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第四章・戊辰大乱
第63話 赤報隊と高松隊(十一)
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追分戦争と時を同じくして、自分の隊がそんなことになっているとは知る由もない相楽総三が、二月十八日に大垣の東山道軍総督府に出頭した。
二月八日に召喚状が出てから十日も経っている。どんな事情があったにせよ、相楽に対する東山道軍幹部の心証はきわめて悪い。
ただしこの幹部たちも、自分たちが信州諸藩へ出した通達によって追分で戦争が起きているとはまったく想像していない。それで、とりあえず「これから嚮導隊をどのように扱うべきか」ということについて普通に相楽と話し合った。
話し合いの結果、相楽は一定の成果を勝ち取った。
まず二月十日に出された“偽官軍”の通達を取り消させた。
そして嚮導隊は薩摩藩付属の正式な部隊として認められ、関東探索の命令を受けた。つまり脱走兵の扱いではなくなったのだ。
相楽の主張を理解して、朝令暮改の批判もおそれず自らの姿勢を改めたのか、それとも相楽を油断させるための策略だったのか、その点は不明である。
多少遅きに失した感は否めないものの、相楽はひとまず一定の成果を得たことに満足して大垣を出発。二十三日に下諏訪の嚮導隊本部へ戻ってきた。
戻ると、この有り様である。
追分戦争の結果、死傷者が続出。しかも今もって多くの隊士が小諸、岩村田、安中の各藩、および御影陣屋に拘束されている。さながら隊の半分が消滅した格好だ。
相楽は驚愕し、そして悲憤した。
すぐに東山道軍総督府へ手紙を書き、その中で信州諸藩の不法を非難して同志の釈放を訴えた。
この間、総督府側も相楽に対して理解を示す姿勢を見せ、ふたたび隊を正式に薩摩藩の付属として認めるという「約定書」を相楽へ送り、そのうえで「粉骨砕身してご奉公せよ。金穀は総督府から十分届けるので安心せよ」とも書いて送った。これについて長谷川伸は「殺す前に舐めさせたアメの感がある」と書いている。
それでも相楽は同志の釈放手続きが進んでいないのを憂い、引きつづき総督府へ嘆願書を送りつづけた。
やがて岩倉総督が率いる東山道軍本隊が下諏訪へやって来るという連絡が相楽のところに届き、相楽の隊は一里半ほど東にある樋橋へ陣を移して下諏訪の本陣を本隊に明け渡した。
このころ相楽は、前年の暮れからひっきりなしに続く激務と心労によって体を壊し、酷い風邪にかかって寝込んでいた。
しかし三月一日、岩村田藩などに拘束されていた西村たちがようやく総督府からの指示によって解放され、相楽のところへ戻ってきた。仲間と再会できて相楽は大いに喜んだ。
同じ日、下諏訪の総督府から相楽に「本陣へ出頭せよ」との連絡が届いた。
本陣で軍議でもあるのだろう、と思って大木四郎一人を連れて、この前まで住んでいた本陣亀屋に出頭した。
たちまち大勢に取り囲まれて二人は捕縛された。
同様に、樋橋に残っていた他の隊員たちも次々と少人数に分けて呼び出され、ことごとく総督府の兵士たちによって捕縛されていった。総計およそ六十人が捕縛され、諸藩の牢屋から解放されたばかりの西村たちも再び囚われの身となった。
だまし討ちと言っていいやり方である。水野弥太郎の時もそうであったように。
そしてこのような悪辣な手法を取った理由も弥太郎の時と同じで、総督府のもくろみがバレれば武装反乱されるに違いない、と恐れたからである。
三月二日、相楽たちは諏訪大社の明神並木に縛りつけられて一日中、放置された。
冷たい雨が降るなか、食事も一切与えられない。
そして運命の三月三日を迎えた。
この日も雨が降ふりつづき、凍えるように寒い朝だったという。そして八年前の桜田門と同様、めでたい節句の日にふさわしからぬ、血なまぐさい惨劇の記念日となる。
