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第4章第7節 聖女の支配
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「……私の大切な客人を、このような場所に連行し、あまつさえ、不敬な嫌疑をかけるとは。……私への挑戦と受け取ってよろしいのかしら?」
聖女エリナの声は、鈴を転がすように美しく、そして、氷点下の刃物のように冷たかった。
その一言が発せられた瞬間、石造りの巨大な法廷内の気温が、物理的に数度下がったかのような錯覚を、その場にいる全員が覚えた。
数百人の異端審問官たちがひしめく傍聴席は、水を打ったように静まり返っている。誰一人として、息をするのも忘れているかのように、身じろぎ一つしない。聞こえるのは、彼らが纏う黒い法衣が、恐怖による微かな震えで擦れ合う、カサカサという乾いた音だけだ。
壇上の三人の裁判官は、もはや椅子に座ってすらいなかった。彼らは床に額を擦り付けんばかりに平伏し、老いた体を小さく震わせている。特に中央の裁判長は、その白髪頭を激しく揺らし、床石にゴツゴツと当たる音が微かに響いていた。彼の喉の奥からは、言葉にならない「ひぃ、ひぃ」という引きつった呼吸音が漏れている。
(……うわぁ。……これ、俺のハッタリなんて目じゃないな。……本物の「権力」と「暴力(魔力)」を持った人間の威圧感ってやつか。……レベルが違う)
レンは、内心で戦慄していた。
彼の左手は、依然としてエリナの白く滑らかな両手に包み込まれている。その感触は柔らかく、温かい。だが、レンにとってそれは、鋼鉄の手錠よりも強固な拘束具にしか感じられなかった。
エリナの腕から伝わってくる体温は、彼女の内側で渦巻く、底知れない独占欲の熱量のようにも思える。彼女の体からは、レンだけにしか分からない、甘く、それでいてどこか危険な香りが漂ってくる。それは、美しい食虫植物が獲物を誘い込む甘い蜜の匂いに似ていた。
「……レン様。……お怪我はなくて?」
エリナが、レンの顔を覗き込むようにして、心配そうに尋ねた。その瞳は、慈愛に満ちた聖母そのものだ。
「……あ、ああ。……大丈夫だよ、エリナ。……君が来てくれて、助かった」
レンは、引きつりそうになる頬の筋肉を必死に制御し、精一杯の「賢者の微笑み」を浮かべた。
(……全然大丈夫じゃねぇ! ……心臓バクバクだし、胃が痛くて立ってるのもやっとだ! ……ていうか、この状況、お前のせいでこうなってるんだぞ!? ……マッチポンプすぎるだろ!)
レンの内なる叫びは、誰にも届かない。彼の体は、エリナへの恐怖と、この場から逃げ出したい衝動で、微かに震えていた。だが、その震えすらも、エリナは「私のために無理をしてくれた感動」と解釈しているようで、レンの手を握る力をさらに強めた。ギリギリと骨がきしむ音が聞こえた気がした。
その時。
凍りついた法廷の沈黙を破る、場違いな笑い声が響いた。
「……ククク。……フハハハハ!」
被告人席のアリアだった。彼女は、砕け散った首輪の破片が散乱する床の上で、自身の首をさすりながら、恍惚とした表情で高笑いをしていた。
「……素晴らしい! ……さすがは我が盟友(マスター)よ! ……その深遠なる叡智は、この国の頂点に立つ聖女すらも動かし、駒として操るとは! ……これぞ、我らが目指す『世界の理(ことわり)への反逆』の第一歩!」
アリアは、完全に自分の世界に入っていた。彼女の目には、レンがエリナを巧みに操り、この状況を打破した偉大な黒幕として映っているのだ。彼女の瞳孔は興奮で開ききっており、呼吸は荒く、頬は紅潮している。典型的なトランス状態だ。
(……お前、マジで黙っててくれ! ……何その超解釈! ……俺、操られてる側だから! 完全に被害者だから! ……これ以上、話をややこしくしないでくれ……!)
