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第四章 奇怪なるモノたち
匂いの街
しおりを挟む山から吹き下ろす冷たい風。秋の始まりとは名ばかり。氷のような冷たさが肌を突き刺す。鬱蒼と茂った木々を抜け、錆びたフェンスを飛び越え、泥で濁った川を越え、メラと陽炎は走った。東の方から空を染めていく光から逃げるように、彼らは走って走って、走り続けた。
「今、鞄から水筒を取り出してお茶を飲んでいるのが蛍だ」
彼らが蛍のもとに辿り着いた時、蛍は既に登校していた。蛍は今、自宅と校門の間の横断歩道の手前で立ち止まり、信号が青に変わるのを待っている。メラは、校門沿いを走る小さな溝に茂る雑草に身を隠し、傍で屈む陽炎が指差す先をじっと見つめている。
蛍の頭上に浮かぶ数字は、「0:11」のまま。そう速くは数字が変わらないことは陽炎は経験からある程度推測はしていた。だが、昨晩、人気のない林で今にも自ら命を絶とうとしていた男性の赤い数字の減少を見た後では、陽炎はホッと胸を撫で下ろしていた。余りの静かさに不気味ささえ感じていた筈なのに、今はその静かさがとてもありがたかった。
「どうだ、メラ。何か見えるか」
信号が青に変わると、蛍は旗当番の教師に軽く会釈して、小走りで豪勢な白い門をくぐっていった。
「…駄目。匂いを嗅ぎわけるには情報量が多すぎる」
メラは陽炎の股の間を潜り、校舎の敷地内に植えられた花壇に飛び移った。近くに建つ民家の影と、色の濃い土に紛れて息を潜めるメラの姿に、校門をくぐっていく生徒や教職員は誰一人として気付かない。メラは、蛍が綺麗に舗装されたタイルの道の奥に見える角を曲がってしまったのを見ると、小さく舌打ちした。
「情報量が多いって、どういう意味だ」
陽炎はメラと違って人に認識されることはなかったが、何だか陽炎も人の視界に入ってはいけない気がして、陽炎には小さすぎる植え込みに懸命に身を隠した。そして声も人に聞かれることはないものの、メラの耳に背後から口を近付けて、辺りを伺いながら囁いた。
「匂いが多すぎるの。心筋梗塞とか脳梗塞とか癌とか、色んな匂いがする。その中に蛍くんの匂いも含まれているのかどうかすらも分からないくらいよ」
陽炎はメラのその言葉を聴いて、辺りを見回した。近くに立ち並ぶほとんどの民家には、生まれて以来隣の県にすら行ったことがないような高齢者が一人暮らししている。約1キロ南には、大学病院や医療緩和センターなどの医療施設が密集している。もしも陽炎も猫のように嗅覚が優れていれば、街なかのむさ苦しさに耐えられないかもしれないと、ふと感じた。
「蛍くんの至近距離じゃないと、蛍くんの匂いが分からない…でも、これが邪魔ね」
メラは心底悔しそうに、二本の黒い尾を激しく振った。校門をくぐる生徒の行列が途切れ途切れになり、ようやく周囲から足音や話し声、笑い声や理由の分からぬ奇声が聞こえなくなると、眠い朝の空気を起こすように始業のチャイムが鳴り響いた。
「メラ、放課後はどうだ」
陽炎がメラの背中を指先で突くと、メラはクルリと首を陽炎の方に向けた。周囲に人が誰もいないので、視線を気にする必要がなくなり、彼らはいささか安心して話をすることが出来た。
「放課後?」
「メラには人間に化けてもらって、蛍が家に向かう途中で蛍にナンパするんだ。それで蛍は、男子だけど男子を好きだから女子のメラを相手にはしない。そこを何とかって感じで、メラが蛍の腕を引っ張って、どさくさに紛れて蛍の身体にメラの鼻を近づけたら…」
「馬鹿ね!!」
メラが両目を見開き、ぐわっと口を大きく開けて陽炎を睨むと、陽炎は咄嗟に両手を上げて降参のポーズを取った。陽炎はメラに、私に恥を晒せと言うのかと、くどくどと説教されている時、不意に蛍の声が聞こえた気がして、校舎に目をやった。
「ちょっと、よそ見し…」
そう叫ぶメラの声を聞き付けた生徒が2人、こちらに向かって走ってきている。直感的にそう思った陽炎は、自分の口に右手の人差し指を当てた。
