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神隠し
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小走りで5分の距離を時間をかけて歩いた。太陽は真上を通り過ぎ、午後になったことだけはわかる。
小屋が見える頃には全身傷だらけの汗だくで、髪は乱れて呼吸は荒い。
「やっと戻ってこれた」
一本道だったから迷わなかったのが救いだ。そうでなければ森を彷徨い続けていたかもしれない。
木にしがみつき、大きく一歩を踏み出して、着実に小屋との距離を詰める。
その短い距離でも派手にこけた。
やっとの思いで辿り着き、結衣は座り込んで一本歯下駄を脱ぎ捨てた。
「もう二度と履きたくない」
自分の足を見て顔を歪める。
天狗への対抗心で歩いている時は痛みをあまり感じなかったが、今になってジクジクと鈍い痛みが襲ってくる。
扉が開き、天狗が「遅い」と苦言をよこす。
「当たり前でしょ! 私は一本歯下駄なんか履いたことないんだから。それより、なにか飲ませて」
喉はカラカラに乾き、結衣の声は掠れていた。
天狗が水の入ったグラスを持ってくる。結衣はパッと表情を明るくして受け取ると、一気に飲み干した。
「ありがとう。生き返る。おかわりも持ってきて」
グラスを突き返すと、天狗の目が光る。
また結衣の思考を奪おうとしたのだと気付き、身震いした。
「やっぱり自分でやる」
結衣は壁を支えにして立ち上がる。ふらつきながら小屋に入ろうとするが、「汚い。汚れを落とせ」と天狗に脱衣所に連れて行かれた。
「綺麗になったらこれに着替えろ」
天狗に白装束を渡される。
寝巻きは泥で変色し、ところどころ破れていた。
「あーあ、お気に入りだったのにな」
結衣は肩を落として服を脱いだ。念の為、お守りを持って浴室に入る。
浴室は白い煙で満たされていた。桶で湯船から湯を掬い、体にかけると全身染みて瞳に涙が滲む。
「痛い……。でもお風呂には入りたい」
お守りを湯船の淵に置き、撫でるようにそっと体を洗う。頭は汚れを落とすために豪快に洗った。
綺麗になるとゆっくりと湯船に浸かる。
少し熱めの湯で、傷は痛いがホッとして体からは力が抜ける。
疲労と安心からウトウトとしてきて、急いでお風呂からあがった。
白装束はあるが下着の替えはない。結衣は渋々今まで着ていた下着を身につける。汚れてはいないが、滝行のせいで湿っていて不快だ。白装束を着て、ポケットがないことに気付く。お守りがしまえない。
悩んだ末に、胸と下着の間に挟み込んだ。
結衣は脱衣所を出ると、廊下を歩いてキッチンを見つけた。そこで水を飲んでいると、天狗が顔を覗かせる。
「来い」
踵を返す天狗を慌てて追った。
連れて行かれたのは、結衣が寝ていた部屋だった。
今は女の子が眠っている。
駆け寄って額に触れる。少し熱い。
「今日の夜に帰らせる」
「うん、それがいいよ。あっ、この子を家に戻しても、他の子を連れてきたりしないでよ」
結衣は天狗にジト目を向けるが、天狗は気にした様子もなく「食事だ」と結衣の前に膳を置いた。
一口で食べ切れてしまえるくらいの白米だった。
「これだけ?」
食事を食べれると思っていなかったけれど、出されるとあまりの少なさに不満が漏れた。
結衣は「いただきます」と手を合わせて、少しずつ噛み締めて食べる。
「もっと軽ければ速く走れる」
「私は別に太ってないし」
頬を膨らませてそっぽを向く。
善に腕がやられる、と失礼なことを言われたのを思い出した。
「体重はどれくらいある?」
「……54キロ」
結衣は2キロサバをよんだ。
「165センチで56キロか」
「見ただけでわかるなら聞かないでよ!」
耳まで熱くなり、結衣は叫んだ。
「10キロ軽くしろ」
「私は芸能人じゃないの。そんなに痩せる必要はないの。速く走りたいと思ったこともないし」
50メートルを8秒で走れるのだから、遅くはない。
「ってかさ、子供を攫って修行させるのやめなよ。修行させたいなら、教室を開いたらよくない?」
