不惑の挑戦者

シバタイガー

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不惑の挑戦者

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ザーザーザー
五月晴れという言葉とは似ても似つかないほど外は雨が降っている。
建設現場の宿舎で外を眺めている男、柴山翔(三十九歳)。宿舎は小さなキッチンと四畳半という間取りであった。決して、缶ビールの缶が散乱したり・・・カップラーメンが散乱していたりしていない。キチッと整理されていているというよりも、必要なものしかないといった感じである。柴山は十年前、日本のプロレスに一大旋風を巻き起こした覆面レスラー・・・・ゴールデンタイガーである。人生を見つめ直す為にこの仕事についているのだった。
「こんな雨じゃ作業は中止だな・・・」
柴山は、何もない部屋にゴロンと横になった。ふと、箪笥の上にある古いアタッシュケースに目をやった。
何気なくアタッシュケース下ろし開けると、そこにはズタズタに引裂かれたゴールデンタイガーのマスクがあった。
柴山はマスクを手に取り外の雨を見ている。
ザーザーザー
ゴールデンタイガー・・・それは柴山の栄光・・・・そして、誰もが憧れたヒーローだった。
柴山の目には・・・マスク、そして雨・・・・。頭の中に大歓声が響いてくる・・・・。

 ザーザーザー
十年前の冬の寒い日、激しく雨が降っていた・・・・。それにも負けず沢山の人が開場を待ち長蛇の列を作っていた。
東京・日本武道館。
柴山は控え室でゆっくりと虎のマスクを被りゴールデンタイガーになる。
「赤コーナーよりSWA世界ジュニア・ヘビー級チャンピオン! ゴールデンタイガー選手の入場です!」
デビューから三年の月日が経ち、人気実力ともに頂点に上りつめたゴールデンタイガー。
会場内は入場テーマの音を掻き消す割れんばかりの声援が木霊した。暗い通路を走り抜けて会場内にさしかかると、その先には眩しいくらいにライトアップされたリングがあった。颯爽と花道を走りぬけリングに入り、両手を上げ、観客にアピールした。観客のボルテージは最高潮に達していた。
今回の相手は実力派のザ・イーグルだった。ザ・イーグルはゴールデンタイガーと同じ正体不明の人気マスクマンでゴールデンタイガー対ザ・イーグルの試合はタイトルマッチでなくとも立ち見が出るほどの動員数を記録していた。ザ・イーグルは名前のごとく、鷲をイメージさせる程に相手を上空から仕留める実力者だ。
ゴングが鳴り試合が始まった。
ザ・イーグルはゴールデンタイガー(柴山)の華麗なる空中殺法を完全に封じていた。
いつもは飛んだり跳ねたりの空中合戦であったが、この日のイーグルは一切飛ばずグラウンド中心に攻めてくる戦法に出ていた。間接技で固めながらザ・イーグルがゴールデンタイガー(柴山)に言った。
「おまえの試合は全て見た。私にはお前の空中殺法は通用しない・・・この試合で無敗の快進撃も終わりだ」
苦しむゴールデンタイガー(柴山)。
しかし一瞬の隙をついて切り返すゴールデンタイガー(柴山)。空中殺法が通用しないと分かるとグラウンドレスリングで勝負に挑むゴールデンタイガー(柴山)。不意をつかれ完全に腕の間接を極められるザ・イーグル。
ザ・イーグルにも意地があり、なかなかギブアップしない。このままだと腕が折れると判断したレフリーはストップをかけた。
カン・カン・カン! 
試合終了のゴングが鳴った。
レフリーに高々と右手を上げられるゴールデンタイガー(柴山)。
「ゴールデンタイガーの勝利です。空中殺法が通用しないとみるやグラウンドレスリングで勝負!ゴールデンタイガーやはり強い!いまだ無敗の快進撃を続けています!」

翌朝、柴山はリビングで新聞に目を通していた。
 柴山の家は、東急目黒線の西小山駅から商店街のアーケードを抜けた都内とは思えない閑静な住宅地にあった。もともと都会生活の嫌いな柴山は少し下町情緒のあるこの街が気に入っていた。
 有名タレントのように大きな豪邸ではなく、ごく普通の一戸建てであった。ゴールデンタイガー御殿ではなく、柴山家を建てたのであった。
 リビングで新聞を読んでいる柴山の目が止まる。
【所詮、虎は飛べなかった!】
【観客を裏切るタイガーの戦術】
その時、妻・美由紀が言った。
「いろいろ書くわねえ。プロレスのことは分からないけど・・・随分ねえ。いいじゃない、勝ったのだから・・・私は飛んだり跳ねたりして怪我をすることの方が嫌だわ。この子の為にも・・・」
視線の先には、翼がベビーベッドでスヤスヤと眠っている。
美由紀の気持ちは痛いほどわかるが、プロレスラーである自分がプロレスの道で成功するには、いかに観客を喜ばせるか・・・観客が何を望んでいるかであった。観客はゴールデンタイガーが宙を舞い華麗な空中殺法で相手を倒すことを望んでいるのだ。
柴山は悩んでいた。ザ・イーグルとの再戦まであと六ヶ月弱・・・。
「なんとかしなければ・・・。もっと凄い技を考えなければ観客は納得しない。」

数日が経ち、もうすっかり春の足音が聞こえ始めてきた。
柴山は道場に向かっていた。タクシーの中で柴山はゴールデンタイガーになった。
「このあたりでよろしいですか?」
「はい! ありがとうございます」
 タクシーはハザードをつけて停車した。
「一七九〇円です。レシートは?」
 と言い運転手は後部座席に振り向いた。
「わっ! ゴールデンタイガーさん?」
 乗った時の男が、降りる時にはゴールデンタイガーになっていたのだから無理はない。
「はい。レシートはいりませんよ」
 そう言いゴールデンタイガー(柴山)はお金を払った。
「ありがとうございました」
 運転手はドアをあけた。
 道場は東京・多摩川の河川敷にあり、大きな倉庫のような建物の中にリングがある、知らない人が見れば、ただの倉庫にしか見えない佇まいである。隣には一戸建ての家があり、そこが若手レスラーの寮になっていた。
 昨日は東京でも珍しく大雪が降った。まだ、雪の残っているにもかかわらず道場の中は熱気に満ちていた。
若手レスラーを相手に試合形式で練習をするゴールデンタイガー。
その殺気に見ていた若手レスラー達は声も出ない。
「今日のタイガーさん、どうしたんだろう・・・」
明らかに苛立っているゴールデンタイガー(柴山)がそこにいた。それは相手にではなく自分自身に苛立っていた。
「駄目だ! こんな練習をしていても観客を納得させられる技を開発できない!」
ゴールデンタイガー(柴山)は道場を飛び出していった。
まだ雪の残る多摩川の河川敷をひたすら走った。自分自身の苛立ちをかき消すかのように・・・走っていた。
道場付近まで戻って来た時、
「あっ、ゴールデンタイガーだ!」
一人の少年が近づいてきた。少年は津島潔といった。
「僕はタイガーの大ファンなんだ・・・こんな近くで見られるなんて!」
津島少年は明らかに興奮していた。
「ありがとう」
ゴールデンタイガー(柴山)は、やさしく手を差し出した。
津島少年は屈託のない笑顔を見せて言った。
「将来、僕もゴールデンタイガーになるんだー、なれるかな?」
「そうか、頑張ってね。きっとなれるよ」
「ねえねえタイガーさん、お願いがあるんだ・・・ゴールデンタイガーになりたくても・・・僕、マスクないんだー。ひとつ頂戴よー」
「うーん。・・・・これは一つしかなから・・・あげられないんだよ・・・ごめんね」
そう言うとゴールデンタイガー(柴山)は道場に走り始めた。
何分くらい経ったであろう。
津島少年は道場の前で待っていた。
ドタン、バタン、道場の中からは怖くなる程の音が響いていた。
すると、津島少年の前に一台の車が止まった。
車には【キタガワ・スポーツ】と書いてあった。運転していた人が、インターホンで話している。
「キタガワ・スポーツの者です。タイガーさんに新しいマスクをお持ちしました」
しばらくするとゴールデンタイガー(柴山)が出てきた。
「ご苦労様です。丁度、今のマスクがくたびれてきたところだったので助かります」
「試着しますか?」
「そうですね」
 そう言い素早く古いマスクから新しいマスクに付け替えると
「いつもながら凄いですね。素顔が一瞬も見えないですね」
「アハハハハ。プロですから」
ゴールデンタイガー(柴山)がおどけていると、一部始終を見ていた津島少年が近づいてきた。
「ねえねえ、タイガーさん、古いマスクはどうするの?」
「ん・・・・津島くん」
「二枚になったじゃん・・・・ねえねえ・・・」
「ん?」
「捨てちゃうんなら頂戴よー」
「んー」
「ねえー。お願いだよ。お願い!お願い!」
「参ったなー負けたよ。大事にしてね」
ゴールデンタイガー(柴山)はやさしい笑みを浮かべマスクを津島少年に手渡した。
津島少年は・・・マスクを受け取ると、満面な笑みを浮かべていた。
「優しいですねタイガーさんは。タイガーさん、練習はもう終わりですか? 車なので近くまで送りますよ」
「ありがとう。じゃあお願いしようかな。じゃあね、津島くん」
「うん」
津島少年は去っていく車を見えなくなるまで見送った。その小さな手にはマスクがしっかりと握られていた。
『夏までに・・・夏のタイトルマッチまでに・・・』

八月四日・・・東京ドーム。
日中は物凄い猛暑で蝉が激しく鳴いていた、夕方に近づくにつれ雲行きが怪しくなってきた。これから起こる悲劇を予測しているかのように・・・・。
「本日のメインエベント。SWA世界ジュニアヘビー級タイトルマッチ六〇分一本勝負を行います」
青コーナーには不適な笑みを浮かべている挑戦者のザ・イーグルが早く出て来いと言わんばかりにゴールデンタイガー(柴山)の入場を待っていた。その中に、あの時の少年(津島)の姿があった。
「赤コーナーよりチャンピオン・ゴールデンタイガー選手の入場です」
観客からは様々な声援が飛ぶ。
「タイガー負けるなよー!」
「がんばれタイガー!」
「今日こそは華麗な空中殺法で決めてくれよなー!」
リング上では早くも火花が散るゴールデンタイガーとザ・イーグル。
ゴングが鳴るやいなやゴールデンタイガー(柴山)のキックが決まる。一発二発、ザ・イーグルは完全に不意打ちをくらっている。たたみかけるように次々と空中殺法を出すゴールデンタイガー(柴山)。たまらずリング外に逃げるザ・イーグル。
「いいぞ、タイガー!」
観客の割れんばかりの声援が木霊する。
次第に大きくなるタイガー・コール。
インターバルをとったザ・イーグルがゆっくりとリングに戻る。
「あぶねえ、あやうく奴のペースにはまるところだったぜ」
勢いづいたゴールデンタイガー(柴山)は更に空中殺法を仕掛ける。
「!」
一瞬にしてザ・イーグルの姿がゴールデンタイガー(柴山)の視界から消えた。
ゴールデンタイガー(柴山)の体が激しくマットに叩きつけられた。
一転してザ・イーグルの攻撃が続く。ザ・イーグルはゴールデンタイガー(柴山)のウィークポイントであるラフファイトで攻めまくる。
ゴールデンタイガー(柴山)を場外へ落とし、椅子で殴り・・・鉄柱の叩きつけ・・・。
挙句の果てにはマイクのコードで首を絞める。
津島少年はいてもたってもいられずにリングの方へ走り寄る。
ザ・イーグルは、首を絞めながらマイクを持ち
「さあ、これからタイガーの素顔を御覧いただこう!」
そう言うとゴールデンタイガー(柴山)のマスクを破り始めた。
場内からは悲鳴も聞こえた。
ゴールデンタイガー(柴山)のマスクはもうズタズタに破られていた。
必死に手で顔を隠しながらゴールデンタイガー(柴山)の怒りは頂点に達していた。しかし、手で顔を隠しての攻撃は蹴り技しか出せない。いい感じに蹴りがザ・イーグルの首筋をとらえた。もんどりうって倒れこむザ・イーグル。
しかし、ゴールデンタイガー(柴山)にはこれ以上攻めることができない。その時だった。
「タイガー!これ!」
津島少年がゴールデンタイガー(柴山)に声をかけ、この間もらったマスクを投げ入れた。
「ありがとう」
ゴールデンタイガー(柴山)は礼を言うとマスクを付けはじめた。
「ふざけやがって!」
ゴールデンタイガー(柴山)がマスクを付け終わった時、背後からザ・イーグルが椅子を振り下ろした。
ゴールデンタイガー(柴山)は不意打ちをくらいうずくまっているのを確認したザ・イーグルはリングに戻り。
「とどめだぁ!」
ザ・イーグルが叫びながら場外のゴールデンタイガー(柴山)目掛けて、きりもみ状態で突っ込んできた。
「タイガー! 危ない!」
津島少年の声にゴールデンタイガー(柴山)は瞬時に身を翻した。
ガッシャーン!
物凄い音とともにザ・イーグルの体は鉄柵に叩きつけられた。
場内はシーンと静まりかえっていた。
ゴールデンタイガー(柴山)はリングに戻り、レフリーはカウントを数え始めた。
「一・二・・・・二〇!」
場内にアナウンスが流れた。
「只今の試合、ゴールデンタイガー選手のリングアウト勝ちです」
ピクリとも動かないザ・イーグル。
恐る恐るレフリーが惨劇となってしまった場外に下りる。
「血・・・ドクター、担架だ!」
ただごとでないことが起こったことは観客にも伝わっていた。
ザ・イーグルはそのまま病院に直行し、ゴールデンタイガー(柴山)は控室に戻った。
ゴールデンタイガー(柴山)は控室に戻ると、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。結果試合には勝ったが、またしても自分の試合が出来なかった。
何分経ったのだろう・・・・シャワーを浴び着替えていると誰かがドアをノックした。
ゴールデンタイガー(柴山)がドアを開けると若手レスラーが立っていた。
「タイガーさん、ザ・イーグルさんが亡くなりました・・・・たった今。病院に行く途中の救急車の中で・・・」
「何だって・・・すまない、出ていってくれ!」
そう言うとゆっくりとドアを閉めた。
「畜生!」
ゴールデンタイガー(柴山)はロッカーを力一杯殴り、手に持っていた引き裂かれたマスクをドアに投げつけた。
控え室には、ぐったりと膝をついているゴールデンタイガー(柴山)・・・床には引き裂かれたマスクが無常にも落ちていた・・・ひとつの時代が終わりを告げているように・・・。

翌日の新聞やニュースはザ・イーグルの死を大きく取り上げていた。
不慮の事故死というのが、おおかたの話だった。しかし、あそこでタイガーが受けていれば事故は防げていたのではないか?プロレスとは元来、相手の技を受けてやる格闘技である。という辛口の意見もあった。
表札は出していなかったが家の外にも数人の記者らしき人がいた。彼らにとっては、不慮の事故だろうとなんだろうと関係ないのだ。要はネタが欲しいだけである。人の死だろうと、栄光だろうとネタになり商売になるのだ。実際、この人気もマスコミの力がなかった訳ではなかったことも自覚していた。
出来る限り実力でという思いが人一倍強かった柴山にとってマスコミは無用の長物だったのだ。
やがて、警察官が来て記者たちに何か聞いているのが見えた。近所の誰かが不審者がいると通報したのだろう。近所の人は柴山がゴールデンタイガーなどとは知らないので無理もない。
記者たちがいなくなるのを見計らって柴山は家を出た。
『これで、暫くは家には記者は来ないだろう』
 そう心で呟いていた。
 柴山は、タクシーを飛ばして、千葉にある木更津ひまわり介護老人施設に向かっていた。
 そこには柴山の父親がいるのであった。
 柴山の実家はクリーニング店をしていて、両親は一人息子である柴山に店を継がせたかったのだった。しかし、柴山は高校を卒業するとプロレスの道に半家出という形で入っていった。柴山が外国遠征で成功しゴールデンタイガーとしてプロレスラーとして大成したころには、両親のクリーニング店もなくなり・・・その同時期に母親が他界し、そのショックで父親も認知症になり、この施設に入っているのであった。柴山がその事実を知ったのはゴールデンタイガーで成功した時であった。
 それから柴山は、息子としてではなくゴールデンタイガーとして施設を訪問していたのであった。父親の期待を裏切った柴山には、今は息子として会うことにためらいがあり、ゴールデンタイガーとして会うことしか出来ずにいたのであった。

 木更津ひまわり介護老人施設に着くと柴山はゴールデンタイガーに変身した。
「あっゴールデンタイガーさん。お久しぶりです、靖男さん待ってたんですよ。ゴールデンタイガーさんが来るのを・・・」
 受付の女性・佐伯恵美が声をかけた。
「いつもすみません、佐伯さん」
 もちろん佐伯には、ゴールデンタイガー(柴山)は、ここに来ること、来たことをマスコミには内緒でと言ってあったのだ。
 ここにはマスクを被っているが息子として来ているのだから・・・それに、マスコミに美談と扱われたくなかったし、他の全ての施設を廻ることも出来ないのだった。
 ゴールデンタイガー(柴山)は廊下をまがり二つ目の部屋の入り口にある名札を確認した。
【柴山靖男】
そして部屋に入った。
六畳ほどの部屋の南向きの窓側には窓に沿ってベッドが設置してあり、頭側が壁についていた。ベッドの隣にはスチールラックが置いてある。貴重品が入れられるように鍵がかかるようになっていた。入口横に洗面台があった。
全く物を持って来なかった靖男の部屋は、なんとなく閑散としていて淋しさすら覚えた。
「靖男さん、お久しぶりです。お元気でしたか?」
 ゴールデンタイガー(柴山)は靖男の寝ているベッドの隣に立ち話しかけた。
「おおートラくんじゃないか・・・」
 トラくん・・・。靖男は、ゴールデンタイガーが息子であることなど知らないのだった。トラのマスクを被っているので、トラくんなのである。
「はい、元気ですよ」
「おーい、ばあさん。お茶を・・・おーい」
 一生懸命に靖男は亡き妻・・・柴山の母親を呼んでいた。
「靖男さん、いいですよ。今、お茶を飲んできましたから」
 マスクを被っているので表情は靖男には分からなかったが・・・毎回この会話から始まるので辛かったのであった。
「靖男さん、天気がいいから散歩しましょうか?」
「そうだな!トラくん」
 その時、佐伯が車椅子を持ってきた。
「タイガーさん、車椅子。いつものように散歩に行かれるかと思いまして」
「ありがとう」
 その時、ゴールデンタイガー(柴山)の目に一枚の絵が入った。
 親子がキャッチボールしている絵であった。
「あの絵は?」
「ああ、確か・・・近所の子供に貰ったとか・・・」
「そうですか・・・近所の子供が・・・」
 もしかしたら自分の絵では?と思った柴山は少しショックだった。やはり自分のことなど嫌っていて覚えていないんだ、と思いながらも、裏切ったのだから仕方ない、今この時間を大切にしようと思っていた。
「さあ、靖男さん、車椅子に乗りますか?」
「じゃあ、よろしくお願いいたします」
 そう言い佐伯は去っていった。
「さあ、靖男さん。行きましょうか?」
 ゴールデンタイガー(柴山)は靖男を車椅子に乗せると、車椅子を押しながら部屋を出た。
 ゴールデンタイガー(柴山)の至福の瞬間であった。傍から見れば、ゴールデンタイガーが老人の車椅子を押しているホノボノ風景に映るだろう・・・しかし、ゴールデンタイガー(柴山)にとっては、父子でいられる瞬間である。例え、父・靖男が認識していなくても・・・・。
「いま、いくつだ?」
「えっ・・・」
 唐突に、靖男は聞いた。これも毎回である。
「二十五です・・」
「そうか。二十五か・・・俺にも翔っていう息子がいてな・・・」
「そうですか・・・・息子さん元気ですか?」
「・・・・死んだよ」
 毎回な話ではあったが、ゴールデンタイガー(柴山)は辛かった。『死んだ』とは亡くなったと思っているのか?それとも、生きてはいるが、期待をかけた息子はいない、という意味なのか?ゴールデンタイガー(柴山)には分からずにいた。
「そうですか・・・・」
 ゴールデンタイガー(柴山)は、『お父さん』そう言いたかった。そう言い、手を握りたかった。
「あっ、そうだ! これお守りですよ・・・貰ってくださいね」
 ゴールデンタイガー(柴山)は、自分の腕からTをデザインしたブレスレットを外すと、靖男の左手首につけた。デザインのTは、翼のT・・・そしてタイガーのT。ゴールデンタイガー(柴山)は、自分のことを分からない父親にせめて自分の身につけていた物をつけていて欲しかったのであった。
「おー綺麗だなートラくん」
「凄く似合っていますよ」
「・・・・」
「どうしました? おとう・・・靖男さん?」
「もう眠い! 帰るぞ」
 そう言い靖男は目を閉じた。
「そうですね」
 ゴールデンタイガー(柴山)は答えぬ父・靖男を車椅子で押し部屋へ帰っていった。
『お父さん・・・・実は・・・・事故とはいえ、友人を死なせてしまったんです・・・・。どうしたらいいか分からなくて・・・・ここに来ました・・・・。昔の、お父さんなら、きっとアドバイスをくれましたね・・・・。今では無理ですね・・・。でも、来て良かった・・・・お父さん』

築地・本願寺にはプロレス関係者やファンでごったがえしていた。
ひとしきり強い雨がザ・イーグルの無念を物語っているようだった。柴山の胸にも、雷と雨が突き刺さっていた。
【故ザ・イーグル儀 葬儀会場】とある。
ザ・イーグルの功績と、家族の意思を尊重し覆面をしたままの葬儀となった。
雨はさらに嵐のようになっていた。まるでここにいるファンの人々の涙がそうさせているように・・・・。一般参列者の中にサングラスをした柴山の姿があった。
すると、柴山の後ろの方から話し声が聞こえてきた。
「殺した、ゴールデンタイガーは来てるのかな」
「来る訳ねぇじゃん」
柴山は、そういう声を直接耳にすることは分かっていた。
柴山の順番が廻ってきた。柴山は遺影に一礼し、両サイドの親族に一礼した。
下を向いたまま泣いている一人の女性がいた。ザ・イーグルの妻であろう。その腕の中には乳飲み子がスヤスヤ眠っていた。
「裕太ちゃんもまだ小さいのに・・・夏美さんも災難だねえ・・。」
後ろでヒソヒソはなしている声が聞こえた。
柴山は自分の妻子をオーバーラップさせていた。もし、自分が死んでいたら・・・この席に座って泣いてる女性が美由紀であったり、翼であったと・・・。
柴山は焼香を済ませると、雨が降りしきる中、帰っていった。
その時、鳴き疲れた蝉がポトリと地面に落ちた。

ザ・イーグルの事故以来、柴山は部屋で一人悩む日が続いた。
もうリングには戻らない・・・柴山は決めていたのだった。
ゴールデンタイガーとして人気と実力を向上させる為にライバルとして選んだザ・イーグルを不慮の事故とはいえ死なせてしまった・・・そんな自分が許せなかった・・・そのことが柴山を苦しめていた。
そんな自分から逃げるかのように酒浸りになった。
美由紀は柴山を説得し続けた
「あれは不慮の事故で・・・ファンの皆はゴールデンタイガーの復活を願っているのよ!」
しかし柴山は聞く耳を持たずに自堕落な生活を送っていた。
そんな柴山を見るに絶えず美由紀は二歳になった翼を連れて家を出ていった。
「さようなら・・・あなたはゴールデンタイガーとして子供達に夢と希望を与えてきた・・・翼にも父親として希望を与えて欲しかった・・・また、いつか三人で暮らせる日が来ることを・・・」
 柴山は心の中で・・・『これでいい。俺は、リングの上でしか自分を発揮できない男だ。この先、自分といても美由紀と翼は幸せになれない・・・これでいい』
 柴山は、この先立ち直ることが出来たときは、必ず会いに行こう・・・迎えに行こうと硬く心に誓ったのであった。

現実に戻り・・・・。柴山はマスクをしまった。
「翼ももう、十二歳かぁ・・・」
 美由紀、翼と離れて、十年である。柴山は一日たりとも美由紀と翼を忘れた日はなかった。本当は死ぬほど会いたいのだ・・・しかし、仕事を始めたとはいえ、お世辞にも世間並みの暮らしを送れているとは言えない自分の姿を柴山は見せる訳にはいかなかった。
『翼と接した期間は二年・・・・一番大切な時期を一緒に過ごせなかった・・・・』
その時、ドアを叩く音がした。
「し、柴山君、め、飯に行こう・・・」
現場監督の大野がドア外で叫んでいた。

