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第4章第10節 審問局長の憂鬱
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異端審問局本部の最奥部にある局長室は、常に重苦しい空気に包まれている。
窓はなく、厚い石壁に囲まれたその部屋は、地下牢のような湿気た匂いと、古い羊皮紙の埃っぽい匂いが混じり合っていた。
部屋の中央にある巨大な黒檀の机の前に、一人の男が座っていた。異端審問局長官、バルタザールである。
彼は、報告書を読みながら、深い皺が刻まれた眉間に手を当て、重いため息をついた。
「……また、ガイウスか」
彼が発した言葉は、部屋の冷たい空気に吸い込まれるように消えた。
バルタザールの目の前には、昨日、離宮で起きた「事件」の報告書が山積みになっていた。
数十人の審問官が重軽傷。そのうち数名は、一生癒えないであろう魔力による火傷を負い、精神にも異常を来たしている。
そして、部隊を率いていたガイウス自身も、全身に大火傷を負い、現在は教会の治療院で生死の境を彷徨っているという。
「……聖女エリナ。……まさか、これほどとはな」
バルタザールは、報告書の最後に記された、エリナの「魔力」に関する記述を指でなぞった。
『対魔導結界装置』を内側から破壊し、数十人の審問官を瞬時に無力化。その魔力量は、もはや人間の領域を超えている、と。
「……奴の力は、年々強まっている。……もはや、我々の手には負えん」
バルタザールは、机の引き出しから、古い聖書を取り出した。その表紙は、何度も読み返したせいで擦り切れ、手垢で黒ずんでいる。
彼は、聖書をパラパラとめくり、あるページで手を止めた。
そこには、古びた文字で、こう記されていた。
『終わりの時、神の愛娘が地に降り立ち、その力をもって世界を浄化せん。されど、その力は両刃の剣なり。……愛が過ぎれば、それは世界を焼き尽くす業火となる』
「……業火、か」
バルタザールは、聖書を閉じた。彼の目には、深い疲労と、焦燥の色が浮かんでいた。
彼は知っていた。エリナの「聖女」としての力が、いかに危険なものであるかを。
彼女の「愛」は、常軌を逸している。彼女が「愛する」対象のためなら、彼女は世界を敵に回すことも厭わない。そして、そのための「力」を、彼女は持っているのだ。
「……だが、まだ手はある」
バルタザールは、立ち上がり、部屋の隅にある祭壇の前で跪いた。
祭壇には、巨大な十字架が飾られており、その足元には、何百本もの蝋燭が灯されている。揺らめく炎が、バルタザールの顔に深い影を落としている。
「……神よ。……我らに、悪を滅ぼす力をお与えください」
彼は祈りを捧げた。その声は、信念に満ちていた。
彼には、勝算があった。
エリナの「力」は強大だが、完璧ではない。彼女にも「弱点」がある。
そして、その弱点こそが、今、彼女の隣にいる男、レン・クロウリーなのだ。
「……あの男が、鍵だ」
バルタザールは、祈りを終え、立ち上がった。
彼の脳裏には、レンの顔が浮かんでいた。底知れぬ魔力を持ち、古龍をも従えるという、謎多き賢者。
「……奴を、我々の側に引き込む。……いや、利用する」
バルタザールの目に、冷酷な光が宿った。
彼は、レンがエリナの「愛」という名の鎖に縛られていることを、誰よりも理解していた。そして、その鎖が、レン自身を苦しめていることも。
「……エリナの『愛』を、逆手に取るのだ」
バルタザールは、部屋の隅にある呼び鈴を鳴らした。
しばらくして、重い扉が開き、一人の若い審問官が入ってきた。
「……お呼びでしょうか、長官」
「……ああ。……次の作戦の準備をしろ」
「……次の作戦、ですか?」
「……そうだ。……ターゲットは、レン・クロウリーだ」
バルタザールは、机の上にあった報告書を手に取り、若い審問官に渡した。
「……奴を、大聖堂に呼び出せ。……『教皇猊下との謁見』という名目でな」
「……はっ! ……承知いたしました!」
若い審問官が退出した後、バルタザールは一人、窓のない部屋でニヤリと笑った。
その笑顔は、神に仕える者のそれではなく、獲物を追い詰める狩人のそれだった。
