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4 神
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雨が降っているようだった。
身体が重い。寝台に寝かされている。重い瞼を開く。山中の小屋のような部屋。壁に異国風の布を垂らした装飾がしてある。体を見下ろすと手当がされていた。
捕えられたか。あるいは死んだか。
どちらでも同じことであろう。死罪は免れぬ。郷里の一族も連座するだろう。
隣に女がいた。これも亜麻色の髪の色目人。若く、固い表情で李淅を見下ろしている。
「ここはどこだ」
李淅は問うが、女は答えない。
「どれほど経った」
これにも答えはない。言葉が通じないのか。ふと「雨が降っているか」と聞くと、それには女は頷いた。
「お前は何だ」
女から問が返る。王に比べて発音がやや拙い。が、十分に意味は伝わる。
「俺は盗だ」
「何だ、それは」
王とも同じやりとりをした。あるいはこの屋敷のなか――国――では、盗みをする者はいないのか。あり得ないことだ。盗みを知らぬ国など、奇譚の類にも出てこない。
「殺して、奪うのよ」
「お前は、陽を盗みに来たのか」
何を言ってやがる。
李淅の意識は再び闇に溶けていく。
数日、傷を癒した。李淅は自分でも初めて知ったことだが傷の治りも早いようだった。今のところ公の獄舎に移される様子もない。
飯には見慣れない万頭が出た。やむなく食った。どうなるにしても体力が要る。
女が語ったのは、考えられない話だった。いわく、ここは西方のシッシャなる国の末裔の国なのだと言う。どういう字をあてるか聞いたが、槐の字は無いらしい。
はるか古に槐と天地の覇権を争い一時は槐の都にまで攻め込んだほどだが、武運を得られず国は滅び去った。最後の砦を神の力で槐の国内に維持していて力を蓄えている。いつか外に踊りだし槐を滅ぼさん。
シッシャは神の国だ。世に陽が昇るのは、シッシャの王が世を徹して太陽あらんことを神に冀うためだ。お前が王を殺し太陽を呼ぶ儀式を台無しにしたため、貴重な鶏を生贄にして神の許しを乞うた。
馬鹿げた話だ。槐は建国八十余年、都への侵攻を許したことはない。シッシャなどという国も知らん。槐の軍が幾たびか夷狄と干戈を交えたことこそあるが、覇を競ったなどと夜郎自大な自称は聞いたこともない。
「俺をどうする気だ」
「王殺しは神でないと裁けない」
また、神だ。
「つまりは殺すと言う事か」
「神に会ってもらう。神はそう望んでいる」
李淅にとっては神とは社稷に住む先祖の霊のことだ。生きながら神に会えるはずもない。
殺すなら殺せばいい。俺が強ければ、俺はこいつらを殺しただろう。たまたま今回は色目人どもが俺よりも強かった。逆に首を取られるのは当然のことだ。
「お前は、なんだ」
「私は、王の妻だ」
女はそう答える。
翌日、李淅は神に会うことになった。
小屋から連れ出した二人の屈強な色目人は明らかに李淅を憎んでいたが、手荒な真似はされなかった。
村を通り屋敷の門近くに建っている、そこだけ槐風の建物。門を囲うように建って外と内とを分けている。外からは一件常の屋敷のように見え中からは砦のように見えるという訳か。色目人にとっては神域とされている館の中に連れて行かれ、小さな石造りの部屋に通される。
卓があり、椅子が二脚向かい合わせに置いている。男どもは一方の椅子を指す。掛けろと言うのだろう。
座って待つうちに神がやってきた。色目人の男どもは深く頭を下げる。
(なんだ)
あらわれたのは老人だった。体つきも貧相で、背が低く肉がたっぷりついている。李淅と同じ槐人の顔つき。
「お前は誰だ」
座るなり、老人はそう問うた。
「俺は盗だ」
ここで答えるのは三度目だ。今度は盗とは何かとは聞かれなかった。老人はうなづく。
「名を答えろ」
「烏勃の李淅」
「学生か」
「挙人だ」