この日、下諏訪の町民たちもたくさん見物に来ており、その様子を当時子どもだった岩波太左衛門がのちに談話筆記で残している。以下、長谷川伸の『相楽総三とその同志』(講談社文庫)より引用する。
「噂を聞いて近郷近在から、早朝に見物人が出て、大変な人出で、どれが謀反人の大将だと聞くものが多い。祭のとき同様の人出が引きつづいた。そういうときによくある奴だが、他人のうしろに隠れる場所を見つけておいて、石を投げつけ、首を引ッこめる、そういった奴がかなりあった。(中略)きのうからの雨叩きで、縄がきりきりと皮肉に食いこみ、二の腕も手首も胴も、縄のかかっている処は千切れるように痛いのを紛らすためだろう、大きな声で付添っている役人を口を極めて罵る人もあった、どういう原因で押えたのだそれを聞かせてくれ、と絶叫してばかりいる人もある。岩倉を出せ参謀をここに連れてこい、と声を顫わしていっている人もある。悲愴な混乱が渦を巻いているといった有様だった。そういう中でたッた一人、相楽総三だけは一言も発しないで、どろどろの土の上にきちんと坐って、両眼を閉じ、身動き一ツしずにいた。あまり同志のものが猛り立ったり怒鳴ったり、騒々しさがひどくなると、眼をちょっと開けて、あまり見苦しい様子はよせといって微笑したような顔をして、すぐ又元のとおり、瞑目して無言の端坐をつづけた。さすがにこれを見ると、判らずやの群集も感にうたれ、ひッそりとして、悪人でも親分は違うと、歎息の声がそこら中で起った」
そして諏訪大社から相楽を含む八人の幹部が下諏訪の友之町磔田というところへ引き立てられていった。
そこで相楽たち八人が斬首されるのである。
その八人は次の通り。
大木四郎、金田源一郎、小松三郎、竹貫三郎、渋谷総司、西村謹吾、高山健彦、相楽総三
不測の事態を避けるために多くの兵士が周りを取り囲んで磔田まで同行して行った。
そして現地に着くと、刑を執行する前に受刑者に罪状を見せつけた。
罪状を示す条文は次の通り(多少読みやすく修正した)。
「右の者、御一新の時節に乗じ、勅命と偽り官軍先鋒嚮導隊と唱え総督府を欺き奉り、勝手に進退致し、あまつさえ諸藩へ応接に及び、あるいは良民を動かし、莫大の金を貪り種々の悪行を働き、その罪数えるいとまあらず、このまま打ち捨て置いてはいよいよもって大変を醸し、その勢い制すべからざるに至る。よってこれを誅戮し道に梟首し、あまねく諸民にしらしむるものなり」
これは相楽に対しての宣告文。
残りの七人には別の宣告文があるが概ね似たような内容なのでそれは割愛する。
以下、再度『相楽総三とその同志』より引用する。
「判決文を相楽等八名に見せた、読み聞かせたのではない。相楽を除く七名は恐ろしい形相に変って批難し、果ては毒づいたが、相楽は口が苦くてたまらないように、声なく笑った。辞世を残す気の人もあったが、筆も紙もやらないから、一ツとして残されていない、吟じた人もあったそうだが、聞流しにされてしまった。(中略)最後の八人目は相楽だ、相楽は同志の最期をじッと見つめていた。多分、見苦しい最期をするものがありはせぬかと、気づかっていたのだろう、自分の死のことなどは忘れてである。相楽はやがて死の座に直った、雨はまだやまない。相楽は、皇居を遥拝し、静かに太刀取を顧みて「しッかりやれよ」といった。(中略)やがて、一声とともに刀をふり下した。今度は見事にいって相楽の首が三尺ばかり飛んで、雨が叩く小さな紋が数限りなく立つ地面へ、音を立てて落ち、泥をがばッと四方に飛ばした」
この文中、辞世の句は残っていないように書かれているが、実のところ相楽の辞世の句は残っている。
思ふことひとつもならて死にもせハ あしく神と也てたたらん
(意訳:思うことの一つも成らずに死ぬのであれば 悪神となって祟ってやる)
