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第6章第4節 空飛ぶ棺桶と、勘違いクルーズの夜
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魔王の空中戦艦「ディアボロス号」は、見た目の禍々しさとは裏腹に、驚くほど静かで滑らかな航行を続けていた。船体全体を覆う高度な重力制御と風魔法の結界が、外部の騒音や揺れを完全に遮断しているのだ。
レンにあてがわれたスイートルームの巨大な窓からは、眼下に広がる魔族領の荒涼とした大地が、徐々に緑豊かな人間領へと移り変わっていく様子が見て取れた。
「……フッ。……境界線、か。……人間が勝手に引いた、脆く儚い線だ」
レンは、窓辺に立ち、クリスタル製のグラスに注がれた(魔王城から持ち込まれた、安全だと信じたい)琥珀色の液体を揺らしながら、さも深遠な哲学を語るように呟いた。
(……いや、何カッコつけてんだ俺。……ただの現実逃避だろ。……もうすぐ聖教国に着いちゃうよ……。……教皇になんて報告すればいいんだよ……)
レンの内面は、外面の優雅さとは対照的に、パニックの極みに達していた。
胃袋は、魔王との「共犯者同盟」締結以来、休むことなくキリキリと悲鳴を上げ続けている。グラスを持つ指先が、自分でも気づかないほど微かに震えており、水面に小さな波紋が広がっていた。窓ガラスに映る自分の顔色は、死人のように青白い。
魔王との密約。それは、レンが聖教国へ帰還し、教皇の懐深くに入り込んでその真意を探るという、文字通りの「二重スパイ」任務だった。
教皇を欺き、同時に魔王とも連絡を取り合う。どちらにバレても、レンの命はない。いや、命どころか、魂まで消滅させられかねない。
(……俺、ただのメンタリストだよ? ……人の顔色うかがって、適当なこと言って煙に巻くのが得意なだけの、一般人だよ? ……国家間の陰謀とか、世界のシステムとか、荷が重すぎるって!)
レンは、グラスの中身を一気に煽った。喉を焼くような強い酒精が、少しだけ胃の痛みを麻痺させてくれる気がした。
その時、部屋の扉がノックもなしに開かれた。
「……レン様ぁ♡ ……そろそろディナーの時間ですわよ♡」
エリナが、満面の笑みで飛び込んできた。彼女の手には、湯気を立てる銀色のトレイが握られている。
「……え、エリナ? ……食事は、船の食堂で……」
「……いえ、せっかくの船旅ですもの。……レン様と二人きりで、ロマンチックなディナーを楽しみたくて♡ ……私が、特製の料理を作ってきましたの♡」
(……特製? ……嫌な予感しかしないんだけど!?)
レンの喉仏が、ごくりと上下した。昨夜の深淵料理の悪夢が蘇る。さらに言えば、彼女が魔族領で飲ませようとした「特製精力剤(猛毒)」の記憶も新しい。
エリナがテーブルに並べた料理は、見た目は普通のローストビーフやサラダだった。だが、その隙間から、微かに、だが確実に、あの「深淵」の独特な腐臭と、強烈なスパイスの香りが漂ってくる。
「……さあ、レン様。……召し上がれ♡ ……私の『愛』が、たっぷり詰まっていますのよ♡」
エリナの瞳が、ヤンデレ特有の濁った光を宿して輝いている。
(……愛って、物理的な毒素のことじゃないよね? ……これ、食べたら死ぬやつだよね?)
レンは冷や汗をダラダラと流しながら、必死に笑顔を作った。
「……あ、ああ。……ありがとう、エリナ。……だが、私は少し、魔王殿との対話で魔力を消耗してしまってね。……今は、食欲が……」
「……まあ! ……レン様、大丈夫ですの!? ……でしたら、私が『口移し』で、魔力を分けて差し上げますわ♡」
エリナが、さらに危険な提案をして迫ってくる。
「……い、いや! ……それは大丈夫だ! ……少し休めば回復する!」
レンは、慌てて椅子から立ち上がり、後ずさった。
その時、部屋の隅でガタゴトと物音がした。見ると、アリアが床に魔法陣を描き、ブツブツと何かを詠唱している。
「……我は深淵の探求者、アリア・フォン・リーブレ。……今ここに、異界の扉を開き、混沌の宴を……ブツブツ……」
どうやら彼女は、この船の「深淵の魔力」に触発され、新たな(そして危険な)オリジナル魔法を開発しようとしているらしい。
「……アリア! ……船内で魔法を使うのは危険だ! ……やめろ!」
レンは、エリナから逃げるついでに、アリアの暴走を止めに入った。
「……ハッ! ……師匠! ……申し訳ありません。……深淵の波動が強すぎて、つい……」
アリアは、ハッとして詠唱を止めた。
さらに、部屋の反対側では、セシリアが真剣な表情で愛剣の手入れをしていた。シャッ、シャッ、という砥石で刃を研ぐ音が、奇妙なリズムで響いている。
「……セシリア、君も……。……もう少し、リラックスしたらどうだい?」
レンは、引きつった笑顔で声をかけた。
「……いえ、レン様。……我々は、敵地である魔王城から脱出したばかりです。……いつ、魔族の追手が来るか分かりません。……常に、臨戦態勢を整えておく必要があります」
セシリアの青い瞳は、一点の曇りもなく真剣そのものだ。
(……いや、追手は来ないって。……魔王が用意した船なんだから……。……ていうか、みんな自由すぎだろ! ……俺の胃痛の原因の半分は、お前らなんだよ!)
