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それから、これから

7話

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 車の中は、重苦しいほどの沈黙が広がっていた。
 既に道を覚えてしまった夕さんの家への行き道。助手席に座り、これで最後になるのだろうかと、流れるテールランプを眺めていた。

 車を停めサイドブレーキを乱暴に引き上げると、夕さんは一度鋭い目でこちらを見た。身が竦んでしまう。
 運転席から降りた夕さんが、助手席のドアを開けて私の手を掴んだ。促されながら、のろのろと足を下ろす。あぁこれで、逃げ場はなくなった。

 この期に及んで、まだ別れ話から逃げたいと思っていたなんて。私は小さく息を吐いた。

 夕さんはしっかりと私の手を掴んだまま、大きなコンパスで自室まで歩く。いつも、夕さんと手を繋いでいても小走りになることなんてなかった。夕さんが、どれだけ私に気を使ってくれていたかが、こんな時にわかった。

 通い慣れた部屋のドアを開けると、夕さんが私をじっと見下ろした。

 入るのか、入らないのか。そう訴えるような目だった。
 私は夕さんと、そして部屋を交互に見ると一度生唾を飲み込む。

 自分の意志でこの部屋に入ってしまえば、自分の選択に責任を持たなければならなくなる。夕さんに連れてこられたわけじゃない。私が、彼との未来を受け入れるということだ。それが例え、どんなものであったとしても。

 私は大きく息を吸って、吐いた。ツケマどころかマスカラさえ塗ってないようなまつ毛で瞬きをすると、夕さんを見上げる。気丈に見えるように、笑おうとしたけど、ダメだった。口の端が、震えてしまう。

 そんな顔を見せたくなくて、一歩踏み出す。夕さんの部屋に入った瞬間に、後ろから強く抱きしめられた。

 香る彼の匂いに。私の髪の匂いと混ざり合ったその甘さに。眩暈がしそうなほどの幸せを覚える。

 頤を支えられて首を伸ばす。抱きしめてくれている手を抱き込んだ。いつもは私が背伸びをしていたのに、今日は夕さんも屈んでくれる。
 夕さん、夕さん、夕さん。甘い味が、夕さんの匂いが、堪らない欲情を掻き立てる。このままベッドに引きずり込んで、私がマウントを取れば。流されてくれないだろうか。この熱情に目が眩んでくれないだろうか。

 いやだ。
 本当は、別れるなんて。いや。

 だけど、常に覚悟をしてないと。きっと離れられないから。みっともなく縋ってしまうから。彼の中の思い出を汚してしまうから。別れに、耐えきれないから。
 自分に言い聞かせるように何度も何度も呟いていた。今までを思い出せと。彼との未来なんて、夢見るんじゃないと。何度も何度も何度もひびが入った私の心に擦り込んでいた。なのに、なのに。

「悪い。中に入ってくれ」
 長い口づけを無理やり終えると、夕さんは何かを吹き払うかのように小さく頭を振った。私は火照った頬で曖昧にほほ笑むと、こくんと頷いてショートブーツを脱ぎ捨てる。
 逃がさないという風に手を掴んだ夕さんが、私をソファに座らせた。私と目線を合わせるようにフローリングに膝をつく。膝の上で組んだ手を握り、真っ直ぐに目を見つめてきた。

 その口が開く前に、私は大慌てで身を乗り出した。
「あの、ごめんなさい、さっきのは冗談で。ちゃんとわかってるんです、好かれてるの、だから」
 突然始めた謝罪に、夕さんは痛ましいものを見るような視線を向けた。
「愛歩」
「夕さんはそんな無責任にペット捨てたりしませんもんね。だからあの、大丈夫ですわかってます!」
「愛歩」
「大丈夫、不安になんて思ってないんです!」
 わかったから、というように夕さんがくしゃりと笑った。

「もうこの顔は、嫌いになったか?」
 ぶんぶんと大きく首を横に振った。
「俺が怖いか?」
 再び大きく首を横に。
「なら、もう逃げないでくれ」
「逃げてなんて、いません」
「向き合ってるって、胸を張って言えるか?」
「もちろんです」
「じゃあなんで笑わない」
「笑ってます」
 大慌てで笑顔を浮かべる私を痛ましそうな顔で夕さんが見つめた。そして、そっと私の頬に触れる。