この二日後、追分の刑場において、御影陣屋に捕まっていた桜井常五郎、小林六郎、中山仲の三人が同じく斬首された。
罪状の条文は下諏訪で処刑された相楽たちとほぼ同じだったが、この地元の佐久で処刑された桜井の条文には「元百姓、常作こと桜井常五郎」と、ことさら百姓の身分であることが強調されていたという。
他の隊員たちは片鬢(片方の髪の毛)片眉を剃り落として晒し刑に処したのちに追放となった者が二十人ほど、単なる追放刑で済んだ者が四十人ほど、というかたちで全員処罰された。
ちなみに上田藩兵に捕まって牢屋へ入れられていた丸山梅夫は、それがかえって幸いし、特に罰も受けずこのあと九月に釈放された。
また甲府勤番の息子で八王子から逃げ帰った神田湊は片鬢片眉を剃り落とされた組の者だが『相楽総三とその同志』によると、五人の仲間たちと下諏訪から這う這うの体で逃げ出して甲州へ向かい、そこから釜無川(富士川)を南下して東海道の蒲原へ出た。神田の筆記談話によると「その道中姿というものは実に道楽寺和尚の夜逃げそのままで可笑しかった」とある。それから江戸へ出ると五人とも会津藩士に捕まって会津屋敷の牢屋へ入れられ、拷問・吟味にかけられた。「会津藩士たちは我々を間者だと疑って承知しない。面倒臭いので胡乱だと思うなら五人とも首を刎ねるがよろしいと云ったが、殺しもしない」。そのあと旧幕府の町奉行に引き取られて伝馬町の牢へ移り、そこで五人とも牢名主になって威張っていたが、五人のうち三人は牢死し、翌明治二年三月「何だか判らないが、無罪だといって牢から出された」ということで神田ともう一人は釈放された。そのあと彼がどうなったかは定かでない。
なぜ相楽たちは殺されたのだろうか。
その理由は、あまりにもたくさんあり過ぎて、どれか一つに絞ることは難しい。
少なくとも「新政府が年貢半減令の責任を相楽一人におっかぶせるために謀殺したのだ」というのは、あまりにも一面的な見方である。
それも一つの理由だったかも知れない。
「この際だから、年貢半減令を撤回するにあたっては、すべて相楽に責任を押しつけてしまおう」
そういった口実として利用されたという側面もあったであろう。しかし年貢半減令の撤回は新政府にとってそれほど難しい問題ではなく、中国地方で出した年貢半減令はそんな口実抜きであっさりと撤回している。
理由は他にいくらでもある。
二つ目として挙げれば、単純に「軍規違反」という理由がある。軍規とはそれぐらい厳しいものだ。一つの部隊に勝手なことをやられて勝敗を左右されては上層部としても、また命がけで戦っている他の兵士たちにとっても、たまったものではない。
三つ目。諸藩との関係を重視した、ということ。新政府は諸藩を潰す気はない。当面は諸藩の協力が必要なのだ。「廃藩置県」の実行には、まだ四年もかかる。嚮導隊は中山道の諸藩との関係が悪く、諸藩もまた草莽の隊である嚮導隊を嫌っていた。
四つ目。その上で嚮導隊は小諸藩などと「追分戦争」に至ってしまった。非がどちらにあるか、ということはさておき、この事件を新政府は看過することができなかった。諸藩に対して戦争責任を追及することはできない。よって、その矛先は嚮導隊に向けるしかなかった。
五つ目。その「追分戦争」を引き起こした責任の一端は、東山道軍総督府にもあった。諸藩へ「嚮導隊を捕縛せよ」と命じたのは総督府であり、しかも直後にその命令を撤回している。こういった矛盾した命令を出した責任の所在を追及されては、総督府が困ることになる。それで相楽たちを闇へ葬り去った、という可能性もある。
六つ目。これはかなり重要だが、相楽たちが「攘夷」を信奉しており、「横浜焼き討ち」を狙っていたということ。このころ上方では神戸事件、堺事件、パークス襲撃事件といった攘夷事件が頻発しており、これらの事件への対応によって、逆に新政府は明確に「開国」を諸外国や国民に対して宣言した。新政府からすれば攘夷を信奉する相楽たちは邪魔者なのである。
