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第6章

高く感じた空の下で

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お母さんが作った借金は膨大だったようだ。

井川が教えてくれたけど、私の稼ぎは1日で数百万あるらしい。1日に何人相手にしたか、今まで何人相手にしてきたかは覚えていないけど、とにかくそうらしかった。

私が彼らに開放されたのは、10年後の27のときだった。
普通に考えて、そんなにかかるわけがない。

白いクスリといえど、手が出る値段でないと話にならないはず。母が手を出したのは、どれだけ早くてもお父さんと別れてからだ。

お母さんが出せる額と使用していたと思われる日数。到底計算は合わないが、こんな人たちに常識が通用するわけもない。どうせ不適切な利息が絡んでいたんだろう。そうじゃなくてもそう説明するに決まってる。

私はお金の問題の果てにこんな人生を歩むことになったので、それ以上はもう考えたくもなかった。

井川は言っていた。
「もしかすると、あと10年は解放されなかったかもな」
つまり、稼げるだけ稼がせるということだ。

思えば、井川は何かと世話を焼いてくれた気がする。病気で寝込んでいるときは風邪薬や栄養のつく食べ物を用意してくれたり、休養をとらせてくれたりと便宜を図ってくれた。

他の売子には、体調不良のまま働かされたり、ロクでもない食べ物を与えられていた人もいるので、その辺は明らかだった。

とすると私が27で解放されたのは、井川が裏で手を回してくれたのかもしれない。

売子をやる前の私なら感謝していたかもしれない。だけど、いまさら外の世界に興味はわかなかった。いまほっぽり出されて、どうやって生きていけばいいのか見当もつかない。

もちろんセンセイに会いに行くなんて、考えられない。
つーか絶対知られたくない。

「住むところや、しばらくの生活費はこっちで負担する。もっとも別人として生活してもらうことにはなるが、戸籍や必要な書類も用意する」

彼を見る度に、流れた歳月にショックを受ける。
10年も経つと井川も相当なオジサンとなっていた。

「わかっていると思うが、こっちにはおまえの顔や、売子をしていたときの動画もある。さらにおまえも知ってのとおり、客の中には国やマスコミを左右できる人もいる。滅多なことは割に合わんから、やめといたほうがいい」

言われるまでもない。仮にマスコミに情報を流したとしても、私の10年は帰ってこない。むしろこの後の何十年も棒に振りかねない。これから先の人生に未練はないけど、疲れる出来事は、もうごめんだ。

そうやって井川に紹介された場所は、北陸の小さな港街だった。
周辺には同じような境遇の人が多くいるらしい。みんな覇気がなく、光を失ったような人ばかりの、死んだ街だった。

地図や渡された書類を頼りに辿り着いた場所は、小さなアパート。以前住んでいたアパートよりもキレイめな外観である。指定された部屋番号の扉に鍵を入れて回すと、カシャンという音が廊下に響いた。

ドアノブを回して扉を引いてみる。
「あ、あれ?」
扉はうんともすんとも言わない。すると、再びカシャンという音が鳴り響いた。

「へ?」
そして扉が私の方へ迫ってくる。誰かが中から扉を開けているのだということがわかって、私は慌てて後退した。

中から顔を出したのは、
「ゆ、優花……よね?」

「お……お母さん?」
母が部屋に入り込んでいた。いや、母が住んでいる部屋を私に紹介したのだろう。
私がそんなことを考えていると、
「ちょっ」

お母さんが抱きついてきた。私の胸に顔を埋め、わあっと泣き叫ぶ。
結構な音が響いたと思うが、アパートの人が廊下に出てくることはなかった。なんとなく、同じような人たちが住んでいて、他人に構う余力すらないのではないかと考えた。

「とりあえず、中はいろ」
そう言って母を部屋に押し込む。

お母さんは、玄関で靴を脱いでいるときも、リビングに通されるときも、テーブルの前に座ったときも、何度も何度も「ごめんね」と言っていた。

許せるわけがない。
だけど、許さなくても結果は何も変わらない。
いまお母さんを責めても、なにも変わらないのだ。

改めて見た母の顔は、別人のようだった。
10年しか経っていないはずなのに、その何倍ものトシを重ねたようになっていた。顔中にシワやシミが残り、髪は白と黒の割合が半分ずつぐらい。60歳と言われても納得できるような風貌だ。