「ゲームに閉じ込められたとき。あんな瀕死の状態で、お前は誰よりも無邪気に笑ってた。あの顔に、救われた。お前は、あの気持ちで、俺と向き合っているか?」

 呼吸が止まる。問われた言葉に、瞬時に頷けなかった。
 今の私は、あの時とは全く違う。あの時の無邪気なポチとは、全然違う。

 だって、しょうがないじゃない。

 私は唇を噛みしめて俯いた。
 皆最初は、物珍しさにこの性格を好いてくれる。だけど、だけど少しずつ鬱憤が溜まっていって、ずれていって。またそんなしょうもないこと言ってるのかって。なんで何度も言ってるのにくみ取れない?って。そんな目で。見られたいはずがない。夕さんに、誰よりも好きになった人に、見られたいはずがない。

 怖いのは夕さんがもてることじゃない。そんなことは知ってるし、その中で私を選んでくれたという自信を持たなきゃいけない。

 でも、その時の私を好いてくれてても、じゃあ今日の私は?明日の私は?
 人に散々、呆れられ侮られてきたこの性格。直したくても、直せなかった。直す部分がわからなかった。何もかも、言ってしまって後悔する。すぐに調子に乗る。そんなところが、嫌われやすかったのだと知っている。

 私と付き合っている間、誠実な夕さんはよほどのことがない限り他所に目をむけないだろうし裏切らないだろう。

 だけど。
 私を見限るという選択肢は、いつでも、いつまでも付きまとうのだ。

 嫌われたくない人にばかり、嫌われてきた。
 だけど本当に、夕さんにだけは、絶対に。嫌われたくない。


「―――俺はお前にとって、脅威の対象か?」
 あまりにも想像していなかった言葉に、私は驚いて顔を上げた。

「現実は、お前の理想とは違ったか?二度も告白してくれたのに、顔も覚えてなくて。お前に失望ばかりさせて。お前の理想の、中身がこんな不愛想で。恋人としては、失格だったか?」

 夕さんの言っていることの意味がうまく理解できなかった。理想?失望?不愛想?失格?びっくりするような単語が次々に出てくる。

「お前はもう、こんなやつとは、別れたい?」

 全身に冷水をかけられたようだった。

 その言葉は、私が言うんだと思ってた。私に興味のなくなった夕さんに、私が言うんだと思ってた。
 なのに今、ほんの少しでも触れてしまえば。そのままくしゃりと歪んでしまいそうな悲壮な顔で、夕さんが私の前に立っている。

「そんなことは、ありません」
 あまりの衝撃にうまく舌が回らない。私の弱弱しい否定に、夕さんは苦笑を漏らした。

 だめだ。

 今私は、絶対に間違えてはいけないところで間違えてしまった。

 もっと強い否定が必要だった。泣きそうな夕さんの悲しさが吹き飛ぶような、春風のような強い言葉が。

 だけど、そんな言葉うまく思い浮かばない。思い浮かぶくらいなら、こんな風になってない。
 私はうまく言葉にできないもどかしさを抱えたまま、ソファから立ち上がる。

「お茶―――入れますね」
「頼む」
 立ち上がった私と入れ替わりにソファに座った夕さんが、深い溜息を吐きながらそう言った。



 料理好きな夕さんの食器棚にはうちよりも沢山お皿が収められている。お茶と言ったが、この家はミネラルウォーターだ。食器棚の扉を開け、ガラスのコップを取り出そうとしたところで―――手が止まった。

 いつも、コップが入っている位置に、茶器が並べられていた。

 先週までは無かったはずだ。
 私は、うるさく騒ぐ胸を無視できずに震える手でポットを抱えた。
 立っていたら、何かの拍子に割ってしまいそうで、ずるずるとしゃがみこむ。

 指が震えて、うまく持てない。

 夕さんは、紅茶を家では飲まない。先日まで、お茶を入れる急須すらなかった。

 つややかな白地に、ブランド名の色で呼ばれる冴えた青。刻まれた模様は憧れ続けたブルーフルーテッド。夕さんの部屋に違和感のない上品な、紅茶を好む人間なら誰でも知っているコレクション。

