「世直し一揆」の実現を目指し、相楽や西村など「攘夷実行を優先すべし」という一派とは別行動を取って、農民たちの力を結集するつもりだったのだ。
ちなみに「年貢半減」については新政府がすでにその方針を取り消しているのに、なぜこの嚮導隊だけがそれをつづけているのか?と普通は疑問に思うだろう。
新政府はそのことを嚮導隊に伝えてはいないのだ。
なぜなら「どのようなかたちで処分するのか」はともかくとして、新政府は嚮導隊の存在を認めてはいない。“偽官軍”とまで非難して隊を取り潰すつもりでいる。だから嚮導隊がいくら「年貢半減」を喧伝したところで、あとから「あれは嚮導隊が官軍から脱走して勝手にやったことだ」と言えば済む話である。
だから新政府は嚮導隊に年貢半減の中止を伝えなかった。
いくぶんアコギなやり方ではあるが、上からの命令を聞かずに飛び出して行った嚮導隊にも、非がないとは言えない。
そしてこの日の夜、雪が舞い散るなか、小諸藩などの連合軍が分遣隊に襲いかかった。
九つ半(午前一時)頃、小諸藩兵と御影陣屋の農兵あわせて約二百人が追分宿の大黒屋に泊まっていた金原たちに攻めかかり、いきなり建物に向かって鉄砲を撃ちかけた。
金原の隊は二十人ほどしかいない。とても勝負にならず、金原たちは建物から脱出して沓掛の西村隊と合流しようとした。
その脱出作戦のさいに数名が死傷。隊長の金原も銃弾を受けて重傷となった。
なんとか脱出した隊員の一人が血だらけになりながら沓掛の西村のところまでやって来て戦況を伝えた。それから西村は急いで隊を率いて追分へ援軍に向かった。といっても、この隊も二十人ほどの小部隊だ。
その道中で西村たちは、瀕死の重傷となっていた金原を発見した。
金原は「介錯をたのむ」といい、大木四郎がそれを引き受けて介錯した。金原、大木、西村は薩摩藩邸以来の同志である。
金原隊の生き残りを加えて西村は隊を整え、追分の小諸藩兵に向かって反撃に出た。
敵を打ち払ったと思って油断していた小諸藩兵はこの反撃に意表を突かれるかたちとなり、相手が小勢であることにも気づかず慌てふためき退却していった。
それで西村たちは追分を突破して西の下諏訪を目指した。途中、ポロポロと脱走者が出て次の小田井宿に着く頃には二十人ぐらいに減っていた。
そこに岩村田藩の軍勢が待ち構えていた。西村は一戦を覚悟したが、岩村田側から軍使がやって来て「我が藩で食事でもなされよ」と、暗に降伏をうながしてきた。雪も降るなか、これ以上の抵抗は難しいと判断した西村は岩村田藩に投降した。
同じころ、安中藩兵も坂本宿にいた分遣隊を襲った。こちらの分遣隊も十数人しかいない小勢だったので一網打尽にされ、丸尾清ら四人が戦死、他は全員捕縛された。
そしてこの騒ぎを耳にした軽井沢の桜井たちも下諏訪への撤退に取りかかった。
その際、白川千代丸が騒ぎに巻き込まれるのを避けるため別々で行動することにした。
が、どちらの隊も翌十九日に御影陣屋の農兵隊に捕縛されてしまった。
千代丸は「私は嚮導隊とは何の関係もない」とシラを切り通そうとしたのだが、御影陣屋の側では何か証拠をつかんでいたようで、この白川家の公子まで牢屋へ放り込んでしまった。
神道三郎はこの襲撃事件の際たまたま出払っていたため難を逃れた。
また水野丹波は出流山の時と同様に素早く危機から脱出し、捕縛を免れた。
ちなみにこの一月ほど後に平田鉄胤の息子延胤の一行が江戸から京都へ向かうためにこの中山道を通るのだが、水野丹波はその一行に助けてもらって京都へ行き着くことになる。そしてそこで自首して入牢し、のちに解放される。
また千代丸も岩倉具定の東山道軍がやって来ると牢屋から解放されることになる。
水野も千代丸も、信州の平田門人たちが懸命に陳情することによって解放されるのである。
ともかくも、この一連の騒動の最中、追分宿では火事が起きて十一軒が焼失した。
それもあわせてこの事件は「追分戦争」と呼ばれている。
これにより、下諏訪から派遣されていた分遣隊は完全に消滅したのである。
その召喚に応じて相楽が大垣に出頭したのは二月十八日のことである。