郷試までは通っている李淅にはそう答える権利がある。挙人にはいくつか特権がある。みだりに逮捕されないのもその一つ。さすがにこの罪状では死は免れないとしても多少手続きを煩雑にすることはできよう。
老人は表情が読みにくい。何度か頷き「儂は周順」と名乗る。内心李淅は納得する。むしろ予測しておくべきだった。ここは周順の屋敷だ。この屋敷で神に近い者がいるなら周順をおいてない。
周順が何事か色目人に命じると、いくらかの酒肴が卓に並ぶ。
「あいつらは儂らの言葉は知らん。お前は色目人の言葉は知らんだろう。ありのままを言え。昨今の良民を鏖殺する夜盗はお前か」
「そうだ」
「仲間がいるのか」
「ひとりだ。事をなすのに仲間など無用のこと」
「何故儂の屋敷を選んだ。他にいくらも屋敷はあろう」
「国政を壟断する宦官めの屋敷であれば、さぞ金銀が唸っているだろうと考えた」
いまさら嘘をつく気にもならない。神を名乗る老人がその気になれば百日李淅を拷問にかけることもできるのだ。
ふふふ、と周順が笑う。
「金銀はなかったな」
李淅は笑えない。
「お前は、儂へのあてつけに忍び込んだのか」
「違う。単に、財が欲しかった」
「何か、ここにつて噂が流れているのか」
李淅は恩師の宴で聞いた話をそのまま伝える。
「いかんな。いかん。何か別の噂でもながさんと」
いかん。何度も周順は繰り返す。
考えてみれば皇帝側近くに仕える身でありながら都の中に国を名乗る里を養っているのだ。皇帝の権威の完全な否定であり大逆も大逆、知れれば一族誅滅は免れまい。
となれば俺は裁判は受けられまい。殺して埋める、この周順が考えるのはそのあたりだろう。
「お前はなぜ盗になった。なぜこうも人を殺す」
周順に問われ、李淅は言葉につまる。もともと李淅が盗であることを人に知られたのも今回が初めてのこと、当然なぜと問われたこともない。
「俺は里を十三で出た。一族を富ませるためだ」
「おお、さぞや盛大に見送られた事だろう」
周順が自分の若いころを思い出すように目を細める。
「俺は都で一番の富を得ようと思っていた。当然そうなるものだとも思っていた」
苦々しい記憶だった。あれから幾たび自分の才能の無さに苦悶したか、今となっては数えられぬ。最初はそれでも若いからよかった。次に受かればいいと周りも言ったし、自身でもそう言い聞かせることができた。だが二十歳を過ぎると誰もが微妙に態度を変えた。何を思っているのかは李淅にもよくわかった。ああこいつは一生、白髪で腰が曲がるまで学生なのだと、ついに何事をもなさず何者にもならぬまま死んで行く者たちの一人なのだと。
そのころから李淅は遊びに誘われるようになった。誘ったのは年上の学生たちで、つまりは自分たちの仲間だと思われたのだ。都の遊びと、金がなくて遊べぬ苦しみも知った。親の財で遊びまわる公達とも知り合った。いつ街に行っても遊んでいる姿を見かける連中が次々に進士となっていくのを見た。
そしてその知り合った公達の一人が何かの機会に何気なく「君はもっと学べ。学問が足りないから何年経っても落ちるのだ」と言った一言が李淅を盗にした。
こいつらを殺したいと思った。百年も前に誰かが一生安楽に暮らせるものとして決めた者どもの安心しきった胸を貫き、はらわたに鋼の冷たさを教えてやりたいと。絹の着物をはぎ取って裸の躯を打ち捨てたいと――
実際に宵闇の中屋敷に押し入りそれをした時に感じたのは、罪の感覚でも罰への怯えでもなく、深い安堵だった。なんだ、この世にも俺に上手くできることがあるではないか、と。
語る李淅の声を、周順は酒杯を眺めながら聞いていた。やがて一気に中の酒を飲み干す。杯を卓に置いた時には口の端に笑みに似た歪みを浮かべている。
「痴人の話は酒肴としては上の上なるものだ。実に酒が美味い」
言って、色目人が酒を注いだ杯をまた持ち上げる。