 昨日まで家で紅茶を飲まなかった人が、ぽんと買うような値段ではない。

 だとすれば、これは。これは。

 きっと私のためのものだ。



 カチャカチャとティポットの蓋がずれて音が鳴る。指だけでなく、いつの間にか全身が揺れていた。涙が、次々と零れる。

 夕さんが、私のために。きっと沢山悩んで、選んでくれたんだ。ポットの隣にある、二脚のティカップ。私がどうしても選べなかったもの。

 あぁ、本当だ。私は、ずっとずっと、彼から逃げていた。

 見える愛しか知らなかった。
 お弁当がなくなったと思った瞬間、だからあれ程にショックを受けた。愛が潰えたのだと。そう思った。

 だけど、代わりに料理を教えてくれることを厭わなかった。見えない愛を。しっかり持ってくれている人だった。

 嬉しかったのはティカップじゃない。私が悩んで苦しんで選び取れなかった二人の未来を、夕さんはしっかり受け入れてくれていたことだ。

 どうして見なかった。どうして信じなかった。ずっと愛は、そこにあったのに。

 胸が震える。嗚咽が零れる。まともに座っていることさえ難しい。ティポットを膝に置きぎゅっと抱え込んだ。
 こんなに素敵な人を、私は知らない。こんなに誠実な人を、私は知らない。

 今まで付き合ってきた多くもなく少なくもない恋人たちに合わせるのは、私の役目だった。こんな風に、見えない愛をくれる人なんて、一人もいなかった。

 誕生日のディナーに、クリスマスのオーナメント。一ケ月記念の定型句のメールに、エッチをしてるときの都合のいい愛の言葉。どれもこれも、簡単に手に入ったけど簡単に消えていってしまった。簡単に与えられるものしか与えてくれる人はいなかった。

 その不安を消し去るように、夕さんは沢山の優しさを、愛をくれていたのに。付き合ってもらってると思っていたのも、格差があると思っていたのも、全部勝手な思い込みだ。私が勝手に、自分をそんな風に見ていただけだ。不安に視界を塗りつぶされて、私は何も見えていなかった。そういった私の態度が、夕さんをあれ程までに傷つけてしまっていたというのに。

「愛歩?」
 遅い私を心配したのか、夕さんが奥ばった場所にある台所へと迎えに来てくれた。しゃがみ込んで泣き崩れる私に驚いて駆け寄ってくれる。

「どうした、どこか痛いか?何か割ったのか?」
 いつもより早口の焦った声。

 夕さん、夕さん。
 もう遅いですか。もう間に合いませんか。
 この手を掴んでちゃ、いけませんか。

 あの時。別れたいのかと聞いたとき。
 夕さんが、あの夕さんが。今にも泣きだしそうな顔をして私を見ていた。

 私は、夕さんの何を見ていたのだろう。
 勝手に神格化して、勝手に盛り上がって、勝手にフィルターをかけて。

 夕さんだって変わらない。一人の人なのに。

 あの時と同じ。ゲームの世界に入り込んでしまった時と同じ。傷を付けないと、気づかない。傷つく人なのだと、気づかない。

 私はまた、傷つけていた。周りを全然見ていなくて、気づけなかった。
 私は何も成長していなかった。

 痛くないと伝えるために大きく首を横に振った。そんな私を見て夕さんがほっとしたように息を吐く。

「お茶はまた後で淹れよう。」
 そう言って夕さんがティポットを取り上げようとするが、無意識のうちにギュッと力を込めて抱き込んでしまった。その様子に気づいた夕さんが、ティポットを持ったままの私を先ほど座っていたソファまで先導してくれる。

 ティポットを抱えて泣き崩れる人間なんて、奇妙で滑稽で仕方がないだろうというのに、夕さんは今まで見たことがないほど優しい顔で笑っていた。

 私は、付き合い始めてから一度だって、夕さんに真正面からぶつかったことがなかった。
 逃げていると言われてもしょうがない。逃げていた。予防線を張っていた。取り繕っていた。

 夕さんは、最初から言ってくれていたのに。
 こんな私でいいって、言ってくれていたのに。

 顔を上げた。春風のような言葉を今、ようやく届けられると思った。

「わた、私は、お兄さんをマッサージしてる時から、ムラムラしてたんです!!」

 何か何かと思って叫んだ言葉に、何を言ってるんだと真っ赤になった。だけど勢いは止まらない。だって、だって。夕さんがあんな風に内面を吐露してくれたのに、私だけ取り繕っていちゃいけない。

「夕さんが、“愛しの君”だって、知らないときから、私は、私は、“愛しの君”がいるのにお兄さんが気になってて、私は、“愛しの君”に心の中で、謝罪をしてて!だって、あんなに好きだったのに、だって、お兄さんが、気になって!」

 茶器がカチャカチャと音を鳴らす。体が震えているのだ。こんな風に夕さんに気持ちをぶつけるのが、堪らなく怖い。お酒の力がない今、私は本当に素っ裸のまま夕さんに体当たりをしている。怖くて怖くて、堪らない。