柴山と大野は近くの小料理屋へ行った。
この小料理屋は宿舎からも近いこともあり、柴山たちのよく行く店だった。一人暮らしで食事もままならない柴山にとって、この店の料理は舌に馴染んだ。美由紀と離婚してからの唯一、家庭的な雰囲気を味わえる空間でもあった。
「も、もうこの現場もーあ、あと一ヶ月で終わりだな。い、いつも、なんか寂しい気持ちになるよ。し、柴山君は、大楽建設に入ってもう十年だな。この現場が終わったら、ほ、本社勤務の辞令が出ていたな確か」
「はい、でも・・・身体動かしている方があってるんですが・・・」
「でも、い、いつまでも現場っていう訳にはいかないだろ。し、柴山君は結婚しないのか?」
柴山は黙って一口酒を飲んだ・・・・煮物に伸ばした箸を止め、話し始めた。
前の仕事で事故ではあるが、友人を自分が加害者で死なせてしまったこと・・・それがきっかけで自堕落な生活を送っていたこと・・・そんな自分に愛想を尽かして妻は子供を連れて出て行ったこと・・・。しかし、自分がプロレスラー・ゴールデンタイガーであったことは言えなかった。
「そ、そうか・・・そんな自分を変えようとこの仕事を・・・い、今、三十九だろ、【不惑】という言葉を知ってるか?」
「不惑?」
「そう、ふ、不惑。《男四〇にして事をなす!》 い、いつか親子三人で暮らせる日がくるよ! し、四季というものがあるように・・・じ、人生にも春があれば夏・・秋、そして冬があるんだよ。華やかな時代があったとすれば、そ、それが春・・・辛い時代があれば、それが冬。そうしたら、い、いつか春を迎えるんだよ、が、頑張れ、なっ!」
大野は酒を柴山に注いだ。

 横浜・元町、ここはブティックやサロンなどが立ち並ぶお洒落スポットである。その一角に【UWB】という看板を掲げたビルがある。とてもお洒落とはいえない男たちが出入りするビル。
そう人気レスラー池部圭吾が所属するプロレス団体の事務所である。横浜の地域密着型で地元のイベントなど、積極的に参加していたのだった。
その会議室で、オーナー有坂繁樹と所属人気レスラーで経営者の池部圭吾が次期シリーズの件で話している。
 もともとザ・イーグルのマネージャーであった有坂はザ・イーグルの死後UWBを立ち揚げ経営の方に専念していた。この男もゴールデンタイガーと同じく試合で後遺症を負った一人であった。UWBを立ち揚げた際も、「あのザ・イーグルを育てた男」として入門者が殺到した。池部もその一人であった。
「オーナー、自惚れじゃなく、俺の人気でこのプロレス界を維持していると言っても過言じゃないだろ! ただ、今ひとつなんだよな。ライバル的存在の実力・人気レスラーを連れてこいよ。俺はザ・イーグルいやゴールデンタイガー以上の実力もある!」
「せやけどな・・・・」
 有坂は困惑していた。確かに人気・実力はある、ただ毎晩遊び歩いている池部に一抹の不安があるのも事実だった。
 打ち合わせをしていると、会議室の外で声が聞こえた。
「こまります!」
会社の受付嬢だ!
 すると会議室のドアが開き、派手な女が入ってきた。
「会議中や!誰やね?」有坂は女を一瞥すると受付嬢を見た。
 受付嬢は有坂に
「申し訳ございません。会議中なのでと申しましたが、この女性が池部さんの知り合いだからと・・・・」
 女は、受付嬢を押し退け池部に抱きついてきた。
「いけべーさぁーん。淋しかったわー近頃ご無沙汰なんだもんー。淋しくて会社にきちゃったわー」
女は池部の隣に座りイチャつきながらも、しなやかに胸のポケットから名刺を一枚抜くと有坂の前に置いた。
「今度、きてくださいねー」
 女は艶やかな視線を有坂に投げかけ、すぐさま池部に抱きつき顔を埋めた。満足そうに池部は女の身体を撫でながら
「今日顔だそうと思っていたんだよ。さあ行こう」
言って池部は女の肩を抱き立ち上がった。
「あー、オーナー!それじゃあ、よろしくな!」
と池部は付け加え会議室を出た。
 一人会議室に残った有坂は頭を抱え、天をあおいだ。しかし、今の有坂には経営上で動員数を持つ池部に頼るしかなく・・・池部の乱行を黙認するしかなかった。そして一人息子・裕太の為に・・・。
有坂はボーっとさっき女が置いていった名刺に目をやった。
《銀座クラブ・クローバー ママ 美咲》
銀座か・・・有坂は静かに目を閉じた。

 あれは、ザ・イーグルの死去後しばらく経ってのことだった。
 プロレス界のスターであったザ・イーグルが死去し、ゴールデンタイガーも消息不明で事実上引退となり、二大スターを失ったプロレス界は動因数が激減してしまった。
 有坂もまた、ザ・イーグルと二人三脚で歩んできたため、生き場所を失い・・・・結局会社を辞めてしまっていた。
 何かを紛らわすように、夜な夜な銀座へ足を運んでいた。
 そんな時酒を飲もうとフラッと店に入った。
 高級クラブとは、ほど遠い小さなスナックだった。小奇麗にしてある店内はカウンターがあるだけで、六人も入ればいっぱいになる感じであった。
 店内には、洒落た絵が三枚ほど飾ってあった。
 フラっと初めて入った店だったが、今の有坂には落ち着く空間に思えた。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
なんか聞き覚えのある声・・・・。
「有坂さん?」
その店のホステスらしい女が声をかけた。
「え?」
知り合いの店でもないのに・・・まあ銀座だから、良くある話・・・・別の店で働いていた女が移ってきたのだろうくらいしか有坂は思わなかった。
 出された水割りを飲もうとした時、有坂はビックリした、ザ・イーグルの妻・夏美であった。ザ・イーグルの死後疎遠になっていたのであった。
「夏美さんやないですか? なんで夏美さんがこの店におるんや?」
「生前は主人が大変お世話になりました。もう半年経ちました。幼い裕太もいますので・・・・いつまでも悲しんでばかりはいられないのです。でも女手ひとつでは、普通の仕事では子供を食べさせるほどの収入がありません。で、この店で雇っていただいているのです。軽蔑なさったでしょ? でも、主人が亡くなって、自分が無力だと痛感しました」
「いや、そんなことになってたとは知らんと・・・。えろう、すんません。さぞ、冷たい人間やと思ったやろうな」
「いえ・・・そんな・・・・。有坂さんには大変感謝しております。主人の葬儀の手配やらお手伝いいただいて・・・」
「しかし、その後・・・そんなに苦労なはってるとは・・・・すんまへん」
 その後、昔話に花が咲き・・・ムシャクシャしていた気持ちがなんか晴れた気分で店を出た。

 それから、有坂は何度となく店に通うようになった。
 そんなある日・・・・いつものように店に行った。店内は小さな明かりがついているだけ・・・・ちょっと不安な気持ちになりながら店の外から声をかけた。
「あれ、今日はまだなん?」
有坂はゆっくりと店内に入った。
「! 夏美はん、どないしたん?」
夏美はカウンターで酒を飲んでいる。泥酔しているようだ。
有坂は店のドアを閉め・・・・鍵をかけた。
「一体、何があったんや?」
夏美は有坂を見て安心したのか、ただ泣くばかりだった。何か問題があったのは明らかだった。
 聞けば、この店のオーナーが店の売上げを持って逃げたらしい。夏美はうまく使われたようだった。
「これから、どうやって生きていけば? 裕太はどうなっちゃうの?」
有坂は夏美を抱き寄せていった。
「ワイに面倒をみさせてもらえないやろうか? 夏美はんと裕太君を・・・ワイも、もう一度新しいプロレス団体を立ち揚げまんがな・・・で、ザ・イーグル以上の選手を育てるやさかい」
 夏美は、コクリと頷くと有坂の胸に顔を埋めた。有坂も抱き締めている手に力を込めシッカリと夏美を抱いた。
 そして有坂・夏美・裕太の三人の生活が始まった。

 プ・プ・プ・プ・・・
会議室の内線が鳴った。現実に戻される有坂。
「なんや?」
 有坂は受話器を取って答えた。
「オーナー、外線です」
有坂は外線ボタンを押した。
「有坂や。・・・・。もしもし?」
電話の向こうはざわついている。有坂には電話の相手が判っていた、池部だ!
「もしもーし、オーナー。あんまり引きこもってないで、飲みにきません?」
キャハハハ・・・という女たちの笑い声が聞こえる。
有坂には状況が判っていた、呼び出しお金を払わせるのである。
「すまんのー会合があるさかい、行けへんな・・・・請求書を会社にまわしといてくれ・・・処理しておくやさかい・・・」
「サンキュウーオーナー。おーきにー。アハハハハ」
「いや・・・・」と言い有坂は電話を切った。

 銀座のクラブ・クローバーでは池部が、はしゃいでいる。
 高級クラブだけあって、店内の調度品は高価な物を置いている。ホステスもまた、綺麗どころが揃っており、身に着けている装飾品も高価なものばかりだった。このことでも客層が一流であることがうかがえる。
「よーし、今日は飲むぞー。高い酒をジャンジャン持ってこい。俺のおごりだ!」
キャーと黄色い歓声が飛ぶ。
「さすが有名人さんは凄いわねー。池部さんが来なくなったら、お店辞めちゃうわー」
「池部さんみたいな男って素敵よねー。やっぱりケチな男って最低ー。でもー池部さんママの彼氏ですもんねー」
などという声が飛んでいる。
「もう、愛ちゃんも由香ちゃんも・・・・ねえ池部さん」
 美咲は池部の大腿部を手でなぞりながら甘えてみせた。
「ほらーやけちゃうー」
「キャハハハハ」
店内はすっかり池部のオンパレードになっていた。
すると隣のボックスの客が黒服に合図した。
「チェック・・・」
黒服が伝票を持ってきた、客は伝票にサインしボックスを出て行った。
素早く美咲は出入口に先回りし、客を見送りにきていた。
「あらー本田さん、もうお帰りですか? 次はゆっくりしていってくださいね。いつもご贔屓にしていただいて助かっております」
「いやー、彼(池部)には勝てそうもないしな。ママにはぞっこんなんだけどなー」
「いやですわ・・・本田さんーヤキモチ焼くなんて・・・。本田さんも、私の気持ち分かってくださっているはずですわー」
 美咲は本田の耳元で囁いた。
「いやー嬉しいこと言ってくれるねー。また来るよ」
「お待ちしてますわー」
美咲は艶やかかつ満面な笑みで本田を送り出した。そして、池部のいるボックスに戻ると・・・・
「池部さんーちょっと離れただけで淋しかったの」
 と言い、また池部に寄り添い甘えてみせた。
 満足そうに池部は美咲を抱き寄せると
「この間の試合どうだった? 格好よかったろ!」
「うん、池部さんの試合好きでいつも見てますわ。でも、怪我だけが心配で・・・・」
「俺はそんな柔じゃないかな! 大丈夫だよ! ただ相手が弱い奴だから、可哀相でね! 相手を心配してやってくれよー」
「そうよねー」
 美咲は池部の厚い胸に顔を埋めた。
「まあ、飲め飲め!」
 池部は満足そうに美咲の頭を撫でながら、ホステスたちに言った。
アハハハハ・・・・銀座の夜は更けていった。

ジリリリリ・・・・目覚まし時計が鳴り響く。
スウェットに着替えた有坂が家から出てくる。毎朝六時に起きてのランニングは有坂の日課になっていた。
それは、UWBを立ち揚げてから一日も欠かすことなく続けている。
都心生活が長かった有坂は、結婚を期に都心から一時間ばかり離れた横浜の郊外に家を建て引っ越したのであった。裕太が幼少の頃、多少身体が弱かったので少しでも空気の良いところというのも理由の一つであった。
 一廻りするのに、二十分ほどの距離である。家を出てまず右手に小さな公園ある、公園の中を抜け階段を下りていく。遊歩道を走り抜けると神社がある。神社を右折すると家に戻ってくるのである。
春には公園の桜が咲き・・・・夏には蝉が鳴き・・・・秋には神社の銀杏が黄金の絨毯を作り出し・・・・冬には雪や霜柱で銀世界になる・・・四季折々を肌で感じることができるので有坂は好きなコースであった。
 
「おかえりなさい、シャワーの準備できてますよ」
夏美が浴室をシャワーで暖めながら言った。
 有坂がシャワーを浴び、食卓につく。目玉焼にベーコン、トーストが三人分並んでいる。
「裕太ー早く支度しなさいー遅れるわよ」
夏美が階下から二階にいる裕太に声をかけた。

「わかってるよー」
 裕太は有坂の部屋でビデオを見ながら生返事をした。朝時間のある限り・・・帰ってから時間のある限り・・・裕太は、こっそりと録画ビデオを見ていたのだった。有坂がコレクションしていた、プロレスの試合が録画されたテープを・・・・もちろん一番興味があるのは亡き父親ザ・イーグルとゴールデンタイガーの一戦のビデオである。
『ザ・イーグルの体が鉄柵に打ち付けられる・・・・場内に異変が起こる・・・・乱れる画像・・・・舞い上がるアナウンサー・・・』
「くっそー・・・・ゴールデンタイガーめ・・・・」
 裕太はこのビデオを擦り切れる程見ている、そしてその度にゴールデンタイガーへの憎しみを深め、亡き父を思い涙していた。

「おはよー」
裕太が学校の仕度をして降りてきた。
「おはよう・・・・」
有坂が新聞を読みながら朝食をとっていた。
裕太は食卓を覗くと出て行こうとした。
「朝飯は食べて行かへんと力がでぇへんで」
「別にいらないよ、時間ないし・・・それより、池部さんのサイン頼んでくれた? 友達に約束したんだからね」
「ああ、大丈夫や」
「頼んだよー行ってきまーす」
 このことも有坂が池部に逆らえない理由の一つであった。有坂は裕太に対し腫れ物に触るかのように接しているのである。裕太の我儘を全て聞き入れていた。そんな有坂の態度には夏美は不満があった。
「そんなにあの子に気を使わなくても・・・」
「わかっちょる」
有坂は夏美を愛してはいるが・・・どこかでザ・イーグルに負い目があり・・・罪滅ぼしの感もあった。それでイーグルの息子である裕太に気を遣い腫れ物に触るように接しているのは夏美もわかっていた。夏美は、何不自由はない生活を送れることに感謝しつつ、どこかぎこちない父子関係に不満を持っていたのであった。

 裕太の家から、徒歩十分程の市営団地の三〇三号室に【山口美由紀・翼】の表札。
 美由紀と翼の住んでいる家である。一DKという間取りは、翼と二人では充分な広さであった。唯一の居間は八畳でテレビと鏡台、箪笥が二つある。壁には翼が貼ったであろうヒーローのポスターが一枚貼ってあった。
いつの日か必ず柴山と親子三人で暮らせる日がくると信じているので、美由紀は翼に、父親は海外出張ということにしてあるのだった。柴山は離婚したと思っているが、美由紀は離婚届を出さずにいたのだった。柴山の突然失踪によるマスコミからの追手を防ぐ為、旧姓での生活を送るしかなかったのだった。
「ほら、翼。早く支度しないと遅れるわよ」
美由紀の声がする。支度をした翼が部屋から出てきた。
「ねえーお父さんはいつ帰ってくるの?」
「もう少しかな・・・どうして?」
「今度、父親参観日があるじゃんか・・・」
「ごめんね。もう少しの辛抱だから・・・」
「別にいいよ。裕太もお父さん忙しいから来られないって言ってたから・・・・」
子供心にも、やはり父親がいないのは淋しいのであった。
美由紀は、そんな翼に切なくなっていた。元気を装っているが、やはり淋しそうな翼は美由紀を悩ませていた。
 ピンポーン
 その時、玄関のチャイムがなった。
「山口さんー宅急便です」
 宅急便屋のようである。翼は玄関のドアを開けた。翼の目の前には大きな箱を持った爽やかな顔をした宅急便屋の青年が立っていた。
「山口美由紀さん、お荷物です」
 中から美由紀がハンコを持って出てきた。
「ご苦労様です」
「では、こちらにサインかハンコをお願いします」
 美由紀はハンコを伝票に押すと、宅急便屋の青年は出て行った。
 翼は荷物が気になって仕方なかった。
「ねえねえ、これ何?」
「んー」
 美由紀は差出人の名前を見た。地方の市場からであった。
「開けていい? お母さん?」
「いいわよ」
 翼は、勢い良く荷物のガムテープを剥がした。
「わあっ!」
 翼は尻餅をついた。中には大鋸屑に埋もれた一匹の毛蟹が入っていた。
「これ、生きてるの?」
「ええ、生きてるわよ」
「すげえー」
 美由紀には分かっていた・・・これが柴山からだということを、いままで一度もかかすことなく地方の現場の市場から翼の喜びそうな物を送ってきていたのだった。宅急便の住所で柴山が今どこの現場かがわかるのであった。
『ありがとう・・・翼はスクスク育ってますよ』
「あっ、いっけねえ! 行ってきまーす! これ一人で食べないでよ!」
「ハハハハ。どうしようかなー翼がいい子なら食べないでとっておこうかなー。それとも食べちゃおうかなー」
「だめー! 行ってきまーす」
「はーい、行ってらっしゃい」
翼は元気に返事をすると、ドタバタと出て行った。
部屋に残された美由紀は宅急便の送付状を見つめていた。

 横浜市立緑ヶ丘小学校。少子化とはいえ、横浜でもここは新興住宅地であり、この小学校でも翼の学年は五クラスあった。翼と裕太は同じクラスであった。
 裕太と友達が話している。
「なあなあ、池部のサインは、まだ?」
「そうだよ、頼むよー」
 友達たちが裕太にそれぞれ話しかけた。
「大丈夫だよ。うちのお父さんは池部のとこのオーナーだよ。大丈夫だよ。この前も道場見学にいっただろ」
「そうだ! また道場行こうぜ! その時サイン貰おうよ」
裕太は人気者であった。なにせ池部は子供たちのヒーローであった、その池部に裕太は簡単に会えたり、サイン貰えたりするのだった。そこに翼が入ってきた。
「おはよー」
「おお、翼!」
裕太は翼のことが好きだった。翼は裕太に対し、池部とか関係なく、掛け値なしに接してくれる友達だったのだ。
お互い、心を許せる親友の関係であった。
「翼、父親参観どうする?」
「んー。だってうちはお父さん海外だし・・・・来られないよ」
「うちもだよー仕事仕事ってさ。まあいいけどな」
「でも、裕太はいいよ。家にお父さんいるから・・・俺なんか顔も知らないんだぜ・・・・」
「そうだよな・・・お父さん、いつ帰ってくるんだ?」
「わからない・・・・別にどうでもいいよ!」
「そっか・・・・」
裕太は自分の本当の父親が人気レスラーだったザ・イーグルであることを知っている。しかしまだ二人は気付いていない。翼の父親がザ・イーグルを死なせてしまった張本人であるゴールデンタイガー、柴山であることを・・・。
「俺たち親友だろ。ほら!」
裕太は水色のビー玉を見せた。
「そうだよな」
翼も赤いビー玉をポケットから出して裕太に見せた。

 それは、一ヶ月位前の放課後。
「翼―こっちこっち!」
「裕太ーどこ行くんだよ」
 裕太に連れられて翼は学校の裏山を登っていた。
 登りきると夕日が綺麗に見える丘になっていた。裕太はよくこの丘に来ていたのだった。それは、友達は自分を好きで友達になったのか?オーナーの息子でサインやらが貰えるからなのか?いつも裕太は疑問だった。裕太の中で本当の友達はサインも欲しがらない翼だけかもしれない、と思っていた。
「ここに来ると、なんか落ち着くんだ。ここは、俺の秘密の場所なんだぜ。翼にだけ教えてやるよ」
「サンキュー」
翼は芝生に寝転んだ。
「あー気持ちいいなー」
 裕太もまた寝転んだ。
 二人は、夕日を浴びながら・・・ほのかに冷たい空気を感じていた。
 その時、二人の足元の何かが光った。
「?」
「なんだあれ?」
 二人は同時に起き上がり・・・光る物の方へ行った。
「あっ、ビー玉だ! 綺麗だな」
「本当だな」
 そこには赤と水色のビー玉が光っていた。裕太は二つとも拾いあげると、赤い方を翼に渡した。
「翼が赤な、俺が水色・・・友情の印な」
「うん!」
「ずっと持ってろよ!」
「裕太もな!」
 翼の手には赤いビー玉、裕太の手には水色のビー玉がしっかり握られていた。

会社に出勤した有坂は、溜まっている書類に目を通す。
すると経理部長が、有坂のデスクにやってきた。
「こんな請求書が届いています。池部さんですよね、これ。社長からも注意してください。これでは他に示しがつきませんよ」
「わかっちょる・・・すまんの」
 有坂にはわかっていた。池部は確かに実力があるが、徐々に人気が低迷しつつあることを・・・しかしながら池部に頼らなくてはいけない経営状況であるも事実だった。強いだけではヒーローにはなれない。ゴールデンタイガーやザ・イーグルには強さだけではない他の魅力があったのだった。
「オーナー」
有坂は、突然声をかけられた・・・・池部である。
「頼まれたサイン書いておきましたよ。オーナーの頼みなら何枚でもかきますよ」
「ああ、おおきに」
「で、今日どうです、一杯」
「すまんの、今日は家族で食事に行くことになっとるんや」
「残念だなー。じゃあ、裕太君によろしく」
その時、池部の電話がなった。
「ああ、行くよ。わかってるよー愛してる。それじゃあ後で」

 翼は学校から帰るとテーブルに用意してあるお菓子に目もくれず一目散に今朝の蟹を探した。
「カニーカニー・・・あった!」
 今朝の宅急便の箱を見つけると、ゆっくりと箱を開けた。中には大鋸屑に埋もれてジッとしている蟹が姿を現した。
 ゆっくり恐る恐る持ち上げてみた。
「なあんだ・・・」
手足が紐で結わかれていたのだった。
「そうだ!」
 翼は蟹を持って風呂場に向かった。風呂場の排水口を塞ぎ、水を三センチほど風呂場の床に貯めて蟹を放した。
「アハハハハハー可愛いなあー」
 しばらく遊んでいると美由紀が仕事から帰ってきた。
「ただいまー・・・・あれ翼?」
 翼が風呂場から出てきた。
「おかえりー」
「ん? 翼、お風呂場で何してたの?」
「あー、別にーそれよりお腹すいたよー」
 翼はそう言うと居間に入りテレビを見始めた。
「そうね、ちょっと待っててね」
 翼は、すっかり蟹を忘れテレビに集中していた。
「キャー」
 美由紀の悲鳴が聞こえた・・・風呂場からだ!
「やべ!」
 翼は恐る恐る風呂場を見にいった。
「翼! 蟹で遊んじゃだめ!」
 震えている美由紀を見て翼は
「ごめんなさい・・・お母さん」
 顔を上げた翼が見たのは、怒っている母・美由紀ではなく、暖かい目で自分を見ている母・美由紀の顔だった。
「可愛いねーこの蟹。ねっ翼」
「うん!」
「じゃあ食べるのやめようか?」
「それはダメ!」
「ハハハハハ。じゃあ蟹さん仕舞おうか?」
「うん!」

横浜駅前のシティホテルの最上階に鉄板焼レストランがある。
横浜の夜景が一望でき、落ち着いた雰囲気のレストランだった。
 カウンターの一番奥の席に夏美と裕太が座っているのが見えた。
「すまん、すまん、遅れてもうた」
有坂が席に着くとカウンター越しのシェフが声をかけた。
「では、料理を始めさせていただきます。有坂さま、食前酒何かお持ちしましょうか?」
「ほな、ワイと女房はグラスシャンパンもらおか、息子にはオレンジジュースを・・・」
「かしこまりました」
少しすると・・・グラスシャンパンが有坂と夏美の前に、オレンジジュースが裕太の前に置かれた。
「家族三人で食事するのは久しぶりやな」
といいながら有坂はグラスシャンパンに口を付けた。
ジュウージュウー
目の前の鉄板では、いい音を出している。
裕太が食い入るように見ている。
「裕太、美味しそうやろ。鉄板焼きはな、この音を耳で聞いて・・・焼かれている匂いで楽しむんや。そやさかい、食欲がわくちゅうもんや・・・」
 有坂たちの前に焼かれた魚介類が皿に盛られた。
「わあ、早く食べたい」
 裕太は待ちきれず食べ始めた。
 次々に、シェフは野菜、肉などをヘラでリズミカルに音を立てながら焼いては盛りを繰り返していた。
「そや裕太。池部のサイン貰ったで」
「ありがとう」
「そないに池部は人気があるんか?」
「うん、男子はみんな好きだよ。でも翼だけは余り興味ないみたいなんだ。一番の親友だから、一番あげたいんだけどなあ・・・道場も興味ないって行かないんだよ・・・」
「! 翼・・・」
有坂の箸が止まった。
「翼君って言うたな、その子?苗字はなんなん?」
「山口だよ。山口翼」
「裕太と翼君は親友なんやな?」
「うん、翼ならなんでも話せるよ。あいつは打算がなく俺に接してくれるんだ」
「・・・・・・」
「ほらー」
 裕太は自慢げにポケットから水色のビー玉を取り出し、有坂に見せた。
「俺は水色で・・・翼が赤なんだよ! 俺達の友情の証なんだよ! これ!」
「あ、ああ・・・・」
有坂は背中に冷たいものを感じていた。
『勘違いならええが・・・。ゴールデンタイガーの息子の名前は確か《翼》であったような・・・。歳も確か・・・裕太と同じくらいやった。同じ名前はよくある話や・・・しかし、もし翼君がゴールデンタイガーの息子やとしたら・・・』
有坂の箸がとまりボーッとしていると。
「あれ? どうしたの? 食べないの? いらないならいただきー」
裕太は有坂の皿の上の肉に箸を伸ばした。

