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第1章 規約彼氏、運用開始
第3話 十秒待つ朝、雨の並走
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朝の空気は少ししめっていた。校門の前、白いタイルを三枚ぶん空けたところに立つ。ここが僕と三浦灯の「決め位置」だ。昨日の放課後に交わした小さな約束――寝ぐせの日は十秒待ってから挨拶――を思い出して、心の中でゆっくり数え始める。
一、二、三。視線は動かさない。四、五、六。靴先をタイルの線に揃える。七、八、九、十。
小走りの足音が吸い込まれて、灯が三枚目の手前でぴたりと止まった。前髪が少し跳ねている。深呼吸を一回。それから、目だけで「準備できたよ」と合図。
「おはよう、灯。今日は空気が軽いね。深く吸える」
「おはよう、木瀬くん。十秒、効くね。急がされないだけで、最初の一歩が穏やかになる」
灯は胸ポケットからメモカードを取り出した。「場所・校門」「距離・タイル三枚」と書き、ペン先で僕を指す。印象の欄は僕の担当だ。少し考えてから書く。
『十秒の余白で、言葉がやわらかくなる。』
声に出して読むと、灯はうなずき、カードをしまった。「こういう一行、迷った日に効くんだよ。毎日は書かないけど」
「僕ら、忘れっぽいしね。要所だけ残す」
二人で昇降口へ向かう途中、角から雨宮が現れ、定規を軽く振って距離を測る真似をした。半笑いの顔はいつもどおりだ。
「タイル三枚、確認。寝ぐせフラグも確認。朝の監査、合格」
「監査書類はどこに出せば?」と灯が返し、僕は肩で笑った。こういう小さなやり取りが、朝の緊張を解かしてくれる。
◇
一限は現代文の小テスト。担任の「要約は骨だけでいい、肉は給食で食べろ」という古いダジャレにクラスが半分だけ笑う。灯のノートが僕の机の端へ滑ってきて、欄外に三つの見出しが並んだ。
〈対比の言葉を先に拾う〉
〈主語と述語を先に決める〉
〈比喩は一段落あとで解く〉
「以上、予想だけ。答えは書かない約束ね」
「それで十分。骨だけもらえれば、あとは自分で肉つけられる」
テストは短くて素直だった。返却された答案の角に小さなスマイル印。先生の採点癖らしい。僕の紙にも、灯の紙にも同じ印がついていて、机の下でこっそり親指を立てた。
◇
昼休み。パンの袋を開けると、近くのテーブルから「昨日の斜め写真、キャプションが削られて回ってるらしい」という声が聞こえた。内容は「距離は健全」の一言だけ。余計な想像が生まれる前に、芽を摘んだほうが早い。
僕はクラスのグループチャットに短い説明を投げた。
――朝は声だけで挨拶(手は振らない)。図書室は向かい合って勉強、席は離して。写真は斜め。以上、心配なし。
すぐに既読が並び、「了解」「健全了解」「斜めは盛れる」が返ってきた。廊下で雨宮とすれ違うと、無言で親指を立てられる。火の粉は小さいうちに払うのがいちばん簡単だ、と身体で覚えていく。
昼の終わり、灯がパンの袋をたたみながら言った。
「ねえ、もう一つ練習したい。私、頼まれごとを断るのが苦手なの。だから――『今は無理。でも放課後の十五分なら手伝える』って言えるようになりたい。段取りで断る、ってやつ」
「賛成。断るのは拒絶じゃなくて段取りだ、って一緒に覚えよう」
その“実戦”は思ったより早かった。チャイム直前、後輩が走ってきて灯に声をかける。
「三浦先輩、掲示用のプリント並べ替え、今手伝ってもらえませんか!」
灯は一呼吸おいて、はっきり答えた。
「今は無理。でも放課後の最初の十五分ならできる。急ぎなら、掲示の順番だけ先生に聞いておいて。そしたら早く進むよ」
後輩はきょとんとしてから、すぐ笑顔になった。「お願いします!」
灯は目だけで「できた」と言って、僕はうなずいた。小さな成功だけど、こういうのを積み上げる約束だった。