レンは、アリアの暴走に頭を抱えたい衝動を、鋼の理性(とエリナによる物理的な拘束)で抑え込んだ。
しかし、アリアの言葉は、別の人間に火をつけてしまった。
「……ふ、ふざけるなァッ!!」
被告人席の近くで、呆然と立ち尽くしていたガイウスが、突如として絶叫した。彼の顔は、屈辱と怒りでドス黒く変色している。こめかみの血管は今にも破裂しそうで、目玉は血走って飛び出しそうだ。
「……聖女様! ……貴方様は、教会の法を、神聖な裁判を愚弄するおつもりか! ……その者は魔女だ! ……決定的な証拠もあった! ……それを、貴方様が力ずくで……!」
ガイウスは、理性を失っていた。本来なら絶対に逆らえない「聖女」に対して、唾を飛ばして怒鳴りつけている。彼の指先は、エリナを指差して激しく震えており、その爪が自分の掌に食い込んで血が滲んでいることにも気づいていない。
「……ガイウス審問官」
エリナが、ゆっくりとガイウスの方を向いた。
その顔から、一切の表情が消えていた。先ほどレンに向けていた慈愛の表情は、嘘のように消え失せ、そこには精巧な能面のような冷徹さだけがあった。
「……貴方は、私の『決定』に異を唱えるのですか?」
エリナの声のトーンが、さらに一段階下がった。それは、人間の声というよりは、深海の底から響いてくるような、絶対的な命令の響きを持っていた。
その瞬間。
ドォォォンッ!!
という、腹の底に響くような重低音とともに、目に見えない巨大な圧力が法廷内を支配した。
魔力だ。エリナの体から、膨大な魔力が物理的な質量を持って放出されたのだ。
「……ぐぁっ!?」
ガイウスが、見えない巨人に殴り飛ばされたように、後方へと吹き飛んだ。彼は数メートル後ろの傍聴席の柵に激突し、そのまま床に崩れ落ちた。口から泡を吹き、白目を剥いて痙攣している。
傍聴席の審問官たちも、その余波を受けてドミノ倒しのように倒れ伏した。彼らは、恐怖で悲鳴を上げることすらできず、ただ床に這いつくばってガタガタと震えている。
法廷内の空気は、魔力の奔流によって掻き乱され、埃が舞い上がり、窓ガラスがビリビリと振動音を立てていた。
(……やりすぎだろ! ……これ、裁判じゃなくて、ただの暴力による制圧じゃねぇか! ……俺の心理戦とか、完全に無意味だったな……)
レンは、目の前の惨状にドン引きしていた。彼の隣にいたセシリアも、エリナの圧倒的な力の前に、剣の柄に手をかけたまま硬直していた。彼女の武人としての本能が、「動いたら死ぬ」と告げているのだ。
エリナは、倒れ伏す人々を一瞥もせず、再びレンの方に向き直った。その顔には、先ほどと同じ、完璧な聖女の微笑みが戻っていた。
「……お見苦しいところをお見せしましたわ、レン様。……少し、害虫が騒いでいたものですから」
彼女にとって、ガイウスたちは「害虫」程度の認識らしい。
「……さあ、帰りましょう。……ここは空気が悪いですわ」
エリナは、そう言ってレンの手を引き、出口へと歩き出した。彼女の足取りは軽く、まるで楽しいピクニックから帰る少女のようだ。
「……あ、ああ。……そうだね……」
レンは、逆らう気力もなく、大人しく彼女に従った。アリアとセシリアも、無言でその後に続く。
レンは、去り際に一度だけ振り返り、惨状と化した法廷を見渡した。
気絶したガイウス、平伏したまま動かない裁判官たち、恐怖で縮こまる数百人の審問官たち。
(……これで、「解決」したことになるのか? ……いや、違うな。……これは、もっとヤバいことになっただけだ)
レンの胃痛は、最高潮に達していた。
エリナの「独占欲」という名の檻は、この事件を経て、より強固で、脱出不可能なものへと進化してしまったのだ。