結衣は最後の一口を口に含んで「ごちそうさま」と手を合わせた。
「修行体験、みたいにしてさ。いきなり一本歯下駄履かせるのはどうかと思うけど、簡単なのから始めたら、子供も楽しくできると思うけどな」
結衣には天狗が悪い妖だとは思えない。
子供を連れ去って思考を奪ってはいる。でも子供は全員無傷で帰っている。
結衣は眠っている女の子に目を向けた。ここまで運んで布団を首までかけたのは天狗だ。
「なにか勘違いをしていないか? わたしの目的は弱った善様を倒すことだ」
「それもおかしいんだって。倒すって言いながら様を付けるし、……あれ? 待って……」
結衣は違和感に口を止めた。指先で唇に触れる。
善は日本の妖は善の存在が抑止力になると言っていた。なぜ天狗が子供を攫うことができたのだろうか?
それに、結衣を攫ったのもおかしい。善は神社の敷地に入ったら気付くはずだ。
千代にドッペルゲンガーが近付いた時は、悲鳴を聞く前に千代の部屋に向かった。ローレライたちが助けを求めてきた時は、姿が見える前に玄関の扉を開いた。
結衣の心はザワザワと騒ぎ出す。
「善って、そんなに弱っているの?」
天狗の口角が吊り上がる。
「弱った善様を倒し、わたしがこの地の神になる。そのために使える駒が欲しい」
「善を倒して神になる?」
そんなことができるのだろうか? できるからやろうとしているのか? 血の気が引き、末端から冷えていく。
「なぜ近頃、モンスター絡みの事件が多いと思う? 善様が弱り、この地でなにをしても大丈夫だと舐められている」
「本当に悪さをしたのはヴァンパイアとマンティコアだけじゃん」
「この三ヶ月ほどで二つの事件が起きているんだ。じゅうぶん多いだろう」
確かにそうだ。結衣は視線を落とす。
「もう弱った善様ではどうにもならない」
「天狗はこの地を守るために、善を倒すってこと?」
「そうだ。弱い神はいらない」
結衣は下唇を噛んで、顔を上げた。
「ねえ、修行の続きをしよ」
結衣にできることは、善に祈りで力を捧げること。そのために神通力か神力かわからないけれど、上げれば上げるだけ善に力を送れるはずだ。
天狗は立ち上がって結衣の前で膝をつく。
「足を見せてみろ」
結衣は足を伸ばした。擦り傷だらけで、少し腫れてもいる。
天狗が手をかざすと、白い光が結衣の体を包んだ。白い光を体が吸収すると、瞬時に痛みは消えた。足も傷一つない健康的なものに戻った。
「すごっ! 私も修行をしたら、できるようになるの?」
「何十年も修行をすれば、寿命までには使えるようになるかもしれない」
「え? そんなに時間がかかるの?」
「人間の寿命は短い」
結衣は肩を落とす。治癒能力は魅力的だが、現実的ではない。
「じゃあ次は何をするの?」
天狗は結衣に本を渡した。それを受け取ってパラパラと捲る。紙は日焼けで黄ばみ、使い込んでいるのか、ヨレヨレになっている。
「それを読め」
結衣は最初のページに戻って、目を閉じると天井を仰いだ。読めない。
「どうした?」
天狗の訝しむ声が聞こえる。結衣は天狗に視線を移して、開いた本を天狗の眼前に突きつける。
「読めるわけないでしょ。素人が経典なんて」
「読めないのか?」
天狗の驚愕したような声に、結衣は「当たり前でしょ」とムッとした。
「お寺で育っていたら読めたかもしれないわね。でもうちは神社なの」
天狗は別の本をくれた。こちらには読み仮名が書いてある。
結衣は姿勢を正して経典を読み始めた。
読めても書いてある内容は理解できない。それでも真剣に読み続けた。
小屋が見える頃には全身傷だらけの汗だくで、髪は乱れて呼吸は荒い。
「やっと戻ってこれた」
一本道だったから迷わなかったのが救いだ。そうでなければ森を彷徨い続けていたかもしれない。
木にしがみつき、大きく一歩を踏み出して、着実に小屋との距離を詰める。
その短い距離でも派手にこけた。
やっとの思いで辿り着き、結衣は座り込んで一本歯下駄を脱ぎ捨てた。
「もう二度と履きたくない」
自分の足を見て顔を歪める。