下諏訪と大垣のあいだには結構な距離があるとはいえ、九日もかかる距離ではない。相楽は前にも馬を駆って短期間で美濃と京都を往復したことがある。その相楽であれば遅くとも三日もあれば着いたはずだろう。
この九日間は歴史の謎とされている。史料がないのだ。
「おそらく一旦京都へ行ってから大垣へ出頭したのではないか?」
と見る向きもあるようだが、馬籠と中津川のあいだにある落合宿で「二月十五日、赤報隊長など四名が御宿泊」という記録があることから、
「その間、相楽は病気になってどこかの宿場で寝込んでいたのではないか?」
とも言われている。何度も寒風をついて京都と行き来していたから風邪をひいたとしても無理はない。が、これはあくまで一説。真相は不明である。
なんにせよ、この九日間の行方不明がのちのち尾を引くことになる。
その大垣の総督府から二月十日に発せられた、
「相楽たち嚮導隊は“偽官軍”なので捕縛せよ」
という通達が信州の諸藩に届くのは数日後のことである。そしてまた、下諏訪の嚮導隊がそれを知るのも、その頃である。
そんなことになっているとはつゆ知らず、嚮導隊は下諏訪から東へ分遣隊を派遣して東信州の平定に励んでいた。
まだ雪が残る和田峠や笠取峠を越えつつ中山道を東進し、それから千曲川の渡しを過ぎると岩村田宿に着く。
ここは岩村田藩領なので「城下町」である。と言いたいところだが小藩なので城はない。陣屋があるだけだ。
この周辺は千曲川に沿うように信州諸藩が南北に並んでいる。
岩村田の南には「五稜郭の龍岡城(ただし城の本丸はない)」で有名な龍岡藩があり、北には小諸藩、そして上田藩がある。さらに北へ行くと松代藩や須坂藩などもあるが、中山道を東進して碓氷峠の確保を目指す嚮導隊としては、とりあえず上田藩あたりまでが守備範囲だ。
そして岩村田宿の次が小田井宿で、そこから先にある浅間山麓の追分、沓掛、軽井沢は「浅間三宿」と呼ばれている。このあたりは幕府領で御影陣屋の支配下にある。御影陣屋は小諸、小田井、岩村田の中間に位置し、この地域の要となっている。この少し前にここで不穏な動きがあった際には下諏訪から援軍を送り込んで取り鎮めたことがあった。
隊長の相楽が不在の間、分遣隊はこの地域の諸藩や幕府領を正式に恭順させ、さらに軽井沢の先にある碓氷峠も確保しようとした。
それを担当したのは金原忠蔵、桜井常五郎、神道三郎、水野丹波といった幹部たちだった。
全員、草莽の志士である。身分の高かろうはずはない。
しかし彼らも小沢一仙と同じように、交渉相手に家老や重臣を引っ張り出し、ときには藩主と直談判することさえあった。
特に桜井は元々この佐久地方の農民だった男で、上級武士に対する怨嗟の念がいちじるしい。年貢半減は無論のこと、農民たちの「世直し一揆」によって武士の世の中を無くしてしまおうとまで思っている男だ。いきおい、諸藩の重臣や御影陣屋の幕府役人たちに対する態度も、人を人とも思わぬ無体なかたちとなる。
彼ら武士たちの憤りは募る一方だった。
とはいえ、彼らが一番恐れているのは、その農民たちの「世直し一揆」であった。御一新の勢いを借りて農民たちが一斉に立ち上がることを何よりも恐れたのだ。もしそうなったら手がつけられなくなる、と。
彼ら武士たちからすると嚮導隊は、朝廷という上からの権威を見せつけられる存在であると同時に、農民たちという下からの脅威を感じさせられる存在でもあった。
二重の意味で忌まわしい存在だったのだ。
ちなみに神道三郎と水野丹波は平田門人である。
神道三郎は長谷川伸の『相楽総三とその同志』によると「六尺近い大男で『絵にかいた真田幸村』と評された」とのこと。「神道」というのはもちろん変名で、国学者だから付けた名前だろう。それまでは三浦秀波とか佐藤倭文雄などと名乗っていた。美濃人の家系に生まれた男だが、友人で佐久出身の水野丹波から推挙されて二年前に佐久で神主をやっていたことがある。
その水野丹波は同じく長谷川伸によると『生まれ変わった平知盛』と風采を評されたとのことだが、江戸の薩摩藩邸から出流山へ派遣された一人で、なんとか出流山の惨敗の中から生還して地元の佐久に逃げ帰っていた。そして美濃から赤報隊に参加した神道三郎が、信州に入ってから水野のところへやって来て隊に入るよう勧めた。信州では多くの平田門人が隊に参加しており、神道と水野も佐久にゆかりのある国学者として隊に参加して信州平定に尽力しているのだった。