李淅は黙る。結局のところ李淅は都で学で勝てず財で勝てず、ただ夜の闇と剣の力で勝とうとしてきたが、それも潰えた。何を言ったところで美しくはあるまい。しばらく黙り込んだ李淅を見ていた周順は、不意に口調をやわらげ「盗は、儲かったか」と尋ねる。
「足りぬ。都第一の富貴には、まったく届かぬ」
「十三の童の頃の志など諦めればよい。そも、志など乱世でなければ遂げられぬ。お前は挙人と言ったな、であれば里に帰って子供に書でも教えれば十分一身を養えよう。古老にあいさつを欠かさなければそのうち嫁も世話してもらえるかもしれぬ。今となっては遅いが」
「この世に生まれてすべてを望んで何が悪い」
「大それたことだ。全てを望むことを天に許されるは、この世にただのおひとり」
周順は酒杯で部屋の壁を指す。壁の向こうには宮城があるのだろう。
「俺は、全てが欲しいのだ」
「それで、お前は法を捨てたか」
「法が俺に何をくれた。俺を縛るだけではないか。俺を益さぬ法をなぜ俺が守らねばならぬ」
また一口、周順は酒を口に含む。ゆっくりとそれを飲み干してから言葉を継ぐ。
「ときにお前、年はいくつだ」
「二十と八」
「であれば二十年は勉学しただろう。古聖の教えを学びに学んだ末に思うたのが、それか」
「街で、穀潰しの貧乏学士と嘲られる俺を書は一度も助けなかった」
「で、あろうな」
深く周順は頷く。
「所詮、そんなものよ」
と続ける。しばらく周順は酒を舐めるように飲んだ。舌が長く、沈んだ眼で震える酒の表面を見ている周順はどこか奇怪な獣のように李淅には見えた。
「儂は王になりたかった」
ぽつりと周順が言葉を漏らす。儂はお前とは違う、と周順は重ねる。儂は成し遂げたのだ、と。
偉くなりたく、お前のように科挙に臨んだ。儂は幸い年月を多くかけることもなく及第し、進士となった。だがある日人に讒せられ、刑を受け宦官となり果てた。宦官の身では王にはなれまい。儂は絶望しながらも皇帝に仕え、その信望を得、屋敷を得た。
いつのころからか儂は国をつくろうと考えた。広い屋敷さえあれば中に何枚かの田畑を隠せよう。魚が遊ぶ池も掘れよう。鳥が来る森も植えられよう。小屋をいくつか立てて国に見立てた里もこしらえられよう。
「奴らは奴隷よ。赤子の頃に買い求め、外を知らせずに儂を神として育てた。赤子から育てた数人の同郷の者と、お前が殺した王だけが外も内も知っている。
色目人の国を儂は私有しておる。宦官として昼は槐の宮廷に仕えているが儂は王以上のものなのだ。つまりは天だ。国の民どもには神と呼ばせているが。
民どもは儂に陽を登らせてくれと祈っておる。儂が死ねと言えば喜んで死んで行く。これができるのは、天地の間に武英と儂だけよ。
どうだ。お前にはこうはできまい」
げぇ、と李淅は呻きたくなるのを必死に噛み殺した。武英は皇帝の名である。よりにもよってこの宦官は皇帝を名で呼び捨てたのだ。
(いまさら俺が皇帝の何を畏れるか)
李淅はそうも思うが、朝堂の一員たるを目指した日々が何とも居心地の悪い思いをさせる。そんな李淅を見ながら周順は満足そうにくふ、くふ。気味の悪い笑いを立てる。
(大狂也)
李淅は不思議な感動さえ覚えていた。皇帝に仕えながらひそやかに都の中に自分の国を作るなどまぎれもなく狂人の発想だ。狂人だが、その狂気を実現させしまっている。
「儂はお前を好きだ」
周順は意外なことを言った。殺すには惜しい。そうも言った。
「お前は挙人でありながら盗である。一介の学生にして天に許されざる空しい望みを抱いている。偉大な痴人とも言える」
「……」
「お前が王を殺したために、次の王を決めねばならなくなった。儂は天であるが故、王を決める。お前が次の王だ」
何を言い出すのかと思った。殺さぬばかりか、俺が次の王だと。
「お前は民を集め毎夜儂に祈れ。次の朝をくださいと伏して祈れ。大した出世ではないか。お前では永遠に及第は望めなかっただろうからな」
そう言って、再び周順はくふくふと笑う。そして李淅に酒を勧めた。
「飲んでおけ。少しは痛みが軽くなろう」
