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6. 林住期 ~覚醒~
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「アルリーネ、家に着いたぞ」
猫と共に家に入ると、アルリーネを寝台に横たえ、暖炉に慌てて火を点ける。
村に医者はいない。街の方も医者とは名乗っているが本職ではなく、魔力酔いや魔素循環の治療薬作りに特化した引退魔導士だった。
……シャンレイ様の指南書に何か無かったか。父親が遺した僅かな本を全て読み直して、『治癒』や『恢復』という言葉があるものは民間療法と蔑まれているものまで全て試した。
「アルリーネ、目を開けてくれ。……頼む」
寝台に横たわるアルリーネに縋り付く。本当は分かっている、分かっているのだ。彼女はもう息をしていない。死んだ身体にどんなに優れた恢復魔術を施そうが、どんなに強力な治癒魔法を掛けようが、効果がある訣がない。
せめてしてやれることと言えば、古代の死体保存術。朽ちていくのを留めるのだ。本で読んだときには何の意味があるのか首を捻ったが、今なら分かる。残された者が耐えられないからだろう。
その日初めて、彼女の寝台で眠った。朝になって目が覚めても、彼女はおだやかな顔で横たわっていた。
後ろで器用に纏めた黒い髪、福々とした丸い眉……睫毛は意外と長い。頬はふっくらと柔らかく、口元もこうして閉じていると上品な形をしている。
嗚呼なんて……綺麗なのだろう。
これまで会ったどの女性より、これまで聞いたどの女性より、これまで読んだどの女性より、誰よりも誰よりも綺麗な娘だと思った。
額に口づけ、手の甲に口づける。死体をどうこうする趣味は無かったが、口づけだけは許して欲しかった。夫なのだから。
「お休み、アルリーネ」
顔に掛かった髪を掬い、頬を撫でる。ああそういえば。名前をこうして呼ぶのは、昨日が初めてだった。どうしてこれまで一度たりとも呼んでやらなかったのだろう。
アルリーネのことだ、きっと嬉しそうに周りをくるくる廻って、『もう一回!』とねだったに違いない。
「……アルリーネ」
幾らでも呼んでやる。好きなだけ呼ぼう。
だから目を開けて、無邪気な黒い瞳を見せておくれ。
そうしてそのまま冬を越した。春になり、村に仕事を貰いに来ない娘の安否を気遣った人々が顔を出し、村長までがやって来て、埋葬するように説得された。
「死者が月に戻れないだろ?」
戻れなくていいじゃないか。いや、戻って欲しくない。
「ちゃんと送り出してやるんだ、夫として」
これまでまともに夫だったことは無かった。何を今更。
「グウェンフォール、しっかり食べるんだ。そんなにやせ細って、あんたまで月に帰る気かい?」
ああ、それはいいかもしれない。
「駄目だよ、アルリーネがきっと悲しむ」
それは……困る。これ以上、彼女を悲しませる訣にはいかないのだ。
「彼女の埋葬場所は、その、この庭の隣でいいかね?」
村長が急に決まり悪そうに口ごもった。穢れた職を引き受けた女に、村の墓地を汚されたくはないということか。その女が捌いた肉を喰っておきながら。お前たちの親族の遺体を清め整えてもらっておきながら。
「アルリーネも父親の傍がいいだろう、うん、そうだな」
こちらの睨視を避けるように、脇に控える村人へと顔を逸らし、勝手に納得し出した。バカバカしくて言い争う気力も尽きる。
村の男たちが勝手に穴を掘り、村の女たちが勝手に葬儀の準備をし、村長が勝手に葬儀を執り行った。
テーブルには村の女たちが持ち寄った料理が所狭しと並び、これまでずっと寝台で横たわっていたアルリーネが消えている。日が傾き、人々が言い訣がましく去って行く。
夜になると、小さな丸太小屋には灰色の猫と自分だけが取り残されていた。