 そんな私に勇気をくれるように、夕さんが再びしゃがんで目線を合わせてくれる。今度は、茶器を抱えた私の手ごと、すっぽりと包み込んで。

「私は、私は。今までこの性格のせいで、得をしたことがなくて。人に疎まれやすいし、面倒くさがられやすいし、調子のりだから陰口とかも結構言われるほうで。男性ともそうで、付き合うってことは、エッチすることだったし、エッチするってことは、私が頑張ることだったし、だから。だから。夕さんにどうしていいのか、わかんなくて。私、本当に、嫌われたくなくて」

「…あぁ」

「前に言ったこと、全部そのままなんです。夕さんに嫌われたくなかったから…夕さんのこと怖いわけじゃなくて、夕さんに嫌われるのが怖くって。どうしても、怖いんです。この性格で、何度も失敗をして。だから、夕さんには、嫌われたくないから。だから、普通の言動を…」

「俺は、お前と付き合ってるんだ。常識に溢れたどこかの誰かと、付き合いたいわけじゃない。」

 頭が痺れるほど嬉しい言葉に、私はまた涙を溢れさせた。唇が戦慄いてしょうがない。


 ―――逃げるな。避けるな。常識人ぶるな。しまりのない顔で笑え。意味もなく叫べ。しょうもないことで驚け。


 あの時の言葉が全部、彼にとっての真実だったのだと、今ようやくわかった。

「私でいいって言ってくれたのに、心の底から、信じれなくて、ごめんなさぃぃ…」

 ボロボロと、臆面もなく涙を流す私を心底愛しそうに夕さんが見ている。きつくきつく、頭を抱え込まれた。

「怖かったな」
「こわか、った」

「痛かったな」
「…いたかった…」

「無理させたな」
「むり、してたほんとは、むり、してた」

「…頼ることさえ、させてやれなくて。ごめんな」

 一体どこから溢れてくるのかと思うほど、涙が止まらない。抱きしめてくれている腕に力がこもる。このまま、骨も砕けるほど強く抱きしめてほしかった。

 少しだけ体を離した夕さんがティポットを奪ってテーブルに置く。所在なく浮いていた私の手首を捕まえて、指先に口付けた。一本一本に唇を落として、まるで何かを伝えるように。腕、肘、二の腕とのぼっていき、首を噛まれる。その感触に震えがきて一気に甘い気分に浸される。彼の髪に指を入れたい。引き寄せてしがみ付きたい。彼の、匂いを嗅ぎたい。
 顎を伝い耳の裏にキスをされる。そのまま頬を包んで、額を合わせた。

「愛歩が何を不安に思ってるのか知らないけど、俺は可愛いと思ってる。」
 真摯な瞳はぶれることがない。

「突拍子もないことを言うところも、要領がよくないところも。我慢してるんじゃなくて、全部、可愛いと思ってる。勝手に一人で盛り上がって動転して落ち込んで。見ていて飽きない。俺は、お前のそういうところに、惚れてるらしい。」

 眦がまるで色気が滲んだかのように赤い。私と同じ色に染まりあがった夕さんが、真正面から私を食い殺そうと機会を狙っている。

「こんな小さな体ぐらい受け止めれる。信頼してもらえるように頑張るから、辛いときは支えさせてくれ。それを、俺だけの特権にしてくれ。そして―――出来れば、俺も支えてほしい。格好悪いけど、デートの予定キャンセルしたってのに、笑って『頑張れ』っていう女の一言で。仕事を休みたくなるくらい、ダメな男なんだよ」

 夕さんの視線だけでギブアップしてしまいそうな私は、ヘロヘロになりながら頷いた。

「あと、二度と昔の男の話をするな。キスの気持ちよさも、口を開いて待つ癖も、本当は腹が立ってる。」

 驚いて顔を上げる。顰め面で私を見下ろしていた夕さんが視線を逸らした。ニケさんのことといい、元彼のことといい、夕さんは結構やきもち妬きさんなのかもしれない。嬉しくなって、目元がほころぶ。

 そんな私の頭を、夕さんがぽんぽんと叩く。私はその久しぶりの感触に思わず目を見開いた。

「サンタより、俺にねだれ」
 一気に溢れた涙で前が見えずに、ぶんぶんと大きく首を縦に振った。

「何でも言ってくれ。全部やるから。お前は望みが少なすぎる」
 私は唇を噛んで夕さんに突撃した。唸りながら泣いている私の背中を、頭を、夕さんが静かに撫でてくれている。