離宮へと戻る馬車の中で、レンはエリナに腕を組まれ、身動きが取れない状態で、これから始まるであろう、さらに過酷な「軟禁&介護(支配)ライフ」に思いを馳せ、心の中で静かに涙を流した。
聖女エリナの声は、鈴を転がすように美しく、そして、氷点下の刃物のように冷たかった。
その一言が発せられた瞬間、石造りの巨大な法廷内の気温が、物理的に数度下がったかのような錯覚を、その場にいる全員が覚えた。
数百人の異端審問官たちがひしめく傍聴席は、水を打ったように静まり返っている。誰一人として、息をするのも忘れているかのように、身じろぎ一つしない。聞こえるのは、彼らが纏う黒い法衣が、恐怖による微かな震えで擦れ合う、カサカサという乾いた音だけだ。
壇上の三人の裁判官は、もはや椅子に座ってすらいなかった。彼らは床に額を擦り付けんばかりに平伏し、老いた体を小さく震わせている。特に中央の裁判長は、その白髪頭を激しく揺らし、床石にゴツゴツと当たる音が微かに響いていた。彼の喉の奥からは、言葉にならない「ひぃ、ひぃ」という引きつった呼吸音が漏れている。
(……うわぁ。……これ、俺のハッタリなんて目じゃないな。……本物の「権力」と「暴力(魔力)」を持った人間の威圧感ってやつか。……レベルが違う)
レンは、内心で戦慄していた。
彼の左手は、依然としてエリナの白く滑らかな両手に包み込まれている。その感触は柔らかく、温かい。だが、レンにとってそれは、鋼鉄の手錠よりも強固な拘束具にしか感じられなかった。
エリナの腕から伝わってくる体温は、彼女の内側で渦巻く、底知れない独占欲の熱量のようにも思える。彼女の体からは、レンだけにしか分からない、甘く、それでいてどこか危険な香りが漂ってくる。それは、美しい食虫植物が獲物を誘い込む甘い蜜の匂いに似ていた。
「……レン様。……お怪我はなくて?」
エリナが、レンの顔を覗き込むようにして、心配そうに尋ねた。その瞳は、慈愛に満ちた聖母そのものだ。
「……あ、ああ。……大丈夫だよ、エリナ。……君が来てくれて、助かった」
レンは、引きつりそうになる頬の筋肉を必死に制御し、精一杯の「賢者の微笑み」を浮かべた。
(……全然大丈夫じゃねぇ! ……心臓バクバクだし、胃が痛くて立ってるのもやっとだ! ……ていうか、この状況、お前のせいでこうなってるんだぞ!? ……マッチポンプすぎるだろ!)
レンの内なる叫びは、誰にも届かない。彼の体は、エリナへの恐怖と、この場から逃げ出したい衝動で、微かに震えていた。だが、その震えすらも、エリナは「私のために無理をしてくれた感動」と解釈しているようで、レンの手を握る力をさらに強めた。ギリギリと骨がきしむ音が聞こえた気がした。
その時。
凍りついた法廷の沈黙を破る、場違いな笑い声が響いた。
「……ククク。……フハハハハ!」
被告人席のアリアだった。彼女は、砕け散った首輪の破片が散乱する床の上で、自身の首をさすりながら、恍惚とした表情で高笑いをしていた。
「……素晴らしい! ……さすがは我が盟友(マスター)よ! ……その深遠なる叡智は、この国の頂点に立つ聖女すらも動かし、駒として操るとは! ……これぞ、我らが目指す『世界の理(ことわり)への反逆』の第一歩!」
アリアは、完全に自分の世界に入っていた。彼女の目には、レンがエリナを巧みに操り、この状況を打破した偉大な黒幕として映っているのだ。彼女の瞳孔は興奮で開ききっており、呼吸は荒く、頬は紅潮している。典型的なトランス状態だ。
(……お前、マジで黙っててくれ! ……何その超解釈! ……俺、操られてる側だから! 完全に被害者だから! ……これ以上、話をややこしくしないでくれ……!)