帰りの車内は重い空気が流れていた。夏美も、食事途中で有坂の顔色が急変したのに何かを感じていた。
「お父さんもお母さんもどうしたの? でも美味しかったね。また連れて行ってよ」
 そんな空気を感じ、裕太が話しかけた。
「うん、そうやな・・・」
 有坂の頭の中には、翼って子がゴールデンタイガーの息子でないことを祈る気持ちでいっぱいで相槌を打つのが精一杯であった。
走る車内を小刻みに街路灯が照らしていた。

家に着くなり・・・有坂は自分の部屋に入っていった。
デスクに腰を下ろすと、スクラップブックを取り出した。ザ・イーグルのマネージャーをしていた頃に研究材料としてスクラップしていたものだった。
試合のものからプライベートのものまで、新聞・雑誌に載っているもの全てだった。
有坂はその中の一ページに見入ってしまった。
《トラの子誕生!翼と命名》の記事。ゴールデンタイガーのインタビュー記事だった。子煩悩であったゴールデンタイガーはよくインタビューで子供の話をだしていた。
「!」
一枚の写真があった。《息子・翼君を抱くゴールデンタイガー》と記されている。
有坂の勘は無残にも的中してしまった。
「裕太の親友がゴールデンタイガーの息子・翼やったんや・・・。裕太の実父・ザ・イーグルを死なせた当事者・ゴールデンタイガーの息子やったとは・・・・。なんちゅうことや・・・・」
 トントン
「あなた。お茶を入れましたけど・・・」と言い夏美が入ってきた。
 ボーッと立ちすくんでいる有坂を見て夏美は、なにかの異変に気がついた。
「あなた、一体どうしたの?」
「あの裕太の親友の翼って子な・・・ゴールデンタイガーの息子やったんや・・・間違いない・・・ほれ・・・」
 有坂はゴールデンタイガーと翼の写真を夏美に見せた。
「ああ・・・なんてこと・・・」
「そうなんや」
 写真を持つ夏美の手が震えていた。
「でも、名前が同じだけってことも・・・」
「そうやな」
 確かにそうだった、翼という名前は平凡ではないが、珍しい名前ではない。
「この写真、よく見て・・・この赤ちゃんの右手の甲に痣があるでしょ・・・裕太の友達の翼君に痣がなかったら?」
 その写真でゴールデンタイガーに抱かれている赤ん坊の右手の甲には痣があったのだった。
「ほんまやな・・・・」

 ある土曜日、美由紀は柴山のアパートを訪ねる為に鶴見市場駅で下車していた。
 柴山は、もともと下町チックな場所が好きだった。一世風靡していたころも決して生活自体は派手ではなく、どちらかというと地味であった。
 鶴見市場駅の改札を出て小さな商店街を抜ける。美由紀は「!」と思い振り返り、あたりを見渡した。
「気のせいかしら・・・」
なんか付けられているようだった。十年前には、よく後を付けてくる記者がいたので・・・十年経った今でも多少トラウマが残っていたのだった。
再び歩き出す美由紀・・・その一〇メートルくらいに小さな影・・・翼だった。美由紀の後を付けていたのは翼だったのだ。昨夜、美由紀がお父さんらしき人と電話で話しているのを盗み聞きしてしまったのだ。翼は、どうしてもお父さんの顔が見たかったのだった。
 二階建ての古いアパート。美由紀はアパートの外階段を昇っていく。二階の奥から二つ目の部屋・・・・【柴山】とある。
美由紀はチャイムを鳴らした。ドアが開き、中から柴山が顔を覗かせる。
 翼はアパートを見渡せる道路の電柱の影からそっと見ていた。
「! あの人がお父さん?」
翼の胸は高鳴っていた。翼は美由紀が『お父さんは海外出張なの』という嘘に怒りは覚えなかった、それよりも父親が側にいる満足感でいっぱいであった。いつか父母と一緒に暮らせるんだと・・・その時まで今日見たことは美由紀には黙っていようと心に誓い家路に急いだ。

「しばらくね」
「ああ」
 ゴールデンタイガー時代では想像もつかない決して裕福とはいえない生活だが、部屋は小奇麗に整頓されていた。
「その辺に座ってて」
柴山は美由紀にそう言い、お茶を用意した。
「元気そうね。仕事は忙しいの?」
「現場から、内勤になったよ。管理にまわされて運動不足かな・・・。で、そっちはどうだ?」
「・・・・・」
「ん? どうした?」
「電話でも話したけど・・・翼があなたに会いたがっていて・・・海外出張という嘘ももう限界よ・・・もう十二歳なのよ、誤魔化せる年齢でもなくなっているのよ」
「んー・・・」
「翼も淋しいのよ。会ってあげて・・・・。」
「・・・・・」
「この間も、親友がお父さん、お母さんと鉄板焼レストラン行ったって・・・・楽しそうに話していたのよ・・・・。父親を知らない翼は、父親っていうものを友達からの情報しかないのよ・・・・・」
柴山は胸が痛かった。
『自分のことを覚えていない父・靖男のことにショックを受けた自分・・・・自分を求めている息子・翼・・・・同じ思いをさせてどうする・・・・。しかし、自分は逃げ出した人間・・・息子に教えることなど・・・・・』
二人の間に沈黙が走った。どれくらいたったのであろう・・・
「やはり、今は会えないよ」
「なぜ?」
「今は会えない・・・」
「・・・そんなことは・・」
 美由紀は柴山が立ち直ろうとしていることを感じていた。十年前の事件でプロレスラーとして再起不能になってしまった柴山だが、美由紀にはそんなことはどうでもよかったのだ、華やかなゴールデンタイガーと結婚したのではない。人間・柴山に惚れて結婚したのだ。美由紀にとって、柴山がゴールデンタイガーであろうと、建設会社勤務であろうが関係なかった。人間・柴山はやはり自分の夫であり、翼の父親であるということを深く自覚した美由紀であった。
「大丈夫よ。考えてね・・・また一緒に暮らせることを・・・」
 美由紀は複雑な気持ちのまま柴山のアパートを後にした。
『柴山を説得して、再び親子三人で生活を始めよう』
帰りの道すがら、心に決めた美由紀であった。

「おかえりー遅かったじゃんかーお腹ペコペコだよー」
一足先に戻っていた翼は何もなかったように元気な笑顔で美由紀を出迎えた。
「ごめんねーちょっと遠くまでお買い物行ったからー今作るからね」
 美由紀は翼に柴山に会っていたことを隠している自分を責め・・・翼が努めて明るく振舞っていることに心が痛んだのであった。
 ピロロロー・・・ピロロロー 電話が鳴った。
「はい、もしもし」
 翼が出た。美由紀は、もしや柴山かなという期待があり、電話をとった翼を見つめていた。
「いいえ、違いますけど・・・」
 間違い電話とわかり、美由紀は、ほのかな期待があったので小さく溜息をついた。

 翌日の日曜日、裕太と翼は近所の公園で遊んでいた。公園を走りまわり・・・ボールを蹴り・・・木に登り・・・公園の全ての物が遊びのアイテムになっていった。お互い、心の許せる親友である。
「ふうー疲れたなーちょっと休もうぜ」
「おう、裕太、コーラ飲むか? 奢ってやるよ!」
「サンキュウー」
「じゃあ、そこで買ってくるな」
 翼は自動販売機でコーラを二本買ってきて一本を裕太に渡した。
「はい、裕太」
「サンキュー! 生き返るな」
「カー。そうだな」
 翼がゴクゴク音を出しながら飲んでいると
「ほらー」
裕太はコーラの缶を振って、翼にコーラをかけた。
「きゃははは」
逃げる裕太。
「こいつー」
それを追っかける翼。
 散歩途中の有坂の足が止まった。
「おっ!裕太・・・」
 翼とじゃれる裕太の屈託のない笑顔があった。
『あいつは打算がなく俺に接してくれるんだ』
先日の食事の時に裕太が言った言葉を有坂は思い出していた。
『ホンマに仲がええんやなー』
息子の楽しそうな顔を見ていて有坂は心の中で呟いた。翼がゴールデンタイガーの息子ではない・・・絶対にそんなことはない・・・・そう思っていたのも束の間。
『! 痣や!』
なんと追いかける翼の右手の甲に痣があったのだった。有坂はまさに天国から地獄へ落とされた気持ちだった。
「待てよ、裕太ーこいつー」
「きゃはははー翼こっちこっちー」
 悲壮感いっぱいで裕太を見つめている有坂は、心に誓った。
『この二人の関係を崩してはならへん・・・絶対にあかん』

 有坂は夏美に公園で見たことを話していた。
「ただいまー腹減ったー」
裕太が帰ってきた。
 有坂は話を中断し、夏美に言った。
「この事は絶対に裕太に言うたらあかん! 裕太が大人になってから・・・分別がつくようになってから・・・裕太には話そうやないか」
「そうね・・・」
 裕太がリビングに入ってきた。
有坂と夏見も何事もなかったようにテレビに目をやった。ただついていただけのテレビだったので、内容は全くわからなかった。
「おかえり」
 夏美も努めて平常心を保っていた。
「はあー」
裕太は床に大の字に転がった。
 そんな裕太を愛おしく見ながら有坂は言った。
「裕太、三連休やさかい、明日休みやろ・・・」
「うん、そうだよ。なんで?」
「届け物をしてくれへんか?」
「別に、いいけど・・・どこに?」
「お父さんの道場や、書類を届けて欲しいんや」
「道場に! やったー。 行く行く!」
「そうか。悪いな」
「道場なら、オッケーだよ! そうだ翼を誘おう!」
「・・・・・」
 凍りついている有坂と夏美に裕太は気付くはずはなかった。
「じゃあー電話しよっと」
 と言い裕太は電話に走っていった。
「もしもし翼? 俺!」
「ああ、俺。どうしたの?」
「翼ー明日ー道場に行くんだけど・・・付き合ってよー」
「別にいいけど。皆と違って、あんまり興味がないから、感動薄いぜ。それでもいいの?」
「もちろんオッケーだよ。一人で行くのつまんねえし・・・その後、ゲーセンでも行こうぜ」
「わかったー」
「じゃあ、十時に駅前な」
「うん、じゃあ明日」

 横浜の山下公園から少し入った閑静なところに道場はあった。
 レンガ造りの四階建ての大きな近代的なビルである。一階二階がぶち抜かれており道場になっていた。入口から一番奥にリングが設置されていた。手前にはベンチプレス台があり、手前右隅にはサンドバッグが吊るしてあった。三階、四階は若手レスラーの寮になっていた。ビルの横の敷地には駐車場があり、五台ほど止められるようになっていた。
ドタン! バタン!
道場の中でから、外まで響き渡る音がしていた。
「こっちこっち」
 裕太は翼を連れて中に入った。裕太にしてみれば鼻高々な瞬間であった。
 オーナーの御曹司ということで、若手レスラーたちが裕太に愛想を振りまいていた。そこに池部がやってきた。
 池部は裕太を見つけるなり近寄ってきた。
「裕太君、今日はどうしたの?」
「お父さんに頼まれて、この書類を届けに」
「おお、サンキュウー」
池部は裕太から封筒を受け取った。
 これもまた裕太にとっての快感であった。人気レスラーの池部と直に話ができる優越感に浸っていた。
裕太はすかさず翼を池部に紹介した。
「僕の親友で翼!」
「ああ、そう。翼君ね! よろしく!」
 池部は翼に自慢げに手を差し伸べた。
 しかし、プロレスにあまり興味のない翼には、池部がヒーローである実感がない。
「ああ、どうも」
翼は、そっけない返事をした。
 今までみんなが感無量な表情をするもんだと思っていた池部は、翼のそっけない態度に拍子抜けした感じだった。
 池部がつまらなそうに欠伸をしていると・・・
「おっす!」
ドアを開け中に入ってくる一人の男がいた。木下である。
 一瞬で周囲に緊張が走り、道場の空気が張り詰めた!
 プロレスに興味がない翼でも木下のことは知っていた。六十歳を過ぎても尚、現役であり続けている木下は、今や誰もが認める国民的ヒーローであった。木下はUWBに所属している訳ではないが、興行の交渉の為に度々この道場を訪れていたのだった。同じ人気レスラーでも、木下と池部では格が違うのだった。そのことは池部も自覚していた。木下が道場に現れる度に池部は嫉妬心を燃やしていた。自分よりも全盛期を過ぎた木下の方が圧倒的な人気を持っている・・・・それが木下の人間的魅力からきていることを池部にはまだ理解出来ずにいた。
 裕太もまた興奮していた・・・オーナーの息子というところで、いつ木下が自分に声をかけてくれるのだろう、と・・・。
「!」
 木下が裕太と翼に向かって歩いてきた。
 裕太の胸は高鳴った・・・
『こっちに来る・・・来る・・・やっと声をかけてくれるんだ』
 裕太は口から心臓か飛び出るくらい興奮していた。
 木下が裕太たちの前にやってきた。
『やっと! やっと!』
 裕太は満面な笑顔で木下を見た。しかしながら木下は、裕太には目もくれずに、翼の頭に大きな手のひらを乗せて呟いた。
「大きくなったなー」そして木下は何も説明しないまま去っていった。
翼はポカンとした・・・裕太もまた拍子抜けした感じだった。
二人は木下の去っていく姿を目で追い道場を出て行くのを確認するとお互い顔を似合わせた。
『何故、木下さんは翼を知っているんだ?』(裕太)
『僕は木下と何処かで会っているのか?』(翼)
 数秒だが、二人には物凄く長い時間が沈黙とともに流れた感じだった。どちらかともなく声をかけた。
「ゲーセン行こうぜ?」
 二人にはおのおのの疑問が残ったまま、道場を後にした。

 お互いなんとなく気まずい雰囲気のまま家の近所のゲームセンターに入った。
 ピコ・ピコ・ピコ・・・・ピューン・ピューン・・・様々なゲーム機の音が響いている。
楽しそうにゲームに熱中している若者で溢れていた。翼は、理由が分からない、このなんとも言えない雰囲気を崩そうと・・・
「いつものシューティング・ゲームで勝負しようぜ!」
裕太を促し、一番奥のゲーム機に向かっていった。ゲームに熱中すれば、この雰囲気を変えることが出来る、そう思っていた。
 ゲーム機とゲーム機の間をすり抜けて行くと、翼が一台のゲーム機に目をやった。若者二人がプロレスゲームで対戦していた。
「!」
なんと、池部と木下がゲーム機の中で対戦していた。前を歩いていた翼が気付いた。翼は裕太に気付かないように進んでいった。
「・・・裕太!早く・・・」
翼が振り返ると、裕太が立ち止まってプロレスのゲーム台を見ていた。
「・・・・・・」
木下に打ちのめされるてる池部。
池部と裕太が知り合いで・・・木下と翼が知り合い?・・・。まるで、裕太は自分が翼に打ちのめされているような感じであった。
二人に沈黙の空気が流れた・・・。先に話し出したのは裕太だった。
「やっぱり、なんか今日はゲームっていう感じじゃないな」
「そうだね、帰ろう」
ますます、気まずくなり二人はゲームセンターを出た。

「ただいまー」
 裕太は帰ると、いつものように、こっそりと録画ビデオを見る為に有坂の部屋に直行した。
 部屋に入ると、ビデオが並んでいる棚を眺めていた。ふと、何かに誘導されるように有坂の机に目をやっていると・・・ポケットの水色のビー玉がポケットからこぼれ落ちた。裕太はビー玉を追うように机の下にもぐっていった。ビー玉を拾いあげた時、一枚の写真が落ちているのに気が付いた。
 裕太は、その写真を手に取り見た。
「!」
その写真は、ゴールデンタイガーが赤ちゃんを抱いているものだった。
「あっ! ゴールデンタイガーの写真だ! なんでお父さんの部屋に?」
裕太は写真を食い入るように見た。
「この子、翼と同じ痣がある・・・。 あっ!」
写真には、赤ん坊の名前は翼と書かれていた。
「翼? まさか? そんな馬鹿な!」
裕太の目から大粒の涙が流れた。
「翼の父親がゴールデンタイガーだったなんて・・・俺の本当の父親・ザ・イーグルを殺した憎きゴールデンタイガーの子供だったなんて!」
先日、食事の時も、翼の名前を出した途端に父親の顔色が変わったし・・・今回の木下の行動も分かる・・・裕太の中で全てが繋がったのだった。
「畜生ーそうだったのか! 畜生!」
裕太は今回の涙は、いつもの涙とは違う別の感情が生まれつつあるのを感じた。
裕太の手から水色のビー玉がこぼれ落ちた。

「おはよー」
 翌日、翼が登校すると裕太たちが窓側で立ち話をしていた。
翼は裕太に近付き声をかけた。翼は昨日の木下の一件で裕太が酷くプライドが傷ついたと思い込み、つとめて明るく振舞った。
「裕太、昨日はびっくりしたよー。木下さん誰かと勘違いしたんだな・・・ほら、俺、よくある顔だから・・・」
「別にどうだっていいよ! 関係ねえよ!」
「・・・・」
 裕太は完全に翼を無視していた。
「みんな、あっちに行こうぜ!」
「翼は?」
「いいんだよ!」
 裕太はもう、翼を親友としてではなく、父親を殺したゴールデンタイガーの息子としてしか見られなくなっていたのだった。
 休み時間になっても、裕太は翼に声もかけなかった。
 それより、仲間を連れて離れてしまっていた。

 それでも翼は仲間に声をかけた。
「なあ、みんな! 放課後遊ぼうぜ!」
「・・・・」
 仲間たちは口をつぐんでしまい、それぞれ去っていった。
 裕太が入ってきたのであった。
『翼を無視しろ!』それが裕太がみんなに出した指令であった。
 絶対的な人気を持つ裕太には、みんな逆らえずにいたのだった。裕太の強みは、みんなに人気ある池部と自由に会えることであった。みんなは、裕太に逆らって、それを失うことは避けたかったのであった。

 翼の気持ちとは裏腹に、無情にも夜が明け・・・・朝になっていた。
「行ってきます・・・」
 翌朝、翼は重い気持ちで家を出て行った。昨日の出来事は悪夢だったんだ、そう言い聞かせ・・・。きっと元に戻っているそう信じて・・・。しかし、気持ちが晴れることはなかった。
「行ってらっしゃい」
 美由紀は昨日帰ってから元気がなかった翼の後ろ姿を見えなくなるまで見送っていた。
「翼・・・・」

 日が経つにつれて、一人・・・二人・・・三人・・・と、今まで仲が良かった友達が翼から離れていってしまった。それは、学校での裕太人気の絶大さを証明した形になっていた。やがて学校全体が翼を無視するようになっていた。
「なあ・・・みん・・・・」
 翼が近寄っただけで、集まっていた仲間たちは蜘蛛の子を散らすように去っていってしまうようになっていた。
 翼は完全に孤立してしまっていた。机に座っていても、様々な角度から突き刺さるような冷たい視線を感じた。
 翼には理由が全く分からなかった。なぜ、みんなが突然無視しだしたのか? 
まだ翼は、裕太が指示していてみんなに無視をさせているなど夢にも思っていなかったのだった。
 翼はなんとなく疎外感を覚えていた。
 裕太たちが固まって楽しそうに話しているところに近づくと、みんなが口を噤み・・・会話がなくなってしまい。おのおのが個々に散らばっていく。
 放課後も、少数が残っているが、ヒソヒソ聞こえないような声で会話をしている・・・まるで、翼には聞かせたくないのか?翼のことを話しているのか?という猜疑心を翼に持たせ楽しんでいるかのように・・・・。
 学校での休み時間を翼は口数も少なくなり、一人でいるようになった。
 翼は、普通の授業は耐えられるのだが、理科の実験や体育など集団で行なう授業は苦痛でならなかった。
 翼は、一人淋しく下校していく毎日だった。
 そんな翼を楽しそうに追い抜いて行く、生徒たち
「おーい、四時に公園なー」
「わかったー。じゃーなー」
「遅れんなよー」
 夕日が、あの日、裕太が連れて行ってくれた丘の夕日とは全く別の・・・なんとも物悲しい夕日に思えた。
 公園では、同じ位の子供たちが遊んでいる。
「おい、待てよー」
「アハハハハ」
「次、何して遊ぶー」
帰り道で通る公園も・・・今の翼には恨めしく思えた。

 翼は家に帰っても伏せ気味だった。美由紀はそんな翼を見るのがつらかった。食事を用意しても一口二口食べるだけだった。
「ごちそうさま」
「もう食べないの?」
「うん・・・・ご馳走様」
「・・・・・」
 美由紀は日に日に落ち込んでいく翼を見るたびに心が痛んだ
『翼はお父さんがいなくてやはり淋しかったんだ。今まで努めて明るく振舞っていたけど、限界がきているんだ』
 美由紀も、まさか翼が学校でイジメにあっているとは夢にも思わなかったのであった。それも裕太に・・・・ゴールデンタイガー(柴山)が原因でなどとは・・・・。

 翌日、翌々日・・・こんな学校生活が続いたある朝。翼が登校すると、下駄箱の上履きがなくなっていた。
 翼が辺りを探すと・・・ゴミ箱の中に翼の上履きが捨ててあった。それを影で数人の生徒がみて笑っていた。翼は涙をこらえ上履きを拾った。
『なんでこんな目に・・・』
 それでも翼は授業を受けていた。授業を受けていても上の空であった。授業中であっても、翼は周りを気にしていた、誰かが自分を観察しているかのようで・・・無視されている自分をあざ笑うかのように・・・・。
翼の頭の中に何かわからないものが駆け巡り・・・・目の前が真っ白になっていった。

 どれくらい経ったのだろう・・・翼は目を覚ました。
「ん? ここは?」
 翼はすぐに保健室のベッドの上であることが理解できた。
「気分はどう? 大丈夫?」
 優しい声そして、いい香り。
 翼が声の方へ目を向けると、保健の先生が立っていた。
「授業中に倒れて、担任の先生が運んでくれたのよ もう少し休んでいきなさいね」
 窓外の光に照らされた白衣の先生は、今の翼には眩しく、天使か妖精をみているかのようであり、自分も白いベッドが雲の上にでも寝転んでいるようだった。
翼がポーっとしていると・・・。
「どうしたの?」
「ううん・・・・もう少し寝ててもいいの?」
 翼は顔を赤らめながら言った。
「大丈夫よ。担任の先生には言っておくから。少し寝なさい。あとで起こしてあげるから」
 翼は安心感からか、知らぬうちに眠りについていった。

 あまりに安らかな時間は、あまりに早く過ぎていった。
「ほら、もう起きないと」
 保健の先生は柔らかい手で翼の身体を揺すった。
「んー」
 気がつくと、外はもう夕方になっていた。
「大丈夫? 帰れる?」
「うん、大丈夫。また、ここに来てもいい?」
 翼は甘えてみせた。
「こら、ここは遊びに来るとこじゃないの。ほら帰った帰った」
 保健の先生に背中を押され翼は保健室を出て行った。
 今日の夕日は翼にとって、久しぶりに綺麗に見えていた。校門をでるまで何度も翼は振り返った、保健室の中から、保健の先生が優しい眼差しで見ていたのだった。

 それ以来、翼は気持ちが楽になった。無視に耐えられなくなったら・・・保健室に行けばいい。昔の翼にとって保健室は無縁な場所であった。せいぜい体育で怪我をしたときくらいしか必要のない場所であったのだ。こんな形で憩いの場所・・・必要不可欠な場所になるとは翼も思ってもいなかった。
 しかし、翼にとって決定的な出来事が起こった。翼がトイレから戻る途中、教室内からケラケラ笑い声が聞こえてきた。
翼は、何だろうと思い教室に入ると・・・。
「ん? あっ!」
 黒板に翼のハンカチが貼り付けてあり、チョークでカラフルに汚されていた。
 そのハンカチは、母親の美由紀が名前を縫ってくれた翼にとって大切なハンカチであった。
 初めて翼の目から涙がこぼれた。
 黒板に集まってケラケラ笑っている人垣を掻き分け、翼はハンカチを取り、教室を飛び出していった。
 翼は、涙をぬぐいながら、廊下を走っていった。
 気がつくと、翼は保健室の前に立っていた。

