卵の殻

六つ花えいこ

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 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 吸って、吐いて、また吸って。

 私の大事なおまじないで呼吸を整える。胸が荒れ狂う海のように波打っていたのが嘘のように、すとんと落ち着いた。
 大丈夫。ちゃんと言える。私はいつも通りの笑顔を貼り付けて、職員室のドアをノックした。



【 卵の殻 】



「はい」
 この間まで毎日聞けていた声が、今はすごく遠い。手も声も、震えないようにと一度気合を入れ直してから、私は返事をした。

「コレット・アシェル。入ります。」
「―――どうぞ。」
 何の用だ、と言った先生は椅子をキィと鳴らしてこちらを振り返った。珍しい。対話をするためにこちらを向いてくれるなんて。私は、頬がにやけそうになるのを必死に堪える。

「先生、こんにちは」
「あぁ、こんにちは。どうした」

 職員室から入って、一番遠い席にいる先生に私は大きく両手で丸を作った。先生は咥えていた煙草を灰皿にこんもりと出来ていた山の上に押し付けると、鼻を鳴らして笑った。

「そうか、お前の合否はまだだったっけか。おめでとう、よくやったな。しっかり励めよ」
「ありがとうございます。先生にご指導いただいたおかげです。魔法塔で培った経験を糧に、精いっぱい頑張ってきます。」
 噛まずに言えた。何度も何度も、あぁじゃないこうじゃないと考えながら練ってきた、生徒である私からの、最大限の感謝の気持ち。

 塔の在籍年数は通常で5年。私たち同期は全員同じ師の元につく。同期と言っても、全部で20人に満たない小さなクラスだ。入塔してから卒業まで、ずっと同じ先生に師事して過ごした。もちろん他の先生に教わったり交流をとったりすることもあったが、基本的には親鳥について回る雛のように彼について回っていた。
 12のころから、17まで。私の青春は、先生一色で染まっていた。

 その先生と、そして塔と、いつまでも楽しく過ごせると子供のころの私は簡単に信じていた。
 それが、15になり、16になり、17の誕生日を迎えたころには、この幸せな時間が永遠ではないことを知った。そして、大事にしたかったのは同窓と笑い合い切磋琢磨している時間だけではなく、当たり前のように先生に話しかけられるその距離であることも、私は知った。

 イヴァン先生は生徒たちにとって兄のような、友のような存在だった。おじいちゃんおばあちゃん先生が多い中で年が近い先生は、それだけで親しみやすかったに違いない。年が近いと言っても、30を目前にした先生にしてみれば半分ほどの私たちなど友達には感じられなかっただろうけど。
 おかげで、私たちの学年以外からも先生には沢山の信頼と愛情が向けられていた。
 その全てを従来のやる気のなさで先生はスルーしていた。
 身近なところで言うのなら、我が学年も20人も満たないクラスだと言うのに、内2人の女生徒が先生に熱を上げていたのだ。
 この女生徒たちは在籍中から自らの気持ちを隠すことなくアプローチしていたため、彼女たちの熱い言葉の先に誰がいるかなんて、全校生徒が知っていた。
 もちろんのこと、イヴァン先生も知っていた。今までどれほど熱烈に騒がれてもスルーしていた先生だったが、さすがに卒業式には白黒はっきりつけたらしい。
 当たり前だが、その現場を見たわけではない。けれど、いつもどれだけ邪険に躱されても眉一つしかめない女生徒二人が、真っ青になるほど唇を噛み締めながら魔法塔を去っていく姿を見た。それだけで、誰もが分かった。
 皆分かり切っていた勝負だったと、次の瞬間には忘れてしまうような。そんなちっぽけな光景を私はいつまでもずっと忘れられないでいる。

 負ける戦と分かっていながら、言わずにはいられなかったその子たちの気持ちを、私は痛い程に分かっていたから。

 私もその子達と同朋だったのだ。
 彼女たちのように皆のいる前で呼び止める勇気もなく、人気のないところに連れ込む勇気もなかった私は、ひたすら先生が一人になるときを待っていた。だけど、そんな時間はついぞ訪れなかった。いくら待っても先生は華やかな場面でみんなに囲まれていて、私は結局誘われるままに卒業お別れ会と称した飲み会に逃げ込んだ。

 だけどわかっていたのだ。卒業の寂しさに泣き暮れる同期の肩に顔を埋めながら、生まれて初めて飲んだお酒に飲まれぐでんぐでんにくだをまいていた私だったけれど、本当はちゃんと、わかっていた。