痛みだと。酒を受けながら李淅はいぶかしむ。
「お前は身が軽い。五体満足ではすぐに逃げるだろう。であるがよって、欠けてもらう。お前は一生を儂への祈りに使うのだ」
何事か周順が色目人に命じる。色目人は喜々として李淅をおさえつけ、帯びていた短剣で左足と右腕の腱を断ち切った。
身体が重い。寝台に寝かされている。重い瞼を開く。山中の小屋のような部屋。壁に異国風の布を垂らした装飾がしてある。体を見下ろすと手当がされていた。
捕えられたか。あるいは死んだか。
どちらでも同じことであろう。死罪は免れぬ。郷里の一族も連座するだろう。
隣に女がいた。これも亜麻色の髪の色目人。若く、固い表情で李淅を見下ろしている。
「ここはどこだ」
李淅は問うが、女は答えない。
「どれほど経った」
これにも答えはない。言葉が通じないのか。ふと「雨が降っているか」と聞くと、それには女は頷いた。
「お前は何だ」
女から問が返る。王に比べて発音がやや拙い。が、十分に意味は伝わる。
「俺は盗だ」
「何だ、それは」
王とも同じやりとりをした。あるいはこの屋敷のなか――国――では、盗みをする者はいないのか。あり得ないことだ。盗みを知らぬ国など、奇譚の類にも出てこない。
「殺して、奪うのよ」
「お前は、陽を盗みに来たのか」
何を言ってやがる。
李淅の意識は再び闇に溶けていく。
数日、傷を癒した。李淅は自分でも初めて知ったことだが傷の治りも早いようだった。今のところ公の獄舎に移される様子もない。
飯には見慣れない万頭が出た。やむなく食った。どうなるにしても体力が要る。
女が語ったのは、考えられない話だった。いわく、ここは西方のシッシャなる国の末裔の国なのだと言う。どういう字をあてるか聞いたが、槐の字は無いらしい。
はるか古に槐と天地の覇権を争い一時は槐の都にまで攻め込んだほどだが、武運を得られず国は滅び去った。最後の砦を神の力で槐の国内に維持していて力を蓄えている。いつか外に踊りだし槐を滅ぼさん。
シッシャは神の国だ。世に陽が昇るのは、シッシャの王が世を徹して太陽あらんことを神に冀うためだ。お前が王を殺し太陽を呼ぶ儀式を台無しにしたため、貴重な鶏を生贄にして神の許しを乞うた。
馬鹿げた話だ。槐は建国八十余年、都への侵攻を許したことはない。シッシャなどという国も知らん。槐の軍が幾たびか夷狄と干戈を交えたことこそあるが、覇を競ったなどと夜郎自大な自称は聞いたこともない。
「俺をどうする気だ」
「王殺しは神でないと裁けない」
また、神だ。
「つまりは殺すと言う事か」
「神に会ってもらう。神はそう望んでいる」
李淅にとっては神とは社稷に住む先祖の霊のことだ。生きながら神に会えるはずもない。
殺すなら殺せばいい。俺が強ければ、俺はこいつらを殺しただろう。たまたま今回は色目人どもが俺よりも強かった。逆に首を取られるのは当然のことだ。
「お前は、なんだ」
「私は、王の妻だ」
女はそう答える。
翌日、李淅は神に会うことになった。
小屋から連れ出した二人の屈強な色目人は明らかに李淅を憎んでいたが、手荒な真似はされなかった。
村を通り屋敷の門近くに建っている、そこだけ槐風の建物。門を囲うように建って外と内とを分けている。外からは一件常の屋敷のように見え中からは砦のように見えるという訳か。色目人にとっては神域とされている館の中に連れて行かれ、小さな石造りの部屋に通される。
卓があり、椅子が二脚向かい合わせに置いている。男どもは一方の椅子を指す。掛けろと言うのだろう。
座って待つうちに神がやってきた。色目人の男どもは深く頭を下げる。
(なんだ)
あらわれたのは老人だった。体つきも貧相で、背が低く肉がたっぷりついている。李淅と同じ槐人の顔つき。
「お前は誰だ」
座るなり、老人はそう問うた。
「俺は盗だ」
ここで答えるのは三度目だ。今度は盗とは何かとは聞かれなかった。老人はうなづく。
「名を答えろ」
「烏勃の李淅」
「学生か」
「挙人だ」