 ガラガラー 保健室のドアが開き、保健の先生が顔を覗かせた。
「あら、翼君また具合悪いの?」
 翼が俯いた顔を上げた。その時、
「プッ、どうしたの? その顔・・・こっちいらっしゃい。拭いてあげるから」
翼の顔は涙をさっきのハンカチで拭いていたので、チョークでカラフルになっていたのだった。翼は腕を引っ張られて保健室の中に入った。
「そこに座って」
翼は先生に促されるまま椅子に座った。先生は翼に背を向けたままガーゼ等を用意しながら言った。
「そんな顔になるなんて、結構ワンパクなんだねー翼君は・・・・まあ男の子はそれくらい元気な方がいいかな・・・」
 振り向いた先生は、俯きっぱなしの翼に気がついた。これはワンパクで汚したんじゃない、汚されたのだと
「なにがあったの? 話してごらん、翼君」
 先生は翼の顔をガーゼで綺麗に拭きながら言った。
「・・・・・」
 翼は答えなかった、というより答えなれなかったのだった。
「ありがとう・・・・」
 翼は一呼吸置くと、お礼を言って保健室を出て行った。
 保健の先生は不安な気持ちでいっぱいだった。
『また、いつでも来なさいね』
と心の中で呟いた。

保健室を出て廊下を曲がる時、仲間たちの話し声が聞こえてきた。
「おい、なんか翼がかわいそうだよな」
「仕方ねえよ・・・突然、裕太が『翼と口をきくな!無視しろ!』って・・・・」
「裕太には逆らえねえからな・・・」
 翼の足が止まった。
「! 裕太がみんなに・・・俺を無視しろと?」
 翼は聞き入ってしまった。いったい何があったというのか?何をしたというのか?
 さらに話し声は続いた。
「でもよ・・・どんどんエスカレートしてるじゃんか・・・」
「そうだよな! 翼の上履きを捨てておけとかさー」
 翼は、全てが裕太の指示のもとに行われていることを知った。親友だと思っていた裕太が何故?翼は逃げ出すかのように学校を出て行った。

 翌朝、翼は激しい腹痛にみまわれていた。
 美由紀は苦しむ翼を見て、学校に電話をした。
「申し訳ございませんが、今日は病院に連れて行きますのでお休みさせてください」
 美由紀の電話の言葉を聞き翼は痛みがスーッと引いていくのがわかった。しかし、痛くなくなったと言えば学校に行かされてしまう・・・そう考えた翼は、そのまま仮病を使うことにした。
 美由紀はもう一本電話をかけた。
「申し訳ございません。息子が病気で・・・今日は休ませてください」
 勤務先である町工場に美由紀は電話をいれた。
 このところ元気がなかった翼だけに、美由紀は心配だった。淋しさゆえに病気になってしまったと、
「今日は、消化のいいの作るからね」
「うん」
翼は甘えてみせた。
 翼は、ペロリと、お粥をたいらげた。美由紀は久々の翼の食欲に涙がでそうになった。
「翼、お昼過ぎたら病院行こうね」
「・・・。大丈夫だよ。なんか治ったみたい」
 そんなやりとりで美由紀は、やはり翼は淋しいんだ・・・甘えたいんだと思った。
「しょうがない子ね。今日は特別よ」
 そう言い美由紀は翼を胸の中に抱き寄せた。
 翼も安心感から、スヤスヤと眠りについていった。
 
 翌日、美由紀の雷が落ちた。
「いい加減にしなさい!」
 翼はまたお腹が痛いという。
 美由紀は翼の淋しい気持ちはわかるが・・・仕事を家庭の事情で休んでばかりはいられないのだ。美由紀は心を鬼にして言った。
「お母さん、仕事に行くから、翼もちゃんと学校行きなさいね」
 翼は、布団の中で美由紀が出て行くのを見つめていた。
 一筋の涙が流れていた。
『お母さん、ごめんなさい。お母さんを、困らせている・・・・。 お母さん頑張っているから、心配はかけさせたくない・・・イジメられているなんて言えない。でも、学校に行こうとすると、お腹が痛くなるんだ』
 一人残った部屋には、いじめる奴も、無視する奴もいない空間であった。音といっても、消し忘れたテレビの音しかしない。この時間のテレビなど子供には無関心なものばかりであった。
 ただただ黙々と過ぎていく時間に罪悪感を覚えた。風邪とかで休んだことはあったが、今の翼は健康である。
 このまま時間が止まっていてくれれば・・・そう思う翼であったが・・・無常にも時計は時を刻み続けている。
 ピロロロー・・・ピロロロー
その時、家の電話が鳴った。
 翼はビクッとして部屋の隅に逃げていた。
『この部屋には、自分しかいないんだ・・・まして普段平日は誰もいないんだから・・・電話にでなくても・・・大丈夫なんだ!』
 翼は心に言い聞かせてはいるが・・・やはり罪悪感からは逃げられなかったのだ。
 楽しいことも、嫌なことも、時間というのは平等に過ぎていってしまうものである。
 時計はもう一時をさしていた。
「もう、昼か・・・」 翼は呟いた。
 
「山口さん、山口さん!」
美由紀が工場で働いていると、所長の早見正彦が呼んだ。
 事務所にはいると、早見が受話器を手で塞いで言った。
「山口さん、翼君の学校から」
 美由紀は受話器を受け取り話し始めた。
「はい、お電話かわりました。翼の母です」
 早見が心配そうに見ていると、
「どういうことですか?」
 美由紀の顔色が曇った。
「ですから、今日も翼君お休みですか?」
 どうやら翼は学校に行っていないようだった。
 電話を切ると、美由紀は早見に断り早退して家に戻った。早見も、電話の感じがただ事でないことに気付いており、理由を聞かずに許してくれた。
 町工場から自宅までは徒歩十分くらいのところにあった。

 美由紀は市営住宅の階段を三階まで一気に昇っていった。自宅のドアを開けて中に入ると、翼が部屋の隅に小さくなっていた。
「翼、どうしたの? なんで学校に行かないの?」
「・・・・・」
翼は俯いたまま答えなかった。
「淋しいのはわかるけど・・・どうして困らせるの?」
 美由紀の言葉に反応するかのように、
「困らせてるんじゃないよ・・・・」
「じゃあ何故?」
 美由紀は翼を見据えた。翼の目から涙が流れていた。
「・・・・・」
「なんで?」
「学校に行きたくない・・・行きたくない・・・」
「どうして?」
「・・・・・」
 翼は答えなかった、というより答えられなった・・・イジメられているとは・・・・でも、身体が完全に拒否してしまっているのであった。
 美由紀は美由紀で悩んでいた。
『一体、学校で何があったというのか? なぜ話してくれないのか?』
 昼間、町工場で働いている美由紀には、翼にばかり構ってはいられない現状があった。美由紀は、泣き疲れて眠っている翼を見つめながら思った。
『こんな時、父親が・・・柴山がいてくれたら・・・』
 美由紀は、女には父親の代役は務まらないのだということを痛感していた。
 ピロロロー・・・ピロロロー
 その時、電話が鳴った。
「はい、山口です」
「ああ、山口さん。早見です」
「所長さん、今日は大変申し訳ございませんでした」
「いいんだよ。それより、近くまで来ているのですが、ちょっと出てきませんか? 心配になって」
「・・・・ありがとうございます。でも」
「何か悩み事でも? 相談にのりますよ」
「わかりました。じゃあ、駅前に行きます」
 そう言い電話を切った。
美由紀は支度をすると、静かに家を出た。駅前に着くと、早見が待っていた。
「山口さん、すみません。お呼びだてしてしまって」
「いいえ、大丈夫です」
「すぐそこに美味しそうなレストランがあったので、そこでも行きますか。ご飯まだでしょう?」
「はい・・・」

 美由紀は自分の駅前にこんな洒落たレストランがあったことほど知らなかった。それ程、生活に追われていたのかもしれなかった。
「さあ、どうぞ」
 早見は、美由紀をエスコートして店に入った。

「何にしますか?」
 早見の声に美由紀はハッとして、対面の早見を見た。思えば、柴山以外の男性と食事をするのは初めてであったのだった。
「はい・・・なんでも・・・」
「そうですか。じゃあ、このビーフシチューにしましょう。栄養つけないと」
 早見は優しくそう言うとビーフシチューとワインを注文した。
「で、何があったんですか?」
「・・・・」
「よかったら話してください。話して解決はしないかもしれませんが・・・楽にはなるかもしれませんよ」
「はい・・・実は・・・」
 美由紀が話そうとしたとき、ワインとビーフシチューが運ばれてきた。
「・・・・・」
「まったく、間が悪いですね、この店。ハハハハ」
 早見は笑いながらワインを注いだ。
「食事しながら話しましょう」
「ええ・・・・」
「さっきは話の腰折られちゃいましたからね」
「・・・実は・・・息子が学校に行かなくなりまして・・・」
「そうですか・・・一体何があったんでしょうか?」
「わかりません・・・・わかりません」
「山口さん。やはり父親がいないことが、原因では・・・」
「・・・・・」
「山口さん、気を悪くしないで聞いてくださいね。子供って些細なことでバランスを崩すんです。私も死んだ妻との間に娘がいまして・・・やはり、女の子って母親にしか言えないこともあるんだなって痛感しました。息子さんも・・・父親が必要では・・・」
「・・・・」
「美由紀さん。いつまで帰ってこない前の旦那さんを待つつもりですか?」
 早見は思い切って言ってみた・・・・。山口さんから美由紀さん、と・・・・自分の思いを素直に言葉にしてみた。
「えっ・・・」
「美由紀さん。私が美由紀さんの力になりたいんです」
「・・・・・」
「美由紀さんと息子さんを面倒みたいんです。町工場に来たときから好きでした・・・私の気持ちわかりますよね」
 美由紀には衝撃的な告白であった。早見にも勇気ある告白であった。
 しばらく沈黙が続き
「すみません。私は、まだ待ちたいんです」
「何故です・・・・・」
「帰ってこないかもしれない・・・・でも、辛いからと言って他の人を好きにはなれないんです。それに今、そうしたら、また辛くなったら優しい人に逃げる女になってしまうんです。一体誰を愛しているのかわからない女になってしまうんです」
「・・・・そうですか・・・・」
「すみません」
「いえ、わかりました・・・美由紀さんが、そういう女性だから私も好きになったのかもしれません。もし隙間があったら・・・なんてスケベ心を出してしまった自分が情けないです。でも、諦めました」
「本当に、すみません・・・」
「大丈夫ですよ・・・さあ食べましょう。冷めちゃいますよ」
 早見はビーフシチューを口に運んだ。

 裕太のゴールデンタイガーへの怒りは日毎に募っていった。それは、今までの父親を殺されたことの怒りではなく、親友である翼との仲を翼がゴールデンタイガーの息子ということで引き裂かれてしまったという思いからであった。
『畜生! なんとかゴールデンタイガーに復讐したい・・・』
 裕太はなんとかしてゴールデンタイガー・・・柴山復讐したかった。足が自然と道場へ向かっていた。
 道場の前に着くと・・・新人レスラーが出てきた。
「あれ、お坊ちゃん。どうしたんです? オーナーなら会社の方ですよ」
「いや、お父さんに用事じゃないんだ・・・」
 裕太は一体ここに何をしに来たのかすら分からなかった。その時、裕太に悪魔が囁いラた。
『若手レスラーにゴルデンタイガーの居場所を探させれば・・・復讐が出来る』
 裕太は新人レスーに耳打ちをした。
「ゴールデンタイガーが今、どこにいて・・・何をしているのか・・・お父さんには内緒で、調べてくれないか? 勿論、今日ここに来たことも内緒で・・・」
 新人レスラーは快諾した、というより快諾せざるをえなかったのだ。そもそも無名の新人レスラーにとって、裕太は厄介な存在であった。この我儘な少年はオーナーの息子である、そのオーナーの有坂が裕太にかなり気を遣っていることは明確であったのだ。下手に逆らえば、団体を追い出されかねない。実際、そういう事例も幾つかあった。新人レスラー達にとっては所属団体を追放されることは致命的であったのだ。
 
 道場では新人レスラー達が集まりヒソヒソと話している。
「坊ちゃんからだよ。ゴールデンタイガーが今どこにいて、何をしているか報告しろと」
「なんでまた?」
「わかんねえよ。ただ、調べて報告しないと面倒くさいからな」
「そうだよな・・・」
 こそこそ話している若手レスラーに先輩レスラーの激が飛んだ。
「おい! おまえら! 何をやってるんだ!」
「はいっ!」
新人レスラーたちは、おのおの散っていった。

 いつものように柴山はゴールデンタイガーになり木更津ひまわり介護老人施設に向かっていた。
 ゴールデンタイガー(柴山)が到着すると靖男の声が施設内に響いていた。
「おい! 絵はどこにやりやがった!」
 ゴールデンタイガー(柴山)は急いで靖男の部屋に入っていった。
「どうしたのですか?」
 靖男が怒りまくっているのを佐伯たち職員が制御している最中であった。
 佐伯がゴールデンタイガー(柴山)に気付き声をかけた。
「ああ、ゴールデンタイガーさん・・・・」
「一体、何があったのですか?」
 一向に怒りが収まらない靖男は周囲に当り散らしていた。
「どこにやったんだ! 盗んだんだろう!」
 ゴールデンタイガー(柴山)は靖男に近付いて言った。
「靖男さん、何がなくなったのですか?」
「ああ、トラくん。こいつら俺の大切な絵を盗みやがった!」
「絵ですか?」
 すると佐伯がゴールデンタイガー(柴山)に言った。
「ほら、靖男さんの枕元に貼ってあった絵のことですよ。それがなくなったと・・・・」
「ああ、あの絵ですね。確か近所の子供に貰ったとかいう、キャッチボールしている絵ですね」
「そうです・・・その絵が・・・・」
 靖男は、まだ騒いでいた。
「大事な絵なんだよ! なんで盗むんだよ!」
「まあまあ、靖男さん。ありますよ必ず・・・」
 そう言いゴールデンタイガー(柴山)は辺りを探し始めた。
「あー、靖男さん! ありましたよ」
 ベッドの隣のスチールラックの後ろの隙間に挟まっていたのだった。
 ゴールデンタイガー(柴山)は、ラックを少しずらして絵を手に取った。
 絵を靖男に見せながらゴールデンタイガー(柴山)は言った。
「ほらー。これでしょ。誰もとってませんよ・・・・あっ!」
 思わず、ゴールデンタイガー(柴山)は声を上げた。
 絵の裏には、【一ねん三くみ しばやま しょう】と書いてあったのだ。
『この絵は・・・私の描いた絵・・・。お父さん、大事に持っていてくれたんですね。描いた私は全然覚えてませんでした・・・・』
「どうしたんですか? ゴールデンタイガーさん?」
「えっ・・・ああ、いいえ。良かったですね、靖男さん」
 靖男は、ゴールデンタイガー(柴山)から絵を受け取ると、また大事に枕元に貼った。
『お父さん、ありがとう。今の今まで、お父さんは私を嫌っているかと思ってました。こんなに、大事に絵を持っていてくれたなんて・・・・この絵だけ、持って・・・・』
「本当にすみませんでした。私たちも良く探さないで・・・・」
「いやーでも良かったですね。今日は靖男さんも疲れたでしょうから、今日は帰りますね」
 見ると、さっきの元気が嘘のように靖男は眠っていた。
「あらあら。靖男さんったら」
「アハハハハ。いいですよ。また来ますね」
 そう言い、ゴールデンタイガー(柴山)は施設を後にした。

 来る日も来る日も新人レスラーの《ゴールデンタイガー探し》は休日を返上して行われていた。正直、新人レスラーたちにとってはなんのメリットもなく、ただただ不満ばかりが募っていった。
「なんで俺たちが、こんな面倒なことを・・・でもな・・・」
 裕太の我儘を聞く、イコール出世の近道・・・という風になってしまっていたのだった。

「翼、いってくるからね。ちゃんとご飯食べるのよ・・・・」
 美由紀は寝ている翼に声をかけた。
「わかってるよー」
 美由紀は複雑な思いと不安を胸に家を出て町工場に向かった。
『いったいどうしたんだろう・・・・健やかに育っていた翼に何が・・・・学校で何があったのか? やはり父親にしか言えないこともあるんだろうか? 父親が必要なのだろうか?』
 翼は美由紀が出て行くのを見計らって布団を出てきた。
 キッチンのテーブルの上の布巾がかけられたお皿に目をやった。テーブルの上のメモに目をやった。
『翼、おはよう。ちゃんと食べるのよ』
 翼は、布巾を取って中を見た。お皿には、小さなハンバーグが二つと人参、ほうれん草があった。
「おかあさん・・・・ありがとう・・・・心配かけてごめんなさい・・・・」
 翼は、流れる涙を拭いながら、ハンバーグを頬張った。
『絶対に、言えない・・・・学校でイジメられているとは・・・・これ以上、お母さんに心配かけられない・・・・』
 決して、学校でイジメられているとは言えずにいたのだった。
 
 気が付くと翼は、学校の裏山にいた。裕太の秘密の場所に・・・・。
 昼間なので、学校に行っていない翼には人目に付く公園とかは行くことができなかったのだ。太陽が眩しいくらいに燦燦と差していた。
「はー」
 翼は、寝転んだ・・・・。初めて裕太に連れてきてもらった時のように・・・。
 なんとも言えない安心感があった。太陽と空気に包まれている安心感がそこにはあったのだ。
『裕太は、いったい何故この場所に来ていたんだろう? 秘密の場所として・・・・』
 翼は、何気なくそう思っていた。
『もしかして、裕太も・・・』
 翼は、改めて今の自分の状況・・・孤独感を胸に思っていた。
 清々しい芝生の感触は、前に来たときと何も変わらず、風が、心地よく・・・太陽が、暖かく・・・自然と翼は眠りについていた。

 柴山の仕事仲間はみんな気の良い連中だった。仲間達は柴山がゴールデンタイガーであったことは知らない、つまりヒーローであったゴールデンタイガーに優しく接してくれているのではなく、柴山自身に優しく接してくれている素晴らしい人間達であった。しかし、柴山は自己嫌悪に陥っていた。
「柴山さんって凄い体格してますよね。なにかやっていたのですか?」
「ええ、学生時代ラグビーをやってまして・・・」
 と、仲間達は心を開いて正直に話してくれているのに、嘘をついてしまってうる自分が嫌でしかたなかったのであった。いつの日か、『自分はゴールデンタイガーであった』ことを話したい、そう思う柴山であった。ゴールデンタイガーであることを話しても仲間たちは何も変わらず接してくれる筈だ、柴山はそう考えていた。柴山は自分なりの幸せを掴みかけていたのであった。

 仕事を終え、帰宅する柴山を三人の男が囲んだ。その体格からして明らかに格闘家であることは明確だった。
「なんだ、君たちは?」
「探したぜ! ゴールデンタイガー・・・おっと、柴山さん」
「何の用なんだ? 君たちは・・・」
 と柴山が言いかけた瞬間、一人の男の蹴りが柴山を捕らえた。「うっ」と蹲る柴山。
「まったく、手間かけさせやがって! こっちは迷惑してんだよ!」
 不意打ちをくった柴山に三人の男は容赦なく攻撃を仕掛けてきた。
ブランクがあるとはいえ、新人レスラー相手なら充分に対抗できる体力はもっているが、柴山はいっさい手をださなかった。
「や、やめろ! 俺は、もう闘うのを辞めた人間だ!」
 柴山は路上に倒れこみながらそう呟いていた。
 物陰でファインダーを覗いている、人影・・・・ 
カシャ。カシャ!
柴山には聞こえた、それがカメラのシャッター音であることを・・・・。
「なんだ、ゴールデンタイガーも大したことないじゃんか・・・俺一人でも充分だったな」
 散々一方的に攻撃をしていた男達の一人が言い、三人は暗闇に逃げていった。
 柴山は、シャッター音の方を一見すると、アパートの部屋に入っていった。
 物陰から現れたのは、津島潔であった。十年の時が経ち、柴山・・・ゴールデンタイガーからマスクを貰った少年も、大人になり、プロレス中心の記事を書くフリーの記者になっていたのであった。
 
 翌日、新人レスラー達は自慢げに裕太に報告した。
「坊ちゃん、ゴールデンタイガーの居場所が分かりましたぜ。ついでに、昨日少し痛い目に遭わせておきましたよ」
「・・・・・」
 裕太はそんな指示をした覚えはなかった。ただ、何処にいて、何をしているのかが知りたかっただけであった。新人レスラー達は更に話を続けていた。新人レスラー達は勝手に点数稼ぎの為に柴山を襲撃したのであった。
「なあ、なんか弱っちい奴だったよな!」
「確かに、あんな弱いんじゃ、一人で充分だったよなあ」
「あんなんで、スーパーヒーローだったなんて、俺もその時代にレスラーやっていれば、簡単にチャンピオンでもなれたよな」
 裕太は新人レスラー達の話に喜んだ・・・いや喜んだ振りをしていた。内心は失望していたのだった。
『新人レスラーに一方的に殴られたゴールデンタイガー・・・・自分の父親を倒した男がこんなに情けない男だったとは』
 この時まだ、裕太も新人レスラー達も、あの現場を津島がスクープしていたことなど全く気づいていなかったのだ。

ゴールデンタイガー襲撃の事件が公になったのは数日後のことだった。大衆の週刊誌のスクープ記事として載ったのであった。 
【かつてのヒーロー・ゴールデンタイガー暴漢に襲われる】
それが週刊誌の記事の見出しだった。記事自体は大きくは取り上げていなかったが、写真入で載っていた。写真自体は、倒れこんでいる柴山に三人の新人レスラーが覆いかぶさるように襲いかかっているのもであった。津島にとっては、ゴールデンタイガーの正体は謎のままであって欲しいという願望と、もう一度ゴールデンタイガーの復活をという思いもあったのだ。
 もちろんこの記事は、柴山も目にしていた。
 会社でも、この話で持ちきりであった。
「ねえねえ、知ってる? この記事。ゴールデンタイガーだよー俺大ファンだったんだー」
「俺も」「俺も」という声がデスクで仕事をしている柴山に聞こえてきた。すると、一番若い社員が、柴山に声をかけてきた。
「でも、このゴールデンタイガーの写真なんとなく柴山さんに似てますよね」
「えっ・・・・」
「そんな訳ないですよね。冗談です」
 と言い去って行った。
『そうだよ、ここにいる私がゴールデンタイガーだよ』柴山はそう言いたかった。

 大きな問題になっていたのは、有坂のプロレス団体【UWB】の方であった。柴山を襲撃した現場写真から、有坂の団体の新人レスラーであることを突き止めた記者が事務所と道場に詰め掛けていたのだった。
 有坂は事務所も道場もマスコミが張っているので、三人の新人レスラー達を事務所近くの喫茶店に呼んだ。
「どういうことなんや!」
 有坂の怒鳴り声がした。
普段、温厚な有坂の一喝に、新人レスラー達は畏縮した。
「お前ら、いったい何をしてるんや! ゴールデンタイガーを探してもお前たちに何の利益があるんや?」
 有坂の物凄い剣幕に、ただただ黙っている三人だった。
「自分たちの知名度をあげる為なんか? ゴールデンタイガーを襲撃すれば話題になる、そう思ってるんか?」
「いいえ・・・・」
「じゃあ、なんなんや! これでお前らのレスラー生命は終わりや。ゴールデンタイガーは引退した人間や! いわば一般人なんや!」
「・・・・その・・・」
「なんだ! はっきり言うたらええ!」
「裕太君が・・・息子さんが・・・」
「なんで今、裕太が関係あるんや!」
 畏縮していた三人のうちの一人が話し出した。
「ですから、息子さんが・・・・ゴールデンタイガーを探せと・・・有坂さんに内緒でと・・・・」
 するともう一人も、
「俺たち、息子さんに逆らえないんです・・・逆らえば団体にいられなくなる・・・・以前にも、息子さんに逆らって団体を追放された人間がいたでしょう・・・」
 さらに付け加えるように、もう一人が、
「我々も、怖いんですよ・・・いつ、二の舞にならないか・・・有坂さんは、息子さんの意見を鵜呑みにするじゃないですか・・・だから、息子さんには逆らえないんですよ」
「なんやと?!」
 有坂は、絶句した。
『自分自身も裕太の顔色を伺っちょる・・・その挙句の果てに新人レスラーたちも裕太の顔色を伺うようになってしもうた・・・なんちゅうことや・・・』
「もうええ、道場へ帰れ・・・」
 天を仰ぐ有坂を見て、三人の新人レスラーたちは喫茶店を出て行った。

 その時、美由紀は町工場の休憩室にいた。未だ続いている翼の登校拒否が気になってはいるが、働かなければいけない状況なのであった。
 一冊の週刊誌が美由紀の目に入った。誰かが忘れていったのだろう。美由紀は週刊誌を手に取りボンヤリと眺めていた。すると、
「!」
 ゴールデンタイガーが襲撃されたという記事に目がとまり、また目を疑った。
「なんてこと・・・」
 柴山は大丈夫なのか?怪我はないのか?何故こんなことに・・・美由紀の心は不安でいっぱいであった。
 柴山の携帯に電話したが・・・・コールはするがでなかった。もともと携帯には無縁な生活をしていた柴山であったから、今までも一度で電話にでたことはなかったが、美由紀の不安は一層強くなっていった。
『何もなければ・・・柴山は必ず夜にでも電話が来る』
美由紀は自分に言い聞かせ、仕事に戻っていった。