 最初から、告白なんて、出来なかったって。

 彼女たちのように溢れんばかりの魅力も、自信も、家柄も何もない私。選ばれた者だけが入れるという魔法塔に入塔できたのだって、珍しい治癒魔法の適性がほんのちょこっとあったからという、ただそれだけのこと。結局軍属するには弱い癒し能力だったので、街の治療院への就職となった。その程度の、私の実力。

 彼女たちのように、大岩を瞬時に粉砕することも、川の水をせき止めることも、塔に侵入したよからぬ輩を捕縛することも、何もできない。加えて言えば、胸もないし高い鼻も大きな瞳も長いまつ毛もきめ細やかな肌もなかった。

 そんな私がどうやったら、この栄誉ある魔法塔に勤める先生に告白なんて、出来ただろうか。王宮魔法使いよりも難しい肩書を持つ魔法塔教員に、当たって砕けるだけの覚悟が持てなかった。

 同期は自分も涙に暮れているくせに、泣き濡れる私を必死に慰めてくれた。卒業が淋しいのだと勘違いしてくれていたのは好都合だった。さみしい、さみしいと、臆面もなく言えたから。彼に、会えないことが。もう顔も見れないことが、こんなに淋しいと。泣き濡れる私に相槌を打ってくれた同窓の優しさと深い愛を、きっと私は一生忘れないだろう。

 いつの間にか飲み会に先生が合流していることに気づきもしないで、私はそのまま酔い潰れた。

 塔を卒業した後も少しなら引越し期間として住み続けられる自分の宿舎に、いつどうやって誰に送ってもらったのかすら私は覚えていなかった。そういえば意識がゆらゆらと揺れる中、折り重なった薬品の匂いを嗅いだような気がする。誰かが酔い覚まし薬でも飲ませてくれたのだろうか。魔法使いの薬はよく利くはずなのに、飲ませてくれたにしては、気分はサッパリ悪かった。
 初めて味わう二日酔いと現実に、一人自分の部屋で頭を抱えた。私はこれ程酔いつぶれても、同窓の誰にも食指を動かされない程度に、女として見られていないらしい。
 何故か外れていたボタンに気づいた。息苦しそうだと気を使ってくれたのだろう。深い溜息を吐く。どうせならそのまま興に乗って、誰かが穴でも開けてくれればよかったのに。そしたら、この気持ちもそこから流れていったかもしれないのに、なんて。痛みの走る頭で笑った。



 卒業はしたが、私は最後のチャンスを残していた。
 就職先からの、合否報告だ。就職先が決まった後、塔に報告する義務がある。私はその義務にかこつけて、こうして魔法塔にやってきた。先生に会う、そのためだけに。

 王宮や軍に配属になる者以外は、基本的に自分で就職活動を行う。塔は卒業するまできっちり授業があるため、卒業した後に自力で就職先を見つけなければならない。冬に卒業して、春から登用されればいい方。就職活動につまずいた人間は秋、いや一年廻った冬になることもある。基本的に、塔に在籍していたといえば就職的にはかなり有利になるのでそこまで職にあぶれることはまずない。まぁ要は、魔法使いの就職なんて本人のやる気次第というところである。

 私は、この塔がある街から少し離れた場所にある街に移住することに決めた。塔の姿を目視することができない、ギリギリの距離だ。未練がましくて嫌になる。それでも、私にとってそれが精いっぱいの妥協だった。



 私は、自分の気持ちをうまく隠せていた自信がない。つい目で追いかけてしまうから。つい、話題に上らせてしまうから。
 苛烈な2人が隠れ蓑になっているとはいえ、私だってよほどわかりやすかっただろう。だから、先生と目が合うたびに血の気が引いて背筋が震えた。喜ぶよりも先に、この気持ちがばれて牽制されるんじゃないかと思うことのほうが怖かった。
 私は、先生の後を雛のようについて回りながら、先生が振り向くたびに、殻に引き籠ってばかりだった。

「お前、これから酒の席は増えるだろうが、あんまり飲みすぎるなよ」
 先生は、何故か私の首元を凝視しながらそう言った。どうかしたのだろうと慌てて見下ろすが、別段何の変化もない。そういえば数日前に虫に刺されていたような気もするが、いつの間にか跡も消えている。
 チョーカーを付けているわけでもなく、別段面白い物は何もない。首を傾げる私に、先生は口の端を上げて煙草の煙を吐き出した。真っ向から煙を向けられてむせてしまう。