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扉が開き、天狗が「遅い」と苦言をよこす。
「当たり前でしょ! 私は一本歯下駄なんか履いたことないんだから。それより、なにか飲ませて」
喉はカラカラに乾き、結衣の声は掠れていた。
天狗が水の入ったグラスを持ってくる。結衣はパッと表情を明るくして受け取ると、一気に飲み干した。
「ありがとう。生き返る。おかわりも持ってきて」
グラスを突き返すと、天狗の目が光る。
また結衣の思考を奪おうとしたのだと気付き、身震いした。
「やっぱり自分でやる」
結衣は壁を支えにして立ち上がる。ふらつきながら小屋に入ろうとするが、「汚い。汚れを落とせ」と天狗に脱衣所に連れて行かれた。
「綺麗になったらこれに着替えろ」
天狗に白装束を渡される。
寝巻きは泥で変色し、ところどころ破れていた。
「あーあ、お気に入りだったのにな」
結衣は肩を落として服を脱いだ。念の為、お守りを持って浴室に入る。
浴室は白い煙で満たされていた。桶で湯船から湯を掬い、体にかけると全身染みて瞳に涙が滲む。
「痛い……。でもお風呂には入りたい」
お守りを湯船の淵に置き、撫でるようにそっと体を洗う。頭は汚れを落とすために豪快に洗った。
綺麗になるとゆっくりと湯船に浸かる。
少し熱めの湯で、傷は痛いがホッとして体からは力が抜ける。
疲労と安心からウトウトとしてきて、急いでお風呂からあがった。
白装束はあるが下着の替えはない。結衣は渋々今まで着ていた下着を身につける。汚れてはいないが、滝行のせいで湿っていて不快だ。白装束を着て、ポケットがないことに気付く。お守りがしまえない。
悩んだ末に、胸と下着の間に挟み込んだ。
結衣は脱衣所を出ると、廊下を歩いてキッチンを見つけた。そこで水を飲んでいると、天狗が顔を覗かせる。
「来い」
踵を返す天狗を慌てて追った。
連れて行かれたのは、結衣が寝ていた部屋だった。
今は女の子が眠っている。
駆け寄って額に触れる。少し熱い。
「今日の夜に帰らせる」
「うん、それがいいよ。あっ、この子を家に戻しても、他の子を連れてきたりしないでよ」
結衣は天狗にジト目を向けるが、天狗は気にした様子もなく「食事だ」と結衣の前に膳を置いた。
一口で食べ切れてしまえるくらいの白米だった。
「これだけ?」
食事を食べれると思っていなかったけれど、出されるとあまりの少なさに不満が漏れた。
結衣は「いただきます」と手を合わせて、少しずつ噛み締めて食べる。
「もっと軽ければ速く走れる」
「私は別に太ってないし」
頬を膨らませてそっぽを向く。
善に腕がやられる、と失礼なことを言われたのを思い出した。
「体重はどれくらいある?」
「……54キロ」
結衣は2キロサバをよんだ。
「165センチで56キロか」
「見ただけでわかるなら聞かないでよ!」
耳まで熱くなり、結衣は叫んだ。
「10キロ軽くしろ」
「私は芸能人じゃないの。そんなに痩せる必要はないの。速く走りたいと思ったこともないし」
50メートルを8秒で走れるのだから、遅くはない。
「ってかさ、子供を攫って修行させるのやめなよ。修行させたいなら、教室を開いたらよくない?」
結衣は最後の一口を口に含んで「ごちそうさま」と手を合わせた。
「修行体験、みたいにしてさ。いきなり一本歯下駄履かせるのはどうかと思うけど、簡単なのから始めたら、子供も楽しくできると思うけどな」
結衣には天狗が悪い妖だとは思えない。
子供を連れ去って思考を奪ってはいる。でも子供は全員無傷で帰っている。
結衣は眠っている女の子に目を向けた。ここまで運んで布団を首までかけたのは天狗だ。
「なにか勘違いをしていないか? わたしの目的は弱った善様を倒すことだ」
「それもおかしいんだって。倒すって言いながら様を付けるし、……あれ? 待って……」
結衣は違和感に口を止めた。指先で唇に触れる。
善は日本の妖は善の存在が抑止力になると言っていた。なぜ天狗が子供を攫うことができたのだろうか?
