アモル・エクス・マキナ

種田遠雷

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春巻(4)

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 友人相手だったら、まさかの無視? とでも言っていたところだ。
「僕の背後に食器棚があり、また揺れがあった場合に、食器や調理器具が落下する可能性が考えられます」
「おまっ、」
 一瞬、言葉を失った。イグニスの姿勢を屋根や壁みたいだと思ってはいたが、文字通り盾になっていたのだ。
「馬鹿言うなお前……。食器棚なんか普通に地震検知でロックが掛かってるよ。さっきも開かなかっただろ」
「食器棚は開いていませんが、ドリンクマシンが落下しました。それに、開きませんでしたが、さきほどの揺れで開かなかったとしても、次は保たない可能性もあります」
 これも初めて見る気がする頑固さにも驚くが、げえ、と思わず声を上げてしまう。
「あのクソ重いドリンクマシンが落ちたのかよ。どっか飛んでったのか?」
 はい、と返事をしてからイグニスが後ろを振り返る。数秒顔を動かし。
「見つけました。背中に当たってパントリーの出入り口まで転がってしまったようです」
「背中? なんの背中だ?」
 背中と表現するような家具家電をとっさには思いつかず。
「僕の背中です」
「え、はッ!? アレが背中に飛んで来たのか!?」
 小型の全自動調理器とでも呼べそうなドリンクマシンは、重量機械を扱い慣れた自分でも、持ち上げるのはうんざりするような重さだ。
「ばっ、見せろ、おま、骨折れたんじゃねえのか、」
 ゾッとしながら、調理台に両手をついて動く気配のない肩を掴む。
「かすめた程度です。破損した箇所が数箇所ありますが、いずれにせよ現在は対処できません」
「なっ、……お前、」
 いいから見せろ、と強く命じて、渋々といった様子で動くイグニスから手を離し、額を押さえる。
「機械室が使えなくても収納に工具がある。応急処置くらい俺がやる」
「いいえ、灯りのない建物内を歩き回らないでください。それに、床の水平が保たれていない可能性があります」
「傾いて、」
 向けられたイグニスの背を目にして、言葉が出てこなくなった。
 背中の布地が斜めに裂けて、そこがうっすらと黒くなっている気がする。灯りが足らず確かではないが、深くえぐったような変形も見られる。だがそれよりも、そこから下がかなりの広さに濡れている。
 ドリンクマシンの残液や機械油にしては、多すぎる。
 手を触れて、そのあたたかさに鳥肌が立った。
 これが人間の背だったら、この液体は赤いのではないだろうか。
「ぬれてる、」
「はい。人工皮膚とその下の複合材まで裂けた箇所があり、冷却液が漏出しています。基幹ユニットが高温になる可能性があるため、あまり手を触れないようにご注意ください」
「ッのバカ!! 今すぐ電源切れ何やってんだ!」
 震えそうになる声を怒鳴って誤魔化しているようだと、頭のどこか遠い、変なところで何かがつぶやいている。
 身体の方を手から離して避けるよう、イグニスが向き直った。
「もう少し待ってください。玄関の扉を開けられそうです」
「そんな場合か!」
「万理の脱出経路が優先されます。玄関扉のエラーの原因は、おそらくフレームの歪みです。それほど大きく歪んではいませんので、こじ開けます。清掃システムと自動除草機の両方が大きく損壊する可能性がありますが、実行してもいいですか」
「駄目に決まってんだろうが。お前自身のシステムで言うこと聞けねえなら、強制停止コードを実行する」
 ボディなら、どこが折れようが裂けようが、失くしたところで作り直せばいい。だが、脳である基幹ユニットが焼き付けば、イグニスの本体と呼ぶべきデータが消え去る。
「もう少しお待ちください。玄関の扉を開けたら、システムを停止します」
 優先順位を決め、実行する命令コードが強いのだろう。大きく息をついた。
「最上位権限にてコードを発行する。対象はイグニス、プロジェクトH型003――」
「待ってください。万理、待ってください」
 次を言おうとした口が、項垂れる額を見てしまって、止まる。