パークス襲撃事件を最後に、以後、外国人を狙った殺傷事件は影をひそめるようになるものの、のちに金輪五郎たちが大村益次郎を襲撃し、横井小楠も「欧化主義者」として暗殺されるなど、攘夷派や国学者たちによる「欧化主義への反対」はこの後もしばらくつづくことになる。
島崎藤村の『夜明け前』にそのことが端的に描かれており、平田門人であった主人公の青山半蔵は、王政復古が成ったあとは古代の日本の姿に戻ると信じていたのに、明治政府は欧化政策を推し進め、半蔵はその明治日本の姿を見て絶望し、狂い死にするのである。半蔵のモデルである藤村の父も、同じようにして死んだらしい。
七つ目。根本的にはこれが一番の原因だったであろう。相楽たちが「武力を持った自由な草莽だったから」ということである。簡潔に言えば「民の力」を恐れたのだ。
幕府を倒すためには有効だった「民の力」が、新政府へ向けられては困る、ということだ。相楽自身にその思想がそれほどあったとは思えないが、相楽たちの動きをそのまま放っておけば、いずれ農民一揆などにもつながって、西洋や中国でいうところの「革命」になってしまうかもしれない。明治維新はそういったかたちの「革命」ではない。薩長が幕府に代わって新たな「秩序」を作り出すためにやった戦いなのだ。
もし「革命」であったなら、このあと徳川家の家名など残すはずがないではないか。
そこまでやったら「秩序」を壊しすぎるから、やらなかったのだ。
そして相楽は自由な草莽であり、武力も持っている。その力によって幕府を倒すのに貢献した。相楽になまじ力があったからこそ、新政府はそれを恐れたのだ。権力を握った側からすれば「腕っぷしが強くて何をしでかすか分からない連中」ほど怖いものはない。長州の奇兵隊も草莽の一種と言えるだろうが、「狡兎死して走狗烹らる、飛鳥尽きて良弓蔵る」ということわざの通り、この二年後、相楽たちと同じ運命をたどることになる。
そしてそういった自由な草莽たちは、のちに自由民権運動の方向へと進むことになる。ただし、この自由民権運動は現代の日本人が考えているような甘っちょろい代物ではない。「平等を目指す左翼リベラリストは人権重視の平和主義者に決まっている」などという発想は戦後日本にしかない奇形な左翼思想である。本来、左翼思想とは過激なものだ。尊王攘夷が「一君万民」にもつながっているように、自由民権運動家も「征韓論」的な発想の対外強硬派が多く、過激な説を唱える者が多かったのである。のちの板垣退助の「自由党」がその典型と言えるだろう。
さて、相楽の死の少しあと、京都で落合、権田、科野の三人が相楽たち同志の死を知って憤激した。そして彼らを刑死させた首謀者と目された岩倉具視を暗殺しようとした。
その暗殺計画の噂を聞きつけた岩倉は、三人を呼び出して話し合いにおよんだ。
岩倉は「私は、朝廷と国家を思う赤心は誰にも負けないつもりである。嚮導隊を処分した理由はこれから述べる。それを聞いても私が国家のためにならないと思ったら、その時は私を斬れ」と言ってこんこんと説諭した。それで三人も涙をのんで岩倉の言うことを受けいれた。
江戸に住んでいた相楽の妻・照のところには相楽の血まみれの遺髪が届けられた。そして照は夫のあとを追い、短剣でのどを突いて自害した。
遺された長男の河次郎にはのちに木村亀太郎という息子が生まれ、この亀太郎が祖父・相楽総三の雪冤を訴えて奔走することになる。その様子は『相楽総三とその同志』の冒頭で描かれている。その甲斐あって昭和三年、相楽たちは国から贈位され、名誉回復がなされた。