*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*
「ディラヌー、どうした?」
猫がカリカリと扉を引っかいている。外に出せという合図だ。お前まで出て行く気か。
苦笑しながら扉を開けると、夜の闇に無数の小さな光が舞っていた。草陰からぽつり、ぽつりと新しい光が浮き上がり、天に掛かった四つの月を目指すかのように消えて行く。
――今日は聖女の日だったか。
ヴァーレッフェでもアヴィガーフェでも、週の最初は土の日だ。翌日が水の日。火の日、風の日と来て聖女の日。
そして第二週目からは、聖女の日の次に精霊の日が一日加わる。
第二週の末尾は土の精霊の日で、黄色い月が満月になる。第三週は水の精霊の日で青い月が満月。第四が赤い満月の火の精霊の日で、ひと月の最終日、第五週目の風の精霊の日には、紫の月が満月となる。
満月の前日である聖女の日には、地上から光の粒が空へと昇って行く。
街ではついぞお目にかかったことのない光景だが、今でも人気のない森や山の奥深くに入ると、こうして色とりどりの小さな光が現れる。アルリーネは夜、窓からこの『小妖精の光玉』をじっと眺めるのが好きだった。
『どの月に戻ったのだと思う?』
アルリーネの声が蘇る。そうだな…………ん? 結構難しいぞ、確か訊いてもいないのに『自分は聖女の日の生まれだ』と語っていたではないか。単純に、土の日だの、風の精霊の日だのに生まれてくればいいものを。
「じゃあ、アタシが好きに選んでいいってこと?」
嬉しそうな声が聴こえた。辺りを見渡すが、無数の光が空へと上がって行くだけだった。足元で猫が鳴いている。気のせいか。
ああでも。アルリーネなら言いそうだ。そのくせ結局は選ぶことが出来ずに、こちらに纏わりついては『ねぇ、グウェンはどれがいい?』とせっつくのだ。
「ディラヌー、お前の主人には困ったものだな」
猫がにゃあ、と同意する。腕に抱きかかえようと腰を下ろすと、その傍を青い光がゆっくり浮かび上がり、手を掠めて夜空へと昇った。
『あの……それは、本当に復活させて良いものなのでしょうか……』
突然、年老いた女性の声が脳裏に響く。北の村の衣装を頑なに纏い続け、膝に載せたヒキガエルを愛おしげに撫でていた聖女様。
いつもは居並ぶ上級魔導士に遠慮し、俯いているだけだというのに、あの日珍しく口を挟んで来たのは何故だったのだろう。
頭上の青い月が、ひときわ大きく輝いていた。明日は水の精霊の日か。青い瞳の聖女様が守護を受けたのも水の精霊だ。
クランシィの横でゆっくりと消えて行ったヒキガエルのディラヌー……様。
「――――――!」
あることに思い至り、地面にへたり込んだ。ガタガタと震えが止まらなくなったのは冷気のせいじゃない。
彼女はあの場で即座に理解したのだ。若く愚かな下級魔導士がすぐに口を封じられ、野心溢れる上級魔導士が禁忌の術で神殿を意のままに掌握するだろうことを。
それだけじゃない。きっとすぐさま察知したのだろう。そうなれば自分の命とて危ういことも。――何が『愚か』だ、何が『無教養』だ。
だが何故霊山へ自分の大切な蛙を寄越したのだ。何の価値もない下級魔導士ごとき捨て置けばいいものを。何故精霊の眷属に命まで懸けさせたのだ。
あんなことは、聖女が余程強く命じでもしない限り、精霊が引き受ける筈がない。
『あの……それは、本当に復活させて良いものなのでしょうか……』
両手で耳を塞ぎ、地面に額を押し付ける。ああそうだ、自分は大罪人だ。縦えこの命が尽きようとも、どの月にも入れて貰えないだろう。
壁のこちら側では、この光は小妖精だと説明する。彼らが人々の行いを月に報告しに行くのだと。そうして少しずつ記録されるのだ。どれだけの善行を積み、どれだけの悪行を重ねたか。
人間は死ぬと黄泉の門前に並ばされる。番人は月から取り寄せたその記録を眺め、死後の行き先を割り振るという。