「何…?」
身を低くして警戒態勢に入ったメラを自分の背中側に移し、陽炎は植え込みから顔を覗かせた。下駄箱でスリッパからグラウンドシューズに履き替えた男子生徒2人と、陽炎は眼があった。
顔の整った男子生徒と、バスケ選手顔負けの巨人。
「絶対に聞こえたって!茂みから女の人の声で馬鹿ねって」
「植え込みに人が隠れられるかよ。どうせ近くの家で夫婦喧嘩でもしてるんだろ」
2人は、間違いなくこちらに向かってきている。陽炎は思い出した。この日、1限目が体育で、蛍たちは校門前の横断歩道を渡った先にあるグラウンドに集合することを。蛍たちが、花壇のすぐ横の道を通ることを。
「メラ……蛍と蛍の大の友達がお前に気付いたみたいだ」
「嘘…?!」
2人の足音がみるみる近付く。逃げ場はない。逃げたところで、メラは自分が猫又であることに気付かれてしまう。気付かれてしまえば、忽ち学校中の噂になる。それだけは何としてでも避けたかった。メラは自身の心臓が激しく鼓動するのを胸に感じた。2本の尻尾を出来る限り巻いて、ただの猫のふりをする。人の言葉など話せるわけがないように振る舞う。迫る2人の気配を前に、メラが取れる最善の手段は、そこに黙って留まることだった。
「この辺ちゃう?」
「いや、泊。無理やって、ここに人が隠れんのは」
僅かに息が上がって頬を淡いピンクに染めた蛍と蝶舞は、植え込みの前で立ち止まった。膝の丈ほどもない低い植え込みに転々と咲く小さな花が、仄かに香る。メラは呼吸する音を2人に聞かれないよう、蝋でできた猫の置物のようにじっと影に隠れている。陽炎は傍らから、メラが2人に正体を知られはしないかと、気持ちが落ち着かないまま様子を見守るばかりだった。
「ありゃ?」
植え込みに座り込んでいると、蝶舞はより一層大きく見えた。そんな蝶舞の影が、ニュッと動いた。蝶舞が何かに気が付いて地面に膝を付いたのだ。
「猫やんか」
「お、ホンマや」
メラは2人にマジマジと見つめられると、もはやこれまでと言うようにフッと軽く溜息を付いた。それでも、双尾だけは見られまいと、自分の尻の下に隠した。
「野良猫なんかな」
蛍も蝶舞の隣にしゃがむと、恐る恐るメラの顔を覗いた。
「メラ、今だ。匂いを嗅いでくれ」
陽炎はこれを、またとない好機だと捉えた。蛍の方から自分たちに近寄って来てくれるとは、思いも寄らなかった。
「メラ…?」
陽炎が頼むよりも先に、メラは既に蛍に甘える振りをして、さり気なく匂いを嗅いでいた。メラの異常なまでに緊張した面持ちに、陽炎の胸はざわついた。メラの金色の瞳孔が揺れる。真っ黒な両耳をピンと真っ直ぐに立てている。それを見ると陽炎はより一層、自分には見えぬ蛍の未来に絶望していく感覚を覚えた。
「そろそろ行くか」
「じゃね、猫」
蛍と蝶舞は校舎の壁の高い位置に取り付けられた時計に視線をやると、立ち上がってメラに小さく手を降ってから、グラウンドへと走っていった。
「メラ!何が見えた。蛍はどうなるんだ!」
陽炎は、彼らの焦りを知らない蛍と蝶舞の後ろ姿が見えなくなってしまってから、ワナワナと震えながら地面に蹲るメラを激しく揺すった。
「ねぇ……蛍くんの想い人を助けなきゃ」
「世央…のことか…?」
メラは静かに首を縦に振った。
太陽の光が温かい。爽やかな空気を運ぶ風が柔らかい。それなのに、メラの神妙な態度に、陽炎の心はパニックになっていく。不安感、焦燥感、疑問、僅かな期待で揺り動かされ、陽炎の心の中では感情の嵐で荒れていた。
数分後、メラは沈黙を破った。メラは覚悟を決めたように顔を上げると、陽炎の目をしっかりと見て言った。
「世央くんの死が原因よ」
「え………?」
「パスパスパス!」
「ナイッスー!!」
「何しとんねん、アホー!」
横断歩道の向こう。1羽の鳩が、呑気に横断歩道の真ん中を闊歩する。グラウンドからは、男子たちのはしゃぐ声とボールを蹴る元気な音が聞こえていた。
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