さよなら私の鋼の獣

種田遠雷

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02、ルスラン・ネイハウス

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 総長選には、新聞が報じる以上の目新しいニュースもなく、ナンバー2辺りが順当に後を継ぐといったところらしい。
 そんな問答を、この男と続けたところで意味がない。
 青い目が伏せ、息をついて、ネイハウスは初めて椅子の背もたれを使った。
 テーブルの上に置かれていた両手は引き寄せられ、ゆるく指を組み合わせる下の、腹は平らで、硬そうに見える。
「なれば国のために力を尽くす。今と、これまでと同じように」
 ほほう、と、相槌を打つ。
 マフィアというより、カルドゥワ国の守護者だろうか。なるほど、軍人として正しい大義だ。
「例えば?」
「例えば、とは?」
 再び上がってこちらに向けられる目は、据わってはいるが、拒絶と警戒の色が薄くなったように感じる。希望的観測だろうか。
「どんな課題があるとお考えですか?」
 ネイハウスの目が、少し細められる。
「あと10分では答えきれないほどある」
「えっ」
 慌てて腕時計に目をやって、驚く。
「よく正確な時間が分かりますね」
 彼はずっと自分を見ていた。意識はしていなかったが、自分もずっとネイハウスを見ていたはずだ。時計を確認してはいないはず。
 几帳面だとそうなるのか、と、感心するところに、無表情に顎で示され、後ろを振り返る。
「えっ!? あッ!」
 この部屋に入ってきた時に、そういえば確かに見ていたのに、自分の腕時計があるからと意識から締め出してしまっていたのだ。
 自分の後ろには、比較的大きな置き時計が飾られていた。
 間抜けすぎる、と、普段よりもことさら、この男の前では目立つような自分の愚かさにガッカリして。
 けれど、あと8分しかない。
「答えきれないほどの課題の、何から手を着けますか?」
 質問が、ついつい早口になってしまう。
「経済」
「打開策がおありですか? 経済の次は?」
「考えていることはある。その次は、いくつかを同時に取り組むべきだ」
「即答だな…!」
 その経済政策の失敗で、現職の行政総長が再選を逃しそうな時だというのに。思わず目を丸くし。
「愛国心のある者なら、誰もが毎日考えているだろう。結果がどう出るかは別の問題だ」
 愛国心、という言葉に、ふいにストンと腑に落ちた気がした。
 自分の生まれ育ったグネイデン国では、もはや死語になりつつある。
「夕食をご一緒できませんか?」
 その、自分にとってクラシックな言葉について話そうとしたのに、言葉が先に方向を変えた。
「ハ?」
 呆れ返ったようなその一音に同感だが、これだけは、自分の方が理解が早い。
「あなたの話をもっと聞きたい」
 ネイハウスの形の良い眉が、両方同時に上がる。
 馬鹿馬鹿しいといわんばかりの表情は、先ほどまでの鉄壁よりも好ましい。
「どこの馬の骨かも知れない外国人の記者と、食事をしながら談笑するとでも?」
「ええ。知り合う前は誰でも何者だか知れないでしょう」
「言葉遊びだな」
「録音もしません。メモもペンもどこかへ置いてきます」
「いい考えだ」
「お望みでしたら裸になったっていい」
「私が呼ばなくとも警察がくるだろうな」
「その後はどこかで一杯やりましょう。こう見えても、グネイデンの人間にしては飲める方ですよ」
「酒は飲まない」
「えっ! それは、珍しいですね?」
「そうだな」
「酒で失敗したことが?」
「いいや。酔っ払っている時間がもったいない」
「俺の上司はムカつく男でしたが、休養も効率のための職務だと言っていたのには賛成です」
「アルコールを摂取しない方が睡眠の質は上がる」
「ベッドを、眠るためにしか使わない?」
 時間がない。だが、焦り過ぎだ。
