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第四章 奇怪なるモノたち
双尾の妖猫
しおりを挟む夕方に降った小雨で未だに湿っている地面の上を踊るように揺れる猫の影。月が再び雲の向こうに姿を隠すと、影はスッと闇に溶け込んでいく。
夏の終わり。蛙の小さな鳴き声と、か弱い虫の音。寝静まっている雑木林を吹き抜ける風は、少し下手な笛の音のようにも聞こえる。
陽炎はその音を不快だと言うように耳を両手で塞ぎ、地面に蹲った。風の音ばかりではない。守りたいものがありながら、守れるだけの力が自分にはないことへの怒りと憎しみ。目的ばかりが明確になって、姿をくらます方法への憎しみの言葉が、陽炎の頭にガンガンと鳴り響く。
「俺は…どうしたら良いんだ……俺はぁ!!」
「だから、煩いって言ってんのよ!!」
空気を切り裂くような若い女性の声。それはまるで、悲観的な気持ちで渦巻くばかりの陽炎の心を貫いた稲妻のようだった。
陽炎は、ようやくハッと我に返ったように顔を上げると、両膝を地面に付けたまま背後を振り向いた。陽炎の背後にそびえ立つ大樹の影から、一匹の黒猫が姿を現した。金色の瞳だけが暗闇の中に浮かんでいるように見える。その猫がスタスタと陽炎の目の前まで歩いてくると、その場にストンと尻を地面に付けて座った。静かに開いた猫の口。月明かりに照らされて、ピンク色の舌と白い牙が見えた時。
「やっと眠りにつけそうだったのに。睡眠妨害もいい加減にしなさいよ、あんた」
あまりにも流暢な「人間語」を、その猫は陽炎の瞳を真っ直ぐ見据えて発した。
「何で俺が見えるんだ」
陽炎にとって、猫が話したという事実に対する驚きは、二の次三の次だった。誰にも気付かれず、「無視」さえされずに生きてきた陽炎にとって、彼の姿を認識する存在は猫だろうと人間だろうと異質なものだった。
「あら、私もお仲間だからじゃないの?」
その猫は首を傾げると、立ち上がって陽炎に歩み寄り、そして尻を向けた。月の光に照らされて、空虚な暗闇にくっきりと浮かぶ二本の尻尾が、陽炎の目の前をうねっている。
陽炎はその時思い出した。日常生活を人間に紛れて過ごす中で一度も考えたことのなかった存在が目の前にいる。それは嘗て、蛍が学校の図書室で世央と一緒に興味深そうに読み入っていた妖怪図鑑に載っていたもの。
「猫又…」
陽炎が呆然とした様子でそう呟くと、猫はフフッと妖艶な笑みを浮かべた。
「巷ではそう言われてる。じゃあね」
猫はクルリと背中を向けて、林の中へと駆け出していってしまった。
「待ってくれ!」
陽炎は右手を前に突き出しながら慌てて立ち上がり、猫の跡を追って走った。陽炎に呼び止められると、猫は静かに立ち止まって陽炎の方を振り向いた。
「俺と意思疎通が出来るのは貴方だけなんだ。助けて欲しい。今すぐに」
陽炎は藁にも縋る思いで、自分の膝丈よりも小さな猫に跪いた。この猫を逃してしまえば、蛍を救う手段は永久になくなってしまう。
「…どうして?」
陽炎と猫の傍らの木には、既に息絶えた男性の遺体が木の枝からぶら下がっている。猫はそれを一瞥すると、陽炎の周りを慎重に観察するようにグルリと一周歩いた。
「私は間もなく命を終えるモノの未来を見ることが出来る。匂いからね、分かるの。でも、貴方からはそんな匂いはしないわよ」
「それだ!!!」
陽炎は衝動的に猫又の身体を鷲掴みにした。陽炎が求めていたもの。それはまさに彼の目の前にいる。陽炎は、二度と猫又を逃がすまいと強く猫又を胸に抱いた。
「ちょっと!レディに許可もなく触れるなんて」
