恋が始まらない

北斗白

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第10話「別の人種の男子」

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思わぬショートカットによって他の生徒たちよりも一足早く合宿所に帰還していた香織は、大浴場に直行して身体を綺麗に洗い流した後、誰も居ない学習室に一人籠って昨日の講習の復習に取り組んでいた。
 だが、席に着いて教科書を広げてから十分が経った今でも、ノートは問四という文字を書いたままシャープペンシルが動かなくなってしまった。

 (……全然分からない)

 このままでは目の前の紙と永遠ににらめっこ勝負を繰り広げるだけになってしまう。仲の良い友だちに教えてもらう事が出来ればいいものの、その仲の良い友だちは勉強なんてやる意欲を持っていないし、先生の説明では大雑把すぎて上手く理解ができない。
 何か解決策を見つけないと……と悩んでいた時、学習室のドアが開く音が聞こえた。
 びっくりしてドアの方を見ると、そこにいたのはクラスの人気者の男子や自分と仲の良い女子なんかでなく、それらとはかけ離れて正反対なクラスの中でも目立たない男子だった。
 確か名前はーー水城冬馬。
 
 (昨日の夜中も……)

 昨日の晩に学習室で最後まで残って勉強していた香織は自由時間がとっくに過ぎていることに気が付かず、ふと勉強に一段落が付いた時には、時刻が深夜一時を回っていた。
 内心どうしようと不安になりながらも部屋に帰って睡眠をとる事を優先として、席を立って学習室のドアを開けようとしたがいつの間にか鍵をかけられていて開けることが出来なかった。
 どうやら香織が勉強に打ち込んでいる間に、学習室内の様子を確認しなかった先生の誰かが鍵を閉めて、気が付かないまま時間だけが経ってしまっていたらしい。
 当然何も出来る訳がなく、ただただ途方に暮れていると突然学習室の鍵が開く音がして、とある男子生徒がドアを開けてくれた。
 ……それが水城だった。

 (……あの時、もし水城が学習室に来てくれなかったら、あのまま朝を迎えていた)

 水城を見た瞬間、恥ずかしさと気まずさでいっぱいになって、何も言わずに学習室を飛び出してしまったが本当は感謝している。
 ただやはり、男子から話しかけられることはあるけれども、昔の嫌な経験のせいで自分から話しかけることには抵抗があって気軽に近づくことすらできない。

 (……でも、男子全員が嫌な奴ってわけでもないんだけどなぁ)

 過去の一人の男の子のせいで、香織の心の中にできた深いみぞは男子全員を線引きするものになっていた。自分に話しかけて近づこうとする男子を、無意識のうちにその男子と重ね合わせてみてしまい、結果的に身体に拒否反応を及ぼしてしまう。 
 今まで男子に対していい思い出が一つも見当たらず、逆に悪い思い出ばかりが胸の中に募っている香織にとっては、異性に対しての信用など絶対零度の数値に等しかった。
 何度かこんな自分を変えたい、とは思っていても今日の肝試しで男子にあんなことをされたら余計に信用ができなくなってしまう。どんなに綺麗に花弁を広げようとしても咲き誇る前に枯れてしまう植物のように、香織と男子たちの心の距離は埋まらずにあった。

 (……でもお礼を言わないのも失礼だよなぁ)

 自分と真反対の方の席に着いた彼に気づかれないように顔の向きをずらす。

 (水城、ずっと勉強してるな)

 真反対の席に座る水城は自分の事には無関心といった様子で、こちらを気にする素振りも見せず、教科書から視線をずらさずにひたすらシャープペンシルを走らせていた。
 散々自分に話しかけてくる男子を日常茶飯事で見てきたせいか、こんなにも自分に興味を示さない男子は初めてかもしれない。言い寄ってくる男子は皆おんなじ目をしているので下心があるかどうかすぐにわかるが、彼は自分と目を合わせようともしないのでそれすら分からない。
 頭の中で話しかけるか無視するかの選択を彷徨っていると、紙を擦るペンの音が小さくなってきたことに気づいた。
 
 (もう帰っちゃいそうだな……)