郷試までは通っている李淅にはそう答える権利がある。挙人にはいくつか特権がある。みだりに逮捕されないのもその一つ。さすがにこの罪状では死は免れないとしても多少手続きを煩雑にすることはできよう。
老人は表情が読みにくい。何度か頷き「儂は周順」と名乗る。内心李淅は納得する。むしろ予測しておくべきだった。ここは周順の屋敷だ。この屋敷で神に近い者がいるなら周順をおいてない。
周順が何事か色目人に命じると、いくらかの酒肴が卓に並ぶ。
「あいつらは儂らの言葉は知らん。お前は色目人の言葉は知らんだろう。ありのままを言え。昨今の良民を鏖殺する夜盗はお前か」
「そうだ」
「仲間がいるのか」
「ひとりだ。事をなすのに仲間など無用のこと」
「何故儂の屋敷を選んだ。他にいくらも屋敷はあろう」
「国政を壟断する宦官めの屋敷であれば、さぞ金銀が唸っているだろうと考えた」
いまさら嘘をつく気にもならない。神を名乗る老人がその気になれば百日李淅を拷問にかけることもできるのだ。
ふふふ、と周順が笑う。
「金銀はなかったな」
李淅は笑えない。
「お前は、儂へのあてつけに忍び込んだのか」
「違う。単に、財が欲しかった」
「何か、ここにつて噂が流れているのか」
李淅は恩師の宴で聞いた話をそのまま伝える。
「いかんな。いかん。何か別の噂でもながさんと」
いかん。何度も周順は繰り返す。
考えてみれば皇帝側近くに仕える身でありながら都の中に国を名乗る里を養っているのだ。皇帝の権威の完全な否定であり大逆も大逆、知れれば一族誅滅は免れまい。
となれば俺は裁判は受けられまい。殺して埋める、この周順が考えるのはそのあたりだろう。
「お前はなぜ盗になった。なぜこうも人を殺す」
周順に問われ、李淅は言葉につまる。もともと李淅が盗であることを人に知られたのも今回が初めてのこと、当然なぜと問われたこともない。
「俺は里を十三で出た。一族を富ませるためだ」
「おお、さぞや盛大に見送られた事だろう」
周順が自分の若いころを思い出すように目を細める。
「俺は都で一番の富を得ようと思っていた。当然そうなるものだとも思っていた」
苦々しい記憶だった。あれから幾たび自分の才能の無さに苦悶したか、今となっては数えられぬ。最初はそれでも若いからよかった。次に受かればいいと周りも言ったし、自身でもそう言い聞かせることができた。だが二十歳を過ぎると誰もが微妙に態度を変えた。何を思っているのかは李淅にもよくわかった。ああこいつは一生、白髪で腰が曲がるまで学生なのだと、ついに何事をもなさず何者にもならぬまま死んで行く者たちの一人なのだと。
そのころから李淅は遊びに誘われるようになった。誘ったのは年上の学生たちで、つまりは自分たちの仲間だと思われたのだ。都の遊びと、金がなくて遊べぬ苦しみも知った。親の財で遊びまわる公達とも知り合った。いつ街に行っても遊んでいる姿を見かける連中が次々に進士となっていくのを見た。
そしてその知り合った公達の一人が何かの機会に何気なく「君はもっと学べ。学問が足りないから何年経っても落ちるのだ」と言った一言が李淅を盗にした。
こいつらを殺したいと思った。百年も前に誰かが一生安楽に暮らせるものとして決めた者どもの安心しきった胸を貫き、はらわたに鋼の冷たさを教えてやりたいと。絹の着物をはぎ取って裸の躯を打ち捨てたいと――
実際に宵闇の中屋敷に押し入りそれをした時に感じたのは、罪の感覚でも罰への怯えでもなく、深い安堵だった。なんだ、この世にも俺に上手くできることがあるではないか、と。
語る李淅の声を、周順は酒杯を眺めながら聞いていた。やがて一気に中の酒を飲み干す。杯を卓に置いた時には口の端に笑みに似た歪みを浮かべている。
「痴人の話は酒肴としては上の上なるものだ。実に酒が美味い」
言って、色目人が酒を注いだ杯をまた持ち上げる。