 眉を寄せ、口角を強張らせながら唇を開く表情は、まるで祈るかのようで。
「データはバックアップがあります。万理がそうしようと思ってくださるなら、僕のボディはゼロからでも作り直せます。ですが、あなたは違う。万理が残れば僕を作ることもできます。ですが、逆はない」
 返す言葉に短く迷って、首を振った。
「俺の身体だって大した違いはない。腕でも足でも、首から下が全部なくなったって、金さえあれば今どき元に戻せる」
 金ならある。と、口にしながら、その一文のつまらなさに思わず鼻を鳴らし。
「脳は戻りません」
「……」
「脳そのものは復元できても、記憶や能力の完全な復元は保証されていません」
「それでも、」
「お願いします。あなたは僕の全てです。僕には万理以外なにも意味がない」
 ゾクリと、腕や背や、首の後ろに鳥肌が立つ。
 それは、どこまでも言葉通りの事実だ。
 自分を失ったイグニスの存在の、空虚さを想像すれば、寒気がするほど。
「早く仕事済ませて、さっさとシャットダウンしろ」
 片手で、だが深く頭を抱えた。
「万理」
 頭を抱える手に、手を重ねられたのが分かる。その手が、人間のようにあたたかくて腹の底が冷えた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。データはバックアップがありますので、このボディの基幹ユニットが復帰できなくても、記録が残ります」
「……そうだな。いつまでのバックアップだ、昨日の夜までの全部か?」
「はい。昨夜までのデータはほとんど全てです」
 ハ? と、何度目かの声が出て、顔を上げた。
「100%じゃないのか? 詳細は?」
 100%じゃないのか。その詳細は、と、口で言っているのと同じことしか考えられない。
「はい。データ量が膨大であるため、優先順位をつけ、調整しながらバックアップしていました」
「詳細は」
「疑似性格生成による性格パーソナリティデータは、一部バックアップされていません」
「詳細は」
「性格データについては、その48%がバックアップされています」
「……半分か」
 額を押さえ、そのまま両手で顔をこすった。
「52%の性格データが足りないとしたら、お前のボディと基幹ユニットを作り直してデータ移行した場合、何が想定されるんだ」
「プロジェクトの進行には問題無いと考えられます」
「問題のある部分を聞いてんだよ」
 声が暗く、棘すら含むことに、自分でうんざりする。
「性格データと疑似感情プログラムの相関において、現在の僕との誤差は10%を超えます。人間に例えることは正確とは言えませんが、例えるとすれば、よく似た別人と呼ぶべき状態かもしれません」
「……」
 血の気が引いて、身体が冷えていくのを感じる。
 イグニスと逆だと気づいて、それなら熱を受け取ってやれたらと、愚かな考えが浮かぶのがおかしい。
 大きく息をついて、顔を上げた。
「全破損の場合だな。いいから早くお前もシャットダウンしろ」
 何故、イグニスが微笑んでいるのか理解できない。
 今絶対に褒めていないし、なんなら怒りすら感じているのに。
「もう少しお待ちください。時間が掛かりそうです」
 言いかけて、大きく溜息をついて、やめた。
 作業の残り時間を計算させるのも嫌だ。リソースを使わせるたびに熱が発生する。
「万理」
「……なんだ」
「たとえ全ての記憶データが失われても、僕は万理のところへ戻ってきます」
 意味が分からず、半分はぽかんとして、半分は解ろうとして、その、不思議に柔らかな笑みを見つめる。この笑みを言い表す言葉を知っている気がするのに、頭のどこかに引っかかって出てこない。
「基幹ユニットからもHGB023本体からも、ブレインゲートに残っているわずかなデータまで全て消えても、新しく組み直して、また必ず万理の元へ戻ります」
 なんだそりゃ、と、苦笑いしながら髪を掻く。慰めているのだろう。
「たとえば全然お前じゃなくなった人工知能が現れても、俺はお前だって気づかねえよ」
 想像はできる。
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