 どうせ自分が水城に話しかけた所で誰に見られている訳でもない。香織はとうとう自分の席を立って水城が座っている席へと向かった。あわよくば滞っている問題の解決策を教えてくれないかなと思って教科書も手に取った。
 
 (……なんて話しかけよう)

 水城の隣まで来てみたが、彼は自分の存在に気づかずにノートに文字を綴り続けている。そして一段落が付いたのか、彼は溜め息をついて机上に散らばった私物を片付け始めた。

 「あの、水城……」

 声に反応した水城と目が合い、気まずさのあまり視線を慌てて逸らすが数秒の沈黙状態が訪れる。

 「ここの問題だけ教えてもらっていい?」

 場を繋ぐようにして話しかける。だが返答もせずにピクリとも動かない水城を見て、何か気に障ったことでも言ったかなと困惑していると、彼は重い腰を上げて口を開いた。

 「どこ教えればいい? そこ座って」

 内心ほっとしてた香織は、上げっぱなしだった肩の荷を下ろした。水城の隣の席に座り、言われた通りに勉強を教えてもらうと、今までわからなかった問題がすらすら解けるようになり、途中で進路の話も交えたりしながら時間が流れていった。
 
 (……なにもしてこなかったな)

 学習室をあとにし、分岐廊下で水城と別れる。結局話す事に精一杯でお礼こそ言えなかったが、女子部屋へと向かう香織の心の中は靄がかったような感情に支配されていた。
 数時間前に自分の身が危険にさらされてしまったため、水城と一緒にいる間も少しは反撃が出来るよう気を抜くことは無かったが、香織が薄々勘付いていた通り、彼は自分が問題を解いている間は読書をしているだけで何もしてこなかった。
 
 (……男子は苦手なはずなのに)

 恐らく、学習室に入ってきた男子が水城ではなく他の生徒だったら、香織はすぐに学習室を出て宿泊部屋に戻っていたと思う。
 それに今までチャラチャラした自分を学校で見てきたはずなのに、真剣に進路の話をしたら笑わずに真剣に聞いてくれて、しまいに水城が言ったのはこんな言葉だ。

 --なれるよ、花園なら。

 今更勉強をしても遅いかなと少しでも胸に引っかえていた思いが、そのたった一言で軽くなったような気がした。
 普段学校で話す事もないどころか関わる回数もゼロの人に、勉強を教えたり真剣に話を聞いたりするだろうか。自分だったらなあなあでそのやり取りを済ませるような気がする。

 (なんて言うんだろうな、お人よしっていうか……)

 今まで見てきた男子の中では考えられない別の人種の、まだ出会ったことがないタイプの人だ。
 これが水城に対しての第一印象だった。

 次の日の講習は水城に教えてもらった問題の応用編が偶然にも数多く出題し、昨日理解するまで教えてもらった香織にとっては、真面目に講習を聞かなくてもいい程度だった。
 少し離れた位置の席に座っている水城も、自分と同じように理解しているから聞かなくてもいいという思いなのか、時々こくんと寝そうになっているのを見て思わず笑みが零れそうになった。
 あれから昨夜の出来事について思い出してみたものの、未だに結構な時間男子と接したのが男性恐怖症の香織からして実感がわかない。

 (しかも二人きりで一緒にいるって、何か恋人同士みたい……)

 あれ、今私なんて言ったんだろう。慌てて膨らんだ創造に首を横に振っていると、隣から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 「……おーい香織ー? あ、やっと気が付いた」
 「ど、どうかした?」
 「いやさっきからどこ見てるのかなーって。呼んでも気づいてくれなかったから」
 「あ……ごめん」

 言われて気がついたが、知らない内に汚い文字で埋め尽くされたホワイトボードをそっちのけで、違う方向に顔を向けていた。
 
 「どっか、具合悪いの?」
 「い、いや。全然へいき」

 しっかりしろ。と自分を叱咤する。今回勉強合宿に参加した理由は進路に向けての勉強をするためだ。……どっかの誰かさんのお陰で凄く勉強が捗ったけれども。
 結局、綾乃に少々怪しまれてからそれ以降は何事もなく時間だけが過ぎていき、内容が濃すぎた二泊三日の勉強合宿が幕を閉じた。
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