「考えてるさ。起きてから、寝るまで。こんなもの、相談もなく買っちまうくらい。」
 自嘲気味につぶやいた夕さんの視線の先には、滑らな陶器が浩然と輝いている。私は更に夕さんにしがみつく力を強めた。頬を摺り寄せた胸の鼓動の速さが、私たちが同じ気持ちだということを伝えてくれる。

「これでお茶を飲みながら。たくさん、話そう。」
 私たちは、言葉が足りなかった。恋人になったのに、話し合いを放棄していた。私は何度も何度もしゃっくりを押し込めながら頷いた。



***



 しばらくして落ち着いてくると、私は夕さんの服に鼻水をつけないように気を付けながら離れた。これじゃ、最初の出会いと同じだと、照れ笑いをする。様子に気づいた夕さんが、手を伸ばしてテーブルの下に置いてあったティッシュを取ってくれた。お礼を言って鼻をかむ。こんなことも、ポチの時ならいざ知れず愛歩に戻ってからは絶対にできなかった。

「ゆうさん」
「…たかおみ、だ」
「あゆみです」
 自己紹介をしてるんじゃない、とため息をつきながらも夕さんは笑っていた。その表情を見て、本当に我慢されているわけじゃないことを知る。

「瀬田も俺だが、できれば名前がいい」

 ――お前、まさか。また名前覚えてないとか言わないだろうな?
 電車で言われた言葉を思い出す。私は、ごくりと唾を飲み込んだ。

「貴臣、さん」
 右に左に盛大に目を泳がせながら言う私に、夕さんは笑った。
「なんで“さん”?2つしか違わないんだぞ」
「えっ」
「なんでそんなに驚く」
 眉間を顰めて私の鼻をむぎゅと掴んだ夕さんに、私も笑った。

「じゃあ、たーくん」

 私の言葉に、夕さんはぽかんと口を開いた。こんな風に呆気にとられている顔を見たのは初めてのことで、私は心配になった。

「だ、だめでした?」
 掴んでいた鼻を離して、大きな掌で夕さんは頭を抱えた。

「いや、それでいい。」
 はぁあ…と長いため息が聞こえる。どうしたんだ、大丈夫かと怯える私に夕さんは向き合った。

「愛歩、おいで」
 お、これは、これは!と夕さんの甘い声に私の本能と下半身が反応した。これは絶対そうに違いない。私は夕さんの首に腕をかける。夕さんは危なげなく抱き留めてソファに沈んだ。夕さんの膝にお尻を押し付けるようにして跨る。

 夕さんの顔が近づいてくる。やった、やったと心の中で握り拳を振り回しながら目を閉じた。
 キスが降ってくると思っていたのに、いつまでたっても唇が重ならない。じれた私が目を開けると、夕さんが真剣な顔をして私を見つめていた。

「開けてて」
 何を?目?と、初めて夕さんを見つめたままキスを待つ。

 今にも疼きそうなほど熱い目が焦がれるように私を見ている。高鳴る胸を食い殺すように強い視線が、私を捉えて離さない。

 ―――あれ、あれ、あれ?

 私は大慌てで身を引いて夕さんの顔を押しやった。首を仰け反り、夕さんの口を必死に掌で塞ぐ。

「…愛歩?」
「ま、待ってくださ、なんか、なんかこれは」
 夕さんが驚いたように私を見ている。そして私の掌を掴む。私はいやいやと強く首を振った。

「待って、違うの。なんか違うの、待って、お兄さん待って」

 混乱して、あわあわと口を開く。だって違う、これは違う。今までの、私の知っているキスとは、何かが違うのだ。こんなに恥ずかしくって、愛で埋め尽くされそうな、身の置き場がないような、堪らない物じゃなかった。
 だって、口と口がくっつくだけの。私にとってその程度のものだった。なのに、どうして。

「おにいさ」
「たーだろ」
「た、たーくん、ま、待って」
 逃げる私を追うように、夕さんが私の背を抱いていた手を引き寄せた。ぐんと距離が近くなり、私は腕を突っぱねて距離を測る。