また、相楽のことを顕彰する動き自体は明治の早い段階からなされており、明治三年、下諏訪に「魁塚(相楽塚)」が建てられた。これは落合、権田、丸山といった相楽の同志たち、さらに飯田の松尾多勢子など信州の平田門人たちが協力して建てた石碑である。
二月八日に召喚状が出てから十日も経っている。どんな事情があったにせよ、相楽に対する東山道軍幹部の心証はきわめて悪い。
ただしこの幹部たちも、自分たちが信州諸藩へ出した通達によって追分で戦争が起きているとはまったく想像していない。それで、とりあえず「これから嚮導隊をどのように扱うべきか」ということについて普通に相楽と話し合った。
話し合いの結果、相楽は一定の成果を勝ち取った。
まず二月十日に出された“偽官軍”の通達を取り消させた。
そして嚮導隊は薩摩藩付属の正式な部隊として認められ、関東探索の命令を受けた。つまり脱走兵の扱いではなくなったのだ。
相楽の主張を理解して、朝令暮改の批判もおそれず自らの姿勢を改めたのか、それとも相楽を油断させるための策略だったのか、その点は不明である。
多少遅きに失した感は否めないものの、相楽はひとまず一定の成果を得たことに満足して大垣を出発。二十三日に下諏訪の嚮導隊本部へ戻ってきた。
戻ると、この有り様である。
追分戦争の結果、死傷者が続出。しかも今もって多くの隊士が小諸、岩村田、安中の各藩、および御影陣屋に拘束されている。さながら隊の半分が消滅した格好だ。
相楽は驚愕し、そして悲憤した。
すぐに東山道軍総督府へ手紙を書き、その中で信州諸藩の不法を非難して同志の釈放を訴えた。
この間、総督府側も相楽に対して理解を示す姿勢を見せ、ふたたび隊を正式に薩摩藩の付属として認めるという「約定書」を相楽へ送り、そのうえで「粉骨砕身してご奉公せよ。金穀は総督府から十分届けるので安心せよ」とも書いて送った。これについて長谷川伸は「殺す前に舐めさせたアメの感がある」と書いている。
それでも相楽は同志の釈放手続きが進んでいないのを憂い、引きつづき総督府へ嘆願書を送りつづけた。
やがて岩倉総督が率いる東山道軍本隊が下諏訪へやって来るという連絡が相楽のところに届き、相楽の隊は一里半ほど東にある樋橋へ陣を移して下諏訪の本陣を本隊に明け渡した。
このころ相楽は、前年の暮れからひっきりなしに続く激務と心労によって体を壊し、酷い風邪にかかって寝込んでいた。
しかし三月一日、岩村田藩などに拘束されていた西村たちがようやく総督府からの指示によって解放され、相楽のところへ戻ってきた。仲間と再会できて相楽は大いに喜んだ。
同じ日、下諏訪の総督府から相楽に「本陣へ出頭せよ」との連絡が届いた。
本陣で軍議でもあるのだろう、と思って大木四郎一人を連れて、この前まで住んでいた本陣亀屋に出頭した。
たちまち大勢に取り囲まれて二人は捕縛された。
同様に、樋橋に残っていた他の隊員たちも次々と少人数に分けて呼び出され、ことごとく総督府の兵士たちによって捕縛されていった。総計およそ六十人が捕縛され、諸藩の牢屋から解放されたばかりの西村たちも再び囚われの身となった。
だまし討ちと言っていいやり方である。水野弥太郎の時もそうであったように。
そしてこのような悪辣な手法を取った理由も弥太郎の時と同じで、総督府のもくろみがバレれば武装反乱されるに違いない、と恐れたからである。
三月二日、相楽たちは諏訪大社の明神並木に縛りつけられて一日中、放置された。
冷たい雨が降るなか、食事も一切与えられない。
そして運命の三月三日を迎えた。
この日も雨が降ふりつづき、凍えるように寒い朝だったという。そして八年前の桜田門と同様、めでたい節句の日にふさわしからぬ、血なまぐさい惨劇の記念日となる。
この日、下諏訪の町民たちもたくさん見物に来ており、その様子を当時子どもだった岩波太左衛門がのちに談話筆記で残している。以下、長谷川伸の『相楽総三とその同志』(講談社文庫)より引用する。