 その頃、柴山は、ある一大プロジェクトのリーダーを任され四苦八苦していた。
『このプロジェクトは何がなんでも成功させなくては・・・』
 仕事に集中するあまり携帯電話には全く気付いていなかったのであった。

 その夜、有坂は裕太を自分の部屋に呼んだ。
 有坂は裕太の前に、週刊誌を差し出し、言った。
「これは、お前が指示したんか? どうなんや!」
 裕太にとっても、有坂にとっても初めて見せる親父の顔だった。
「ゴールデンタイガーは引退したんや! 一般人なんや! 新人レスラーが、ゴールデンタイガーを利用しても意味ないんや!」
「・・・・」
裕太は黙っていた。そして、一筋の涙が頬を伝わった。
「お前のお父さんが亡くなったのは、ゴールデンタイガーのせいやない! あれは事故や! ゴールデンタイガーに復讐しても意味ないんや!」
「・・・・だって・・・翼・・・」
「なんなんや! はっきり言うたらええ!」
「だから・・・・翼はゴールデンタイガーの・・・・」
「まさか、裕太、お前・・・知ってしまったんか?」
「うん・・・翼は俺の掛け替えのない親友だったんだ・・・・ゴールデンタイガーのせいで・・・・ゴールデンタイガーのせいで・・・・」
 有坂はやりきれない気持ちだったが、
「お父さん、ゴールデンタイガーは復帰しないの?」
 裕太の言葉が、有坂の心に刺さった。裕太の気持ちは充分わかっていた。父親を殺されたと思いこんでいただけでも、憎むべきゴールデンタイガーであったのに・・・親友の翼がゴールデンタイガーの息子と知ってしまったのだ・・・・。
『柴山を再びリングに上げ、その上で柴山を打ち負かすことや。そうすれば、裕太の心の傷も少しは癒えるんとちゃうやろか・・・・』
 止まらない涙を一生懸命拭う裕太を見て、有坂は胸が痛んだ。
 
 同じ頃、美由紀は食卓に座り、ボーっとしていた。テーブルの上には週刊誌のゴールデンタイガー襲撃のページが開いてあった。
「どうしたの? お母さん」
 翼の目にも、美由紀の悲しげな顔は分かった。
『自分のせいなのか?』
 翼は自分を責めた。
 美由紀立ち上がり、柴山に電話した。コールはするが出ない。
「はあ・・・」
 美由紀は深い溜息をついて受話器を置いた。
『どこに電話しているんだろう?』
 と思いながら、翼はテーブルの週刊誌に目をやった。
「?・・・!・・・ゴールデンタイガー?」
 翼が週刊誌に見入っていると、横から美由紀の手が伸び・・・週刊誌を畳んだ。
「なんでもないのよ・・・ご飯食べようか?」
 美由紀の動揺は一目瞭然だった。何かある、翼は思った。
『ゴールデンタイガー・・・この写真の後ろ姿・・・この前遠くから見た姿に似ている・・・ゴールデンタイガーは僕のお父さん?』
この間、見たときは、お父さんが海外ではなく側にいる満足感だけであったが、今は違う。翼は確かめてみたくなっていた。

 翌日、有坂は柴山に謝罪する為に柴山のアパートを訪ねた。
 柴山に通され部屋に入った有坂は
「久しぶりやな。この度は、うちの新人が・・・えろう申し訳ないことをしてしもうて」
 有坂は深々と頭を下げた。
「よしてくださいよ。有坂さん。大丈夫ですから、頭を上げてください。それより、週刊誌に載ってしまいましたけど、新人たちは大丈夫ですか?」
 自分のことより、未来ある新人に気を使う柴山に有坂は屈服したのであった。ただ強いだけではない・・・これぞ、ゴールデンタイガー・柴山の根強い人気の根源であったと有坂は改めて痛感した。
「柴山はん、変わらへんな」
「いやーブヨブヨですよ」
「そういやなくて・・・」
 有坂の言わんとしていることは分かってはいたが、柴山は、わざとおどけて見せた。
「・・・いつでも復帰できそうやなと思って」
『キタな!』柴山は思った。
「有坂さん、申し訳ない! 辞めた人間です! 復帰はしません!  帰ってくれ!」
 柴山は有坂を立たせて背中を押し外に出した。
 バタン
 ドアが閉まり、アパートの外に佇む有坂。
『・・・必ずゴールデンタイガーを復帰させたる・・・なにがなんでも・・・』

 東京・大手町にあるケイエス出版。
 津島の姿があった。ビルを見上げ、中に入っていく津島。今日は、先日のゴールデンタイガー記事のギャラの支払日であった。
 四階の編集部に顔を出すと編集長が
「いやー津島君。ありがとう。君のお陰で今週号の売れ行きはダントツだよ。また、頼むよ! 特別にギャラも弾んでおいたからね!」
 編集長は津島にギャラ封筒を手渡しながら言った。
「はあ・・・ありがとうございます」
編集部で持て囃されている津島は、なんとなく浮かない顔であった。
『自分のやったことは本当に正しかったのであろうか? 発行部数だけを気にし、世間に迎合した三流記事を書いていることが自分の求めていた仕事なのか? ゴールデンタイガーに憧れた少年時代・・・これは、本当に自分のやりたかったことなのか? ゴールデンタイガーの復活・・・それこそが・・・。ゴールデンタイガーでスクープを撮り持て囃される為ではないはず。でも、ジャーナリストとして現実を追い求める一方で、人々に夢と希望を与える、それは難しいことではあるが、無駄なことではないはず。ゴールデンタイガーの現在を追うことでそれを実現すればいいのだ!』
 津島は自問自答し、硬い決心を固めていたのであった。

 とある料亭の個室の一室に有坂がいた。
「お連れ様が参りました」
女将が部屋外から有坂に声をかけた。
 襖が開き、上田が入ってきた。
 上田とは、以前、ゴールデンタイガーつまり柴山が所属していたプロレス団体のオーナーである。
「有坂様、お飲み物はいかがなされますか?」
「そうやな、じゃあビールを二本。あと食事もどんどん頼むわ」
「かしこまりました」
 女将は出て行った。
「お久しぶりです、有坂さん」
「ああ、かたくるしくせんと座りなはれ。忙しいのに、すんませんな」
 その時、「失礼いたします」といい女将が入ってきた。
 テーブルにビール、食事の膳がセットされた。
「まあ、どうぞ」
 有坂は、上田にビールを注いだ。軽く乾杯をかわし、会食が始まった。
 宴もたかなわになったころ有坂は切り出した。
「実はな、今日来てもらったんは他でもないんや。この業界もかなりの不況のあおりを受けてるやろ、我々もどこかで、協力をしあわなければいかんのや」
「そうですな・・・前にも言いましたが、おたくはいいですよ、池部選手もいるし・・・うちは・・・」
「そこでや、ワイもいろいろ考えたんや、前に話した共同興行の件なんやが・・・」
「それは助かります。恩にきます」
「そこでや、ウチは池部との交流戦を用意しまっせ」
「それは願ってもないことですな」
「ただし、条件があるんや。柴山を説得して、ゴールデンタイガーを復帰させて欲しいんや」
「えっ・・・・」
「この条件をクリアして欲しいんや、池部とのシングルやで。ゴールデンタイガー対池部の・・・。それに、ニューホープ・プロレスはんも、ゴールデンタイガーが抜けて、かなり困ってはるんじゃないでっか。悪い話ではないはずや」
「君はいったい・・・」
 上田の持っているグラスが震えた。
「ゴールデンタイガーを復帰させれば、救ってあげると言っているんや、上田はん」
 有坂は、上田のニューホープ・プロレスがゴールデンタイガーの引退で動因数が減り今や弱小団体になり、経営の危機であること知っての言わば脅しに近いものであった。
「まあ、ゆっくり考えなはれ、と言うても時間はありませんな・・・」
 有坂はそう言うと部屋を出て行った。
「・・・・」
 部屋に残された上田はグラスに残ったビールを一気に飲み干した。

 朝九時過ぎ、徹夜の仕事から柴山が帰宅すると、留守番電話の点滅が目に入った。襲撃事件以来、柴山に電話が殺到していたのだった。柴山は深く溜息をつくと留守電のボタンを押しメッセージを聞いた。
「ご無沙汰いたしております・・・明朝新聞のものですが・・・」
「以前お世話になりました、田中です・・・・」
「ニューホープ・プロレスの者ですが・・・・お電話をいただければと思います」
 柴山は聞いていなかった。一通り終わるまでBGM感覚で留守電を聞いていたのだった。
 コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
 ピンポーン
 ドアのチャイムが鳴った。
「はい」 柴山は不機嫌そうにドアを開け姿を現した。
 一人の青年が立っていた・・・津島であった。
「どちらさまですか?」
 すると津島は深々と頭を下げ言った。
「柴山さん、大変申し訳ございませんでした。私はこういう者です」
 と言うと名刺を差し出した。
《ケイエス出版 記者 津島潔》
「ん? つしまきよし・・・」
「本当に申し訳ございません。私の書いた記事で柴山さんに大変ご迷惑をおかけする結果になってしまい・・・・」
「ああー。あの記事かー。気にしなくていいよ。君も仕事だからね。それより・・・・」
 柴山は津島をしっかりと見た。
「君・・・あの時の少年だよね。ほら、道場でマスク欲しがった」
「えっ!・・・・覚えていてくださったんですか?」
「懐かしいなー。立派になったね。ちょっと近くでお茶でも飲まないかい? 私も今仕事から帰ってきてお腹ペコペコさ。朝飯まだでしょ?」
「いいんですか?」
「もちろん。さあ行きましょう」
 と言うと柴山は津島を促して家を出た。
 商店街を抜ける手前にある古い喫茶店に入っていった。

 アンティーク調に整った店内はゆっくりした時間を作り出していた。それは津島には軽いカルチャーショックであった。あくせくバタバタしていた津島が忘れかけていたものであった。
「ここのクラブサンド美味しいですよ」
 柴山が声をかけた。
「あ、はい。僕もそれで・・・」
 柴山は、クラブサンドを二つ注文し、アメリカンを頼んだ。津島はアイスコーヒーを頼んだ。
 ボリュームのあるクラブサンドも体の大きい柴山の前にあると、小さなサンドウィッチにも見えた。それがなんとも滑稽に映り津島は微笑んでいた。
「ん? どうした?」
「いや・・・その・・・柴山さんの前にあるとクラブサンド小さいな・・・って。すみません・・」
「アハハハハ。そうか・・・どうりで足りないっていつも思っていたんですよ。アハハハハ」
 柴山は高笑いをした。
「ところで、柴山さん、本当にご迷惑をおかけいたしました」
 津島は深々と頭を下げた。
「そんなに気にしなくていいよ」
「いえ、そうはいきません。柴山さんが憧れな人だから・・・・だから・・・」
「じゃあ、こうしましょうか。以前、試合でマスクを破られて、私が困った時にマスクを投げ入れてくれたでしょ。それでアイコにしましょうか。津島君の大切なマスクを投げ入れてくれたんだからね」
「柴山さん・・・・」
 津島は柴山の優しさに胸が熱くなった。
「で、もう、この仕事は長いの?」
「もう三年になります。初めて柴山さんに会ったのが十一歳のころでしたから・・・」
「そっか。高校卒業して直ぐに入ったんだね」
「身体も根性も小さいので・・・柴山さんに憧れていてもプロレスラーにはなれなかったので・・・柴山さんと携われる仕事をって・・・そこで思いついたのが記者だったんです・・・スポーツ記者・・・・。これなら柴山さんの試合を後日文章でリプレイ出来るって・・・夢が叶ったんです!」
「そうか・・・・でもね、夢が叶ったんじゃなくて、望みが叶ったんだよ。夢は『儚い夢』っていうでしょ、望みは『望み叶えたまえ』ってね。叶ったから、それは望んでたからだよ、きっと」
「確かにそうですね・・・勉強になります」
「いやいや・・・ちょっと宗教的なんだけどね・・・アハハハハハ」
「アハハハハ・・・」
 笑っていた津島の顔が真剣な顔にかわり
「柴山さんのファイトを書きたい・・・で、今の柴山さんをスクープすれば・・・復帰もあるのではないかって・・・でも、違う方向にいってしまい・・・。復帰はしないのですか?」
「気持ちはありがたいが・・・・復帰はしないよ。今、掴みかけた幸せを手放したくないんだ」
「・・・・・」
 そこに柴山の携帯がなった。
「はい、柴山です」
「し、柴山君、大野だ。徹夜明けで疲れているところすまんが、よ、四時に代々木の現場に来られるかな? ト、トラブルらしいんだ。私も行くから」
「はい、わかりました。四時に代々木の現場ですね」
「ほ、本当にすまん」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
 そう言い柴山は電話を切った。
「お仕事ですか?」
「んー。昨日徹夜だったんだけど・・・トラブルみたいだよ」
「それでは、少しでも休まれた方がいいですよ。僕もこれで失礼いたします」
「そうだね。じゃあ出ますか。またおいでね」
「いいんですか?」
「いつでも歓迎だよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ気をつけて帰ってね」
「ごちそうさまでした」
「またクラブサンド食べましょう」
 そう言うと柴山は家の方に帰っていった。
 津島は駅に向かい歩きながら、爽やかな空気を胸いっぱい吸い込み、このまま帰らず駅周辺をフラフラしながら余韻を味わっていた。
 下町生まれの津島にとっては初めて降り立った駅ではあったが、どこか懐かしさすら覚える町並みであった。
 
「翼。早く起きなさい。何時まで寝てるの!」
 美由紀の声で翼は目覚めた。
 登校拒否になって以来、美由紀の生活リズムすら変わってきていた。
「もう、母さん仕事に行くからね。テーブルにご飯用意してあるか、ちゃんと食べなさいよ」
 美由紀はそう言い家を出て行った。
 翼は、美由紀が仕事に行くのを確認してから布団から出た。翼は昨晩から今日、柴山のアパートに行こうと服を着たまま布団に入っていたのだった。
 テーブルのおにぎりをカバンに詰め込み、家を出た。

 駅前の別の喫茶店に入っていた津島は
『四時に代々木だから・・・三時には駅に柴山さんが来るなー。もう一度会いたいなー』
 そう思いながら津島は時計を見た。
『もう、ニ時五〇分か・・・』
 津島は、まるで待ち合わせの恋人を待っているかのように窓外を眺め、ぼんやりと見ていた。しかし、五分・・・十分・・・二〇分・・・・時は無常に過ぎていった。
『あれ、もしかしてタクシーで行ったのかな?』

 キーツ!
柴山が出ようとした時、一台の車がアパートの前に止まった。
 車の中から大野が降りてきた。
 柴山は大野を見つけると、階段下の大野に声をかけた。
「あれ、大野さんどうしたのですか?」
「い、いや、て、徹夜明けなのに、も、も、申し訳なくて・・・せ、せめて車で迎えに行こうと思ってね・・・で、電話しなかったから、さ、先に出てしまっていたらと、し、心配だったけど。よ、よかった・・・」
「お心遣いありがとうございます」
「さ、さあ、乗って。い、行こうか」
 大野は柴山を助手席に乗せると、自分も運転席に乗り込んだ。
 大通りに出て、真っ直ぐ走っていると大野が
「き、君とは、縁があるなー。け、建設現場で会ってからの付き合いになったな。あの時、君が本社に呼ばれていて、あ、あの現場が最後になると思っていたが・・・・」
「そうですね。その節は、本当にお世話になりました」
「ま、まさかなー。じ、自分も腰を痛めて事務職に就くこととなるとは思わなかったよ」
「あの時の【不惑】の話。今では自分の座右の銘のようになっていますよ」
「ふ、不惑・・か。し、柴山君、君が本当にやりたいのは、この仕事なのかい? あ、あの当時から『自分は体を動かしていないと・・・』と言っていたじゃないか・・・も、もしかして、本当にやりたい事があるんじゃないのか? な、何かに怯え・・・それを誤魔化す為に、この仕事に集中してるんじゃないのかね?」
「・・・・・」
「す、すまん、ふと思っただけだよ・・・ふ、不惑だよ柴山君・・・不惑」
 
 電車に揺られながら翼は様々なことを思っていた。以前、美由紀を追いかけて乗っていたので窓外を見る余裕はなかった。その時、通った商店街・・・・。遠くで見ていただけの父の存在。憤る気持ちを抑えながら・・・翼は柴山のアパートへ向かった。
 会いたい・・・話したい・・・気持ちははちきれんばかりの筈なのだが、一歩一歩近づくにつれて微妙な不安が翼を襲っていた。
 気づくと翼はアパートの前にいた。もうすっかり辺りは夕日に包まれていた。
 階段を昇り、柴山の部屋の前にきた翼はドアをノックした。
 コンコン
 返答がない。しかし、返答がなかったことに安堵を感じていたのであった。
 さらにドアノブを回してみる。
 ガチャガチャ!
 やはりドアは開かない。
『いないのかな?』
 と思った、その時、翼は背後に気配を感じた。
「おとうさ・・・」
 立っていたのは津島であった。
「君・・・もしかして柴山さんに用事?」
「うん・・・」
「そう・・・」
 翼は津島に声をかけられて、今までの不安から開放された安堵からか自然と涙が溢れていた。
「どうしたの? 柴山さんなら出かけたよ」
「・・・・・」
「急用? なら近くの公園で時間潰して、もう一度来てみようか?」
 津島は翼を連れて近くの公園に向かった。

 公園に着くと、津島は缶ジュースを翼に渡した。
「ありがとう」
「で、柴山さんに何の用なの?」
「ぼく・・・お母さんからは、お父さんは、ずっと海外出張と聞いていたけど・・・どうしても会いたくて・・・お母さんの後をつけてきたの・・・・・そうしたら、お母さんが、あのアパートでお父さんらしき人と会っていたの・・・・」
「ん?」
「そうしたら、家にあった雑誌・・・・お母さんの雑誌に【ゴールデンタイガーの襲撃記事】が載っていたの・・・。顔は写ってなかったけど、後姿が、あのアパートで見た人によく似てたんだ・・・・」
「・・・・・・」
「ねえ、ゴールデンタイガーが、ぼくのお父さんなの?」
 津島は胸が締め付けられそうになった。あの記事の被害者がここにもいたのだった。知らなくてよかったことを・・・両親が告げなかったことを・・・あの記事により知ってしまったのだ。自分の中のヒーローを三流雑誌のネタにし・・・なお、罪のない子供まで巻き込んでしまったことを津島は反省した。
『軽率だった・・・』
 津島は心の中で呟いた。
「どうしたの・・・・おにいちゃん?」
「・・・・いや、なんでもないよ。でも、どうして、お父さんを訪ねてきたの? 何かあったの?」
「・・・・・」
 翼の表情が曇り、みるみる深刻な表情に変わった。
 さすがに翼は、学校でイジメられているとは言えなかった。ザ・イーグルの息子・裕太は大親友だった・・・しかし、ある日を境に裕太の指示のもとに学校でイジメにあっているとは・・・・。
 昔、仲が良かった頃、裕太は翼に言ったことがあった。
「なあ、翼。俺のお父さんは、有名なプロレスラーだったんだけど・・・ゴールデンタイガーの試合で死んだんだ。お父さんが死んでからゴールデンタイガーは逃げちゃったんだよ。あいつは卑怯者だ!」
 と話していたことがあったのだ。
「ねえ、おにいちゃん。ゴールデンタイガーが本当にお父さんだったら・・・おとうさんは臆病者なの? ザ・イーグル・・・ぼくの親友のお父さんを殺して逃げた臆病者なの?」
 翼は泣きながら津島に問いかけた。
「そんなことはないよ。ゴールデンタイガーは、今でも僕の中ではヒーローさ。臆病者なんかじゃない」
「うん」
「もう、帰ってきたかな・・・アパートに行ってみようか?」
「うん!」
 翼は元気を取り戻し笑顔でそう答えた。
 先ほどとは違い翼の足取りは軽かった。
 アパートについたが、柴山はまだ帰っていないようだった。
「まだ、帰ってないみたいね」
「うん・・・・」
「もう遅くなるから帰ろう。お母さんも心配するからね」
 津島は翼を促してアパートの階段を下りていった。
 階段を下りきった時
「ありがとう! おにいさん、またね!」
 そう言い、翼は走って帰って行った。
「気をつけて帰るんだよ!」
「はーい」
 翼は駅のほうに消えていった。

 その頃、柴山は大野の家にいた。
 仕事が終わり、そのまま柴山は大野の家で夕食をご馳走になっていたのだった。柴山にとっては久しぶりの家族の食卓であった。
 大野の家は夫婦と息子の三人暮らし。二DKの決して広くないアパートだったが、幸せがギッチリと詰まっているようだった。
 子供のいる食卓だけあって。エビフライや唐揚げなどがふんだんに並んでいた。柴山が来ると言うことで気を使ったのか、刺身もあった。
「いやー。こ、子供中心の食事だから、揚げ物はかりになってね。し、柴山君食べるのないかな?」
「いやいや、結構揚げ物は好きですから」
 と言いおどけて見せた。
「そうか、た、たくさん食べていってくれ」
「はい! いただきます」
 柴山は、料理を口に運びながら、美由紀、翼を思い出していた。
『俺も息子と三人で暮らしたい』
 柴山は心の中で思っていた。
『しかし、リングを逃げ出した自分には息子に会う権利すらない』
 柴山の箸が止まっていた。
「どうした? し、柴山君?」
「あ、いいえ。一気に食べ過ぎて・・・お腹いっぱいになってしまって」
「アハハハハ。そ、そうか」
 談笑しながらも、柴山には、一緒に大野の家族と食事しているというよりも、大野家族の食卓を見ている第三者になっていた。親子三人の食卓・・・だんだんと大野家族の顔がぼやけていき・・・その顔が・・・柴山、美由紀、翼に変わっていった。
 柴山は、我に返り
「もう遅いので帰ります。今日は本当にご馳走様でした」
「そうか、も、もう帰るか。今日はご、ご苦労さんな」
「また、いつでも来てくださいね」
「ありがとうございます」
 柴山はお礼を言うと出て行った。

 アパートに戻り、電気をつける。今までいた家とは真逆な光景がそこにあった。柴山は、ふと物悲しくなっていた。
 ピリリリリ・・・ピリリリリ・・・・
 柴山の携帯が鳴った。着信画面を確認し出た。
「はい、もしもし」
「今、家?」
「ん? どうかしたか?」
「翼が帰ってこないの・・・。雑誌が翼の部屋にあったし・・・そっちへ行ってるかと思って・・・」
「雑誌?」
「ゴールデンタイガー襲撃の記事の載った雑誌・・・その記事が破かれているの・・・・」
「・・・・・」
「・・・もしかして、翼、自分の父親がゴールデンタイガーって知って・・・・翼、イジメられてるみたい学校で・・・学校行ってないし・・・・。親友だった裕太君も口きいてくれないみたいだし・・・・」
「・・・・わかった、近所を探してみる」.
 そう言い、柴山はアパートを飛び出した。
『裕太君・・・確か、ザ・イーグルの一人息子の名前も・・・裕太』
 柴山は道行く人に聞きながら探した。
「ああ、それくらいの子供なら・・・四時くらいだったかな・・・若い男と公園の方に歩いていったよ」
「若い男・・・ありがとう」
 柴山は公園まで走った。公園のベンチに小さな影を見つけた。
「翼?」
 公園のベンチに泣き疲れてスヤスヤ寝ている翼の姿があった。
「翼・・・」
 柴山は、すぐに美由紀に電話をした。
「そう、よかった。迎えに行きましょうか?」
「いや、このまま、アパートで寝かせて、明日、連れて行くから」
「わかった、ありがとう。よろしくね」
 久しぶりに抱き起こす息子・翼。
『重くなったな』
 柴山は抱きかかえた翼を、そのまま背中にまわしオンブした。
 久しぶりに翼をオンブし歩く柴山は、まだ小さかったころの翼を思いだしていた。
「おとうさん・・・・」
 寝言で翼が言った。自然と涙が溢れてきていた。
「おとうさんは、タイガー・・・」
 翼の寝言が背中を通って心に突き刺さってきていることに柴山は気がついていた。
『翼・・・』
 夜空に一つ、キラキラと光を放っている星があった。