「けふっけふっ…ひっどい!何するんですか、もう」
「あぁ悪い。あんまりにも間抜け面だったもんで。」
「間抜け面がなんの免罪符に…?!」
「しかし治療院ねぇ。研究室のほうがよかったんじゃねーか?人見知りのくせに」
「大丈夫ですよーだ。いつもやる気がない先生と話していて度胸が付きました!もう誰とだって話せます!」
 就職先、覚えててくれたんだとうれしくなってついはしゃいでしまう。たった18人のクラスだ。魔法塔の教員を務めるイヴァン先生が覚えられないはずもないのに、そんなことは頭の片隅に追いやった。私の就職先を覚えていてくれた。ただただそれだけが嬉しくて頬が緩みそうになるのを、必死で押しとどめる。その様子を、先生はタバコを吸いながら静かに見ていた。

「入塔式の日、あまりの人の多さに酔って卒倒しかけたアシェルがねぇ」
「う。そ、その節は、どうもお世話になりました。」
「その節も、だろ。世話しかしてねぇよ」
 先生は軽く笑うけど、今私がどれほど感情を表に出さないように必死に押さえつけてるか、知らないでしょ。私はいーと歯を剥き出すことで笑いそうになる目じりに力を入れた。



 私が先生と初めて会ったのは、入塔式の日だった。
 ど田舎の町に住んでいた私は、この街のあまりの人の多さに驚いていた。そして町では考えられないほど大勢の同じ年の子に、緊張から胃が引っくり返りそうだったのだ。その時に一番に私の異変に気づいてくれたのが、担任を受け持ってくれたイヴァン先生だった。
 イヴァン先生は蹲りそうになっていた私を式から連れ出し、風通しのいい場所で何度も背を撫でてくれた。

 『大丈夫だからな。しっかり吸って吐け。―――ひとつ、ふたつ、みっつ。』

 大丈夫、大丈夫だと言いながら、数えてくれる数に沿って息を吐き出した。イヴァン先生に、最初に教えてもらった魔法だった。



 窓の外を見ていた先生につられて、顔を動かした。塔を囲むように植えられている薄紅色の花がつく大きな木が、満開の見ごろになっていた。

 季節は春に差し掛かっている。皆順調に行ってれば就職報告に来ている頃だろう。
 『用が済んだならさっさと帰りなさい』と言わんばかりの顔をしている先生に、まだここにいたい一心で何かを話しかけようとするが、頭でうまくまとまらない。この機会を逃してしまえば、本当にもう先生とは二度と会うことが無くなるだろう。何か、何かと思っているのに、言葉にならない。
 そんな私を知ってか知らずか、先生がボリボリと頭をかきながらため息を吐いた。

「まぁ、もうしばらくは担任持ちたくねぇなぁ」
 先生のデスクの上にある灰皿は、こんもりと山のようになっている。そんなことを言ってるくせに、卒業生皆の就職先が気になって仕方がないはずだ。春で終わるのか、夏まで差し掛かるのか、冬まで待たされるのか。先生はここで卒業生たちの今後を聞くために、こうして吸い殻の山を作っていくのだろう。

「他のみんなってどうだったんですか?」
 優秀な生徒ばかりだったという、粒ぞろいの学年だった。そうそう職にあぶれる人はいなかっただろうと思うものの、気にはなった。5年間文字通り同じ釜の飯を食って育ったのだ。全員が兄弟のように感じていた。

 その兄弟達にも、もう気軽に会うことはできない。嫌になるほど毎日顔を突き合わせていたというのに、もうこれからの足取りは追うこともできないほど散り散りとなってしまった。

 新入生が入塔するまでもうしばらく余裕があったが、寄宿舎も引き払ってしまっていた。なぜなら、合否報告が来たのは一週間も前だからだ。すでにあちらに移住し、5年生活した割には数少なかった荷物もまとめて送り届けてある。この一週間は、私がうじうじと悩むためだけだった期間だ。
 彼に想いを伝える決心を、固めるためだけの時間。

「まぁいい具合に受かっていってるよ」
「ポールはどうでした?」
 確か彼は辺境にある傭兵団の専属魔術師を希望していたはずだ。かの地には伝説の魔法使いが残した曰くが数多く残されているので、憧れる魔法使いが多い。
 それに加え数年ぶりの求人という理由で、辺境だというのに恐ろしいほどの狭き門だった。私たちが在塔中には最終選考で揉めていて合否がはっきりと出ていなかったはずだ。