「噂を聞いて近郷近在から、早朝に見物人が出て、大変な人出で、どれが謀反人の大将だと聞くものが多い。祭のとき同様の人出が引きつづいた。そういうときによくある奴だが、他人のうしろに隠れる場所を見つけておいて、石を投げつけ、首を引ッこめる、そういった奴がかなりあった。(中略)きのうからの雨叩きで、縄がきりきりと皮肉に食いこみ、二の腕も手首も胴も、縄のかかっている処は千切れるように痛いのを紛らすためだろう、大きな声で付添っている役人を口を極めて罵る人もあった、どういう原因で押えたのだそれを聞かせてくれ、と絶叫してばかりいる人もある。岩倉を出せ参謀をここに連れてこい、と声を顫わしていっている人もある。悲愴な混乱が渦を巻いているといった有様だった。そういう中でたッた一人、相楽総三だけは一言も発しないで、どろどろの土の上にきちんと坐って、両眼を閉じ、身動き一ツしずにいた。あまり同志のものが猛り立ったり怒鳴ったり、騒々しさがひどくなると、眼をちょっと開けて、あまり見苦しい様子はよせといって微笑したような顔をして、すぐ又元のとおり、瞑目して無言の端坐をつづけた。さすがにこれを見ると、判らずやの群集も感にうたれ、ひッそりとして、悪人でも親分は違うと、歎息の声がそこら中で起った」
そして諏訪大社から相楽を含む八人の幹部が下諏訪の友之町磔田というところへ引き立てられていった。
そこで相楽たち八人が斬首されるのである。
その八人は次の通り。
大木四郎、金田源一郎、小松三郎、竹貫三郎、渋谷総司、西村謹吾、高山健彦、相楽総三
不測の事態を避けるために多くの兵士が周りを取り囲んで磔田まで同行して行った。
そして現地に着くと、刑を執行する前に受刑者に罪状を見せつけた。
罪状を示す条文は次の通り(多少読みやすく修正した)。
「右の者、御一新の時節に乗じ、勅命と偽り官軍先鋒嚮導隊と唱え総督府を欺き奉り、勝手に進退致し、あまつさえ諸藩へ応接に及び、あるいは良民を動かし、莫大の金を貪り種々の悪行を働き、その罪数えるいとまあらず、このまま打ち捨て置いてはいよいよもって大変を醸し、その勢い制すべからざるに至る。よってこれを誅戮し道に梟首し、あまねく諸民にしらしむるものなり」
これは相楽に対しての宣告文。
残りの七人には別の宣告文があるが概ね似たような内容なのでそれは割愛する。
以下、再度『相楽総三とその同志』より引用する。
「判決文を相楽等八名に見せた、読み聞かせたのではない。相楽を除く七名は恐ろしい形相に変って批難し、果ては毒づいたが、相楽は口が苦くてたまらないように、声なく笑った。辞世を残す気の人もあったが、筆も紙もやらないから、一ツとして残されていない、吟じた人もあったそうだが、聞流しにされてしまった。(中略)最後の八人目は相楽だ、相楽は同志の最期をじッと見つめていた。多分、見苦しい最期をするものがありはせぬかと、気づかっていたのだろう、自分の死のことなどは忘れてである。相楽はやがて死の座に直った、雨はまだやまない。相楽は、皇居を遥拝し、静かに太刀取を顧みて「しッかりやれよ」といった。(中略)やがて、一声とともに刀をふり下した。今度は見事にいって相楽の首が三尺ばかり飛んで、雨が叩く小さな紋が数限りなく立つ地面へ、音を立てて落ち、泥をがばッと四方に飛ばした」
この文中、辞世の句は残っていないように書かれているが、実のところ相楽の辞世の句は残っている。
思ふことひとつもならて死にもせハ あしく神と也てたたらん
(意訳:思うことの一つも成らずに死ぬのであれば 悪神となって祟ってやる)
この二日後、追分の刑場において、御影陣屋に捕まっていた桜井常五郎、小林六郎、中山仲の三人が同じく斬首された。
罪状の条文は下諏訪で処刑された相楽たちとほぼ同じだったが、この地元の佐久で処刑された桜井の条文には「元百姓、常作こと桜井常五郎」と、ことさら百姓の身分であることが強調されていたという。