分遣隊によるこの地域の鎮定は順調に進み、いよいよ碓氷峠の占拠に取りかかることになった。
これこそが相楽の悲願であり、隊員たちもそのことをよく承知している。相楽隊長が留守のうちにここを押さえて後で隊長を喜ばせてやろう、と皆が意気込んだ。
当時の中山道は、現在軽井沢の駅前を走っている中山道よりかなり北にあったのだが、東の山中へ向かうと峠道の入り口付近に熊野神社があり、そこが信州と上州の国境となっている。そこから峠道を下っていくと上州側の坂本宿に着く。のちの明治の世で鉄道を通す際に「アプト式」という特殊な歯車式のラックレールを使わないと汽車が登れなかった、というぐらい急勾配の坂道で「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と謳われた中山道最大の難所である。
そしてその坂本宿から少し進んだところに安中の関所(碓氷関所)がある。
この関所を押さえなければ碓氷峠を占拠したことにはならない。
関所を管理しているのは上州の安中藩である。譜代板倉家三万石。さして大きな藩ではない。
それで隊の数人が出向いていって関所と安中城で安中藩士と談判した。隊の中に坂本宿出身の中山仲という者がおり、この地域のことに精通していた彼が中心となって関所の引き渡しを要求した。
安中藩側は、あまりにも早く新政府軍がやって来たことに驚いた。突然の新政府軍襲来に慌てふためくばかりだった。そして談判の結果、安中藩はやむを得ず新政府への恭順を受け入れた。
こうして信州諸藩に引きつづき安中藩も軍門に下り、とうとう碓氷峠は嚮導隊の手中に落ちたのである。
この日は二月十五日。
嚮導隊は更なる幸運に恵まれた。
京都の白川家の公子、白川千代丸の一行がこの日、碓氷峠にやって来たのだ。
以前紹介した通り、千代丸は江戸の平田塾気吹舎で学んでいたのだが、このとき江戸から京都へ戻るところだった。人数は千代丸含めて五名。
千代丸一行は碓氷峠を登ると上信国境にある熊野神社に入った。そして千代丸のことをよく知っている平田門人の神道三郎と水野丹波が一行を出迎えた。
このとき二人は思いきって千代丸に、
「おそれながら、隊の盟主になっていただけませんでしょうか?」
と願い出た。
以前「赤報隊」と名乗っていたころは綾小路俊実という公家の盟主がいた。
また甲州へ向かった高松隊にも高松実村という公家の盟主がいた。
神道三郎は三日前に甲州へ偵察に行って高松隊の様子を見て来たのだが、どうも高松隊による甲州平定は上手くいってないように見えた。その頃はちょうど高松隊が解隊の憂き目にあって甲州内をウロウロとしていた時のことだ。
綾小路卿がいなくなっても、いざとなったら高松卿を頼れば良いだろう。
と嚮導隊は当初考えていたのだが高松卿を頼りにするのは難しくなり、どうにも雲行きがあやしくなっていた。
そんな風に行きづまっていたところへ、なんという幸運、白川家の公子がたまたま通りかかったのである。
この御一新は王政復古、すなわち天皇が頂点に返り咲く政変であり、神道家や国学者は、
「これからは仏教ではなくて神道の時代が来る」
と確信して、歓喜にわいていた。それは一応、のちに廃仏毀釈運動となって一時的には実現されるのだが、日本の宗教戦争はヨーロッパや中東ほどの激烈さはなく、数年後にはそういった運動も収まって旧来通り神仏両存というかたちとなる。
が、それはともかくとして、このとき公家で神道の名家白川家の公子が碓氷峠へ舞い込んで来たことは、平田篤胤が遺した言葉、
「一切は神の心であろうでござる」
と、思わず神道や水野に感じさせるほどの奇瑞であった。
「この白川千代丸様を隊の盟主として戴けば、我が嚮導隊はこれからも縦横無尽に活躍できるに違いない」
神道や水野だけに限らず、他の嚮導隊士たち皆がそう思った。
そして千代丸も、この提案を受け入れて隊の盟主となる決断をしたのである。
十八歳という若さゆえの過ち、というか勢いに乗せられたのであろう。
それに、この嚮導隊が政治的に危ない賭けをしているなどと、この若き公子に分かるはずもなかった。