子どもの頃に乳母が語ってくれた、そんな他愛もない御伽話が無性に恐ろしく思えた。
*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*
昔あるところに悪さばかりしている青年がおりました。性根はすっかり腐っておりましたが、頭だけは切れたので、一度も捕まることがなかったのです。
ある日奪った金で飲んだ帰りに橋から落っこちて、黄泉の国へと旅立ってしまいました。
困ったことにこの青年、これまた一興、と動じることなくあちこちを散策し、物見遊山で黄泉の門の前まで来てしまいます。
「善行と悪行、お前はどちらを多く行ったのだね?」
番人がぎょろりと目を見開くと、青年は首を竦めてみせました。
「私の息子が悪行ばかり重ねておりましてねぇ、同じ名前のせいか生前もよく間違えられたものです。きっとその台帳も息子のものでしょう。
父親の方を確かめて頂けませんかね」
青年の父は善人というには程遠かったのですが、多少なりとも神殿に寄付をし、自分の生まれた精霊の日になると家で手を合わせていたのを思い出したのです。
自分のものよりはマシな記録だろう、と賭けに出たのです。
「ほう。ならば確かめるしかないな」
番人は急に手を伸ばすと、青年を小さな穴に落としてしまいます。
尻をさすりながら前方に目を凝らすと、そこには自分がしでかした悪行が次々に映像として流れ出すではありませんか。「お前ら、頭を使えばバレないんだよ」と子分に説教している幼い自分の声。攫った娘の叫び声。放った火の熱気。
「月に行く妖精たちは、お前の周りの者がお前について語った言葉を伝えるだけさ。一見、善行を積んでいると見せかけても、恨み呪う声が多ければ減点だ。逆に感謝する声が多ければ、多少の悪行でも門を通してやるのだ。
そして正式な記録はな、月にあるんじゃない。お前のここだ」
ひょい、と上から頭を覗かせた番人が、青年の心臓を指先で突きました。
「たとえ誰も見ていなくても、誰も聴いていなくても、全ての行為の証人がたった一人だけ存在する」
恐怖で震え出す青年に、番人がにいっと笑います。
「お前自身が記録なんだよ」
*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*
「あ……あああああっ」
言葉にならない声を上げ、頭を抱えて蹲った。
今、神殿はどうなっているのだろう。本物の聖女は見つかったのだろうか。見つかったとして、そうなれば時間稼ぎの偽者はどうなるのだ。
あれから何年経ったのか、数えることすら止めていた。
アルリーネのお喋りを聴き流しながら、ただ無為に日々を過ごし、多少やる気が湧くと父親の魔術書を捲った。
あの日から何も変わっていない。何も――――変えていない。
にゃあにゃあと、猫が煩かった。青い月は無慈悲な光を惜しげもなく降り注いできた。そして無数に浮かび上がる小妖精の光玉。
「……アルリーネ、どうしたらいいのだ。
これでは死んでもお前の元になど行けない」
目の前の新しく出来た墓。土が盛られたその下には、愛おしく美しい妻が横たわっている。
駄目だ、せめてこの世で積み重ねた悪行を多少なりとも減らしてからでないと、アルリーネに会わせてもらえない。
いや、会わせる顔がない。
本気で誰かを愛して初めて、自問した。『自分は彼女に相応しい男なのか』と。『彼女に恥じない生き方をしてきたのか』と。
逃げるため、自分の身を守るためと称して、道中で名前も知らぬ者たちの命を奪った。全てはカドックのせいにして。
穢れているのはこの手だ。人の命を奪い、もしかしたら国の命さえ奪ったのではないのだろうか。
ああ一体、どれほどの悪行を積み重ねてしまったのだ。
このまま本物の聖女様が取り次ぐ精霊の祝福が無くなり、国が滅んでしまえば、月に届きそうな程の膨大な罪となるのではないか。
人々はきっと口々に元兇を呪うに違いない。地上をこんな地獄にしたのは誰のせいだ、我々を苦しめるのは誰なのだと。