「もういいよ」
ニュアンス的には「気にしないで」ではない。「もうどうでもいい」の方が強い。私もこのアパートに住んでいる、見たことがない住民と同じように、「ヒトに余力を振りまいている余裕がない」1人だった。

「で、もう止めたんでしょ? アレ」
お母さんは力なく頷いた。
「じゃあ、もういいよ。もうやらないでね」
もう一度頷く。

本当の中毒者だと、克服するのに気が狂うほどの努力が必要らしい。昔見たドラマの記憶だけど。もし本当に止められたなら、それを謝罪の気持ちとして受け取ろう。
そう考えて納得させるしかなかった。

「あー、つかれた」
部屋に置かれているベッドサイドにもたれかかる。
見ればもう1室あるようなので、立ち上がって襖を開けてみた。
すると使ってないであろう部屋が現れた。

しかし、家具のどれもが見覚えのあるものばかり。
「これ、私のベッド……机……」
私が高校のときに使っていた、部屋にあったものをすべて配置された部屋だった。
その中で唯一、見慣れないものが視界に入る。

私は、その見慣れない白いクローゼットに歩み寄った。



クローゼットを開けてみると、服がズラッと並んでいた。やはり、どれもが高校のときのもので、もう着ることができない服たちだった。

その中から1着、学校の制服を取り出す。

しばらく見つめていた。
やがて、涙が溢れてくる。

悔しくて、悔しくて。惨めで情けなくて。10年間無情だった私は、制服を抱きしめて10年分の涙を取り返すように、その場に泣き崩れていた。
センセイ……。ごめんなさい。

「悪いとは思ったんだけど」
部屋の外から、伺うような様子でお母さんが見ていた。
涙で喉が詰まって答えられないけど、目で返事をする。

「お母さんのリハビリ中に、優花の学校――笹岡先生が訪ねてこられてね」
勢いよく立った私は、制服をその場に捨ててお母さんに詰め寄る。

「ちょっと! まさか、センセイに何か言ったんじゃないでしょうねっ?」
アパート中に響いたかもしれない大声だった。

「ごめんなさい。言わないでおこうと思っていたんだけど、おまえが帰ってくることが先週わかってね。笹岡先生も何年も私のリハビリに付き合ってくださっていたのもあって、我慢できなくて、嬉しくて、つい」

終わった。

センセイにだけは知られたくなかったのに。センセイの中の私が汚れてしまったことが、この10年で一番傷つく出来事だった。
腰を抜かして、その場にへたり込んでしまう。

「本当にごめんね。笹岡先生がおまえのことをひどく心配しておられて、大切に思ってくださっているようだったから……」

もう知られてしまっている以上、どうしようもなかった。いま責めても――今日だけで、「いま責めても」って何回思ったんだろう。ひどく疲れた私は、何も考えられない頭になっていた。

せめて先生の記憶の中だけでは、キレイなままの私でいたかったと願うのは、私のワガママなんだろうか。ペテンと同じことなんだろうか。嘘つきなんだろうか。
誰だって、好きな人にそんなこと知られたくないはず。

「母さんね、おまえのことを思って、毎日コツコツ働いて貯金してたんだよ」
唐突に母がそんなことを言い出した。

気持ちはありがたいけど、今いちばん聞きたくないワードが「お金」だ。というか、これからも死ぬまで耳にしたくないぐらいだった。

通帳を開いて見せてくれるが、私が一週間で稼いだとされる額よりも少なかった。そのことが余計に空しくさせる。お母さんのこの10年は、非合法な一週間以下だということがつらかった。

ただ、母としては私を喜ばせたい一心だったのだろう。それだけは感じ取った。
「ありがとう、お母さん」

母は満足そうな表情になったので、これはひとまず解決した。
「これで結婚式でも挙げておくれ」

「……」

バチンという音が、部屋中に響いた。

私は、手の甲で母の頬をぶっていた。
思えば、母に手をあげたのは初めてのことだ。

思考の外にあった出来事で、反射的な動作だった。母は1メートルぐらい後ずさり、私に殴られた頬を抑えて涙を浮かべている。

「ちょっと無神経すぎない? 昔からそういうとこあったけど」
すると母は、壊れたテープレコーダーのように「ごめんね」と繰り返す。

ダメだ。うんざりする。やっぱりこの人と一緒に生活はできない。
というか、もう私は誰とも関わらない方が良い。誰にも優しくなれそうにない自分が、大嫌いで憎くてウザくて仕方ない。