彼はこの二日後、師の平田鉄胤に対して手紙を出し、その中で「神道三郎の勧めによって隊に加入し、“神祇隊”を立ち上げることになりました」云々と書くのだが、それにつづけて「ただしこの事は他言無用に願います。また古川帯刀にも内緒にしておいてください」と書き添えることになる。ということは、少しは「危ないことをしている」という自覚はあったのだろう。
この古川帯刀は勝蔵を白川家へ迎え入れるのに尽力した人物で、このときは千代丸の世話役として一緒に江戸の平田塾に来ていたのだった。
こうして相楽不在の嚮導隊は、ここに絶頂期を迎えていた。
その一方で、下諏訪の嚮導隊本部には西から暗雲が近づきつつあった。
まず二月十三日、以前相楽が京都へ使者として送った幹部の竹貫三郎が早駕籠に乗って下諏訪に到着した。竹貫は例の「相楽たち嚮導隊は“偽官軍”なので捕縛せよ」という二月十日付の通達文書を手にしており、それを隊士たちに見せた。
赤報隊の基本史料『赤報記』には、この時の様子について、
「隊中愕然」
と記している。
隊員は皆憤激した。が、隊長の相楽が不在ということもあり、ここは怒りを抑えて一同謹慎するよう申し合わせた。
そして二日後、相楽の親友の落合源一郎と権田直助が下諏訪を訪れた。
二人は中国地方の鎮撫軍に加わったあと京都へ戻り、相楽が赤報隊に加わって東へ向かったことを知った。それで相楽のあとを追おうとしたのだが岩倉具視が二人に関東探索の仕事を命じたのだった。
それで、とにかく二人は関東へ行く途中、相楽に会おうと思った。そして下諏訪までやって来たところ相楽は不在だった。仕方がないので相楽へ伝言を残し、隊員たちにも同様の忠告をしてから関東へ向かった。
「京都には隊の悪い噂ばかり届いている。我々は相楽君や君たちのことをよく知っているのでそのような噂は信じないが、念のため謹慎して総督府の指示を待ったほうが良い。各地へ送った分遣隊も下諏訪に呼び戻すべきだろう」
これでいよいよ、下諏訪の嚮導隊本部は碓氷峠へ派遣した分遣隊を引き戻すことに決めた。
この十五日、幹部の西村謹吾が下諏訪から碓氷峠へ向かって出発し、十七日には丸山梅夫もあとを追って碓氷峠へ向かった。ところが丸山は和田峠にさしかかったところで故郷の上田藩兵によって捕縛された。その際「房山村の百姓徳五郎、神妙にしろ」と丸山は叱りつけられたという。この頃にはすでに相楽たちが“偽官軍”であるという通達が信州諸藩に届いており、そのために捕縛されたのだが、丸山の場合は上田から逃亡した百姓という理由もあって捕縛されたのだ。ただしこの捕縛は、丸山にとっては「怪我の功名」という結果をもたらすことになる。
信州諸藩にはすでに「“偽官軍”を捕縛せよ」という通達が届いている。
通達はあくまで「捕縛せよ」である。文面を正確に言うなら「取り押さえ置け」ということになる。
が、諸藩のなかには血気にはやって「“偽官軍”を討伐すべし」と動き出した藩もあった。
小諸藩である。
譜代牧野家一万五千石で、長岡藩牧野家の分家である。長岡藩牧野家というと、この半年後、北越戦争でガトリング砲をぶっ放す河井継之助がいる藩だ。その牧野本家の過激さが伝播したわけでもないだろうが、この直前に嚮導隊へ金穀を献納させられたことを恨みに思ったか、あるいはその事実を打ち消そうと思ってのことか、いやおそらく、百姓同然の連中から無礼な対応をされたのが一番腹に据えかねたのだろう。
小諸藩は百人の兵を動員し、御影陣屋の農兵二百人と合同して嚮導隊の分遣隊を討伐する方針を固めた。さらに安中藩、岩村田藩、上田藩にも声をかけて作戦への参加を求めた。
そういった諸藩の動きまで察知していたわけではなかったが、時を同じくして、下諏訪から碓氷峠へやって来た西村謹吾は分遣隊に下諏訪へ撤収するよう命じた。二月十七日のことである。
多くの隊員は西村の命令を受け入れ、この日のうちに碓氷峠から引き返した。金原が率いる部隊は追分宿に、西村が率いる部隊は沓掛宿まで戻った。
しかし桜井常五郎など数人は命令に従わず、別行動を取るといって軽井沢宿に入った。白川千代丸の一行もその桜井たちについて行った。これは多分、何も事情を知らされないまま桜井たちと同行しただけのことと思われる。