 私のように街に就職するよりも、軍属する者のほうが確実に危険度が高い。18人中従軍を希望したのは、ポールを含めて8人だった。その内6名が合格を、1名がお祈りを言い渡されていた。軍属組ではポールだけが宙ぶらりんのまま、卒業を迎えた。
 その為、ポール自身も不安定だったのだろう。最後の飲み会では私と同じか、それ以上に酔い潰れていた。泣きつく私を、同じく涙に濡れながらオーバーなリアクションで一生懸命慰めてくれた。
 私より酔っている人間に泣きつき、弱音を吐くのは簡単だった。きっと大したことは気にしないだろうと、そう思わせてくれたから。

 先生と話題を続けたいが為に出しただけの名前だったので、実際合否はそんなに気になっていない。ポールなら、今年がだめでも来年どこかに受かるだろう。魔法使いの就職活動は、そのぐらいのんびりしているものだ。
 だから、どちらでもよかった。ただ話がしたかっただけだから。なのに、今私は普段向けられたことも無い程冷たい目で先生に見下ろされていた。
 私の思惑がばれたのか、もしくは個人情報の為伝えられないのか。どちらにしろ、私が調子に乗ったことを諌める瞳だった。私は慌てて否定する。

「あ、大丈夫です。きっと彼なら受かってると思うし…」
「ま、本人に会った時にでも聞け」
 先ほどまでより一層気だるそうな先生の声に落ち込む気分を止められない。ポールと会う予定など全くないというのに、まるで次また会う機会があることを前提のように話をする先生に、どう返事をすればいいのか迷った。
 しかしここで否定してしまえば、それほど親密でもない生徒の情報を興味本位で聞き出そうとしたのかと更に嫌悪されてしまうかもしれない。私は常のように、先生から顔を反らした。

 これが最後だとわかっているのに、どうしても何も続きが出てこない。
 蒼白な顔をしていないだろうか、血の気は引いていないだろうか。そんなことが頭を巡る私の気など知りもしないで、先生は軽く私を見上げる。

「それよりアシェル、もう用事が済んだなら帰りなさい」

 どうしよう。張り付いた笑みがしっかりと固定され過ぎていて、筋肉一つ動かすことが出来ない。何か声を、何か、何かをと思えば思うほど、言葉にならない。

「アシェ―――」
「あら、アシェルさん来たんですか?」
 先生が私の名前を呼んで最終通告を出そうとした瞬間に、明るい声が職員室に響いた。驚いて扉の奥に目をやると、にこにこと微笑んでいるおばあちゃん先生がいた。

「よかったですね~イヴァン先生。休日出勤してまで、最後の生徒待ってた甲斐があったじゃないですか。」

「―――ええ、まぁ」
 イヴァン先生は額に手をついて顔を伏せている。おばあちゃん先生は少女のようにふふふと笑って私を見る。

「アシェルさん、こんにちは」
「こ、こんにちは!」
「ふふ、元気ねぇ。あら、もうお昼の時間?イヴァン先生、せっかくなんだからお祝いにしろお祈りにしろ、お昼ぐらい奢ってさしあげたら?」
 魔法使いの―――特に塔に在籍する魔法使いはほとんどがマイペースだ。それは長い間この塔から離れずに生活するからかもしれない。年を重ねるにつれ、その傾向は顕著になる。今のおばあちゃん先生が、そのいい例だった。
「いえ、特定の生徒には―――」
「あらあら。どうしたの、先生まだ若いのに。私よりも先に呆けちゃったかしら?もう生徒なんて、この職員室にはいませんよ」

 おばあちゃん先生の言葉にたじたじになっているイヴァン先生を、私はまるで薄い布越しのような気持ちで見つめていた。

 休日出勤?最後の、生徒?
 もしかして、もう皆、就職報告が終わってるの?わざわざ、私のために、お休みの日にまで職員室で待っていてくれたの?

 イヴァン先生は私とおばあちゃん先生を見比べると、深い息を吐きながらぐしゃぐしゃと寝ぐせだらけの頭をかく。

「―――高いところには行かんからな」
「御馳走になって、いいんですか?」
「悪けりゃ言わんだろ」
 椅子に掛けてあった外套を取り、寒がりなのかマフラーまでしっかりと巻き込んだ先生が私を見ながらそう言った。

 カツカツと歩き出してしまった先生に、慌ててついていく。後ろを一度振り返ると、おばあちゃん先生がにこにこと笑いながら手を振ってくれていた。私は深く頭を下げると、走って先生を追いかけた。

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