李淅は黙る。結局のところ李淅は都で学で勝てず財で勝てず、ただ夜の闇と剣の力で勝とうとしてきたが、それも潰えた。何を言ったところで美しくはあるまい。しばらく黙り込んだ李淅を見ていた周順は、不意に口調をやわらげ「盗は、儲かったか」と尋ねる。
「足りぬ。都第一の富貴には、まったく届かぬ」
「十三の童の頃の志など諦めればよい。そも、志など乱世でなければ遂げられぬ。お前は挙人と言ったな、であれば里に帰って子供に書でも教えれば十分一身を養えよう。古老にあいさつを欠かさなければそのうち嫁も世話してもらえるかもしれぬ。今となっては遅いが」
「この世に生まれてすべてを望んで何が悪い」
「大それたことだ。全てを望むことを天に許されるは、この世にただのおひとり」
周順は酒杯で部屋の壁を指す。壁の向こうには宮城があるのだろう。
「俺は、全てが欲しいのだ」
「それで、お前は法を捨てたか」
「法が俺に何をくれた。俺を縛るだけではないか。俺を益さぬ法をなぜ俺が守らねばならぬ」
また一口、周順は酒を口に含む。ゆっくりとそれを飲み干してから言葉を継ぐ。
「ときにお前、年はいくつだ」
「二十と八」
「であれば二十年は勉学しただろう。古聖の教えを学びに学んだ末に思うたのが、それか」
「街で、穀潰しの貧乏学士と嘲られる俺を書は一度も助けなかった」
「で、あろうな」
深く周順は頷く。
「所詮、そんなものよ」
と続ける。しばらく周順は酒を舐めるように飲んだ。舌が長く、沈んだ眼で震える酒の表面を見ている周順はどこか奇怪な獣のように李淅には見えた。
「儂は王になりたかった」
ぽつりと周順が言葉を漏らす。儂はお前とは違う、と周順は重ねる。儂は成し遂げたのだ、と。
偉くなりたく、お前のように科挙に臨んだ。儂は幸い年月を多くかけることもなく及第し、進士となった。だがある日人に讒せられ、刑を受け宦官となり果てた。宦官の身では王にはなれまい。儂は絶望しながらも皇帝に仕え、その信望を得、屋敷を得た。
いつのころからか儂は国をつくろうと考えた。広い屋敷さえあれば中に何枚かの田畑を隠せよう。魚が遊ぶ池も掘れよう。鳥が来る森も植えられよう。小屋をいくつか立てて国に見立てた里もこしらえられよう。
「奴らは奴隷よ。赤子の頃に買い求め、外を知らせずに儂を神として育てた。赤子から育てた数人の同郷の者と、お前が殺した王だけが外も内も知っている。
色目人の国を儂は私有しておる。宦官として昼は槐の宮廷に仕えているが儂は王以上のものなのだ。つまりは天だ。国の民どもには神と呼ばせているが。
民どもは儂に陽を登らせてくれと祈っておる。儂が死ねと言えば喜んで死んで行く。これができるのは、天地の間に武英と儂だけよ。
どうだ。お前にはこうはできまい」
げぇ、と李淅は呻きたくなるのを必死に噛み殺した。武英は皇帝の名である。よりにもよってこの宦官は皇帝を名で呼び捨てたのだ。
(いまさら俺が皇帝の何を畏れるか)
李淅はそうも思うが、朝堂の一員たるを目指した日々が何とも居心地の悪い思いをさせる。そんな李淅を見ながら周順は満足そうにくふ、くふ。気味の悪い笑いを立てる。
(大狂也)
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「儂はお前を好きだ」
周順は意外なことを言った。殺すには惜しい。そうも言った。
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「……」
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痛みだと。酒を受けながら李淅はいぶかしむ。
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一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
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