桜井が西村と別れて分宿したのは「年貢半減」「世直し一揆」の実現を目指し、相楽や西村など「攘夷実行を優先すべし」という一派とは別行動を取って、農民たちの力を結集するつもりだったのだ。
ちなみに「年貢半減」については新政府がすでにその方針を取り消しているのに、なぜこの嚮導隊だけがそれをつづけているのか?と普通は疑問に思うだろう。
新政府はそのことを嚮導隊に伝えてはいないのだ。
なぜなら「どのようなかたちで処分するのか」はともかくとして、新政府は嚮導隊の存在を認めてはいない。“偽官軍”とまで非難して隊を取り潰すつもりでいる。だから嚮導隊がいくら「年貢半減」を喧伝したところで、あとから「あれは嚮導隊が官軍から脱走して勝手にやったことだ」と言えば済む話である。
だから新政府は嚮導隊に年貢半減の中止を伝えなかった。
いくぶんアコギなやり方ではあるが、上からの命令を聞かずに飛び出して行った嚮導隊にも、非がないとは言えない。
そしてこの日の夜、雪が舞い散るなか、小諸藩などの連合軍が分遣隊に襲いかかった。
九つ半(午前一時)頃、小諸藩兵と御影陣屋の農兵あわせて約二百人が追分宿の大黒屋に泊まっていた金原たちに攻めかかり、いきなり建物に向かって鉄砲を撃ちかけた。
金原の隊は二十人ほどしかいない。とても勝負にならず、金原たちは建物から脱出して沓掛の西村隊と合流しようとした。
その脱出作戦のさいに数名が死傷。隊長の金原も銃弾を受けて重傷となった。
なんとか脱出した隊員の一人が血だらけになりながら沓掛の西村のところまでやって来て戦況を伝えた。それから西村は急いで隊を率いて追分へ援軍に向かった。といっても、この隊も二十人ほどの小部隊だ。
その道中で西村たちは、瀕死の重傷となっていた金原を発見した。
金原は「介錯をたのむ」といい、大木四郎がそれを引き受けて介錯した。金原、大木、西村は薩摩藩邸以来の同志である。
金原隊の生き残りを加えて西村は隊を整え、追分の小諸藩兵に向かって反撃に出た。
敵を打ち払ったと思って油断していた小諸藩兵はこの反撃に意表を突かれるかたちとなり、相手が小勢であることにも気づかず慌てふためき退却していった。
それで西村たちは追分を突破して西の下諏訪を目指した。途中、ポロポロと脱走者が出て次の小田井宿に着く頃には二十人ぐらいに減っていた。
そこに岩村田藩の軍勢が待ち構えていた。西村は一戦を覚悟したが、岩村田側から軍使がやって来て「我が藩で食事でもなされよ」と、暗に降伏をうながしてきた。雪も降るなか、これ以上の抵抗は難しいと判断した西村は岩村田藩に投降した。
同じころ、安中藩兵も坂本宿にいた分遣隊を襲った。こちらの分遣隊も十数人しかいない小勢だったので一網打尽にされ、丸尾清ら四人が戦死、他は全員捕縛された。
そしてこの騒ぎを耳にした軽井沢の桜井たちも下諏訪への撤退に取りかかった。
その際、白川千代丸が騒ぎに巻き込まれるのを避けるため別々で行動することにした。
が、どちらの隊も翌十九日に御影陣屋の農兵隊に捕縛されてしまった。
千代丸は「私は嚮導隊とは何の関係もない」とシラを切り通そうとしたのだが、御影陣屋の側では何か証拠をつかんでいたようで、この白川家の公子まで牢屋へ放り込んでしまった。
神道三郎はこの襲撃事件の際たまたま出払っていたため難を逃れた。
また水野丹波は出流山の時と同様に素早く危機から脱出し、捕縛を免れた。
ちなみにこの一月ほど後に平田鉄胤の息子延胤の一行が江戸から京都へ向かうためにこの中山道を通るのだが、水野丹波はその一行に助けてもらって京都へ行き着くことになる。そしてそこで自首して入牢し、のちに解放される。
また千代丸も岩倉具定の東山道軍がやって来ると牢屋から解放されることになる。
水野も千代丸も、信州の平田門人たちが懸命に陳情することによって解放されるのである。
ともかくも、この一連の騒動の最中、追分宿では火事が起きて十一軒が焼失した。
それもあわせてこの事件は「追分戦争」と呼ばれている。
これにより、下諏訪から派遣されていた分遣隊は完全に消滅したのである。
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