 アパートに戻り、翼を布団に寝かせた。
 スヤスヤ眠る翼に心が痛んだ。
 正直な話、二歳以来会っていなかった柴山には父親の自覚はあっても、接し方がわからなかった。一番いい時期を共にしていなかったことが、大きな壁となっていたのであった。
『幼稚園・・・小学校・・・一緒に暮らしていたら・・・描いた絵とか見ながら成長を見守れたんだろうな・・・靖男さん・・・お父さんみたいに、宝物になったんだろうな・・・』
 普通の父親のような生活が出来なかったことを悔やんでいた。柴山は寝付けないまま朝を迎えていた。
「んー・・・ん? ここは?」
 翼が目を覚ました。
「起きたかね?」
「あっ!・・・・」
 実際に起きている翼に柴山は緊張していた。それは翼も同じであった。しばらく無言な状態が続いていた。
 柴山は、ただただ優しく翼を見つめていたのだった。
『翼、そう呼びたい・・・』
 柴山が物心のついた翼に会うのは、これが初めてであり、その『翼』・・・この三文字が重くのしかかっていたのだった。
「なに?」
「どうして、ここがわかったんだ?」
「前にお母さんが此処に来るのを見張っていたんだ」
「そうか・・・・」
「お父さん・・・」
「何だい?」
 翼はカバンから、クチャクチャになった雑誌の記事を取り出して見せた。
「この写真、お父さんだよね? お父さんはゴールデンタイガーなの?」
 翼は問い詰めた。しかし柴山には答えることはできなかった。自分から逃げるようにリングを去り、新人レスラーにやられた落ちぶれた男であることを翼には知られたくなかったのだった。
「お母さんが心配してる。家まで送るよ」
「うん・・・・」
 翼は淋しい気持ちいっぱいでカバンを肩にかけた。それは柴山も同じだった、今、目の前に息子がいる・・・息子の純粋な問いかけにも答えられない・・・美由紀の元へ戻すことしかできない。
 駅へ向かう道すがら翼が口を開いた。
「僕、学校に行ってないんだ・・・・イジメられてて・・・」
 翼は、くやし涙をこらえていた。
「裕太って友達が僕のこと無視してるんだ。ザ・イーグルの息子だよ」
「何だって?」
 柴山は驚きを隠せず、思わず大きな声を上げた。
『父親を殺されたと思っている自分に恨みを持っている少年が、息子にまで復讐の矢を向けている。新人レスラーを自分のもとに送り込んだのも、多分、その少年だろう・・・』
 柴山は翼を見た。翼は、くやし涙をこらえながら続けた。
「裕太は学校のヒーローなんだよ。仕方ないよ、強い人間に逆らうことなんか出来ないんだ。負けるのに立ち向かうなんて馬鹿げてるよ・・・」
『そんなことはない! 勝てるから闘うんじゃない。負けてもその後に何かがあるから闘うんだ!』
柴山はそう翼に言いたかったが、言えなかった。
「お父さん・・・なんで黙っているの?」
 翼の言葉に柴山は『はっ』として我に返った。
「ん? いや・・・・そうだな・・・」
 柴山にとって、これが最大の言葉だった。
『自分が負け犬のくせに・・・息子に何が言える。偉そうなことを言える権利は、私にはない!』
 柴山は自分自身にそう呟いていたのだった。

 駅に着くと美由紀が迎えにきていた。
「あっ、お母さん」
「翼・・・」
 翼は美由紀のもとに走っていった。心配かけた後悔からか、安堵からか自然と、こらえていた涙が溢れ出していた。
「お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい」
 美由紀は、翼を抱きしめながら
「いいのよ。いいのよ。つらかったね、翼」
 美由紀も、また目が潤んでいた。
 その、母子の風景を見て柴山は、心が痛んだ。
「ありがとう」
 美由紀は柴山にお礼を言い、続けた。
「この子には、あなたが必要なの。わかるでしょ。いつか必ず三人で暮らせる日を・・・・」
「・・・・」
 柴山は答えられずにいた。
「お父さん、またね」
 翼は元気を取り戻し言った。
 二人が駅の中に入り、姿が見えなくなるまで柴山は見守っていた。時折、翼が振り向き手を振っていた。柴山もそれに応えた。

 アパートに戻った柴山は一人悩んでいた。
『翼がイジメに・・・しかも、ザ・イーグルの息子に・・・なんてことだ・・・』
 柴山は、駅で何度も振り返っていた翼を思い出していた。その時の笑顔も・・・・。
『あの子が・・・あの子はなんにも悪いことしてないのに・・・あの笑顔を消してはならない・・・絶対に』
 翼の言葉を思い出していた・・・・。
「強い人間に逆らうことなんか出来ないんだ。負けるのに立ち向かうなんて馬鹿げてるよ・・・」
 柴山の頭の中に【復帰】という二文字が、この時初めてよぎっていたのだった。
 それは、復帰して、勝ち負かすことではなく、負けても立ち向かうことを教えなければ・・・と思っていた。

 そのころ、美由紀、翼も家の近くに戻ってきていた。
「翼。外でご飯食べて帰ろうか?」
「本当? やったー。ハンバーグ食べたい」
「うん、翼ハンバーグ好きだもんね。駅前のファミリーレストラン行こうか?」
「うん!」
 美由紀と翼はファミリーレストランに入っていった。
「いらっしゃいませ」
 ウェイトレスの女の子が笑顔で声をかけた。
「何名様ですか? 喫煙禁煙の希望はございますか?」
「二人です。禁煙で」
「はい、こちらへどうぞ」
 ウェイトレスは愛想よく席へとアテンドしていった。
 席につくと、先ほどのウェイトレスが水とオシボリ、メニューを持ってきた。
「いらっしゃいませ。お決まりになりましたら、そちらのブザーを押してください」
 そう言い、ウェイトレスは笑顔で去っていった。
「わー。何にしようかなー」
 翼は嬉しそうにメニューを眺めながら歓声をあげていた。
 その光景を美由紀は微笑ましく見ていた。
「翼はハンバーグじゃないの?」
「んー、迷うよー。ハンバーグだっていっぱい種類があるんだもん」
「そっか、アハハハハ」
 翼は、メニューを穴が開くほど見入っていた。
「翼、そんなに見てると、見てるだけでお腹いっぱいになっちゃうわよ」
「んー決めた。この目玉焼きのついたやつー」
 美由紀は微笑みながらボタンを押し、ウェイトレスを呼び、注文をした。
 美由紀は周りを見渡した。日曜日のファミリーレストランだけあって、家族連れが多かった。お父さんと子供が並んで座り、お母さんが向かいに座っていたり、お母さんの隣に子供がいて、向かいにお父さんという感じであった。なんとなく淋しい感じに美由紀はなっていた。
『ここに柴山がいたら・・・』
 そんな風に思いながら、翼を見つめていた。
「お待たせいたしました。ハンバーグのデミグラスソースですね」
 ウェイトレスは手際よく翼の前にハンバーグ、ライスを並べ、美由紀の前に、スパゲッティのカルボナーラを置いた。
「ごゆっくりどうぞ。ご用がありましたら、ブザーでお呼びください」
 そう言い去っていった。
「やったー、ハンバーグー。いただきまーす」
 翼はハンバーグを頬張りだした。
「あらあら、そんなに急いで食べなくても」
「だってー美味しいんだもん」
「フフフフフフ」
 美由紀は微笑んで見ていた。
「んあんのさぁー」
「ん? なに? 食べながら話さないの」
「んぐ。ゲホゲホ・・・」
「大丈夫?」
「うん、あのさ、お父さんはゴールデンタイガーなんだよね。聞いたら答えてくれなかったの・・・」
「そう、ゴールデンタイガーでも、違ってもいいんじゃない? 翼のお父さんには変わりないんだから」
「ゴールデンタイガーだよ絶対。そして、裕太のとこの池部と試合をして、こてんぱんにやっつけてもらうんだ」
「翼・・・なんてことを・・・・」
「だって、イジメられているんだよ・・・・裕太に・・・俺は裕太をやっつけられないから・・・・代わりにやっつけてもらうんだ」
「翼が、自分で裕太君と話をしてみればいいじゃない」
「そんなの無理に決まってるよ。強い人間に逆らうことなんか出来ないんだ。負けるのに立ち向かうなんて馬鹿げてるよ・・・」
「・・・・・」
 美由紀は言葉を失っていた。
『翼はまっすぐ育っている・・・正直すぎるほど・・・まっすぐに・・・でも今一番大切な・・・自分で解決することよりも、柴山を使って復讐を考えている。柴山は復帰を考えているのだろうか? 柴山を復帰させてはならない・・・この子の為にも・・・・正直すぎるほど正直に育っている、この子の為にも・・・』
 美由紀は、そう思うようになっていた。

 翌日、柴山は、トレーニングを開始した。朝のロードワーク・・・会社を終えてからの筋力トレーニングと、今までなまってしまった自分の身体を鍛え直していた。
 しかし、柴山が思っていた以上に柴山の身体はなまっていた。
「こんなんじゃダメだ」
 柴山は自分を責めた。なまっていないと思っていた柴山には、大きな大きなショックであった。

 来る日も来る日も朝、夜のトレーニングはかかさなかった。徐々にだが、体力も上がってきていた。ランニングの距離も五キロから始まり・・・七キロ・・・一〇キロと楽にこなせるようになってきていた。しかし、柴山の表情は暗かった。
『このまま、朝夕のトレーニングだけではダメだ・・・日中も・・・』

 翌日、会社にいても苛立ちは隠せなかった。
「ちゃんとやってくださいよ!」
 ガチャーン
 柴山は電話を切った。
 自分の思い通りトレーニングが進まない苛立ちを会社に持ち込んでしまっている自分を責めていた。
「柴山さんどうしたんだろう?」
「なんで、あんなに苛ついているんだろう?」
 社員たちがヒソヒソ話すようになった。
 大野が柴山に声をかけた。
「し、柴山くん、ちょっといいかな?」
「はい、なんでしょうか?」
 柴山は大野に促され会議室に入っていった。
 不安に見守る社員たち。

「そ、そこに座りなさい」
 大野はソファーに座りながら、対面のソファーを指差しながら言った。
「はい」
 大野はゆっくりと腰を下ろしながら、穏やかに話しかけた。
「し、柴山君、な、何かあったのかね?」
「いえ、その・・・特に何も・・・」
「な、何故そんなに苛立っているんだ」
「いえ・・・すみません」
「し、柴山君、ゴ、ゴールデンタイガーとしての復帰を決めたかな?」
「えっ・・・」
「し、知っているんだ。き、君がゴールデンタイガーだったこと・・・」
「なぜですか?」
「し、知っていたというのは語弊があるな。最近、知ったんだ。キ、キタガワ・スポーツの北川信一郎を覚えているね」
「はい・・・それが・・・・」
 大野はゆっくりと柴山を見ていた視線をおとしながら、
「わ、私の親父だよ」
「なんですって!」
「最近、ゴールデンタイガー襲撃の記事が載っただろう・・・い、家にもその雑誌があってね・・・お、親父とゴールデンタイガーの話になった。私もその時初めて・・・親父がゴールデンタイガーのマスクを作っていたこと・・・ゴ、ゴールデンタイガーが柴山翔であることを知った」
「そうですか・・・」
「お、親父も喜んでね・・・し、柴山君元気かって・・・で・・・」
 大野はロッカーの鍵を開け・・・包みを取り出した。
「お、親父が、これを、し、柴山君に・・・と」
 柴山は受け取り包みをといた・・・。
「あっ!」
 金色に輝くゴールデンタイガーのマスクだった。
「これは・・・・」
「お、親父からのプ、プレゼントだよ・・・」
「・・・・・」
「でも、し、柴山君、今、君に会社を辞められては困るんだ・・・い、一ヶ月だけ現場をやってくれないか? げ、現場なら身体もなまらないだろ」
「大野さん・・・ありがとうございます」
「あと親父から、も、もう一つ・・・ここに行けと・・・・」
 大野は柴山に一枚のメモを渡した。
「これは?」
「お、親父の弟・・・つ、つ、つまり私の叔父がやっている寺の住所だよ」
「ここが何か?」
「こ、ここにザ・イーグルは眠っているんだ」
「なんですって?」
「私も、こ、こ、こんな偶然ってあるのか?って思ったよ」
「はい! 行ってみます!」
「そ、それにもう一つ、みんなには黙っておく・・・き、君がゴールデンタイガーであることを・・・」
「ありがとうございます」
 柴山は深々と頭を下げた。
「が、がんばれよ。し、柴山君・・・ゴ、ゴールデンタイガー」
 
 翌日だった。会社に移動辞令が張り出されたのは。
【柴山翔 日比谷の現場勤務を命ずる】
 社員たちは動揺を隠せなかった。
 大野に食いつく者もいた。
「き、決まったことだ」
 大野は取り入れなかった。
 社員たちはヒソヒソと話始めた。
「おい、昨日柴山さん呼ばれていたじゃんか・・・」
「で、飛ばされたのかな・・・」
「怖い会社だな・・・」
 大野への不信が社内でつのっていった。
 大野はいっさい気付かぬ振りをしていた。

 その頃、柴山は栃木の寺にいた。
「ここか・・・」
 門をくぐり、境内へ入っていった。
「あのー」
 柴山は住職に声をかけた。
「はい、いかがなされましたか?」
「はい! 柴山と申します・・・」
「ああ、柴山さんか。聞いております、こちらへ」
 住職は裏の墓地へ柴山を連れて行った。
「詳しいことは聞いてませんが、こちらです」
 柴山の目前には、それ程大きくない墓が立っていた。
【結城家】と書いてある。結城伸広 享年二十八歳 とある。結城伸広とはザ・イーグル本人であった。
『ここで休んでいたのですね。ご無沙汰いたしております』
 柴山は線香をあげ、手を合わせた。

「ありがとうございました」
 柴山は住職にお礼を言った。
「では、こちらへ」
 住職は、母屋の一室に柴山を連れて行った。
「こちらへ」
「はい!」
 柴山は腰を下ろすと、簡単な精進料理が用意されていた。
「これは?」
「精進落としです。どうぞ」
「はい! いただきます」
 柴山は、ゆっくり食していると
「いかがですかな?」
 住職が声をかけた。
「はい、時間がゆっくり流れているような感じがします。この所余裕がなかった気がします」
「そうですか。いいことですね」
 柴山が食事を終えると住職が言った。
「ちょっと、坊主の説教を・・・。マゴハ、ヤサシイはご存知ですかな?」
「孫は優しい? いえ?」
「孫は優しい、と言っても。優しいお孫さんではございませんよ。マゴハ、ヤサシイ」
「マゴハヤサシイ?」
「そうです。つまり・・。【マ】は豆類、【ゴ】はゴマ、【ハ(ワ)】はワカメなどの海草類、【ヤ】は野菜、【サ】は魚、【シ】は椎茸などのキノコ類、【イ】は芋などの穀物類、のことです」
「つまりは、身体にいい食べ物ですね」
「その通りです。頑張ってくださいね」
「はい! 勉強になります」
「では、いかがかな。勉強ついでに座禅でもなされていっては」
「はい! お願いいたします」
 そして、柴山は本堂で座禅に入っていった。
 その時、柴山は気が付いたのだった。
『大野さんが何故この寺に行けと言ったのか・・・・ザ・イーグルの件だけではない・・・・苛立って冷静さを欠けていた自分に無の境地を手に入れさせる為だったんだ・・・・。ありがとう大野さん』
何にも動じない、【無】を手に入れるために・・・柴山はゆっくりと目を閉じた。

 柴山は来る日も来る日も現場で精を出していた。
「柴山君、一休みしたらどうだ? 毎日そんなに張り切ってると、いつかバテるぞ」
「大丈夫です。おやじさんこそ休んでください。おやじさんの分も運んじゃいますから」
「この、人を年寄り扱いしよって」
「こう見えて若いですから。アハハハハ」
「無理すんなよ」
 柴山の屈託のない笑顔に、おやじさん・・・現場の先輩も微笑ましく見るしかなかったのだ。
「はい!」
 柴山は自分との闘いをしていた。
『時間がない・・・時間が』
 重い鉄材を休みなく運びながら柴山は思っていた。
 今日も夕日が無常にも落ちていった。

 柴山の現場生活も、もう残り一週間になったときであった。
「キャー」
 靖男のいる施設で佐伯の悲鳴が響いた。
「どうしたの?」
 施設の職員たちが集まってきた。
「や、靖男さんが・・・」
 見ると、靖男が頭から血を流して倒れていた。
「救急車!」
「靖男さん! 靖男さん!」
 佐伯が必死に声を掛けていた。
「救急車が来ました!」
 職員が救急隊を先導して中に入ってきた。
「靖男さん! 靖男さん!」
 タンカに乗って運ばれている靖男には、その声は届いていなかった。その左手には、しっかり柴山のブレスレットがつけられていた。佐伯は、その光景を祈りながら見守っていた。
 その時、ブレスレットのTが一瞬光った。
靖男を乗せ救急車はサイレンを鳴らして走り去っていった。

 その靖男の事故と同じ時間・・・。
 柴山が、鉄材を運んでいると、頭上で何やら軋む音が聞こえた。
「危ない!」
 柴山は反射的に上を見ると、資材が上から落ちてくるのが見えた。
「あっ!」
 柴山は、俊敏にかわそうとしたが、鉄材を持っているので身体がいうことをきかなかった。
「あー」
 柴山が諦めた瞬間・・・一つの黒い影が柴山を包み込んだ。
 ガラガラガラーガッシャーン
「大変だー。資材が崩れたぞ!」
 駆け寄ってくる現場担当者たち。
「誰か下敷きになっているぞ」
「しっ、柴山さん!」
「しっかり!」
 資材をどけ、柴山を救出したが、柴山は意識を失っていた。
「救急車!」
 現場監督が指示を出した。
「俺は会社に連絡する」
 ピーポーピーポー
 遠くの方から救急車のサイレンがけたたましく鳴り響いてきた。

 会社に現場で資材が崩れ柴山が下敷きになったという一報が入った。
「はい、お、大野です。な、なんだって? い、いま行く」
 大野は、けたたましく電話を切った。
「何かあったんですか?」
 何かが起こったことを察した社員が大野に聞いた。
「げ、現場で事故があり、し、柴山君が巻き添えになったらしい。だ、大丈夫らしいが、び、病院に行ってくる」
「私も行かせてください」
「私も」
 みんな柴山の事が心配なのだ。突然、現場への辞令が出て、この事故である。

 都内の総合病院に柴山は搬送されていた。
「お手数おかけいたしました」
 腕に包帯を巻いた柴山が医師に深々と頭を下げていた。
 そこに、大野と社員たちが到着した。
「あれ? あれ、柴山さんですよね・・・」
「あれれ?」
 大野たちは、『どうなっているんだろう?』とキョトンとしていると、
「あー、大野さん。あれ? みんなも・・・どうしたんです?」
 柴山が大野たちを見つけ、声をかけた。
「じ、事故って聞いて・・・だ、大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよー。ほら! ねっ、先生?」
 医師が大野たちに近づいて来て言った。
「確かに・・・脳波、レントゲンともになんともありません・・・・しかし、あれだけの事故で・・・まさに強靭な身体ですな・・・」
 大野は気付いていた・・・柴山がゴールデンタイガーだったからこそ、この程度ですんだが・・・本来なら大事故だったことを・・・・。
『さ、さすが・・・ゴ、ゴールデンタイガーだな・・・』
しかし、社員たちは、更にキョトンとしてしまっていると
「さあ、帰りましょう。病院は苦手でして・・・」
 柴山は大野たちを促して病院を出て行った。
「いやーでも死ぬかと思いましたよー」
 と柴山は更におどけてみせた。
 そこに柴山の携帯が鳴った。柴山は携帯を取り出し見ると・・・。
【木更津ひまわり介護老人施設】と画面に出ていた。
『親父に何かあったのか?』
 柴山は不安になりながら、大野たちと離れて電話に出た。
「はい、もしもし」
「ゴールデンタイガーさんですか? 木更津ひまわり介護老人施設の佐伯恵美と申します」
「はい、どうかしましたか?」
「実は、靖男さんが階段から落ちて・・・今、救急車で病院に・・・靖男さん身寄りがなくて・・・誰に伝えたらいいか・・・私・・・・で、ゴールデンタイガーさんに・・・・」
「なんですって! で、靖男さんはどこの病院に?」
「館山駅近くの、水野中央病院です」
「それで、意識は?」
「まだ、ありません」
「・・・・そうですか・・・・。今から向かいます」
 柴山は、そう言い電話を切り、大野たちに近寄っていった。
「ご迷惑おかけしました。今日は、これで帰ってもいいでしょうか?」
「お、おお、そうだな。す、すまん、あんまり元気だったんで、け、け、怪我したのを忘れていたよ。きょ、今日は帰って、あ、明日も大事をとって休みなさい」
「ありがとうございます」
 柴山は礼を言うとタクシーを止めて乗り込んだ。
「運転手さん、一旦鶴見市場へ行っていただき、ちょっと待っていてください。それから千葉の館山に向かってください」
「はい、わかりました」
 柴山は、一旦アパートにマスクを取りに帰らなければならなかったのだ。
『お父さん・・・もしかして俺がこの程度の怪我で済んだのは、お父さんが身代わりに・・・。あの時の黒い影が・・・・。今、行きますからね、お父さん』

 水野中央病院に着くと、柴山はゴールデンタイガーに変身した。
「あ、ゴールデンタイガーさん」
 佐伯恵美が声をかけた。
「で、靖男さんは?」
「はい、手術は無事終わり、今集中治療室に・・・」
「そうですか・・・」
 ナースセンターの隣にある集中治療室には、靖男が機械にがんじがらめになっていた。
「あっ!」
 ゴールデンタイガー(柴山)は、靖男の左手にあるTがデザインされたブレスレットを見て思わず叫んだ。
「どうしました?」
「いや・・・靖男さんブレスレットしてるなって・・・」
「ええ、そうなんです。処置の邪魔になるだろうと事故直後に外そうとしたのですが・・・靖男さんがしっかり握っていて・・・。救急隊の方も、もしかしたら守ってくれたのでは、と外さずに・・・」
「そうですか・・・・」
『おとうさん』
 ゴールデンタイガー(柴山)はそう叫びかたった。しかし、出来なかった。
 ゴールデンタイガー(柴山)は胸の中で
『お父さん、頑張ってください。お父さんのお陰で私は大した怪我もしないで済みました。今度はお父さんが治る番です。私が治します』
 そう心の中で呟いた。
「佐伯さん、靖男さんの様態をまた教えてくださいね」
「・・・わかりました・・・」
 佐伯はマスク越の顔が涙で滲んでいることに気が付いた。
「ゴールデンタイガーさん・・・もしかして・・・靖男さんの・・・」
「いや・・・」
 そう言いゴールデンタイガー(柴山)は出て行った。

 翼が学校に行かなくなって、もう一ヶ月が過ぎていった。
 翼の机が空いていることが不自然であった光景も今では空いていることが自然になっていた。
 放課後、ぼんやりと、空いている翼の机を眺めている裕太。秘密の場所・・・裏山で見つけたビー玉・・・・。コーラをかけてじゃれていた・・・公園・・・・。
 遠めで見ていた生徒たちが
「なんか裕太・・・変だよな・・・」
「ぼんやり・・・翼の机を眺めたりしてさ・・・」
「自分で翼をイジメてたのにな・・・」
 裕太の表情が悲しくなっていった。ポケットの中に手を入れビー玉を握り締めながら、思い返していたのだった。楽しかった翼との時を・・・。公園のコーラ・・・・。ゲーセン対決・・・・。ゲーセン・・・・。
 瞬時に裕太の表情が険しくなった。
ゲーセン・・・。ゲーム機で木下に痛めつけられる池部・・・・。ゴールデンタイガー・・・。
『くそっ! ゴールデンタイガーが・・・俺と翼の仲を・・・』
 裕太は鞄に教科書等を詰め込むと・・・
「おさきー」
 と言い帰っていった。

 裕太が家に帰ると、有坂がソファーに座りテレビを見ていた。
「おう、おかえり」
「あれ? お母さんは?」
「今、買い物に行っとる」
 裕太は有坂の隣に座り、
「ねえ、お父さん。ゴールデンタイガーは復帰しないの?」
「ん、なんや? アイツはもう引退した人間や。復帰なんかせえへん」
「復帰させてよ・・・お父さんの力で・・・ゴールデンタイガーを復帰させてよ・・・」
「・・・・」
 有坂も悩んでいた。何度もゴールデンタイガーの復帰を考え、行動に移してきたが、一向に復帰の兆しすらなかったのだ。
『父親として・・・裕太にしてあげられることはなんやろ・・・それはゴールデンタイガーをもう一度リングに復活させることや、そこでゴールデンタイガーに敗北を味あわせるんや・・・でも本当にそれでええんやろか?』
 有坂はそう考えていたのだった。

「青山まで・・」
 柴山はタクシーに乗り込むと、運転手に行き先を告げた。
 高速道路を走り、渋谷で高速を降りた。六本木通りを進み、青山に近付いた時、柴山はマスクを被りゴールデンタイガーに変身した。
「ここで」
 タクシーは止まり、料金を受け取る運転手の手が止まった。
「あれ?あれ? お客さん・・・ゴールデンタイガーさんだったんですか?」
「ええ」
 そう言いゴールデンタイガー(柴山)はタクシーを降りた。
ゴールデンタイガー(柴山)がニューホープ・プロレスに訪れたのは数日後だった。
 久しぶりに見る会社の風景は全く変わっていなかった。案の定マスコミ記者が数名いた。ゴールデンタイガー(柴山)は右手でマスクを覆いながら、足早に入口に入っていった。
「あっ! ゴールデンタイガーだ!」
 一人の記者が気付き、声を上げた。一斉にシャッターが切られた。
 入口に入ると、受付に向かった。
「ふう、やれやれ。あっ、すみません、上田さんいらっしゃいますか? ゴールデンタイガーです」
「少々おまちください」
 受付嬢は、内線で確認を取っていた。しばらくすると
「では、八階の社長室へどうぞ」
「ありがとう」
 ゴールデンタイガー(柴山)は礼を言うとエレベーターの中に消えていった。
『よし』
 ゴールデンタイガー(柴山)は心に渇を入れた。体力はまだまだ戻っていないが、リングに復帰しよう、悩んだ末に決心したことだった。翼にも自分がゴールデンタイガーであることを隠したくなかったし、リングに上がることによって裕太という少年の気が晴れるのなら・・・そして自分自身も「ザ・イーグルの死」という呪縛から解き放たれるのである、そう考えていたのだった。