レンは、アリアの暴走に頭を抱えたい衝動を、鋼の理性(とエリナによる物理的な拘束)で抑え込んだ。
しかし、アリアの言葉は、別の人間に火をつけてしまった。
「……ふ、ふざけるなァッ!!」
被告人席の近くで、呆然と立ち尽くしていたガイウスが、突如として絶叫した。彼の顔は、屈辱と怒りでドス黒く変色している。こめかみの血管は今にも破裂しそうで、目玉は血走って飛び出しそうだ。
「……聖女様! ……貴方様は、教会の法を、神聖な裁判を愚弄するおつもりか! ……その者は魔女だ! ……決定的な証拠もあった! ……それを、貴方様が力ずくで……!」
ガイウスは、理性を失っていた。本来なら絶対に逆らえない「聖女」に対して、唾を飛ばして怒鳴りつけている。彼の指先は、エリナを指差して激しく震えており、その爪が自分の掌に食い込んで血が滲んでいることにも気づいていない。
「……ガイウス審問官」
エリナが、ゆっくりとガイウスの方を向いた。
その顔から、一切の表情が消えていた。先ほどレンに向けていた慈愛の表情は、嘘のように消え失せ、そこには精巧な能面のような冷徹さだけがあった。
「……貴方は、私の『決定』に異を唱えるのですか?」
エリナの声のトーンが、さらに一段階下がった。それは、人間の声というよりは、深海の底から響いてくるような、絶対的な命令の響きを持っていた。
その瞬間。
ドォォォンッ!!
という、腹の底に響くような重低音とともに、目に見えない巨大な圧力が法廷内を支配した。
魔力だ。エリナの体から、膨大な魔力が物理的な質量を持って放出されたのだ。
「……ぐぁっ!?」
ガイウスが、見えない巨人に殴り飛ばされたように、後方へと吹き飛んだ。彼は数メートル後ろの傍聴席の柵に激突し、そのまま床に崩れ落ちた。口から泡を吹き、白目を剥いて痙攣している。
傍聴席の審問官たちも、その余波を受けてドミノ倒しのように倒れ伏した。彼らは、恐怖で悲鳴を上げることすらできず、ただ床に這いつくばってガタガタと震えている。
法廷内の空気は、魔力の奔流によって掻き乱され、埃が舞い上がり、窓ガラスがビリビリと振動音を立てていた。
(……やりすぎだろ! ……これ、裁判じゃなくて、ただの暴力による制圧じゃねぇか! ……俺の心理戦とか、完全に無意味だったな……)
レンは、目の前の惨状にドン引きしていた。彼の隣にいたセシリアも、エリナの圧倒的な力の前に、剣の柄に手をかけたまま硬直していた。彼女の武人としての本能が、「動いたら死ぬ」と告げているのだ。
エリナは、倒れ伏す人々を一瞥もせず、再びレンの方に向き直った。その顔には、先ほどと同じ、完璧な聖女の微笑みが戻っていた。
「……お見苦しいところをお見せしましたわ、レン様。……少し、害虫が騒いでいたものですから」
彼女にとって、ガイウスたちは「害虫」程度の認識らしい。
「……さあ、帰りましょう。……ここは空気が悪いですわ」
エリナは、そう言ってレンの手を引き、出口へと歩き出した。彼女の足取りは軽く、まるで楽しいピクニックから帰る少女のようだ。
「……あ、ああ。……そうだね……」
レンは、逆らう気力もなく、大人しく彼女に従った。アリアとセシリアも、無言でその後に続く。
レンは、去り際に一度だけ振り返り、惨状と化した法廷を見渡した。
気絶したガイウス、平伏したまま動かない裁判官たち、恐怖で縮こまる数百人の審問官たち。
(……これで、「解決」したことになるのか? ……いや、違うな。……これは、もっとヤバいことになっただけだ)
レンの胃痛は、最高潮に達していた。
エリナの「独占欲」という名の檻は、この事件を経て、より強固で、脱出不可能なものへと進化してしまったのだ。
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