レンは、心の中で盛大に溜息をついた。
この「勘違いクルーズ」は、レンにとって、魔王との対話とは別種の、精神的な拷問だった。
やがて、窓の外が白み始め、東の空が茜色に染まり出した。
眼下には、雲海の間から、整然とした街並みと、その中心にそびえ立つ巨大な白亜の建造物――聖教国の首都アルカディアの大聖堂が見えてきた。
「……着いたか……」
レンは、窓ガラスに手をつき、その威容を見下ろした。
朝日に照らされた大聖堂は、神々しいまでに美しかったが、レンの目には、巨大な牢獄の入り口のようにしか見えなかった。
心臓の鼓動が、再び激しくなる。握りしめた拳の関節が、白く浮き出る。額に滲んだ冷や汗が、一筋、頬を伝い落ちた。
これから始まるのは、教皇という名の怪物との化かし合いだ。
魔王との密約を隠し通し、魔族領での「成果」をどのように報告するか。嘘に嘘を重ね、虚構の英雄像を演じ続けなければならない。一歩間違えれば、異端審問の火刑台が待っている。
「……フッ。……さあ、ショーの始まりだ。……観客は、神の代弁者様だ。……最高の演技で、楽しませてやろうじゃないか」
レンは、自分自身を鼓舞するように、震える声で呟いた。
その言葉とは裏腹に、彼の下腹部には、逃げ出したいという強烈な衝動と、差し迫った便意が渦を巻いていた。
(……まずは、トイレ……。……絶対に、トイレだ……)
レンの「聖戦」は、あまりにも人間臭い、切実な願いから幕を開けようとしていた。
レンにあてがわれたスイートルームの巨大な窓からは、眼下に広がる魔族領の荒涼とした大地が、徐々に緑豊かな人間領へと移り変わっていく様子が見て取れた。
「……フッ。……境界線、か。……人間が勝手に引いた、脆く儚い線だ」
レンは、窓辺に立ち、クリスタル製のグラスに注がれた(魔王城から持ち込まれた、安全だと信じたい)琥珀色の液体を揺らしながら、さも深遠な哲学を語るように呟いた。
(……いや、何カッコつけてんだ俺。……ただの現実逃避だろ。……もうすぐ聖教国に着いちゃうよ……。……教皇になんて報告すればいいんだよ……)
レンの内面は、外面の優雅さとは対照的に、パニックの極みに達していた。
胃袋は、魔王との「共犯者同盟」締結以来、休むことなくキリキリと悲鳴を上げ続けている。グラスを持つ指先が、自分でも気づかないほど微かに震えており、水面に小さな波紋が広がっていた。窓ガラスに映る自分の顔色は、死人のように青白い。
魔王との密約。それは、レンが聖教国へ帰還し、教皇の懐深くに入り込んでその真意を探るという、文字通りの「二重スパイ」任務だった。
教皇を欺き、同時に魔王とも連絡を取り合う。どちらにバレても、レンの命はない。いや、命どころか、魂まで消滅させられかねない。
(……俺、ただのメンタリストだよ? ……人の顔色うかがって、適当なこと言って煙に巻くのが得意なだけの、一般人だよ? ……国家間の陰謀とか、世界のシステムとか、荷が重すぎるって!)
レンは、グラスの中身を一気に煽った。喉を焼くような強い酒精が、少しだけ胃の痛みを麻痺させてくれる気がした。
その時、部屋の扉がノックもなしに開かれた。
「……レン様ぁ♡ ……そろそろディナーの時間ですわよ♡」
エリナが、満面の笑みで飛び込んできた。彼女の手には、湯気を立てる銀色のトレイが握られている。
「……え、エリナ? ……食事は、船の食堂で……」
「……いえ、せっかくの船旅ですもの。……レン様と二人きりで、ロマンチックなディナーを楽しみたくて♡ ……私が、特製の料理を作ってきましたの♡」
(……特製? ……嫌な予感しかしないんだけど!?)