◇
四限が終わるころ、空が暗くなった。細かい雨が斜めに落ちはじめ、窓の外の白線がにじむ。昇降口で靴を履き替えると、灯は透明のビニール傘を二本抜き取った。
「一本の傘に入ると近すぎる。今日はそれぞれ持って、肩一枚ぶん離れて歩こう。声は少し大きめで」
「了解。水たまりは――」
「交互に譲る。合図はいらない、目でいける」
軒先でそれぞれ傘を開き、肩一枚ぶんの間隔で歩き出す。歩幅を少し短くして、信号で止まるたびに先に一歩出る側を交代。水たまりが現れると、自然に交互で避けられた。言葉を使わなくても、並び方が会話になっていくのが分かる。距離を守るための決め事は、同時に歩調を合わせる合図にもなる。
「今日の“まとめ”、どうする?」と灯。
「朝の十秒、昼の“段取りで断る”、それと今の雨。三つのうち、どれか一つを日曜に送ろう。僕は十秒推し」
「私も。始まりの練習は長持ちするからね」
横断歩道の白が雨で柔らかく滲んで、紙の端みたいに見えた。信号が変わるのを待つあいだ、灯がぽつりと言う。
「……ありがとう。今日、いろいろ助かった。私、多分“待ってもらえる”ってことに慣れてない。十秒は、たぶんそれの練習」
「僕も同じ。待つ側の練習、続けるよ」
校門の軒先まで戻ると、雨宮が小袋を掲げて待っていた。
「配布物。肩一枚ぶんの目印シール。傘の内側に貼ると間隔が一目でわかる。冗談半分、本気半分」
灯は笑って受け取り、少し考えてから返した。
「今日は言葉で覚える。もし迷ったら、これに頼る。ありがと」
「シンプル運用、了解」
雨宮は肩をすくめ、湿った空気の向こうへ消えた。
◇
家の近くで別れ道。雨音の膜が薄くなっていく。数分後、スマホが震えた。灯からのいつもの短文。
『今日の候補:十秒の朝/断る練習の初成功/雨の並走。日曜、どれにするか一緒に決めよう』
『十秒に一票。文章は僕が草案作るよ』と返すと、すぐ既読がついた。
期末までの「彼氏のフリ」は、派手さがないぶん、さぼるとすぐ雑になる。だからこそ、十秒とか肩一枚みたいに小さくて確かな単位を、毎日積む。明日の朝も数える。十まで。彼女が自分の速度で一歩目を出すのに間に合うように。
一、二、三。視線は動かさない。四、五、六。靴先をタイルの線に揃える。七、八、九、十。
小走りの足音が吸い込まれて、灯が三枚目の手前でぴたりと止まった。前髪が少し跳ねている。深呼吸を一回。それから、目だけで「準備できたよ」と合図。
「おはよう、灯。今日は空気が軽いね。深く吸える」
「おはよう、木瀬くん。十秒、効くね。急がされないだけで、最初の一歩が穏やかになる」
灯は胸ポケットからメモカードを取り出した。「場所・校門」「距離・タイル三枚」と書き、ペン先で僕を指す。印象の欄は僕の担当だ。少し考えてから書く。
『十秒の余白で、言葉がやわらかくなる。』
声に出して読むと、灯はうなずき、カードをしまった。「こういう一行、迷った日に効くんだよ。毎日は書かないけど」
「僕ら、忘れっぽいしね。要所だけ残す」
二人で昇降口へ向かう途中、角から雨宮が現れ、定規を軽く振って距離を測る真似をした。半笑いの顔はいつもどおりだ。
「タイル三枚、確認。寝ぐせフラグも確認。朝の監査、合格」
「監査書類はどこに出せば?」と灯が返し、僕は肩で笑った。こういう小さなやり取りが、朝の緊張を解かしてくれる。
◇
一限は現代文の小テスト。担任の「要約は骨だけでいい、肉は給食で食べろ」という古いダジャレにクラスが半分だけ笑う。灯のノートが僕の机の端へ滑ってきて、欄外に三つの見出しが並んだ。
〈対比の言葉を先に拾う〉
〈主語と述語を先に決める〉
〈比喩は一段落あとで解く〉
「以上、予想だけ。答えは書かない約束ね」
「それで十分。骨だけもらえれば、あとは自分で肉つけられる」
テストは短くて素直だった。返却された答案の角に小さなスマイル印。先生の採点癖らしい。僕の紙にも、灯の紙にも同じ印がついていて、机の下でこっそり親指を立てた。
