恋が始まらない

北斗白

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第8話「長髪とシャンプー」

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 「……ふぇ?」

 教科書とノートで覆われていた視界に、さらさらと揺れる長髪が映り込む。
 声のした方向を振り向くと、真反対の席に座ってペンを動かしていたはずの花園が、いつの間にか隣に立って冬馬を見下ろしていた。
 
 「うわっ……!」
 「うわってなにさ」
 
 想像を超越した緊急事態に身が縮まる。なにせ卒業まで関わる事がないと推測していた、スクールカーストの頂点に立つ相手に話しかけられてしまった。

 「ここの問題だけ教えて貰ってもいい?」
 「あ……」

 花園が手元にあった教科書を細い指で差した先には、冬馬が困惑することなく解く事ができた今日の講習で取り組んだ数学の問題が顔を覗かせていた。
 
 (この問題なら教える事は出来る……けど)

 ここで、ふと冬馬の頭の中に、青葉高校での入学式の日に起こった嫌な出来事が脳裏をよぎる。
 あの日冬馬は今後女子高生に関わらないようにしようと心に誓っていた。一度決めた掟を一時の感情で破ってしまうのは自分の信念が甘く、弱い証拠ではないのか。

 「……ごめん迷惑だったかな」
 「あ……いや」

 たとえ冬馬の目の前にいる人が苦手な人だとしても、困っているところを助けるというのが人間としての人情なはずだ。もしここで花園を無視して頼みを断ってしまえば、自分は人の道を外れた悪魔としての肩書を背負って、あの時自分を変える事が出来たかもしれないのに……とこのさき後悔しながら生きて行くことになるかもしれない。
 今回だけ。今回だけは我慢しよう。この出来事が終われば今度こそ花園と関わる事がないはず。

 (こんなに気負う事のほどでもないかもしれないけど、どうせすぐに終わる事だし大丈夫か)

 冬馬は心の中で溜め息をついて、花園の依頼に応える事にした。 

 「どれ教えればいい? そこ座って良いよ」
 
 花園は冬馬の隣の席に腰を掛けると、教科書のページの少し応用力が必要な問題を提示した。「ちょっとノート見せて」と言って文字がびっしり書き込まれたページを拝借する。
 
 「あぁ、この問題ね……」

 実はこの問題は公式を二つ利用しなければ解く事が出来ない難問となっている。花園のノートを見た限り、一つの公式は使う事が出来てるがもう片方の公式を併用することが欠けていた。
 冬馬は「この公式も使ってもう一回解いてみて」と言うと、花園は「分かった」と頷いてさっそく問題に取り組み始めた。

 (あれ……この状況)

 ここで何もすることがなくなった冬馬は、ふいに自我を取り戻して状況整理に脳を働かせた。
 だだっ広い空間にスクールカーストの底辺と頂点が肩を並べて座っている。それに心なしか花園が普段つけている香水とは違った、甘くてふわふわしたようなシャンプーの匂いがより一層と冬馬の思考を勘繰らせる。

 (……うん。これはまずい)

 心臓の鼓動が大きくドクンと波を打つ。
 徐々に加速する心拍数がばれないように、平常心を装って冬馬が花園に話しかけられる前まで書き込んでいたベクトルの問題を眺めた。だが当然、「高嶺の花」が手を伸ばせば届く距離に咲き誇っているという状態では脳のネジが正常に回転することは無しえず、「シャンプー」という一つの単語だけが冬馬の想像を締めくくっていた。

 「あ……出来た。これちょっと見てみて」
 「分かった……あ、うん正解」

 一生懸命に冷静を保って花園の呼びかけに答える。ノートに書かれた綺麗な文字を見てみると、冬馬が教えた通りに問題を解く事が出来ていて、しっかりと難問を攻略していた。
 これで自分が出る幕は終わりだ。もう「教える」という任務を無事に遂行したので学習室に残っている理由は無くなった。
 
 「それじゃ俺はこれで……」
 「あっ、あと三十分……お願いできないかな。実は他の問題も解けなくて、先生に教わってもイマイチ理解できなくてさ」
 
 先生に教わっても理解ができない……と言われるということは、自分の方が先生の教え方よりも分かりやすいという事だろう。それについては普通に嬉しいが、何故今になって花園は勉強に打ち込んでいるのだろうか。
 期末考査には三週間以上も時間があるからその可能性は無いに等しいだろう。青葉高校で行われている定期的な模試も最近終えたばかりなので、冬馬から見る花園は今このタイミングで勉強を一生懸命に取り組む理由が見当たらない。

 「花園、なんでそんなに勉強頑張ってるの?」

 ふいに浮かんだ純粋な疑問をぶつけると、花園はへらっとした顔で言った。

 「……つい最近将来の夢が出来たんだ」
 
 学校一のリア充が将来の夢というからには、冬馬みたいな生徒では想像もできないほどお花畑な妄想か、さぞかし人気のあって楽観的な職業にでも就きたいのかな……と思考したが、花園が続けて言ったのは冬馬の予想を裏切るものだった。

 「私……看護師になりたいんだ」
 「え……」

 こんなに言うのも失礼かもしれないが、花園のイメージとしては人の世話をするといった姿より、人をパシリにして世話をされると言った方がどちらかと言うとしっくりするような気もする。

 「実は私のお母さんが看護師で、この前たまたま職場にお邪魔した時に見たんだけど、頑張って働いているお母さんが格好良くて。私も将来こういう風になりたいなって思ったんだ」
 「そうなんだ……」

 花園の母が看護師という新事実にも驚きだが、看護という道を決めている花園が今から一生懸命に受験勉強を取り組んでいるというのは話を聞いて納得した。
 それと今の話を聞いて花園香織という人物の印象が少し変わったような気がする。この時期から受験勉強に取り組むなんて、言う事は誰でもできるが花園のように行動に移す事が出来る人というのは一握りくらいしか存在しないだろう。

 「なれるよ、花園なら。何の確証もないけどね」

 いや、花園にとって自分みたいな仲良くない人に勉強を教わりに来るくらい一生懸命に勉強に打ち込んでいるんだ。確証とまでは言えないが、それなりに健闘することは間違いないだろう。

 「……ありがとう」

 あれだけ冬馬を眼中に入れてなかったはずの花園が、素直にお礼をするなんていったいどういう風の吹き回しだと疑心に思ったが、こんな些細な事を気にしていてはせっかくの時間が無駄になってしまう。

 「……じゃ、俺は適当に時間潰してるから、自分で一回やって見て分からないところがあったら教えて」
 
 花園はこくりと頷くと、手元にある教科書を一ページめくって颯爽と問題を解き始めた。
 さて……適当に時間を潰すとは言ったものの、つい何分か前に全神経を集中させて勉強に取り組んだので、もう勉強のモチベーションは上がる気配はない。
 どうしたものか、と持ってきた私物を漁る。だが理解はしているがここに持ってきたのは風呂道具と勉強道具しかなく……と考えていると、数学の教科書とノートの間に僅かな隙間が出来ていて、その中に何か挟まっているという事に気づいた。

 (……これは)

 隙間から取り出してみると、勉強合宿で暇になった時に読もうと思って家から持参してきた、最近冬馬が繰り返し読んでいる「星と少女」という小説が出てきた。

 (ナイスタイミングすぎる……!)
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