 コンコン
 ゴールデンタイガー(柴山)は社長室のドアをノックし中に入っていった。
「失礼します」
 中に入ると、社長のデスクに腰を下ろした上田がいた。
「こちらへどうぞ」
 上田は立ち上がると、ソファーを指差した。
 ゴールデンタイガー(柴山)はソファーに腰を下ろすと、上田は対面に座った。
「やっと決めたか?」
「ええ、まあ」
「助かるよ。正直、君が突然辞めてしまって、ニューホープ・プロレス経営自体も危機になってね」
「はあ・・・」
「またプロレス界を盛り上げよう」
「いや・・・私が復帰するのは・・・プロレス界の発展ということより・・・自分自身のケジメなんです」
「何!」
「自分の大切なものを守る為に・・・」
「どういう意味かね?」
「上田さんが、どういう風に考えているかはわかりませんが・・・完全復帰するつもりはありません。あなたと有坂さんがどういう意図で復帰を企てているかは、だいたい見当はついてますがね」
「・・・・・・」
「ビジネスとして復帰するのではないのです! 人間として・・・」
 ゴールデンタイガー(柴山)は自分が復帰することによって翼に感じ取ってほしかった。『人生に立ち向かう強い男になってほしい』
ゴールデンタイガー(柴山)は息子のため、人生から逃げていた自分自身のためにも再びリングに上がることを決意したのだ。
 
 翌日のスポーツ新聞のプロレスのページに、【ゴールデンタイガー古巣に突如出現!復帰か?】の記事が載った。先日柴山がニューホープ・プロレスを訪れたときの写真が載っていた。手でマスクは隠していたのだが、ハッキリとゴールデンタイガーと分かるものだった。
【突然、青山のニューホープ・プロレスを訪ねたゴールデンタイガー。十年の時を経て、復活か?】と書かれていた。
 会社で大野も、その記事を読んでいた。
『し、柴山君・・・つ、ついに決めたか・・・』
 大野は、これで柴山はこの会社を去る・・・淋しいが未来に向かう柴山に影ながらエールを送っていたのだった。
 その時、
「あれ、これ柴山さんじゃないか?」
「えっ」
 社員たちも、同じスポーツ新聞を見ていた。そのゴールデンタイガーの記事の写真を指差し
「ほら・・・手」
「ああ・・・」
 そんな会話を耳に大野は、その記事を見ていた。
『あっ!』
 ゴールデンタイガーがマスクを手で隠している写真が載っていたのだった。柴山と同じところに包帯・・・。それでなくても、以前ゴールデンタイガーが襲撃された時の写真で、社員たちは一瞬疑問に思っていたことが、これで一致してしまったのだった。
 その時大野の携帯がなった。
「はい、も、もしもし」
「あ、おはようございます。柴山です。実はお話がありまして、もう今の現場が終わりましたので、どこかでお時間ございますか?」
「も、もうそろそろ、で、電話があると思ってたよ」
「えっ・・・」
「ふ、不惑だよ。不惑・・・。あ、明日の昼はどうかね?し、新宿まで行くよ」
 大野は他の社員たちに電話の相手が柴山と知られないようにしていた。
「ありがとうございます」
 大野の【不惑】という言葉に、大野は全てと察していると思った柴山は深々とお礼を言った。
「で、では、今日三時に、し、新宿で待ち合わせよう。む、昔待ち合わせた喫茶店わかるか? そこに一時はどうかね?」
「わかりました。ありがとうございます」
 大野は静かに電話を切った。
 その時社員たちが大野のもとに近寄ってきた。
「大野さん!」
「な、なんだね?」
「あの・・・柴山さんってゴールデンタイガーだったのですか?」
「な、何故そんなことを・・・」
「だって、大野さんも見ているスポーツ誌・・・ほら、この写真!」
 社員の一人がスポーツ新聞の写真を指差した。
「・・・・」
「柴山さんですよね・・・・これ・・・」
「そうですよね! ほら、この手の包帯!」
 大野は証拠を突きつけられた犯人のような気がした。
「そ、それが、どうかしたかね?」
「えっ」
「し、柴山君は、し、柴山君じゃないのかね? それとも、か、会社の仲間というより、ゴ、ゴールデンタイガー、柴山の方がいいかね?」
「それは・・・・」
「ど、どうなんだね? し、柴山君がゴールデンタイガーであろうと、なかろうと少なくとも我々には関係ないことではないかな!」
「・・・・」
 社員たちは黙ってしまった。自分たちが柴山を同僚としてではなく、色物として見てしまったことを恥じていたのであった。
 すると誰からともなく
「そうだよ! 柴山さんはゴールデンタイガー・・・でも俺たちにはゴールデンタイガーでない・・・・おっちょこちょいの柴山さんだよ」
「そうだよ!」
「うん! そ、そうだ!」
 大野は自分の部下たちを見て安心していた。
「さあ仕事! し、仕事!」

 その記事を美由紀も見ていた。
 美由紀は、いたたまれずに柴山に電話をした。
 プルルル・・・プルルル・・・
 呼出音が美由紀には悲しい音楽にも聞こえた。
『早く電話に出て・・・』
 そう思っていると
「はい、もしもし」
「ああ、私です・・・」
「電話があると思っていたよ」
「・・・・」
「復帰のことだろ」
「・・・いつ決めたの? 何も相談してくれなかったじゃない・・・相談はなくてもいい・・・でも、あなたは翼の父親なのよ! 話してくれてもいいじゃない!」
「・・・・」
「翼は今、間違った道を歩もうとしているのよ! あなたを使って、ザ・イーグルの息子・・・裕太くんに復讐を・・・」
 美由紀の言葉に柴山の胸は痛んだ。
「・・・・そうかな? 復帰すれば、必ず結果があるんだ・・・」
「結果って! 復帰して負けることが? 負ければ・・・もっと裕太くんに翼はイジメられるのよ!」
 美由紀の言うことも尤もであったので、柴山は絶句した。
「・・・・・」
「負けると分かっているのに、何故闘うの?」
「そうだな・・・お前の言う通りだよ。負けるってわかっていて試合に臨むなんて馬鹿げているよ・・・」
「なら・・何故・・・」
「でもね・・・それでも闘わなければならない時があるんだよ・・・。男には必ずその時が来るんだよ・・・理屈では・・・常識では・・ありえないが、そうしなければならない瞬間が・・・」
「わからないわよ・・・そんなこと・・・」
「自分と翼にとっては、今がその時なんだ! 負けるとわかっていても闘う勇気・・・勝者だけがヒーローでないという・・・」
「・・・あなたと・・・翼の・・・」
「そうだよ。必ず、いつかわかるよ・・・。俺が父親として翼に身をもって教えることが・・・必ず、わかる!」
「わかったわ・・・」
「じゃ」
 そう言い柴山は電話を切った。

 学校の昼休みの時間に裕太は裏山にいた。裕太が唯一安心できる場所に。
「ゴールデンタイガーが復帰か・・・やっと・・・やっと!」
 裕太は、ここに翼を連れてきたことを思い出していた。
 二つのビー玉・・・赤を翼に、そして水色を自分が・・・友情の印として・・・・。
 裕太は、ポケットの水色のビー玉を取り出した。裕太は、あれから毎日肌身離さず持ち歩いていたのだった。
 裕太は水色のビー玉を見つめ・・・。
「くっそー。こんなもん!」
 裕太は力一杯ビー玉を投げ捨てた。
 キラキラ水色の光を放ちながらビー玉は麓に落ちていった。
 裕太の目からも涙がこぼれ落ちていた。

 ちょうど翼が美由紀に頼まれた買い物をして帰り途中、裏山の麓を通っていた。
 翼もまた、裏山を見上げていた。
『・・・裏山か・・・裕太・・・』
 その時・・・「!」
 翼の足元に、水色のビー玉が落ちてきた。
「・・・裕太・・・」
 翼は、足元に落ちてきたビー玉を拾い、ポケットにしまった。

「はっ!」
 裕太は自分がビー玉を投げたことを後悔した。
 方向的に当たりをつけて裏山を降りて行った。
「確かーこの辺だよなー」
 裕太は裏山の投げた位置を目で確認しながら麓を探した。
「・・・ない・・・ない・・・翼・・・ごめん」
 裕太は、まさか翼が偶然通りかかり拾って行ったとはこの時は知る由もなかったのだった。

 午後から町工場に出勤していた美由紀は『何故、柴山は復帰するのだろう?』『昔とは違う・・・勝てるわけがない・・・負けるとわかっているのに・・・』そのことばかり考えていたのだった。
ガラガラーガッシャーン
 美由紀は荷物を運んでいる時、突然めまいを起こし倒れた。その時運んでいた荷物が散乱した。
「大丈夫?」
 みんなが声をかけ集まってきた。
「あっ!美由紀さん血が!」
「えっ?」
 美由紀は同僚に促されるようにして医務室に行った。
「山口さん! 大丈夫か!」
 美由紀が倒れて怪我をしたと聞きつけた早見が医務室に飛んできた。
「あ、所長さん。申し訳ございません」
 謝る美由紀に早見は
「大した怪我でなくて良かった」
「ご心配おかけいたしました」
「いや、そんなことはいいから」
「はい」
「それより・・・・何かあったら何でも相談にのるからね」
「ありがとうございます。でも大丈夫ですから」
「そうか・・・でも・・・めまいを起こしたんだよね・・・少しここで休んで病院に行きなさい」
「わかりました。少し休んで病院にいきますので・・・今日は早退させてください」
「そうしなさい、お大事に・・・」
「はい!」
 美由紀が医務室のベッドに横になるのを見届けて早見はベッドを離れて行った。
「よろしくお願いします」
 早見は医務室の職員に頭を下げた。
「大丈夫ですよ、所長さん。ただ、疲れているだけかと思いますから・・・」
 早見が出ていってすぐに、美由紀は寝息を立て始めた。

 新宿三丁目の交差点から少し入ったところに、古めかしい喫茶店があった。
『変わってないなー懐かしいなー』
 柴山はそう思いながらドアを開け中に入った。
「こ、こっちこっち」
 大野はもうすでに来ていた。
 柴山は大野に一礼をし、席についた。
「ブレンドを・・・」
 柴山はブレンドを注文した。
「つ、ついに決めたか?」
「はい!」
「そうか。き、決めたことに理由は聞かない。ただただエ、エールを送るだけだよ」
「ありがとうございます」
「ま、負けるとわかっていても闘わなければならない時が男にはあるからな! そ、それが今なんだな?」
「そうです!」
「しょ、職場のみんなも残念がるが・・・き、き、きっとわかってくれるよ」
「・・・そうですね・・・みんなにも自分がゴールデンタイガーであることを隠し続けているわけですから・・・その時点でも裏切っていますよね・・・」
「そ、そ、そんなことはないよ! そんなことは!」
「そうですかね・・・そうですよね、きっと・・・そう思いたいです・・・」
「うん、そ、そうだ!」
「はい!」
「ま、まず、頑張ることだよ! え、選んだ道を」
「はい!」
「い、今一度言う・・・ふ、不惑だぞ! 不惑!」
「男四〇にして事をなす、ですね」
「そ、そうだ!」
 その時、窓外の夕日が柴山と大野を赤く包んだ。

 池部が元町のUWBの会社に訪れた。
 会社の前にはたくさんの報道陣がいた。
 ゴールデンタイガー(柴山)がニューホープ・プロレスを突然訪れたので、池部に話を聞く為に待ち構えていたのだった。
「あっ、池部選手だ!」
 いち早く池部を見つけた記者が声をあげた。
 いっせいに池部を取り囲む報道陣たち。
「ゴールデンタイガーがニューホープ・プロレスを突然訪ねましたが・・・」
「池部さんに挑戦の話があったとか?」
 パシャパシャ 
 報道陣のカメラフラッシュを浴びる池部が勢いだって言った。
「ゴールデンタイガー? いつでも挑戦を受けるてやるよ!」
 パシャパシャ
「おー頼もしいですねー 期待してますよー」
「じゃあな、会社に用事があるから」
 そう言い会社の中に入っていった。

 その頃、有坂は社長室にいた。
 新聞を広げ一点を見つめていた。
『ついに復帰か・・・ゴールデンタイガー。 息子の気を晴らす為にゴールデンタイガー復帰を上田さんに半脅しで勧め・・・。実際、復帰か・・・。果たして、池部は勝てるんやろうか? 若さはある・・・力も・・・ただ・・・・。池部にない精神力を柴山は持っているんや・・・。』
 コンコン
 ドアをノックして池部が入ってきた。
「社長! 見ましたよー。 ゴールデンタイガーが復帰するんだってな!」
「ああ・・・」
「是非、俺に叩きのめさせてくれよ! 奴を倒せば、俺の人気はもっと上がる! 簡単だよ、なっ!」
「・・・・」
「なんだよ! すぐにニューホープ・プロレスに交流試合の申し込みをしろよ!」
「そうやな・・・。ただ本当に勝てるんやろか?」
「なんだと!?」
「勝てるんやろな? ゴールデンタイガーに!」
「何が言いたいんだ!」
「いや・・・・」

「なんなんだよ!畜生! おい、酒をジャンジャン持って来い!」
 銀座のクラブ・クローバーのフロアーに池部の声が響いた。
「そんなに飲んじゃ・・・まだ時間も早いわよ。ゆっくり、まったりしましょうよ」
 荒れている池部に美咲は甘えてみせた。
 池部は持っていたスポーツ新聞をクシャクシャに丸めた。ゴールデンタイガーの記事の載った新聞である。
「なんだ、こんなもん!」
「そうよーゴールデンタイガーなんて過去、過去。池部さんが目くじら立てる話じゃないわよー。所詮過去のおじさんが、お金目当てに新人レスラーとなんちゃって試合するだけよ」
「・・・・・当たり前だ!」
「そうよねー」
 そう言い美咲は池部にしなだれかかった。

 多摩川にある道場にゴールデンタイガー(柴山)の姿があった。実践練習を開始したのだった。
 バシッ!バシッ!
 サンドバックを蹴るゴールデンタイガー(柴山)。それを隅で暖かく見守る津島。
「ゴールデンタイガーさん、気合は入ってるなー」
「やっぱり格好いいなあー」
 若手レスラー達は憧れの目で見ていた。
 しかし、津島は複雑だった。ゴールデンタイガーの復帰を望み・・・復帰を喜んでいたのだが・・・。ゴールデンタイガー(柴山)の目に見る肉体の衰えに気付き、ゴールデンタイガー(柴山)の身体を心配していたのだった。
 その時、ゴールデンタイガー(柴山)が声をかけた。
「津島くん」
 ゴールデンタイガー(柴山)が身体の汗を拭いながら近付いてきた。
「ゴールデンタイガーさん、お疲れ様です」
 あの、少年時代。ゴールデンタイガーに憧れていた少年時代。津島は思っていた。
『まさか自分が、ゴールデンタイガーさんと対で話せるようになるなんて・・・まして仕事まで一緒に出来るなんで・・・』
「津島くん」
「あっ、はい!」
「腹減ったね。飯行こうか?」
「はい!」
「近くにクラブサンドの美味しい店見つけたんですよ」
「クラブサンド?」
「そう、クラブサンド。アハハハハ」
「アハハハハ」
 津島はゴールデンタイガー(柴山)に連れられて道場を出て行った。
 道場から多摩川へ出た時、マスクを取り柴山が言った。
「この辺りだったね。初めて津島くんに会ったのは・・・まだ小さかったなー津島くん」
「ええ、懐かしい場所です。僕にとっても・・・」
「そうだよね」
「あの時は、どうしてもゴールデンタイガーさんに会いたくて・・・」
「そうだったね。僕もゴールデンタイガーになるんだってね。アハハハハ」
「そうしたら・・・マスク欲しいなんて無茶苦茶なこといって困らせて・・・ハハハハ」
「いやーあの時は負けましたよ。本当に」
「本当ですか?」
「本当に本当。無敗のゴールデンタイガーが初めて負けたのは津島少年だったなー」
「アハハハハハ。またまたー」
「アハハハハ」
 ジャージを身にまとった若手レスラーが多摩川を走っていくのが遠くに見えた。それを追う少年がいた。
 柴山と津島は顔を見合わせた。
「アハハハハハ」
「同じですね。アハハハハハ」
 多摩川の水面がキラキラと光っていた。
 そんなこんなを話しながら柴山たちは歩いていた。
「あっ、ここだ。ここ」
 柴山は一軒のレストランの前で立ち止まった。その隣にはゴルフ練習場があり、そこに隣接している感じであった。
 ゴルフ場のクラブハウスに似た造りであった。
 重々しいドアを開けると、大きな木がむき出しになった柱が、更なる重厚感があった。
 店の中には、ゴルフの練習帰りか、練習前か、ゴルフクラブを持った人が数名ランチをしていた。
「ゴルフ場にいるみたいでしょ?」
「はい! 雰囲気が・・・」
「ここのクラブサンドは美味しいですよ! 勿論、この前一緒に食べたクラブサンドも最高ですよ」
「はい!」
「じゃあ、クラブサンドでいいですか? あと飲み物は?」
「はい、アイスコーヒーで・・・」
 柴山はクラブサンド二つとアイスコーヒーとオレンジジュースと頼んだ。
「本当に美味しいですから」
「ええ・・・」
「切れも出てきましてね。早く復帰戦をやりたいですよ」
「・・・・・」
「待ち遠しいなー」
「・・・・」
「ん?」
 柴山は津島が何か言いたいことがあるのだと察していたが、わざと明るく誤魔化していたのだった。
「どうかしましたか?」
 津島は改まって言った。
「柴山さん、悪いこと言わないですから、やはり試合は無理じゃないかと・・・生意気なこと言いますが・・・。試合をすれば世間の笑い者になるだけです。無残に敗北するゴールデンタイガーの姿なんで僕はやはり見たくないんです」
「んー」
 柴山は津島の言うことは痛いほどわかっていた。復帰戦となれば、対戦相手は池部であろう。池部は相手が弱いからといって手を抜く相手ではない。本気で柴山に挑んでくるだろう・・・・柴山がスリーカウント取られるのは時間の問題であることは柴山自身もわかっていたのだった。下手すれば、一〇分ももたないことも・・・。
「柴山さん!」
「津島くん、ありがとう。わかっているよ。でもね・・・逃げるわけにはいかないんだよ・・・逃げるわけには・・・・」
「何故です?」
「津島くん、人生には必ず終わりがあるよね・・・でも魂は永遠に生きるでしょ・・・。才能には限界がある・・・でも努力には限界はないんだよ・・・。わかるね?」
「はい・・・」
「では、この二つを結んでいる共通なことは何だと思う?」
「えっ・・・・?」
「これはね、家族だよ。家族のために魂は生き続け・・・努力し続けるんだよね・・・・」
「はい!」
 柴山を止めることは出来ない、津島は確信した。
『柴山さんは復帰するのは勝ち負けでないんだ・・・あの子のために・・・・』
「応援します、柴山さん! 僕も頑張ります。」
「ん! 頑張りますよ! さあ、食べましょう、クラブサンド!」
「はい!」
「アハハハハ」
「美味しいです! アハハハハハ」
「でしょ! そうだ! この間座禅をしたんですよ」
「座禅ですか?」
「そう、座禅! そこの住職さんに教わった話なんですけどね。マゴハ、ヤサシイ」
「孫は優しい? えっ? 孫?」
「孫は優しい(マゴハヤサシイ)ってね。身体にいい食べ物なんですよ・・・【マ】は豆類、【ゴ】はゴマ、【ハ(ワ)】はワカメなどの海草類、【ヤ】は野菜、【サ】は魚、【シ】は椎茸などのキノコ類、【イ】は芋などの穀物類のことですよ。まさに精進料理はこれですね」
「うわー。凄いです!」
「でしょ! アハハハハ」
「はい!」
『柴山さんは、肉体だけではなく精神をも鍛えているんだ! 人気絶頂だった若い頃は肉体だけで全てをカバーできたが・・・今は肉体を精神がカバーしているんだ!』
 と、津島は思った。

 スポーツ紙には連日柴山を中傷する記事が載っていた。
【金目当ての試合復帰】
【過去のヒーローの悪あがき】
 などの文字が紙上を賑わせていた。
「おい! 津島! なんだこれは!」
 津島は編集長に呼ばれた。
「なんでしょうか?」
「これは、なんだ!」
 編集長は、津島の目の前に原稿を置いた。
【不惑の挑戦者】
 津島が書いた柴山の挑戦を評価する記事であった。
「これが何か?」
「何がだと! 何で、こんな記事を書いた!」
「ジャーナリストとして、正直に真実を伝えただけです」
「正直にだと! 真実だと! そんなものは必要ない! プロなら読んでもらう記事を書け!」
「・・・・・」
「他社みたいに、もっとゴールデンタイガーを叩けよ。でないと部数が伸びないんだ!」
「私は、自分の基本理念は変えません」
「なんだと!」
 しかし、津島は譲らなかった。それは津島の中で『負けると分かっていても逃げてはいけない闘い』であったのだ。

「はい、柴山です。えっ、今日ですか?」
 大野が会社から柴山に電話をかけていた。
 大野の周りに社員たちが集まっている。
「どうかしたのですか?」
「い、いやーみんながな、どうしても君の送別会をしたいと・・・な、な、なんとかならないかな? 今日はみんな時間が大丈夫でね・・・た、頼むよ。急で申し訳ないが・・・」
「はあー」
 柴山は嬉しかったが、困惑していた。
『自分はみんなを裏切って突然会社を辞めた人間だ・・・。みんなに合わせる顔が・・・』
 すると・・・電話の向こうから
「柴山さん、いいでしょー」
「お願いしますよー」
「みんな柴山さんに会いたくてー」
「このままお別れなんてー」
 ありがたいくらいの声が柴山に届いてきた。
「な、なあー頼むよ、し、柴山君。頼む」
「わかりました。ありがとうございます」
 大野は社員たちに、オッケーというジェスチャーした。
 一斉に歓声が沸いた。
「た、助かるよ。じゃ、じゃあ会社近くの中華料理店【陸羽】に、ろ、六時で・・・」
「ありがとうございます」
 そう言い柴山は電話を切った。
 仕事は違ってしまっても・・・仲間の優しさに柴山は涙していた。
『みんなの思いに報わなければ・・・例えリングで闘っているゴールデンタイガーが自分だとわからなくても・・・・』

 柴山は中華料理【陸羽】の前に着いた。視線の先に大きな立派なビルが見えた。大楽建設である。
 柴山は、ビルを見ながら・・・。
「懐かしいなー。そういえば、大楽建設に勤めていたけど・・・しっかり見たことなかったなー」
 柴山が哀愁に浸っていると
「あー柴山さんー」
 社員たちであった。その中に大野の姿もあった。
「し、柴山くん、元気だったか?」
「はい、大野さん!」
 すると社員たちが一斉に柴山を取り囲んだ。
「わー、柴山さん」
「お久しぶりですー」
 その光景は、ゴールデンタイガーに群がる少年ファンのようであった。
「おいおい、こ、こ、ここで立ち話しても仕方ないだろ・・・は、早く中に入ろう・・・アハハハハ」
「そうですね・・・アハハハハ」
 柴山たちは、店内に入っていった。
 予約してあったらしく、速やかに部屋に通された。
「し、柴山君、嫌いなものはないよな。か、か、勝手にコースにしてしまったが・・・・」
「大丈夫です、大野さん。ありがとうございます」
「あー、大野さんー。僕にも聞いてくださいよー。嫌いなものー」
「僕にもー」
 社員たちが甘えてみせた。
「こ、こ、この・・・。なんでも食べるだろうが・・・ま、まったく。アハハハ」
「ハハハハハ、じゃあーかんぱーい」
「かんぱーい」
 おのおのグラスを合わせた。
「本当に美味しいですよね、ここ」
「じゃんじゃん、た、食べてくれな」
「でもー送別会ってなると緊張しますね。してもらったことないんで・・・ハハハハ」
「そ、そ、そうか・・・じゃあ、普通に食事会にしよう・・・。べ、別にこれで縁が切れる訳でもないしな」
「そうですよ!」
 おのおのが食べながら飲みながら雑談にはなが咲いていた。
 大野がそっと柴山に話しかけた。
「ど、ど、どうかね。この間、記事で見たよ。や、やっと始動したんだなって実感したよ」
「はい! 不惑の精神を持って頑張ってみます」
すると、その光景を目撃していた社員が
「あー大野さん。何こそこそ話してるんですかー」
「ん? な、な、何も話してないぞ・・・。そ、それより追加の料理はいいのかな?」
「はーい、大丈夫ですー」
「はーい」
「そ、そうか、それじゃあ今日はこの辺でお開きにするか。そ、送別会ではないが・・・し、柴山君、一言いいかね?」
「はい! ・・・えー・・・そのー・・・。みなさんには大変仕事でお世話になりました。毎日が楽しく毎日が充実していました。ここで学んだことをバネに頑張ります。みなさんもお身体を大切に・・・家族を大切に頑張ってください。今日は本当にありがとうございました」
 柴山は深々と頭を下げた。
 一斉に拍手が沸いてきた。すると・・・
「柴山さん。いやゴールデンタイガーさん、頑張ってくださいね」
「ゴールデンタイガーさん、また試合が見られて幸せです」
 社員たちが、ゴールデンタイガー・柴山にエールを送り始めた。
「え・・・みんな・・・知ってたんですか・・・・」
「ええ、でも・・・僕達にはゴールデンタイガーさんではなく・・・・柴山さんは柴山さんなんです・・・。ずっと柴山さんなんです」
 みんなの暖かい言葉に柴山の目頭は熱くなった。
「ありがとうございます! みんな!」
 柴山は、さらに深くお礼を言い部屋を出ていった。
「頑張れータイガー!」
 背中に応援の声が木霊していた。
「タイガー! タイガー!」
 部屋の中はいつの間にかタイガーコールでいっぱいになっていた。
 大野も社員たちの思いがけなかった行動に涙していた。
 柴山も、暖かいタイガーコールに包まれながら店を出て行った。
『必ず・・必ず、俺はやる! 結果ではない』