◇
昼休み。パンの袋を開けると、近くのテーブルから「昨日の斜め写真、キャプションが削られて回ってるらしい」という声が聞こえた。内容は「距離は健全」の一言だけ。余計な想像が生まれる前に、芽を摘んだほうが早い。
僕はクラスのグループチャットに短い説明を投げた。
――朝は声だけで挨拶(手は振らない)。図書室は向かい合って勉強、席は離して。写真は斜め。以上、心配なし。
すぐに既読が並び、「了解」「健全了解」「斜めは盛れる」が返ってきた。廊下で雨宮とすれ違うと、無言で親指を立てられる。火の粉は小さいうちに払うのがいちばん簡単だ、と身体で覚えていく。
昼の終わり、灯がパンの袋をたたみながら言った。
「ねえ、もう一つ練習したい。私、頼まれごとを断るのが苦手なの。だから――『今は無理。でも放課後の十五分なら手伝える』って言えるようになりたい。段取りで断る、ってやつ」
「賛成。断るのは拒絶じゃなくて段取りだ、って一緒に覚えよう」
その“実戦”は思ったより早かった。チャイム直前、後輩が走ってきて灯に声をかける。
「三浦先輩、掲示用のプリント並べ替え、今手伝ってもらえませんか!」
灯は一呼吸おいて、はっきり答えた。
「今は無理。でも放課後の最初の十五分ならできる。急ぎなら、掲示の順番だけ先生に聞いておいて。そしたら早く進むよ」
後輩はきょとんとしてから、すぐ笑顔になった。「お願いします!」
灯は目だけで「できた」と言って、僕はうなずいた。小さな成功だけど、こういうのを積み上げる約束だった。
◇
四限が終わるころ、空が暗くなった。細かい雨が斜めに落ちはじめ、窓の外の白線がにじむ。昇降口で靴を履き替えると、灯は透明のビニール傘を二本抜き取った。
「一本の傘に入ると近すぎる。今日はそれぞれ持って、肩一枚ぶん離れて歩こう。声は少し大きめで」
「了解。水たまりは――」
「交互に譲る。合図はいらない、目でいける」
軒先でそれぞれ傘を開き、肩一枚ぶんの間隔で歩き出す。歩幅を少し短くして、信号で止まるたびに先に一歩出る側を交代。水たまりが現れると、自然に交互で避けられた。言葉を使わなくても、並び方が会話になっていくのが分かる。距離を守るための決め事は、同時に歩調を合わせる合図にもなる。
「今日の“まとめ”、どうする?」と灯。
「朝の十秒、昼の“段取りで断る”、それと今の雨。三つのうち、どれか一つを日曜に送ろう。僕は十秒推し」
「私も。始まりの練習は長持ちするからね」
横断歩道の白が雨で柔らかく滲んで、紙の端みたいに見えた。信号が変わるのを待つあいだ、灯がぽつりと言う。
「……ありがとう。今日、いろいろ助かった。私、多分“待ってもらえる”ってことに慣れてない。十秒は、たぶんそれの練習」
「僕も同じ。待つ側の練習、続けるよ」
校門の軒先まで戻ると、雨宮が小袋を掲げて待っていた。
「配布物。肩一枚ぶんの目印シール。傘の内側に貼ると間隔が一目でわかる。冗談半分、本気半分」
灯は笑って受け取り、少し考えてから返した。
「今日は言葉で覚える。もし迷ったら、これに頼る。ありがと」
「シンプル運用、了解」
雨宮は肩をすくめ、湿った空気の向こうへ消えた。
◇
家の近くで別れ道。雨音の膜が薄くなっていく。数分後、スマホが震えた。灯からのいつもの短文。
『今日の候補:十秒の朝/断る練習の初成功/雨の並走。日曜、どれにするか一緒に決めよう』
『十秒に一票。文章は僕が草案作るよ』と返すと、すぐ既読がついた。
期末までの「彼氏のフリ」は、派手さがないぶん、さぼるとすぐ雑になる。だからこそ、十秒とか肩一枚みたいに小さくて確かな単位を、毎日積む。明日の朝も数える。十まで。彼女が自分の速度で一歩目を出すのに間に合うように。
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