猫又は陽炎の胸の中で藻掻いた。だが、陽炎を引っ掻こうとした四肢は、宙に空振りするだけだった。
「俺は蛍の死神だ。弟みたいに見守ってきた奴なんだ。そいつが後11ヶ月で死んでしまうみたいなんだ」
陽炎は抵抗する猫又をより一層強く抱き寄せ、真っ黒な耳の中に早口で語った。
「11ヶ月…?」
猫又はピタリと抵抗するのを止めて大人しくなると、陽炎の胸に抱かれたまま顔を上げて陽炎に視線を向けた。
「随分と具体的に分かるのね…この体勢しんどいから、下ろしてちょうだい」
陽炎がそっと猫又を湿った土の上に下ろすと、猫又は二本の尻尾を揺ら揺らと振った。
「でも俺に分かるのは、残り時間だけだ。何が理由で、どういうふうにして命を終えることになるのかまでは分からない。だから、貴方に蛍の未来を見てほしい。そして、蛍の死を出来る限り遠ざけたいんだ。理由さえ分かれば…」
必死になって猫又を説得しようとする陽炎の言葉を、猫又は遮った。そして猫又は、淡々とした声で陽炎を前に話した。
「可哀想かもしれないけど、長生きも早死にも神様に定められた運命じゃないかしら。もともと短い寿命しか与えられなかったかもしれないじゃない、その子」
陽炎は猫又の言葉を否定することは出来なかった。だが、猫又の言葉に部分的に胸に引っ掛かるものがあった。そして陽炎は恐る恐る、ポツリポツリと語った。
「人間は時に、神様から与えられた寿命を自ら捨ててしまう。俺は、蛍に残された時間が数字で見える。理由は分からない。ただ俺が思うに、俺は蛍に救いを求められていると思うんだ」
陽炎は、傍らにぶら下がる遺体を手で指し示した。
「あの人の残り時間も俺には見えた。1秒、1秒と減っていった。俺が彼を見て恐れたのは、蛍も……心の奥底ではSOSを叫んでるんじゃないかって。蛍が決断してしまうまでの猶予を神様は俺に示してくださってるんじゃないかって。取り返しのつかないことになる前に、俺に蛍を救う行動を起こすように促してるんじゃないかって。きっと、俺たちの横にいるあの人の心の叫びには誰も気付いてやれなかった。でも俺は少なくとも気付けた。だったら、蛍を救い出したいんだ」
陽炎は声こそ小さかったものの、誰にも陽炎の意志を揺るがすことが出来ないと感じさせるほど芯の通った声をしていた。陽炎の口から零れる言葉を、猫又はじっと耳を澄ませて黙って聴いていた。そして考え込むように暫くの間頭を垂れて足元に視線を落とした。
「その子を助けるって話、乗った」
猫又はクイッと顔を上げると、陽炎の腕に自らの身体を擦り寄せた。夜の闇に溶け込むような漆黒の滑らかな身体は、空虚な空に寂しく光る一番星のような温もりを帯びていた。
「私だって、昔は普通の黒猫だったのよ」
猫又は、戻らない過去を辿るように陽炎の顔を眺めた。陽炎の顔に、別の誰かの顔を重ねているようだった。
「私の飼い主も自死だったの」
そして寂しそうに零れた猫又の言葉を拾い上げるように、陽炎は猫又の顎の下を優しく撫でた。
「俺の名前は陽炎だ。貴方に名前はあるのか」
暗闇に飲み込まれた空に、東の方から緑白色の柔らかな光が滲み始めた。早起きの鳥が、ピチチッと林を抜けて羽ばたいていく。
「私の名前はメラ。…さぁ、連れて行って。貴方が行きたいところへ」
猫又の名前はメラ。人気のない木陰に隠れて何十年経ったのか、彼女にも分からなくなるほどだ。そして、影から蛍を見守り続けてきた陽炎。彼らは奇怪なるモノ。
怪なるモノたちが、今夜、動き出す。
光を目指して。
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