「……さあ、賢者殿。……神の庭で、最後の心理戦を始めようではないか」
異端審問局長官の、執念深い反撃が、静かに幕を開けようとしていた。
窓はなく、厚い石壁に囲まれたその部屋は、地下牢のような湿気た匂いと、古い羊皮紙の埃っぽい匂いが混じり合っていた。
部屋の中央にある巨大な黒檀の机の前に、一人の男が座っていた。異端審問局長官、バルタザールである。
彼は、報告書を読みながら、深い皺が刻まれた眉間に手を当て、重いため息をついた。
「……また、ガイウスか」
彼が発した言葉は、部屋の冷たい空気に吸い込まれるように消えた。
バルタザールの目の前には、昨日、離宮で起きた「事件」の報告書が山積みになっていた。
数十人の審問官が重軽傷。そのうち数名は、一生癒えないであろう魔力による火傷を負い、精神にも異常を来たしている。
そして、部隊を率いていたガイウス自身も、全身に大火傷を負い、現在は教会の治療院で生死の境を彷徨っているという。
「……聖女エリナ。……まさか、これほどとはな」
バルタザールは、報告書の最後に記された、エリナの「魔力」に関する記述を指でなぞった。
『対魔導結界装置』を内側から破壊し、数十人の審問官を瞬時に無力化。その魔力量は、もはや人間の領域を超えている、と。
「……奴の力は、年々強まっている。……もはや、我々の手には負えん」
バルタザールは、机の引き出しから、古い聖書を取り出した。その表紙は、何度も読み返したせいで擦り切れ、手垢で黒ずんでいる。
彼は、聖書をパラパラとめくり、あるページで手を止めた。
そこには、古びた文字で、こう記されていた。
『終わりの時、神の愛娘が地に降り立ち、その力をもって世界を浄化せん。されど、その力は両刃の剣なり。……愛が過ぎれば、それは世界を焼き尽くす業火となる』
「……業火、か」
バルタザールは、聖書を閉じた。彼の目には、深い疲労と、焦燥の色が浮かんでいた。
彼は知っていた。エリナの「聖女」としての力が、いかに危険なものであるかを。
彼女の「愛」は、常軌を逸している。彼女が「愛する」対象のためなら、彼女は世界を敵に回すことも厭わない。そして、そのための「力」を、彼女は持っているのだ。
「……だが、まだ手はある」
バルタザールは、立ち上がり、部屋の隅にある祭壇の前で跪いた。
祭壇には、巨大な十字架が飾られており、その足元には、何百本もの蝋燭が灯されている。揺らめく炎が、バルタザールの顔に深い影を落としている。
「……神よ。……我らに、悪を滅ぼす力をお与えください」
彼は祈りを捧げた。その声は、信念に満ちていた。
彼には、勝算があった。
エリナの「力」は強大だが、完璧ではない。彼女にも「弱点」がある。
そして、その弱点こそが、今、彼女の隣にいる男、レン・クロウリーなのだ。
「……あの男が、鍵だ」
バルタザールは、祈りを終え、立ち上がった。
彼の脳裏には、レンの顔が浮かんでいた。底知れぬ魔力を持ち、古龍をも従えるという、謎多き賢者。
「……奴を、我々の側に引き込む。……いや、利用する」
バルタザールの目に、冷酷な光が宿った。
彼は、レンがエリナの「愛」という名の鎖に縛られていることを、誰よりも理解していた。そして、その鎖が、レン自身を苦しめていることも。
「……エリナの『愛』を、逆手に取るのだ」
バルタザールは、部屋の隅にある呼び鈴を鳴らした。
しばらくして、重い扉が開き、一人の若い審問官が入ってきた。
「……お呼びでしょうか、長官」
「……ああ。……次の作戦の準備をしろ」
「……次の作戦、ですか?」
「……そうだ。……ターゲットは、レン・クロウリーだ」
バルタザールは、机の上にあった報告書を手に取り、若い審問官に渡した。
「……奴を、大聖堂に呼び出せ。……『教皇猊下との謁見』という名目でな」
「……はっ! ……承知いたしました!」
若い審問官が退出した後、バルタザールは一人、窓のない部屋でニヤリと笑った。
その笑顔は、神に仕える者のそれではなく、獲物を追い詰める狩人のそれだった。
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