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BLACK BOX
BLACK BOX
しおりを挟む口に運んだ粥が大して入らずにボタボタと前掛けに溢れる。汚れた口元を拭いもせず核を持たない瞳が動く事なく空を見つめている。その抜け殻に今日も食事を与え、排泄の処理をし、寝かしつけている。何を語りかけても届かない事は分かってはいたが、自らの心の空虚を紛らわすために話し掛けていた。今日は一段と口が開かず、半分も食べられずに前掛けが粥にまみれた。
「今日はヤんないの?」
馴れ馴れしく絡んできてはジャケットの懐から煙草をくすねては生意気な仕草で火を点けた。
「うるせぇ、黙って寝ろ」
テレビで見た瀟洒な温泉宿に泊まりたいという我儘を叶え、こうして付き合っている。そこそこ年の離れた男の言うなりに週末は時間を割いていた。なんの真似事なのか、会うたびにどこに行きたいと吐かしてはあちこちを遊び歩いた。そして夜にはイカれた沙汰の相手もさせられる。
「この人を知ってる?」
そう言って見せられた写真には忘れられない顔が写っていた。何年も前に付き合っていた女だった。盲目的に男を支えるいい女だったが、世間知らずでもあった。その女から金を搾り取り、呆気なく捨てたクズがここに居る。
「思い出せないかな…」
そう言って曇った男の顔は憎らしい程に達観していた。何が望みなのかは分からない。女の父親は社会的に地位のある大物だった。自分の素性がバレればどうなってしまうのか、計り知れない恐怖を覚えていた。今は少しの綻びも身を滅ぼしかねない立場となっていた。
男は事あるごとにくだらない連絡をしてくる。どんなものを食っただの、どんなものを見ただの…そんな些細な行動一つ一つがあの女にそっくりだった。食い物の好みから色の好み、趣味すらあの女そのものだった。
男に振り回されるようになって一年が過ぎた。あれこれ連れ回されて付き合わされ、いい加減苛立ちが募っている。今日もまたなんの思い入れもない宿に泊まり退屈している。
「少しは、思い出した?」男が言う。
「なんの事だ」
寂しげに微笑む男の顔に見覚えがあった。何度か、こんな顔をさせた事がある。女の顔と男の顔がダブる。
「思い出の場所だから」
そう言われて改めて部屋の中を見回す。然程記憶に残っては居ない。窓際に座り込んで泣き腫らしていた女の朧気な姿が何となく思い浮かんだ。
「何が目的だ。金か」
そう問う唇を男が塞ぐ。
「目的は、秘密」
罪悪感を煽れば何でも自分の思い通りになるのだと、幼稚にも信じ続けているこの男に何かしっぺ返しを食らわす方法はないかと考えながら、男に手を引かれるまま敷かれた布団へと若い体を押し倒した。狂った情交に嫌気が差して手荒になる。それをも男は飲み込んだ。女と男がどこまでもダブる。
「今日で、最後だよ」
帰りの車で男が言う。
「アンタが何も思い出せていなくても、俺は楽しかった」
目的地に着くなり、男はダッシュボードの上に鍵を一つ置く。
「さようなら」
呆気なく男は消えた。置かれた鍵を手にする。その鍵に嫌に見覚えがある。駅のロッカーの鍵だ。瞬間的に思い出す。男を追いかけることもなく車を駅に走らせた。車を走らせながら走馬灯のように記憶を辿る。人目を憚らぬ勢いのまま齧り付くように駅のロッカーを開けた。古びたボストンバッグが入っている。
なぜここまで記憶が混濁していたのか、よく分からない。女の父親の手先に捕まった俺は酷い拷問を受け、薬漬けにされてゴミのように捨てられたことを思い出した。ボストンバッグの中には金が詰まっている。その金は俺が女から奪った金ではなく、女が俺を逃がすために宛てがった金だ。女の父親は女が俺と駆け落ちするのを阻むため、後ろ暗い連中に俺の始末を頼んだ。それを察知した女は俺を逃がそうと手を尽くしたが、その矢先に俺は拉致された。
女は連れ戻され、俺はひたすらに甚振られた。体も精神も踏み躙られ、俺は洗脳されていたのかもしれない。
その後ボロボロに壊された俺を拾い、支え続けた相手がいたことも思い出す。それは、女の弟だった。自由になれない女の代わりにずっと俺をサポートしてくれていた。父親からの束縛を苦にした女が自らの命を断った後も、弟は女の代わりに俺の側にいてくれた。今日は女の命日だ。弟とは五年、共に過ごしていた。その間ずっと、俺の中で滅茶苦茶になった俺と女の記憶を修復しようと手を尽くしてくれていたのだった。
昨日泊まった宿は、俺が女にプロポーズをした宿だ。その日を最後に女と俺は引き離された。女に手渡された鍵も、託されたボストンバッグも、バッグの中に忍ばされた女からの手紙も、当時そのままの状態で遺されていた。
頭の中に雪崩込む俺の記憶の中の弟の姿は、姉とダブることなく鮮明だった。開け放ったロッカーの扉もそのまま、ボストンバッグを抱えて俺は走り出す。車に飛び乗って男の後を追いかける。行方もわからぬままに消えた姿をいつまでも探し続けた。
本当にそっくりな姉弟だ。かなわぬ想いを苦にして命を軽んじてしまう所まで…。姉の記憶を蘇らせるボストンバッグを封印したまま、記憶障害を拗らせた俺を相手に、五年もかけて彼が何をどうしたかったのか、今やそれを知ることは難しい。幸い命は失わなかった。けれど、彼は魂を失ってしまった。姉と同じ方法で多量の薬物を口にした彼の脳の機能は破壊され、今もこうして空っぽのままだ。
また、あれから五年たった。10年目の命日が来る。
「少しは思い出したか?思い出の場所だ」
反応のない彼に俺は話しかける。
「今日で最後にしよう」
力の無い右手に、俺はロッカーの鍵を握らせる。
「お前が何も思い出せなくても、俺は楽しかった」
あの日、彼女に渡す事のできなかった契りの指輪を彼の左手の指に嵌めた。
「さようなら」
手紙に書かれた彼女の最後の一文と、あの日の最後の彼の言葉を反芻しながら俺は煙草を一本灯らせた。
END
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