「あのさ、私、他のところでひとり暮らしするよ」
「え?」

予想だにしていなかったようだ。いまさらすべてを忘れて、仲良く暮らせると思っていたのが腹立たしい。

「だけど、おまえ」
まだすがりつこうとする母が憎くて仕方ない。本当にこのまま一緒に住んでいたら、いつかキレて殺してしまうかもしれない。

「もうすぐ来るんだよ?」

は?

「来るって何が?」
それとほとんど同時にインターホンが鳴った。

母が、返事をしながら玄関先に歩いて行く。私は柱にもたれかかるようにして座り、髪を掻き上げて塞ぎ込んでいた。

「よく、いらしてくれましたね」
母の応対の声がここまで聞こえる。

「どうも、ご無沙汰してます」
女性の声がした。母とは親しいような、そうでもないような微妙な口調でやりとりしている。

「それで、もう帰ってきてます?」
「ええ、ついさきほど」

私のこと? 気になって玄関の方に視線をやった。

それと同じぐらいのタイミングでスッと、リビングに入ってきた。
長い黒髪と色白な肌が目立つ、綺麗な女性だった。私よりもはるかに年下の彼女は、憎らしいほどに若かった。

今初めて会った人にすら、嫉妬や憎悪を感じている自分に嫌悪感を抱いていると、
「久しぶり」
と彼女は言った。

「お姉ちゃん」

まさか。

彼女は私の前に座り込み、私の頭を抱きしめるようにして泣いた。
「ごめんね、つらかったね」
「うそ……」

「お父さん、今日も学校あるから。もうちょっとしたら来るから。だから、もうちょっとだけ、もうちょっとだけ我慢してね」

そう言いながらも女性は泣きつづけている。謝りつづけている。いつの間にかお母さんももらい泣きをしていた。私は、

「アヤ……ちゃん……わあああ」

アヤちゃんを抱きしめて大泣きしていた。
アヤちゃんの大きさが、時の流れが、今目の前にいることが、後からセンセイもくることが、つらくて悲しくて、恥ずかしくて嬉しかった。

「ごめんね。私たちのこと思って、自分が犠牲になってくれたんだよね」
「え?」

アヤちゃんがそんなことを言い出すので、私は顔をあげて涙顔で返事をする。
「井川さんって人にきいたから」

あのオッサン……。
意外なところでオッサンの名前を聞いて、したくないけどちょっとだけ感謝してしまった。



「センセイは知ってるの?」
「うん。知った途端、お父さんが通報しようとしてたから、私が止めたの。あと一週間で帰ってくるんだから、今までお姉ちゃんが頑張ってきたんだからって説明して……」

それでよかったと思う。私が相手にしてきた客は、いち教師が反論したところで事実がひっくり返ることがないような相手ばかりだった。

逆にアヤちゃんも一緒に、社会的に潰されてしまってもおかしくない。だからこそ、私は彼らの要求を飲むようにしたんだから。

「ごめんね。本当は私も悔しくてなんとかしたかったんだけど、お姉ちゃんが犠牲になったことが、この10年間頑張ってきたことが無駄になってしまう気がして。お姉ちゃんが望んでないような気がして……本当にごめんなさい」

