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第32話 アネモネの花言葉

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 小川の水は澄んでいて、顔を洗うと冷たくて気持ちがよかった。僕が手を川面にいれると、小魚たちが岩かげにササッとかくれた。

「彼女からにげてばかりの僕みたいだ…。」

 僕はつぶやいて、大きくのびをした。
 川辺には草花が生い茂り、いくつかの花が咲いていた。
 昨夜はあまりよく眠れていなくて、僕は何度も顔を洗って眠気をさまそうとした。

 気になる花があるのに気づいた僕は、それをよく見ようとしたけど、眠れなかった原因が僕の背中にのっかってきた。

「店主殿、早いな。」

「ジェシカさん、おはよう。」

「もう、昨夜は店主殿、激しすぎたぞ。」


 彼女は結局、本当に僕に添い寝をした。
 さすがに服は着たままにしてもらったけど…。

 
 僕はあたりを見まわして、口に指をあてた。

「ジェシカさん、変なことを言わないでください! 誰かに聞かれたら本当だと思われますよ。」

「本当ではないか。昨夜のことをもう忘れたのか? 店主殿は何度もうしろから私を…いやん。」

「ジェシカさんは爆睡していたじゃないですか!」

 柔らかくて細い体が僕に密着して、いい香りもするし、僕は一晩中寝られるわけがなかった。
 今度はジェシカさんが口に指をあてて僕にウィンクをしてきた。

(店主殿。話をあわせて。監視されているぞ。)

(えっ!?)

(コナ姉さまとも遠話ができぬ。キリニワカリンめ、ずっと近くから魔法で妨害をしておるな。)

 ジェシカさんは恥ずかしげに顔を赤く染めると、僕にさらに密着してきた。

「昨夜は、まず私が店主殿の……そのあとは私たちはお互いを……次は私が上になって……続けて、立ったままうしろから……さいごはいっしょに……であったな!」

「ジェシカさん! お願いだからやめてください。」

 僕は聞くだけでめまいがして倒れそうになった。いや、本当に草むらに倒れてしまった。

「おや。大丈夫か? 店主殿、鼻血がでておるが。」

 ジェシカさんに助け起こされながら、僕はかたわらにある花に気がついた。

「ジェシカさん、この花…」

 僕は鼻を押さえながら言おうとしたけど、天地がひっくり返って全身に衝撃がはしった。体が動かなくて、真横には目をとじたジェシカさんが横たわっているのが見えた。


「ジェシカさん…。」

 僕はなんとか身を起こそうとしたけど、頭の中でお寺の鐘がなっているような感じだった。離れた場所にある背の高い草が動き、誰かが立ち上がるとこちらへゆっくりと歩いてきた。

 その人は全身迷彩柄の服を着ていて、頭も同じく迷彩柄のヘルメットでゴーグルをつけていた。

「ごめんね、葵。聞いてたら、つい全力で衝撃魔法を撃っちゃった。ちょっと待ってね。」

 桐庭さんの声がして、彼女がゴーグルを外すと大きくて長いまつ毛の目があらわになった。彼女は僕の真横にひざまずき、何か液体を飲ませてくれた。
 僕はすこしむせたけど、体がみるみる動くようになった。

「桐庭さん、その格好はなに?」

「それっぽいでしょ? それにしても魔法薬って便利ね。」

 桐庭さんは草地に正座すると、僕にひざまくらをした。

「念の為、しばらく動かないで。」 
 
 桐庭さんは熱をはかるみたいに僕のおでこに手をのせて、そのまま僕の髪をなではじめた。

「なつかしいな。小さい頃、よくこうやって遊んだよね、葵。」

「桐庭さん。もうやめてよ、こんなこと。」

「葵、まさか本当にしてないよね? あんなバカエルフと?」

 僕は答えずに顔を横に向けた。地面がえぐれて、くすぶっている草花の中でその花も倒れていた。

「僕、アネモネの花言葉を思い出したよ。」

「言ってみて?」

 そう言った桐庭さんは、急に体をこわばらせた。首筋に細剣の刃があてられていたからだった。

「私が代わりに言おう。見放された恋、見捨てられた恋、だ。」

「ジェシカさん!」

「死んだフリしてたの? バカエルフ、大きらい。」

 桐庭さんはふりかえりもせずに、僕の手首を強くつかんでひっぱり、自分の胸におしあてた。

「き、桐庭さん!?」

「昔みたいに、かりんって呼んでよ。」

 僕は手がこわばってしまい、力いっぱいひっぱりかえしたけど桐庭さんは離してくれなかった。

「あたし、けっこうあるでしょ? バカエルフと違って。」

「やめぬか、首を斬り落とすぞ。」

「いいのかなあ? お花の種がなくなっちゃうよ?」

 ジェシカさんは剣をおさめると、桐庭さんの胸ぐらをつかんで立たせた。

「貴様! 平和の種はどこだ。言え。」

「あいかわらず怒りっぽいエルフさんだなあ。ちなみにその花言葉、まちがってるよ。」

「ジェシカさん、手荒なことはやめてあげてください。」

 僕は、桐庭さんを締めあげようとするジェシカさんにとりすがったけど、彼女は露骨にいやそうな顔をした。

「店主殿はこんなやつをかばうのか。」

「だって…。」

「まさか、店主殿はこいつの言いなりになり、私や花屋を捨てて元の世界に戻りたいのか?」


(やくたたず!)

(葵、おまえの居場所なんかここにはないんだ!)


「それだけは…イヤだ!」

 僕の頭の中でまたあのことばが響き渡り、心に突き刺さった。僕は両耳をふさいで草むらにしゃがみこんでしまった。

「葵! 心配しないで。大丈夫、あたしが葵の居場所をつくってあげる! だから、戻ってきて!」

「ふざけるな。なにが居場所だ。貴様はそうやって店主殿を苦しめているだけではないか。」

 僕が顔をあげると、ジェシカさんと桐庭さんがすごい目つきでにらみあっていた。

「葵を苦しめているのはあんたでしょ? 葵を惑わせるこんな世界は、あたしがこわしてやる!」

「それが貴様の目的か。」

「あんたが言った花言葉はね、まちがってるよ。正しいのは、あなたを信じて待つ、よ。」

 ジェシカさんは剣に手をそえたけど、桐庭さんは落ち着いていた。僕は彼女の余裕ぶりが気になって、まわりを見まわした。


『王国騎士団のみなさーん! お願いしまーす!』

 桐庭さんの声が増幅されたような声量で響きわたり、木々の間や草むらの中から槍や剣で武装した全身鎧の兵士たちが次々と飛び出してきた。

「ジェシカさん! どうしよう!?」

「これしきの数、戦うまで!」

 ジェシカさんは剣を抜いて、僕を守るように横に立ってなにかの呪文を唱えはじめた。

「いいのかな? お姉さんエルフがあそこにいるよ?」

 桐庭さんが指さす先に、檻が載った馬車が現れた。中にはぐったりした様子で倒れているコナさんがいるのが遠目でもわかった。
 騎士団のリーダーらしき人が前に進みでてきた。

「武器を捨てよ! さもなくば、ここでこのエルフの処刑をおこなう!」

 ジェシカさんは怒りの形相でコナさんと桐庭さんの間に視線を往復させていたけど、剣を持つ彼女の手に僕がそっと掌をそえると、武器を捨てた。

 王国の騎士たちが僕とジェシカさんを包囲するのを桐庭さんはじっと見ていたけど、何かを話すように口を動かした。
 僕には、こう言っているようにみえた。


「あなたを信じて、待っている。」
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