 翌日、柴山の復帰戦の記者会見が赤坂のシティホテルで開かれた。
 普段は閑静なエントランスにも報道時が待機し、ゴールデンタイガー(柴山)や池部が来るのを待ち構えていた。
 記者会見場は、本館の四階の『椿の間』であった。
 金屏風が置かれ、その前に長い机が二つあり。椅子が四つ設置されていた。左から上田・ゴールデンタイガー(柴山)・池部・有坂という感じであろう。
 ぞくぞくと記者たちが席に着き始めた。記者たちの後ろには数台のテレビカメラがあった。
 その中に、津島の姿もあった。津島も、この晴れ舞台に興奮していた。
「本日はお忙しい中ご足労いただき誠にありがとうございます。まもなく記者会見を開始いたします。まずは、ゴールデンタイガー選手そしてニューホープ・プロレス代表・上田様に入っていただきます」
 金屏風の手前の扉が開き、ゴールデンタイガー(柴山)と上田が入ってきた。
 すざまじいフラッシュの嵐であった。
 落ち着いた足取りで、ゴールデンタイガー(柴山)は席についた。
 カシャカシャ
「続きまして、池部選手、UWB代表・有坂様に入っていただきます」
 ゴールデンタイガー(柴山)とは逆の扉が開き、池部と有坂が入ってきた。
 池部は逸る気持ちを抑えきれない様子であったが、ゴールデンタイガー(柴山)は全く動じなかった。その余裕の態度が更に池部を逆上させた。
「この野郎!」
 掴みかかろうとする池部を有坂が制した。
『柴山さん、落ち着いているな・・・』
 津島は思った。
 やっとのことで、四人が席についた。
 カシャカシャ
「さて、これより記者会見を開始いたします。まずは、上田様より御挨拶をお願いいたします」
 まずは、上田にマイクが渡された。
「ニューホープ・プロレスの上田です。この度はお忙しい中ありがとうございます。我々の団体では、かつてプロレス界に一世風靡をしたゴールデンタイガーが復帰する運びになったことを御報告申し上げます。さらなるプロレス界の発展のため、この度はUWBさんの御協力のもと交流戦を行わせていただきます。ではタイガーくん一言」
 ゴールデンタイガー(柴山)にマイクが渡された。
「えー。ご無沙汰いたしておりました、ゴールデンタイガーです。今回復帰するに当たり悩みましたが・・・今、やらなければならないこと・・・それを叶えるために復帰いたしました・・・」
 すると・・・池部がゴールデンタイガー(柴山)の話を遮った。
「まあまあ、おじさんの復帰話より・・・復帰戦の話をしようぜ! 今、プロレス界を引っ張っている俺と復帰戦が出来るゴールデンタイガーだが! 復帰戦が正式な引退試合にならないように頼みますよ! タイガーさん! まあ、それでも俺にとってはーただの一試合に過ぎないがな!」
 池部は隣のゴールデンタイガー(柴山)を睨みつけた。
「すまんね、うちの池部は血の気の多いもんやさかい・・・。すんまへん、有坂や。 プロレス界の発展の為にも、このような交流戦が持てることに喜びを感じてやみませんわ」
 カシャカシャ
 再び激しいフラッシュとシャッター音の嵐があった。
「それでは、記者の皆様。質問をどうぞ」
 カシャカシャ
 しきりにシャッターを切るカメラマン・・・次々に質問を始める記者たち。
「まず、ゴールデンタイガーさん。一体なぜ今になって復帰をしようと? 昔の栄光がやはり忘れられないのでは?」
「・・・・・」
「プロレスで成功しなくても、過去を思い出してもらいタレントとしてのデビューとか考えているのでは?」
「・・・・・」
 記者たちから様々な中傷する質問がゴールデンタイガーに浴びせられた。ゴールデンタイガー(柴山)には、こうなることなど予測がついたことであったので、微動だにしなかった。
『柴山さん、凄い精神力を持って帰ってきたんだなー』
 津島は思った。
「池部さん、ゴールデンタイガーの復帰戦の相手となるわけですが、いかがですか? 新旧ヒーロー対決ですが・・・」
「いやいや、全然考えてませんよ! さっきも言いましたが、私には一試合でしかありません! 新旧? 旧など関係ありませんよ! まあ、その時代の方々が喜ぶだけですから! まあ、闘う限りは、例え昔のヒーローでも手は抜きませんよ! 過去のヒーローが無残にも負けちゃうのは、その当時のファンには申し訳ないが!」
『昔のゴールデンタイガーにそっくりだ! 恐れるものは何もなく、全てが自分の思う通りに事が運ぶと勘違いしている』
 津島はそう思った。
 確かに、肉体的には若いレスラーの方が有利なのは誰もが感じていることであった。しかし、ゴールデンタイガー(柴山)には、何にも動じない強い力にみなぎっていた。
『信念を持ち、守るものがある柴山さんは精神的に強くなっている。 もしかしたら、柴山さんは池部に勝てるかもしれない!』
 津島はそう感じるようになっていた。
「それでは、これで記者会見を終了させていただきます」
 司会者が言った。
 記者たちからは
「ゴールデンタイガーさんと池部さんのツーショットをください!」
 という声が飛んだ。
 金屏風前の机が椅子は撤収され、ゴールデンタイガー(柴山)と池部は金屏風の前に並んだ。
「すみません。お互いファイティングポーズをお願いします!」
「目線をください!」
「こっちも!」
 カシャカシャ
 カメラのシャッターが一斉に切られた。
 
 会見終了後、控室の前では池部が記者たちに囲まれていた。その中に津島の姿もあった。
「まあ、見てろよ! 簡単に片付けるからさ!」
記者たちが去っていくと、池部に一人の少年が走り寄ってきた。
 裕太だ!
「あいつをこてんぱんに叩きのめしてよ。皆の笑い者にするんだ」
「当たり前だよ! 任せろよ!」
「うん! 頼んだよ!」
「じゃ!」
 そう言い池部は控室に入っていった。
 残された裕太に津島が近寄って行った。
「裕太くん?」
「はあ? 誰?」
「翼くんの友達さ!」
「なに!」
「裕太くん、君は間違っている!」
「うるさい! 翼に頼まれてきたのか?」
「違う! 今度の試合をちゃんと見るんだ。リングの上で、闘うゴールデンタイガーの姿を真剣に見るんだ。そうすれば、自分が間違っていたことに気付くよ」
「・・・・うるさい!・・・・うるさい!」
 裕太の目には涙が光っていた。
 その裕太の目を見て津島は思った。
『この子は、自分が間違っていることに何となく分かっているのだ! しかし自分ではどうしようもないのだ・・・・。十二歳の子供には父親を殺した男が憎いという気持ちの他にゆとりなど持ちようがなかったのだ・・・・。まして、親友・翼くんとの仲までも・・・・と思い込んでいるのだ・・・・』
「くっくそー」
 裕太は一心不乱に走り去っていった。あたかも逃げ出したように走り去っていった。
「きっと、あの子は分かる・・・きっと」
 津島は走り去る裕太を見送っていた。
 
 翌日の新聞には、【ゴールデンタイガー復帰】が大きく写真要りで報道されていた。
【ついに復活!ゴールデンタイガー】
【お帰りなさい!ゴールデンタイガー! 復帰戦は池部】
【不惑!ゴールデンタイガー】
 などの見出しが並んでいた。どの新聞も一面で報道し、報道合戦になっていた。

「なんだ! これは! ゴールデンタイガーのことしか書いていないじゃないか!」
 池部が事務所で喚いていた。どの新聞もゴールデンタイガーの復帰を全面に報道していたからだ。池部の記事はゴールデンタイガーの復帰戦の相手としてであった。
「なあ、おかしいだろ! お前もそう思うだろ?」
 池部は若い社員に同調を求めていた。
「ええ・・・まあ・・・」
「なんだよ、お前らまで! お前たち俺が闘ってるから給与貰えるんだろうが!」
 社員たちは、関わりたくない様子で、おのおの電話をかけたりしだしていた。
「なんなんだよ、まったく!」
 そう言い池部は会社を出て行った。

「靖男さんー」
 木更津ひまわり介護老人施設では佐伯が新聞を数種類買って入って来た。
「ほら! 靖男さん、これ!」
 新聞の写真を見て
「あっ、トラくん! トラくんじゃあねえか」
「そうよ、トラくんよ! ほらこれも!」
 佐伯は、また別の新聞の写真を見せた。
「おお!」
 靖男は、ただただ頷いていた。
 そんな、靖男を佐伯は暖かく見ていた。
「靖男さん、試合は見に行きましょうね。元気な姿をトラくんに見せてあげましょうね」
「ああ」

 大野たちもまた、新聞を見ていた。
「わーゴールデンタイガー! 柴山さん」
「ついに復帰ですね。柴山さん」
「うん、そ、そうだな」
 みんな自分のことのように嬉しそうに新聞をみんなで見ていた。
「なあ、み、みんなで試合行こうか?」
 大野がみんなに言った。
「本当ですか? 行きましょう」
「じゃあ、お、お、俺がみんなの分を奢ってやろう!」
「えっ、マジっすか? 大野さん」
「あ、当たり前だ!」
「高いんですよ・・・チケット」
「ん? い、幾らだ?」
「一枚、一万円―。 えーみんなで六万円ですよ」
「そ、そうなのか? えーい、任せろ!」
 大野は一瞬困惑したが・・・大見得をきって言った。そんな大野を見ながら社員たちが笑いながら言った。
「アハハハハ。大丈夫ですよ」
「割り勘でいきましょうよ、柴山さんの試合ですよ」
「ま、ま、参ったな・・・ハハハハハ」
 大野は頭をかきながら言った。

 美由紀もまた新聞を見ていた。
『ついに復帰するのね・・・あなたが言っていた・・・自分と翼の為に・・・なのよね・・・・』
 試合が近付くにつれて、美由紀の不安は一層深まった。そんな美由紀を見て翼は聞いた。
「お母さん。お父さんはゴールデンタイガーなんでしょ?」
「ん?」
「お父さんはゴールデンタイガーなんでしょ?」
 翼は、新聞の記事の写真を見て言った。
「ほら、これも・・・」
 以前、襲撃された記事も見せた。破いてくしゃくしゃになった記事である。
「お母さんは、だからこの記事を捨てずに持っているんでしょ?」
「・・・・翼・・・」
「僕、お父さんがゴールデンタイガーだから裕太にイジメられてるけど・・・お父さんはゴールデンタイガー・・・僕のヒーローなんだよ」
 美由紀は翼に向かって言った。
「一緒にお父さん応援に行こうか?」
「うん」
「お父さんに会いにね・・・・翼」
「うん!」
 翼はある雑誌の記事に目を落とした。記事のタイトルは【不惑の挑戦者】
津島の書いた記事だ。四〇歳になって最強の男、池部と闘うゴールデンタイガーを讃えたその記事を読み、翼の心は大きく揺れ動いた。

※    ※    ※

かつて、プロレス界に一世風靡した男・・・・ ゴールデン
タイガー。 今、彼はあえて復帰する。 勝ち負けではない
・ ・・男の勝負。 新旧ヒーロー対決と騒がれている池部と
の復帰戦・・・。
男が何故闘うか? それには理由がある・・・負けると分
かっていても闘わなければならない。
彼は言っていた・・・人生には必ず終わりがある、でも魂
は永遠に生きる・・・。才能には限界がある、でも努力には
限界はない・・・と。
私は彼を【不惑の挑戦者】と呼んでいる。                       
津島 潔

※    ※    ※

「いってきまーす」
 翼は学校に登校するようになった。
『あの子はあの子なりに、何かを感じたのだろう・・・・柴山の復帰を・・・復帰の真の意味を・・・・』
 そんな光景を見ながら美由紀も安心していたが、不安要素はたくさんあった。
『でも・・・本当に大丈夫だろうか?』
 美由紀は、自分の息子・翼を信じるしかなかった。

「おはよー」
 翼は元気に教室に入ってきた。
 すると裕太が入ってきた。
「あれ? どうしたんだよ?」
 何か変わった空気を感じ、仲間たちに聞いた。
「裕太・・・ほら! あれ!」
 仲間たちは翼に視線を移した。
 その視線を追うように裕太は見ると・・・視線の先に。
「ん! 翼!」
「ああ、翼だよ」
「別に関係ねえよ!」
 裕太や仲間達の冷たい視線を浴びても、逃げ出したりしなかった。父親が身を持って教えてくれたことを翼は理解したのだ。
『お父さん、僕も頑張るよ。逃げないで頑張る!』
 翼は心の中で誓っていた。
「あいつ何しにきたんだろうな!」
 裕太は、わざと翼に聞こえるように話していた。

 休み時間も、下校時間も翼に話しかける人はいなかった。
「おさきー」
 翼は、誰にでもなく言った。返事など返ってこないことはわかっていた。
 教室を出て、階段を降りたところで保健の先生が声をかけた。
「あっ、翼君。登校したんだ」
「あー先生―。うん!」
「もう大丈夫なの?」
「バッチリー」
「そう、よかったね」
「うん! じゃあーねーおさきー」
 そう言い翼は元気に学校を出ていった。

 翌日も・・・そのまた翌日も変わらず過ぎていった。
「なんか、むかつくんだよな!」
 どんなに無視しても平然と学校に来る翼に裕太は苛ついていた。まるで、池部がゴールデンタイガーに噛み付いた時のように・・・。
「どうした?」
「おい! 明日、翼の上履きをまたゴミ箱に捨てておけよ!」
「えっ・・・・」
「いいな!」
 学校の権力者である裕太には誰も逆らえなかったのだ。

「おはようー」
 翼は、元気に登校してきた。
 裕太は、翼の上履きを見て言った。
「おい! ゴミ箱に捨てたんだろうな!」
「・・・・・」
「どうなんだよ!」
「いや・・・・」
「なんなんだよ! もう道場も連れていかないぞ!」
「・・・・」
 仲間たちはお互い顔を見合わせ、裕太から離れて行った。仲間たちも、裕太の冷酷さについて行けなくなっていたのだった。
 仲間たちの視線の先には、俯いて座っている翼の姿があった。
 意を決したように仲間たちは翼の席に向かって歩いて行った。
「翼、おはよー」
 仲間たちが翼に声をかけてきた。
「えっ・・・」
 翼が見上げると仲間たちが立っていた。
「だから、おはよー」
 仲間たちは笑顔であった。
「うん、おはよー」
 翼にも笑顔がこぼれた。学校で久しぶりに見る翼の笑顔であった。最初は無視していた仲間たちも、次第に翼と接してくれるようになった。仲間たちの心は冷酷な裕太から離れていったのである。
「くそー。あいつらまで!」
 裕太は孤立してしまった。
 
 怒りの収まらない裕太は放課後翼を裏山に呼び出した。
「お前の父さん、みっともないんだよ!」
「何だと!」
「みっともないって言って何が悪いんだよ!」
「この野郎!」
そう言う裕太に翼は掴みかかった。二人は殴り合いの喧嘩をし、疲れ果て、原っぱに寝転んだ。
「僕の父さんは、みっともなくなんかない!」
息を荒げながら翼は言った。
「・・・・分かってるよ」
裕太は小さくそう応えた。
翼は、ポケットから水色のビー玉を取り出し言った。
「裕太、ほらこれ!」
 水色のビー玉は太陽に当たり綺麗に輝いていた。
「あっ、それ・・・翼・・・俺・・・・俺は・・・ごめん・・・」
「何言ってんだよ・・・預かってたじゃんかよ」
 裕太は視線をビー玉から翼の顔に移した。
「・・・翼・・・」
 翼は満面な笑みを浮かべながら
「返すねー。水色のビー玉」
 そう言うと水色のビー玉と裕太に手渡した。
「ありがとう・・・翼・・・・」
「友達じゃんか」
「うん・・・」
「友情の証だろ!」
「ああ」
 翼の手には、赤いビー玉が・・・裕太の手には水色のビー玉が、しっかり握られていた。 
 その時、赤い夕日が二人を暖かく包んだ。
「あの時の夕日と同じだな」
「ああ、そうだな」
「いつも見ていたのに・・・今日が一番綺麗だな」
「そうだな」

 試合当日、会場は多くのプロレスファンで埋めつくされていた。
 その中に、裕太と夏美の姿があった。
「うわー、いよいよだなー」
「そうね」
 裕太はパンフレットを見ながら興奮気味に言った。
「池部を応援するか・・・ゴールデンタイガーを応援するか・・・悩んじゃうよー」
「なんで?」
「だってー。お父さんとこの所属レスラーが池部でしょ・・・翼のお父さんがゴールデンタイガーなんだよ・・・。悩むじゃん・・・・」
「そんなこと言わないで、両方応援したら?」
「うん! そうだね!」
 夏美は、そう言う裕太を暖かく見つめていた。

 佐伯に車椅子を押されて靖男も来ていた。
「靖男さん! もうすぐですね? トラくん!」
「おお・・・トラくん・・・・」
 靖男は、何気なく左手首のTのブレスレットを右手で押さえていた。
「大丈夫ですよ・・・トラくんは強いんですから・・・」
 佐伯は言いたかった・・・・『トラくんは・・・・靖男さんの息子さんでは?』と
「ああ・・・・」
「大丈夫ですよ! 頑張ってますから・・・勝っても負けても・・・・応援しましょうね」
「勝つよ! 当たり前じゃねえか! 翔は昔から頑張り屋だったんだよ!」
「えっ?」
 佐伯は一瞬、耳を疑ったが、靖男の口から確かに『翔』と聞こえたのであった。靖男は、ゴールデンタイガーが現れた時から、ゴールデンタイガーが翔であることに気が付いていたのだと佐伯は思った。
「応援しましょうね」
「ああ・・・」

 大野たちの姿もあった。
「えー。 ジ、ジ、Gの四から九までだから・・・・」
 大野がチケットを見ながら言った。部下たちも、おのおのチケットを見ながら探していた。
「大野さん、ここですよ」
「おー、あった、あった」
 椅子の背もたれのところに小さく【G‐4】【G‐5】【G‐6】・・・・【G‐9】と書いてあった。
「大野さん、座りましょうか?」
「そ、そうだな」
 部下たちは大野を促して座らせると、自分たちも座席についた。
「よく見えますね、大野さん?」
「そ、そうだな・・・し、し、柴山君からは見えるのかな?」
「そうですねー。ライトアップされた中心にいますからね・・・こっちは暗いですから・・・・」
「そ、そっか・・・じゃ、じゃあ来ているのが分からないなー」
「見えなくても・・・柴山さんには分かっていますよ・・・・我々が来て応援していることが・・・・」
「そ、そうだな」
 大野は、また心の中で柴山に告げていた。
『お、親父も連れて来たかったが・・・・テ、テレビで勇姿を拝見すると言っていたよ』

 津島も落ち着かない様子であった。
『ああ、柴山さん大丈夫かな・・・』
 一番緊張しているのは津島かもしれなかった。
 実際、柴山・・・・ゴールデンタイガーの試合を見たのが少年の頃で・・・マスクを投げ入れてから・・・何年経ったのだろう? それ以来であったのだ。
『頑張ってください、柴山さん! ゴールデンタイガーさん! いよいよですね!』
 津島は改めてゴールデンタイガーが復帰するんだな、と実感していた。津島にとってのヒーローであったゴールデンタイガー・・・その、ゴールデンタイガーが復帰。ゴールデンタイガーでない柴山との出会い・・・・。いろいろなことが津島の頭をよぎっていた。
『ゴールデンタイガー・・・・僕の永遠のヒーロー・・・・』

試合開始十分前、柴山は控室にいた。じっと自分の出番を待つ・・・・。テーブルにはゴールデンタイガーのマスク・・・。柴山はゴールデンタイガーのマスクを被り気合を入れた。しかし、いやでも十年前の記憶が甦る・・・。
 コンコン
「!」
 ドアを叩く音にビクッとする柴山。
『やはりトラウマになってしまっているのか?』
 恐る恐るドアを開けるゴールデンタイガー(柴山)、そこには満面の笑顔の若手レスラーが立っていた。
「そろそろお願いします! 凄い観客ですよ、ゴールデンタイガー(柴山)さん! 僕も大ファンだったんです! 頑張ってくださいね!」
 そうだ! 今は十年前ではない! ゴールデンタイガー(柴山)は更に気合をいれた。
「さあ行くぞ!」
そう言い控え室を出てリングに向かって歩きだした。薄暗い通路をゆっくりと進んでいくと、前方にほのかな明かりが見えてきた。長いトンネルを走っていると時と同じように・・・その先に、小さく眩しい明かりが射しているのが分かった。
 その光を背中に・・・二人の影がゴールデンタイガー(柴山)の目に入ってきた。
 ゴールデンタイガー(柴山)が一足・・・一足進むごとに眩しいほどに明るい光と、その中にある二人の影が大きくなってきた。
ゴールデンタイガー(柴山)は目を凝らして見ると、美由紀に連れられた翼であった。
「ん?」
 ゴールデンタイガー(柴山)は立ち止まった。翼はゴールデンタイガー(柴山)に向かって走ってきた。
「やっぱり、お父さんはゴールデンタイガーだったんだね」
ゴールデンタイガー(柴山)は翼の肩にそっと手を置き言った。
「よく見ておくんだよ」
「うん! お父さん・・・これ・・・」
翼は軽く頷き、一枚の絵を見せた。
ゴールデンタイガー(柴山)は受け取ると、ゆっくりと絵を広げた。
『あっ!』
 それは、以前、翼が柴山と初めてあった時・・・一緒に駅まで歩いていった時のことを描いた絵であった。
なによりも一番、柴山が欲しかった息子の絵であった。
 ゴールデンタイガー(柴山)は流れ出そうな涙をこらえて言った。
「ありがとう・・・翼」
 柴山が初めて『翼』と呼べた瞬間であった。
 翼もまた、初めて名前を呼んで貰った喜びでいっぱいであった。
「学校で描いたの・・・父の日だから・・・・ゴールデンタイガーはみんなのヒーローだけど・・・お父さんは・・・お父さんは、僕にとっての・・・僕だけのヒーローだから」
「ありがとう・・・ありがとう・・・翼・・・」
 柴山のリングへの復帰を否定していた美由紀は、二人の姿を見て父子の絆を感じ、柴山が何のために闘おうとしているのかを理解した。
 ゴールデンタイガー(柴山)は、翼を美由紀のところまで連れて行った。
「行って来るよ」
 ゴールデンタイガー(柴山)は美由紀に翼を渡し言った。
「はい! この絵は預かっておきますね」
 美由紀も、翼の肩に手を置き答えた。
 ゴールデンタイガー(柴山)が輝くリングへ向かって歩きだすと、翼が背後から声をかけた。
「お父さん! 頑張ってね!」
 ゴールデンタイガー(柴山)は背中を向けたまま優しく翼に手を振った。そして、リングに向かう通路の先にある眩しいくらいに輝いている一点を見つめ歩き始めた。
 すると、観客は一斉にゴールデンタイガーのコールを始めた。誰もが新たなヒーローを待ち望み、そして、奇跡を信じていた。
 本当の意味でのヒーローになろうとしている柴山の目には、光り輝くリングが映っていた。
 柴山は・・・・ゴールデンタイガーは一歩一歩、光り輝くリング・・・光り輝く未来へ足を進めていった。

『誰にでも、闘わなければならない時が必ずある。愛する人の為・・・・愛する家族の為・・・・。例え負け戦であっても・・・・挑戦することから、何かが生まれる。確かに、【不惑】は男四〇事を成すであるが・・・・。老若男女にかかわらず、人生誰にも【不惑】はあるのです。・・・・あなたは誰の為に闘いますか?』 
                                    《終》
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