「いいよ。いいの。大丈夫。それでよかったんだよ。私たちがどうこうできる相手じゃなかったんだから、謝らなくていい」

結局私たちは、数十分ほど泣いたり、謝ったり、抱き合ったりして過ごした。
「それでセンセイ、来るの?」
涙を拭きながらたずねる。

「当たり前でしょ。お父さん、どんな思いで10年間待ち続けたと思ってるの」
怒られてしまった。すっかり大人になったアヤちゃんは、もう19才とのこと。

来年成人式か。私は成人式をしてないので、どういったものかわからないけど、私の分も祝ってあげようと思っていた。

「ごめん」
「え?」

「なんか無神経だった。いまのセリフ。でもお父さんが待ってた気持ちもわかってほしくて」
ああ、そういうこと。

「大丈夫だよ。私のことは気にしなくて」
アヤちゃんによると、学校には、私はあのタイミングで施設に送られたことになったそうだ。

しかし、センセイだけはそのことを信じていなかった。
自分が手配した施設以外に、私が勝手に行くとは思わなかったからだ。

その後、方々を駆け回って捜したり、警察に届け出をしたけれど、日村優花は行方不明のまま処理されていた。

なんとなく世間で騒がれている、行方不明のまま見つからない人たちの行き先がわかったような気がする。

正直、つらすぎて学校のことは詳しく聞きたくなかった。時間の流れを生々しく感じてしまうものに、まだ慣れていなくて精神が拒否してしまう。

しかし、ただでさえ気を遣われている雰囲気で、そんなことは言い出せない。言ってしまった後の雰囲気が、とても重苦しくなるであろうことは、容易に想像できた。

世間話をしながら、アヤちゃんはリンゴを剥いてくれる。つづけて、今日の晩ご飯私が作るからね、と言ってくれる。お母さんは買い出しに行ってくれた。

アヤちゃんが剥いてくれたリンゴを頬張ると、また涙が出てきた。
「お姉ちゃん? どうしたの? どっか痛い?」
首を左右に振る。

「つらいの」
「なにがつらいの?」
「優しくされるのが」

周囲の気遣いが身体に染み渡るようで、全身がチクチクと痛むほどだった。
たしかに、こんな境遇の人が帰ってきたら、気を遣うなって言う方が無理かもしれない。

そもそも、外の世界の人々にとっては「普通のこと」なんだろう。裏の世界で長らく人の温かみに触れていなかった私は、久しぶりにそれを感じて心や身体がビックリしているようだった。

こんな状態でセンセイなんかに会ったら、失神しちゃうかもしれないな。
とにかく、センセイが来るまでに心身をニュートラルな状態に戻そうと必死だった。
するとアヤちゃんが、

「わっ」
私の頭を抱えて、自分の膝の上にのせる。そして頭をゆっくりと撫でてくれた。
「あ、アヤちゃん……さすがにこれは恥ずかしいから」
はるか年下の女の子にそうされると、逆に身体が強ばってきた。

「お姉ちゃん」
「ん?」

「お姉ちゃんは、私の大事なお姉ちゃんだよ」
「ん……うん」

「これから、もう何も心配しなくてもいいから。身体の力、抜いたら?」
肩に手を置いて、ギュッと抱いてくれる。

「疲れたね。だから、もういいんだよ」
その言葉に、もう一度涙が溢れそうになった。

そのとき。心臓がキュッと掴まれたような気持ちになる
インターホンが鳴ったのだ。

お母さんは鍵を持って出かけていった。
ということは……、
「来ちゃったね」

残念そうに言った彼女は、私の頭を膝から静かに下ろす。
そして立ち上がって、玄関の方へ行った。玄関扉を開ける音がする。アヤちゃんが何か言っている。男性の低い声が聞こえる。

焦る心を落ち着けようとあちこち視線をさまよわせる。窓の外を見てみると、海が見えた。ここから見えるということは日本海だろう。

そんな海に夕日が浸かりかけている頃。その隠れてしまいそうな夕日をじっと眺めていると、背後にある玄関の方から声が聞こえた。

男性の、懐かしい声だった。

私が売子をやっていたときも、この10年間一度も忘れたことがない、頭の中ですり切れるぐらい何度も再生されていた、センセイの。

「優花……」

たぶん、初めてだ。

センセイが私を名前で呼んだのは、これが初めてだった。

どうやらアヤちゃんは、気を利かせて外に出て行ったらしい。
8畳ほどの広さがあるフローリングのリビングは、窓から差し込む夕日で真っ赤に染まっている。まるで赤いプールのようだった。

私も、センセイも。過去も記憶も。すべてが赤一面になっている気がする。
夕日に照らされたセンセイは、白髪が目立つようになっていた。

私は声にならないまま、口をパクパクとさせている。
言いたいことはたくさんあるのに。

そして大粒の涙が、私の頬を伝った。
センセイが首を縦に振ったとき、拍子に涙が零れた。

赤いプールの上に落ちたふたつの涙は、波紋を作ることなく、消えることなく、その場に留まりつづけていた。

「私は、一人前になれたでしょうか」

センセイとパパ活 完
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