レンの喉仏が、ごくりと上下した。昨夜の深淵料理の悪夢が蘇る。さらに言えば、彼女が魔族領で飲ませようとした「特製精力剤(猛毒)」の記憶も新しい。
エリナがテーブルに並べた料理は、見た目は普通のローストビーフやサラダだった。だが、その隙間から、微かに、だが確実に、あの「深淵」の独特な腐臭と、強烈なスパイスの香りが漂ってくる。
「……さあ、レン様。……召し上がれ♡ ……私の『愛』が、たっぷり詰まっていますのよ♡」
エリナの瞳が、ヤンデレ特有の濁った光を宿して輝いている。
(……愛って、物理的な毒素のことじゃないよね? ……これ、食べたら死ぬやつだよね?)
レンは冷や汗をダラダラと流しながら、必死に笑顔を作った。
「……あ、ああ。……ありがとう、エリナ。……だが、私は少し、魔王殿との対話で魔力を消耗してしまってね。……今は、食欲が……」
「……まあ! ……レン様、大丈夫ですの!? ……でしたら、私が『口移し』で、魔力を分けて差し上げますわ♡」
エリナが、さらに危険な提案をして迫ってくる。
「……い、いや! ……それは大丈夫だ! ……少し休めば回復する!」
レンは、慌てて椅子から立ち上がり、後ずさった。
その時、部屋の隅でガタゴトと物音がした。見ると、アリアが床に魔法陣を描き、ブツブツと何かを詠唱している。
「……我は深淵の探求者、アリア・フォン・リーブレ。……今ここに、異界の扉を開き、混沌の宴を……ブツブツ……」
どうやら彼女は、この船の「深淵の魔力」に触発され、新たな(そして危険な)オリジナル魔法を開発しようとしているらしい。
「……アリア! ……船内で魔法を使うのは危険だ! ……やめろ!」
レンは、エリナから逃げるついでに、アリアの暴走を止めに入った。
「……ハッ! ……師匠! ……申し訳ありません。……深淵の波動が強すぎて、つい……」
アリアは、ハッとして詠唱を止めた。
さらに、部屋の反対側では、セシリアが真剣な表情で愛剣の手入れをしていた。シャッ、シャッ、という砥石で刃を研ぐ音が、奇妙なリズムで響いている。
「……セシリア、君も……。……もう少し、リラックスしたらどうだい?」
レンは、引きつった笑顔で声をかけた。
「……いえ、レン様。……我々は、敵地である魔王城から脱出したばかりです。……いつ、魔族の追手が来るか分かりません。……常に、臨戦態勢を整えておく必要があります」
セシリアの青い瞳は、一点の曇りもなく真剣そのものだ。
(……いや、追手は来ないって。……魔王が用意した船なんだから……。……ていうか、みんな自由すぎだろ! ……俺の胃痛の原因の半分は、お前らなんだよ!)
レンは、心の中で盛大に溜息をついた。
この「勘違いクルーズ」は、レンにとって、魔王との対話とは別種の、精神的な拷問だった。
やがて、窓の外が白み始め、東の空が茜色に染まり出した。
眼下には、雲海の間から、整然とした街並みと、その中心にそびえ立つ巨大な白亜の建造物――聖教国の首都アルカディアの大聖堂が見えてきた。
「……着いたか……」
レンは、窓ガラスに手をつき、その威容を見下ろした。
朝日に照らされた大聖堂は、神々しいまでに美しかったが、レンの目には、巨大な牢獄の入り口のようにしか見えなかった。
心臓の鼓動が、再び激しくなる。握りしめた拳の関節が、白く浮き出る。額に滲んだ冷や汗が、一筋、頬を伝い落ちた。
これから始まるのは、教皇という名の怪物との化かし合いだ。
魔王との密約を隠し通し、魔族領での「成果」をどのように報告するか。嘘に嘘を重ね、虚構の英雄像を演じ続けなければならない。一歩間違えれば、異端審問の火刑台が待っている。
「……フッ。……さあ、ショーの始まりだ。……観客は、神の代弁者様だ。……最高の演技で、楽しませてやろうじゃないか」
レンは、自分自身を鼓舞するように、震える声で呟いた。
その言葉とは裏腹に、彼の下腹部には、逃げ出したいという強烈な衝動と、差し迫った便意が渦を巻いていた。
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