どのくらい時間が経ったのか、身体がすっかり冷えて派手なくしゃみが止まらなくなるまで、呆然とその場に坐り込んでいた。
猫と共に家に入ると、アルリーネを寝台に横たえ、暖炉に慌てて火を点ける。
村に医者はいない。街の方も医者とは名乗っているが本職ではなく、魔力酔いや魔素循環の治療薬作りに特化した引退魔導士だった。
……シャンレイ様の指南書に何か無かったか。父親が遺した僅かな本を全て読み直して、『治癒』や『恢復』という言葉があるものは民間療法と蔑まれているものまで全て試した。
「アルリーネ、目を開けてくれ。……頼む」
寝台に横たわるアルリーネに縋り付く。本当は分かっている、分かっているのだ。彼女はもう息をしていない。死んだ身体にどんなに優れた恢復魔術を施そうが、どんなに強力な治癒魔法を掛けようが、効果がある訣がない。
せめてしてやれることと言えば、古代の死体保存術。朽ちていくのを留めるのだ。本で読んだときには何の意味があるのか首を捻ったが、今なら分かる。残された者が耐えられないからだろう。
その日初めて、彼女の寝台で眠った。朝になって目が覚めても、彼女はおだやかな顔で横たわっていた。
後ろで器用に纏めた黒い髪、福々とした丸い眉……睫毛は意外と長い。頬はふっくらと柔らかく、口元もこうして閉じていると上品な形をしている。
嗚呼なんて……綺麗なのだろう。
これまで会ったどの女性より、これまで聞いたどの女性より、これまで読んだどの女性より、誰よりも誰よりも綺麗な娘だと思った。
額に口づけ、手の甲に口づける。死体をどうこうする趣味は無かったが、口づけだけは許して欲しかった。夫なのだから。
「お休み、アルリーネ」
顔に掛かった髪を掬い、頬を撫でる。ああそういえば。名前をこうして呼ぶのは、昨日が初めてだった。どうしてこれまで一度たりとも呼んでやらなかったのだろう。
アルリーネのことだ、きっと嬉しそうに周りをくるくる廻って、『もう一回!』とねだったに違いない。
「……アルリーネ」
幾らでも呼んでやる。好きなだけ呼ぼう。
だから目を開けて、無邪気な黒い瞳を見せておくれ。
そうしてそのまま冬を越した。春になり、村に仕事を貰いに来ない娘の安否を気遣った人々が顔を出し、村長までがやって来て、埋葬するように説得された。
「死者が月に戻れないだろ?」
戻れなくていいじゃないか。いや、戻って欲しくない。
「ちゃんと送り出してやるんだ、夫として」
これまでまともに夫だったことは無かった。何を今更。
「グウェンフォール、しっかり食べるんだ。そんなにやせ細って、あんたまで月に帰る気かい?」
ああ、それはいいかもしれない。
「駄目だよ、アルリーネがきっと悲しむ」
それは……困る。これ以上、彼女を悲しませる訣にはいかないのだ。
「彼女の埋葬場所は、その、この庭の隣でいいかね?」
村長が急に決まり悪そうに口ごもった。穢れた職を引き受けた女に、村の墓地を汚されたくはないということか。その女が捌いた肉を喰っておきながら。お前たちの親族の遺体を清め整えてもらっておきながら。
「アルリーネも父親の傍がいいだろう、うん、そうだな」
こちらの睨視を避けるように、脇に控える村人へと顔を逸らし、勝手に納得し出した。バカバカしくて言い争う気力も尽きる。
村の男たちが勝手に穴を掘り、村の女たちが勝手に葬儀の準備をし、村長が勝手に葬儀を執り行った。
テーブルには村の女たちが持ち寄った料理が所狭しと並び、これまでずっと寝台で横たわっていたアルリーネが消えている。日が傾き、人々が言い訣がましく去って行く。
夜になると、小さな丸太小屋には灰色の猫と自分だけが取り残されていた。
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「ディラヌー、どうした?」
