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#5 Only a memory 〜翻弄されるような思い出ならブチ壊してしまえと思った(3)

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 めまいの後、気がついたら湖のほとり。どうやらここは、さっきまで追憶の中にあった阿寒湖らしい。

 だが今は12月。湖は完全結氷寸前に凍てついているはずだが、湖水はどこまでも透明な青、木々は生命力に満ちた濃緑だ。あらゆる点に違和感を感じたがすぐに、少し遠くにいる3人の子どもに釘付けになった。

 …なんてこった。ありゃ景護に響子…となると、2人に駆け寄ってくるもう1人は俺⁉︎梨杏のやつ、タイムトラベルはできないって言ってたよな。しかも俺は1人しかいないって、大嘘だらけじゃねえか。

「貴明、遅い!今日は遊覧船乗り場で釣りだって言ったべや!」

「私、釣りはやだなー。魚はいいけどエサがさ…虫じゃないの…」

 少年時代の自分に遭遇し、ますます目まいがする貴明。3人に声をかけようと思うが体が動かない。そのうち3人は自分のほうに向かってくる。おかしいぞ、一直線にこっちに走ってくる…


 ぶつかる!と思った瞬間、貴明は自分が霧になったような空恐ろしい感覚を覚えた。3人の子どもが、自分をすり抜けて向こう側に走り去ったように思えたのだ。

(自分の人生の映画を観る…)

 ひょっとしたら俺は、この時空には実在しない傍観者か。だとしたらやっぱり、神ってのは相当に悪趣味だ。


 3人は仲良く並んで桟橋から釣り糸を垂れる。真ん中の響子が巨大なヒメマスをかけたようで、「わああ!どうすんのこれ!貴明ちゃん!景護!凄い力!落ちる落ちるよ!」などと慌て出し、周囲の大人も手伝って釣り上げ、大騒ぎになっている。ハイシーズンではないようで観光客はまばらだが、それにしてものどかな光景だ。


 などと微笑ましく眺めていると、しばらくして響子が切り出した。

「ねえ貴明ちゃん、私たちに何か言うことない?」

「え…何で?」

「どうした響子?」


 この年頃だと、どうしたって女の子のほうがマセて大人びている。人生で2番目にバカな時期(1番バカなのは中学生時代だ)の男子どもとは意識レベルが段違いで、すでに人の心を見透かすようなこともできる。


「貴明ちゃん、転校するかもしれないんでしょ」

「嘘だべ?」

 顔面蒼白の貴明。しばしの沈黙の後、


「…そうだよ」

 驚愕する景護。寂しそうに貴明を見つめる響子。

「来月また引っ越すんだ」

「なんでだよ!去年来たばっかりだべや」

「仕方ないよ景護くん。私らは子どもだも」

「でもさ…!貴明はどうなんだよ」

「ぼくは…」


 うつむいたままの貴明。涙をこらえて顔が上げられないのか。

「ぼくは引っ越しなんてしたくない。もっとみんなと…」

「う…」

 響子がこらえきれなくなる。

「うわあああん!やだよー!みんな一緒でいいっしょやー!」

「そうだよ貴明、1人で阿寒にいれや!」

 小学5年生にそんなことができるわけがない。景護も響子もわかってはいたが、吠えなければやり切れなかった。


 一方、現在の貴明も必死で感情を抑えていた。

「親父が引っ越しするって言ってから2週間、誰にも言えなかった。特に2人には最後まで知られまいと無駄な努力をして隠した。それが2人を傷つけてしまっていたんだな」


 子どもたちは一所懸命に、全力で話を続ける。

「響子はな、響子はお前のこと…」

「いいの景護。どうしようもないもん」

「響子はいつもお前にくっついてたのに、お前はぜんぜん気づかないで」

「ちょっと待ってわからない。響子がなに?」

「もういいよ、どこにでも行っちまえ!」


 貴明は心底からこの2人が好きだった。同い年なのに兄貴のように思いやりのある景護。当時から人付き合いが苦手で周囲から浮きがちな貴明に、ひたすら優しい響子。2人に比べると貴明は子どもっぽく自分勝手だ。この光景を見て改めてそれを思い出した。



「ごめんな景護、響子。俺はガキの頃からぜんぜん優しくなかったんだな。最低だ」
 眼前の過去に介入できない現在の貴明に、小さな心のトゲが蘇る。
「俺が後悔したのは、引っ越しを打ち明けるのがギリギリになったからだけじゃない。想いを渡せなかったからだ。2人への想いを、声にも形にもできなかったからだ」

 その小さな心残りは、貴明の心に鮮明な傷を残していた。たまらず貴明は、無駄だと知りつつも叫ぶ。

「おいこらクソガキ!聞こえるか⁉︎凹んでる場合じゃあねえぞ、あいつらにちゃんと渡すんだよ!」

 貴明の声は幼い自分自身には届かない。だが不意にその時、湖面からの強い風が3人に吹きつけた。カムイ【神】の懐で何万年もたゆたう湖水をたっぷり含んだ、冷たい風。その風が少年貴明の頬を叩き、そのせいかはわからないが、小さな顔がこちらへ向いた。

「おいっ!」

 少年貴明には現在の貴明の姿は見えず、声も聞こえない。それでも確かに、現在の貴明を真正面から見据えていた。

「見えるか!聞こえるか⁉︎いやどうでもいい。それを渡してきちんと話をしないと、ずっと後悔することになるぞ。それでいいのか?…。いやごめんな、後悔してんのは今の俺なんだ。だから頑張れ!頼む!」

 少年貴明は何かを感じたのか、不思議そうに辺りを見回す。しばらく煮え切らない表情でもじもじしていたが、そのうち意を決したように、 


「景護!響子!」
 小さな手に握っていたものを2人に手渡した。

「ごめんね。離れたくなくて、ずっと言えなかったんだ」

 2人の手に、キーリングのついた小さなフクロウの木彫りが手渡される。

「フクロウ…なんだよ…」

「かわいい…」

 泣き顔の景護と響子。


「響子がさ、シマフクロウは阿寒のアイヌの神様だって教えてくれたでしょ。それが忘れられなくてさ。神様が一緒ならみんな一緒にいれるって思って、おこづかいで買ったんだ。みんなでずっと持ってればさ、きっと…」

 少年貴明も、その手に同じフクロウを持っていた。


「う…お前…貴明…」

「やだよー!」

 3人の子どもたちは、立ち尽くしたまま大泣きする。

 たかが転校の別れだ。少し大人になればいつでも会えるようになるのだが、子どもにそれがわかる道理はない。5年生にとって、転校の別れは今生の別れに等しいのであった。
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