それに、結衣を攫ったのもおかしい。善は神社の敷地に入ったら気付くはずだ。
千代にドッペルゲンガーが近付いた時は、悲鳴を聞く前に千代の部屋に向かった。ローレライたちが助けを求めてきた時は、姿が見える前に玄関の扉を開いた。
結衣の心はザワザワと騒ぎ出す。
「善って、そんなに弱っているの?」
天狗の口角が吊り上がる。
「弱った善様を倒し、わたしがこの地の神になる。そのために使える駒が欲しい」
「善を倒して神になる?」
そんなことができるのだろうか? できるからやろうとしているのか? 血の気が引き、末端から冷えていく。
「なぜ近頃、モンスター絡みの事件が多いと思う? 善様が弱り、この地でなにをしても大丈夫だと舐められている」
「本当に悪さをしたのはヴァンパイアとマンティコアだけじゃん」
「この三ヶ月ほどで二つの事件が起きているんだ。じゅうぶん多いだろう」
確かにそうだ。結衣は視線を落とす。
「もう弱った善様ではどうにもならない」
「天狗はこの地を守るために、善を倒すってこと?」
「そうだ。弱い神はいらない」
結衣は下唇を噛んで、顔を上げた。
「ねえ、修行の続きをしよ」
結衣にできることは、善に祈りで力を捧げること。そのために神通力か神力かわからないけれど、上げれば上げるだけ善に力を送れるはずだ。
天狗は立ち上がって結衣の前で膝をつく。
「足を見せてみろ」
結衣は足を伸ばした。擦り傷だらけで、少し腫れてもいる。
天狗が手をかざすと、白い光が結衣の体を包んだ。白い光を体が吸収すると、瞬時に痛みは消えた。足も傷一つない健康的なものに戻った。
「すごっ! 私も修行をしたら、できるようになるの?」
「何十年も修行をすれば、寿命までには使えるようになるかもしれない」
「え? そんなに時間がかかるの?」
「人間の寿命は短い」
結衣は肩を落とす。治癒能力は魅力的だが、現実的ではない。
「じゃあ次は何をするの?」
天狗は結衣に本を渡した。それを受け取ってパラパラと捲る。紙は日焼けで黄ばみ、使い込んでいるのか、ヨレヨレになっている。
「それを読め」
結衣は最初のページに戻って、目を閉じると天井を仰いだ。読めない。
「どうした?」
天狗の訝しむ声が聞こえる。結衣は天狗に視線を移して、開いた本を天狗の眼前に突きつける。
「読めるわけないでしょ。素人が経典なんて」
「読めないのか?」
天狗の驚愕したような声に、結衣は「当たり前でしょ」とムッとした。
「お寺で育っていたら読めたかもしれないわね。でもうちは神社なの」
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