他の隊員たちは片鬢(片方の髪の毛)片眉を剃り落として晒し刑に処したのちに追放となった者が二十人ほど、単なる追放刑で済んだ者が四十人ほど、というかたちで全員処罰された。
ちなみに上田藩兵に捕まって牢屋へ入れられていた丸山梅夫は、それがかえって幸いし、特に罰も受けずこのあと九月に釈放された。
また甲府勤番の息子で八王子から逃げ帰った神田湊は片鬢片眉を剃り落とされた組の者だが『相楽総三とその同志』によると、五人の仲間たちと下諏訪から這う這うの体で逃げ出して甲州へ向かい、そこから釜無川(富士川)を南下して東海道の蒲原へ出た。神田の筆記談話によると「その道中姿というものは実に道楽寺和尚の夜逃げそのままで可笑しかった」とある。それから江戸へ出ると五人とも会津藩士に捕まって会津屋敷の牢屋へ入れられ、拷問・吟味にかけられた。「会津藩士たちは我々を間者だと疑って承知しない。面倒臭いので胡乱だと思うなら五人とも首を刎ねるがよろしいと云ったが、殺しもしない」。そのあと旧幕府の町奉行に引き取られて伝馬町の牢へ移り、そこで五人とも牢名主になって威張っていたが、五人のうち三人は牢死し、翌明治二年三月「何だか判らないが、無罪だといって牢から出された」ということで神田ともう一人は釈放された。そのあと彼がどうなったかは定かでない。
なぜ相楽たちは殺されたのだろうか。
その理由は、あまりにもたくさんあり過ぎて、どれか一つに絞ることは難しい。
少なくとも「新政府が年貢半減令の責任を相楽一人におっかぶせるために謀殺したのだ」というのは、あまりにも一面的な見方である。
それも一つの理由だったかも知れない。
「この際だから、年貢半減令を撤回するにあたっては、すべて相楽に責任を押しつけてしまおう」
そういった口実として利用されたという側面もあったであろう。しかし年貢半減令の撤回は新政府にとってそれほど難しい問題ではなく、中国地方で出した年貢半減令はそんな口実抜きであっさりと撤回している。
理由は他にいくらでもある。
二つ目として挙げれば、単純に「軍規違反」という理由がある。軍規とはそれぐらい厳しいものだ。一つの部隊に勝手なことをやられて勝敗を左右されては上層部としても、また命がけで戦っている他の兵士たちにとっても、たまったものではない。
三つ目。諸藩との関係を重視した、ということ。新政府は諸藩を潰す気はない。当面は諸藩の協力が必要なのだ。「廃藩置県」の実行には、まだ四年もかかる。嚮導隊は中山道の諸藩との関係が悪く、諸藩もまた草莽の隊である嚮導隊を嫌っていた。
四つ目。その上で嚮導隊は小諸藩などと「追分戦争」に至ってしまった。非がどちらにあるか、ということはさておき、この事件を新政府は看過することができなかった。諸藩に対して戦争責任を追及することはできない。よって、その矛先は嚮導隊に向けるしかなかった。
五つ目。その「追分戦争」を引き起こした責任の一端は、東山道軍総督府にもあった。諸藩へ「嚮導隊を捕縛せよ」と命じたのは総督府であり、しかも直後にその命令を撤回している。こういった矛盾した命令を出した責任の所在を追及されては、総督府が困ることになる。それで相楽たちを闇へ葬り去った、という可能性もある。
六つ目。これはかなり重要だが、相楽たちが「攘夷」を信奉しており、「横浜焼き討ち」を狙っていたということ。このころ上方では神戸事件、堺事件、パークス襲撃事件といった攘夷事件が頻発しており、これらの事件への対応によって、逆に新政府は明確に「開国」を諸外国や国民に対して宣言した。新政府からすれば攘夷を信奉する相楽たちは邪魔者なのである。