猫がカリカリと扉を引っかいている。外に出せという合図だ。お前まで出て行く気か。
苦笑しながら扉を開けると、夜の闇に無数の小さな光が舞っていた。草陰からぽつり、ぽつりと新しい光が浮き上がり、天に掛かった四つの月を目指すかのように消えて行く。
――今日は聖女の日だったか。
ヴァーレッフェでもアヴィガーフェでも、週の最初は土の日だ。翌日が水の日。火の日、風の日と来て聖女の日。
そして第二週目からは、聖女の日の次に精霊の日が一日加わる。
第二週の末尾は土の精霊の日で、黄色い月が満月になる。第三週は水の精霊の日で青い月が満月。第四が赤い満月の火の精霊の日で、ひと月の最終日、第五週目の風の精霊の日には、紫の月が満月となる。
満月の前日である聖女の日には、地上から光の粒が空へと昇って行く。
街ではついぞお目にかかったことのない光景だが、今でも人気のない森や山の奥深くに入ると、こうして色とりどりの小さな光が現れる。アルリーネは夜、窓からこの『小妖精の光玉』をじっと眺めるのが好きだった。
『どの月に戻ったのだと思う?』
アルリーネの声が蘇る。そうだな…………ん? 結構難しいぞ、確か訊いてもいないのに『自分は聖女の日の生まれだ』と語っていたではないか。単純に、土の日だの、風の精霊の日だのに生まれてくればいいものを。
「じゃあ、アタシが好きに選んでいいってこと?」
嬉しそうな声が聴こえた。辺りを見渡すが、無数の光が空へと上がって行くだけだった。足元で猫が鳴いている。気のせいか。
ああでも。アルリーネなら言いそうだ。そのくせ結局は選ぶことが出来ずに、こちらに纏わりついては『ねぇ、グウェンはどれがいい?』とせっつくのだ。
「ディラヌー、お前の主人には困ったものだな」
猫がにゃあ、と同意する。腕に抱きかかえようと腰を下ろすと、その傍を青い光がゆっくり浮かび上がり、手を掠めて夜空へと昇った。
『あの……それは、本当に復活させて良いものなのでしょうか……』
突然、年老いた女性の声が脳裏に響く。北の村の衣装を頑なに纏い続け、膝に載せたヒキガエルを愛おしげに撫でていた聖女様。
いつもは居並ぶ上級魔導士に遠慮し、俯いているだけだというのに、あの日珍しく口を挟んで来たのは何故だったのだろう。
頭上の青い月が、ひときわ大きく輝いていた。明日は水の精霊の日か。青い瞳の聖女様が守護を受けたのも水の精霊だ。
クランシィの横でゆっくりと消えて行ったヒキガエルのディラヌー……様。
「――――――!」
あることに思い至り、地面にへたり込んだ。ガタガタと震えが止まらなくなったのは冷気のせいじゃない。
彼女はあの場で即座に理解したのだ。若く愚かな下級魔導士がすぐに口を封じられ、野心溢れる上級魔導士が禁忌の術で神殿を意のままに掌握するだろうことを。
それだけじゃない。きっとすぐさま察知したのだろう。そうなれば自分の命とて危ういことも。――何が『愚か』だ、何が『無教養』だ。
だが何故霊山へ自分の大切な蛙を寄越したのだ。何の価値もない下級魔導士ごとき捨て置けばいいものを。何故精霊の眷属に命まで懸けさせたのだ。
あんなことは、聖女が余程強く命じでもしない限り、精霊が引き受ける筈がない。
『あの……それは、本当に復活させて良いものなのでしょうか……』
両手で耳を塞ぎ、地面に額を押し付ける。ああそうだ、自分は大罪人だ。縦えこの命が尽きようとも、どの月にも入れて貰えないだろう。
壁のこちら側では、この光は小妖精だと説明する。彼らが人々の行いを月に報告しに行くのだと。そうして少しずつ記録されるのだ。どれだけの善行を積み、どれだけの悪行を重ねたか。
人間は死ぬと黄泉の門前に並ばされる。番人は月から取り寄せたその記録を眺め、死後の行き先を割り振るという。
子どもの頃に乳母が語ってくれた、そんな他愛もない御伽話が無性に恐ろしく思えた。
*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*