 それは解っている。
 だが、この男に回りくどい口説き文句など通用しないのではないだろうか。
 ただの勘だ。だけど、彼に比べてカードがあまりにも少ない。
「30分だ」
「クソッ!」
 思わず、拳を握って机に突っ伏す。
 勝てるはずがない。見たところ、年だけでも自分と十以上差があるのではないだろうか。ルスラン・ネイハウス書記官、次第に蘇ってくる記憶も、彼に注目したことがなかったせいで曖昧なばかりだ。
 リン、と、短いベルの音に、時間切れかと消沈する頭を、うん?とひねる。
 時間切れのベルなど設置していない。
「酒を。一杯でいい」
 個室の扉を開いて現れたボーイに、ネイハウスが注文している。
 そうだ、今のはりんの音だ、ということは、辛うじて理解できるが。
 コーヒーよりも短い時間で一杯のグラスが運ばれてきて、二人ともカップに手を着けていなかったことに気づく。
 酒を飲まないといったその場で注文された酒は、どんなロジックなのかと、冷めたコーヒーを啜りながらネイハウスを眺め、その動きに、目を丸くしてしまう。
 種も仕掛けもありませんとばかりの、透明なグラスに注がれた琥珀の酒。
 そこへ、ジャケットの胸を少し緩めて、内ポケットからつまみ出した何かを、ネイハウスが解く。
 畳んだ紙だったようだと見守る先、グラスの上で傾けられる紙片からサラサラと粉状のものが落ち、酒に溶けて、瞬く間に消える。
 なるほど薬を包む油紙、と、納得しかけたところで、テーブルクロスの上を滑らせるようにグラスを差し出されて、身動きが取れなくなる。
 意味が解らない。
 いや。
 他には考えられない。だが。
 まさか。そんな馬鹿な。
「グネイデンの人間にしては飲める方なんだろう?」
 カップを置くのも忘れて、絶句したままでいる。
 一瞬の間に、いくつもの選択肢が思い浮かぶ。だが、そのどれを選ばせたいのかは、今、彼が親切に教えてくれた。
 罠だ。
 有り得ない。どこの馬の骨とも知れない外国人なのは、彼も同じだ。
 その上、カルドゥワではグネイデンよりも命の値段が安いのは、世界共通認識といっても過言じゃない。
 すぐに立ち上がって扉へ走れば、逃げられるだろうか。
 ネイハウスは職業軍人だった。数十年は従軍していただろう。義務兵役を務めただけの自分の脚で逃げ切れるか?
 だが、何故?
 聞いてはいけないことを聞いたのか? 直前に話していたのは何だった?
 酒を飲もうと誘ったのは自分の方だ。
 そう気づいて、顔を上げる。
 下心を明かし、時間切れで彼は答えず、だが、まだここにいる。
 ネイハウスがあからさまに頭越しに何かを見て、またこちらを見る。
 頭の後ろにあるのは、置き時計だ。
 ギャンブルは、好きでも嫌いでもない。
 だがもう、どうせ何も持っていない。
「――ッ、」
 はらを決めてカップを置き、グラスを握り締めて、一気にあおる。
 強い酒精に咽せそうになるのを意地で堪えて、音を立ててグラスを置き、表情の変わらぬネイハウスを睨みつけながら、拳の裏で口を拭った。
「俺は何を飲んだんだ?」
「もちろん、毒だ」
 それと酒だな。と、素っ気なく付け加えられるのに、腹が立つ。
「何の毒だ」
 ここにきて彼の顔に浮かぶ笑みに、凶暴な気持ちが湧いてくる。
「知っている者以外には明かせない」
 軍人上がりにしては優雅な仕草で、ようやく寛いだように脚を組み上げ、ネイハウスがカップを口に運ぶ。あいにく冷めてしまっている。
 その温度を知っている。
 それが、微かな笑みをたたえた唇にも冷たいだろうと想像して、ぞくりと背筋が震える。
「なんで、」
 無茶苦茶にしてやりたい。
 立ち上がろうとして、目が回ったところまでは覚えている。
 実際のところ、無茶苦茶にされているのは、明らかに自分の方だった。
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