「まって、だって、ま、まって」
「何を」
 無駄な抵抗をその手で防ぎ、夕さんは私の耳に唇を寄せた。奥までくすぐる夕さんの声に、私は大きく身を震わせた。

「ま、まっ」
「待たない、待てない。」

 もう十分待った、と焦がれる視線で焼かれた。見つめられ、奥の底まで覗かれる。上げそうになった悲鳴は、夕さんがその舌で絡め取ってしまった。



***



「もう泣き虫はどこにもいません。虹の麓にいるのは、いつだって笑顔な、幸せポチだけでしたとさ―――ちゃんちゃん」
「ちゃんちゃん」
「終わったか?」

 かけられた声に顔をあげる。いつの間にかほとんど用意が終わった姿で立っている夫に、私は笑みを向けた。

「うん。さ、私たちも用意急ごうか」
「はぁい」
 ぴょん、と娘はお利口さんに私の膝から飛び降りた。

「久しぶりに読んでたな、それ」
 夫の指さした絵本を私は見つめた。
 むかしむかしの物語。涙とため息と、ほんの少しの真実が混ざった愛。

「薫子、今日はポチと一緒に頑張ろうな」

 夫が娘の頭を撫でながらそう言った。娘は、満面の笑みでにっこりと頷く。
 髪を後ろに流してスーツでめかし込んだ夫は、涙が出そうなほど格好いい。

「ふぁあん!パパ、格好いい、格好いい~!」
「あたりまえじゃない。かおのパパなのよ」
 えへんと胸を張る娘のブラウスのボタンを留めながら、そうだねそうだねと私は何度も頷く。


「七五三の時に美容室でしてもらったような髪型にしてこっか」
「ママできるのー?あーあ。けーちゃんとこに行きたかったなぁ」
「もうちょっと近かったらね…あ、こら動かない。」
 パパ、鏡台から紺色のリボン取ってきて~とソファから呼びかけると、時計を腕に止めていた夫が鏡台へと向かってくれた。


「今日はねー花ちゃんに買ってもらったピンクのスカートにする!」
「今日は入学式だからこっち。」
「えー黒なんてかおの好みじゃなーい」
「このおしゃまさんっ」
 教えてもらった通りに編み込んでいく私の邪魔をするように、娘が振り返る。


「わたる今日はこないの?かおの入学式なのに?」
「次はお盆に帰ってくるって言ってたでしょ。我儘ばっかり言ってると嫌われるよ」
「えーないない。だってわたる、かおにぞっこんなんだもん。男心くらい、かおはよぉくわかってるもん」
 白いタイツを履き終えた娘が満足気に笑った。後ろでパパが般若のような顔になりそうだからそれ以上はやめて、とママは心で涙を流す。


「ええと、そうそう。そういえば、かおの担任の先生、ママ知ってるのよ」
「えええ!ずるい!なんで?かお知らないのにー!」
「うふふー本人から聞いちゃった」
「えー?だれだれえ?かおの知ってる人??」
「太陽みたいに明るい人だよ。あとは、行ってからのお楽しみっ」


 途中から髪と一緒に編み込んでいったリボンをゴムの上で留める。私がぽんぽんと頭を叩くと、娘は出来栄えを見るためにソファから飛びのいて鏡に向かって走っていく。

「用意できたか?」
「うん」
「パパッ!かわいい?かわいい」
 鏡台に行こうとしていた足を止め、振り返ってくるりと回る。そんな娘を、夫は目を細めて見つめている。

「あぁ」
「だめよ、パパ。女の子には、あふれるぐらい言葉をつくさなきゃ」

 めっと上目づかいで言ってきた娘にきっと隣にいる夫は心臓を撃ち抜かれたことだろう。
 誰に教わったかなんて考えなくてもわかりそうな仕草と台詞だが――と私は娘の脱いだ服を片していく。そこは上手に見ないふりをした夫が柔らかく笑った。

「可愛いよ、世界で一番のお姫様」
 きゃぁっと歓声を上げた薫子がスキップしながら鏡台へと走っていく。
 娘の後姿を見ながら、つつつと私は夫に寄り添った。

 そんな私を見下ろして、呆れた目をする。そんな目したって、その目の意味を知ってる私には通じない。

 鏡を見てきた娘が、非常に満足気な笑顔で帰ってきた。
 にこにことした笑顔で私と夫の手を取って、首を傾げる。


「あら?パパもお化粧してもらったの?キラキラおラメがお口についてるわ。」





 - 幸せポチ、愛を育む -



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みんなの感想(2件)

きなこ
2021.08.22 きなこ

とてもよかった!読んでて幸せな気分になりました。

解除
まろ
2020.11.24 まろ
ネタバレ含む
解除

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