パークス襲撃事件を最後に、以後、外国人を狙った殺傷事件は影をひそめるようになるものの、のちに金輪五郎たちが大村益次郎を襲撃し、横井小楠も「欧化主義者」として暗殺されるなど、攘夷派や国学者たちによる「欧化主義への反対」はこの後もしばらくつづくことになる。
島崎藤村の『夜明け前』にそのことが端的に描かれており、平田門人であった主人公の青山半蔵は、王政復古が成ったあとは古代の日本の姿に戻ると信じていたのに、明治政府は欧化政策を推し進め、半蔵はその明治日本の姿を見て絶望し、狂い死にするのである。半蔵のモデルである藤村の父も、同じようにして死んだらしい。
七つ目。根本的にはこれが一番の原因だったであろう。相楽たちが「武力を持った自由な草莽だったから」ということである。簡潔に言えば「民の力」を恐れたのだ。
幕府を倒すためには有効だった「民の力」が、新政府へ向けられては困る、ということだ。相楽自身にその思想がそれほどあったとは思えないが、相楽たちの動きをそのまま放っておけば、いずれ農民一揆などにもつながって、西洋や中国でいうところの「革命」になってしまうかもしれない。明治維新はそういったかたちの「革命」ではない。薩長が幕府に代わって新たな「秩序」を作り出すためにやった戦いなのだ。
もし「革命」であったなら、このあと徳川家の家名など残すはずがないではないか。
そこまでやったら「秩序」を壊しすぎるから、やらなかったのだ。
そして相楽は自由な草莽であり、武力も持っている。その力によって幕府を倒すのに貢献した。相楽になまじ力があったからこそ、新政府はそれを恐れたのだ。権力を握った側からすれば「腕っぷしが強くて何をしでかすか分からない連中」ほど怖いものはない。長州の奇兵隊も草莽の一種と言えるだろうが、「狡兎死して走狗烹らる、飛鳥尽きて良弓蔵る」ということわざの通り、この二年後、相楽たちと同じ運命をたどることになる。
そしてそういった自由な草莽たちは、のちに自由民権運動の方向へと進むことになる。ただし、この自由民権運動は現代の日本人が考えているような甘っちょろい代物ではない。「平等を目指す左翼リベラリストは人権重視の平和主義者に決まっている」などという発想は戦後日本にしかない奇形な左翼思想である。本来、左翼思想とは過激なものだ。尊王攘夷が「一君万民」にもつながっているように、自由民権運動家も「征韓論」的な発想の対外強硬派が多く、過激な説を唱える者が多かったのである。のちの板垣退助の「自由党」がその典型と言えるだろう。
さて、相楽の死の少しあと、京都で落合、権田、科野の三人が相楽たち同志の死を知って憤激した。そして彼らを刑死させた首謀者と目された岩倉具視を暗殺しようとした。
その暗殺計画の噂を聞きつけた岩倉は、三人を呼び出して話し合いにおよんだ。
岩倉は「私は、朝廷と国家を思う赤心は誰にも負けないつもりである。嚮導隊を処分した理由はこれから述べる。それを聞いても私が国家のためにならないと思ったら、その時は私を斬れ」と言ってこんこんと説諭した。それで三人も涙をのんで岩倉の言うことを受けいれた。
江戸に住んでいた相楽の妻・照のところには相楽の血まみれの遺髪が届けられた。そして照は夫のあとを追い、短剣でのどを突いて自害した。
遺された長男の河次郎にはのちに木村亀太郎という息子が生まれ、この亀太郎が祖父・相楽総三の雪冤を訴えて奔走することになる。その様子は『相楽総三とその同志』の冒頭で描かれている。その甲斐あって昭和三年、相楽たちは国から贈位され、名誉回復がなされた。
また、相楽のことを顕彰する動き自体は明治の早い段階からなされており、明治三年、下諏訪に「魁塚(相楽塚)」が建てられた。これは落合、権田、丸山といった相楽の同志たち、さらに飯田の松尾多勢子など信州の平田門人たちが協力して建てた石碑である。
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