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ある日奪った金で飲んだ帰りに橋から落っこちて、黄泉の国へと旅立ってしまいました。
困ったことにこの青年、これまた一興、と動じることなくあちこちを散策し、物見遊山で黄泉の門の前まで来てしまいます。
「善行と悪行、お前はどちらを多く行ったのだね?」
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父親の方を確かめて頂けませんかね」
青年の父は善人というには程遠かったのですが、多少なりとも神殿に寄付をし、自分の生まれた精霊の日になると家で手を合わせていたのを思い出したのです。
自分のものよりはマシな記録だろう、と賭けに出たのです。
「ほう。ならば確かめるしかないな」
番人は急に手を伸ばすと、青年を小さな穴に落としてしまいます。
尻をさすりながら前方に目を凝らすと、そこには自分がしでかした悪行が次々に映像として流れ出すではありませんか。「お前ら、頭を使えばバレないんだよ」と子分に説教している幼い自分の声。攫った娘の叫び声。放った火の熱気。
「月に行く妖精たちは、お前の周りの者がお前について語った言葉を伝えるだけさ。一見、善行を積んでいると見せかけても、恨み呪う声が多ければ減点だ。逆に感謝する声が多ければ、多少の悪行でも門を通してやるのだ。
そして正式な記録はな、月にあるんじゃない。お前のここだ」
ひょい、と上から頭を覗かせた番人が、青年の心臓を指先で突きました。
「たとえ誰も見ていなくても、誰も聴いていなくても、全ての行為の証人がたった一人だけ存在する」
恐怖で震え出す青年に、番人がにいっと笑います。
「お前自身が記録なんだよ」
*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*◇*◆*
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言葉にならない声を上げ、頭を抱えて蹲った。
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あれから何年経ったのか、数えることすら止めていた。
アルリーネのお喋りを聴き流しながら、ただ無為に日々を過ごし、多少やる気が湧くと父親の魔術書を捲った。
あの日から何も変わっていない。何も――――変えていない。
にゃあにゃあと、猫が煩かった。青い月は無慈悲な光を惜しげもなく降り注いできた。そして無数に浮かび上がる小妖精の光玉。
「……アルリーネ、どうしたらいいのだ。
これでは死んでもお前の元になど行けない」
目の前の新しく出来た墓。土が盛られたその下には、愛おしく美しい妻が横たわっている。
駄目だ、せめてこの世で積み重ねた悪行を多少なりとも減らしてからでないと、アルリーネに会わせてもらえない。
いや、会わせる顔がない。
本気で誰かを愛して初めて、自問した。『自分は彼女に相応しい男なのか』と。『彼女に恥じない生き方をしてきたのか』と。
逃げるため、自分の身を守るためと称して、道中で名前も知らぬ者たちの命を奪った。全てはカドックのせいにして。
穢れているのはこの手だ。人の命を奪い、もしかしたら国の命さえ奪ったのではないのだろうか。
ああ一体、どれほどの悪行を積み重ねてしまったのだ。
このまま本物の聖女様が取り次ぐ精霊の祝福が無くなり、国が滅んでしまえば、月に届きそうな程の膨大な罪となるのではないか。
人々はきっと口々に元兇を呪うに違いない。地上をこんな地獄にしたのは誰のせいだ、我々を苦しめるのは誰なのだと。
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