捧魂契約のリセットスイッチ

白城海

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1-1

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イントロダクション

目の前のあんたに一つ質問をしよう。
「もし、一度だけ時間を戻せるとしたら何を望む?」
大した手間じゃあない。ほんの数秒、軽く目を閉じて考えてくれないか。
さあ、何を思いついた?
人間関係の修正か、失態の取り消しか、それとも落第した試験のやり直しか。
賭博での勝利を望む者もいれば、株式投資の成功を望む者もいるだろう。
人の願望は無限だ。考え出せばきりがない。

だが――
そんな願いは、無駄だ。

当たり前だろう? 人生はゲームじゃあない。
リセットボタンなんて、どこを探しても存在しなければ、この先も生まれることはない。
考えるだけ無意味。時間の浪費って奴だ。
それでも、それでもだ。
味わった絶望が深ければ深いほど。犯したあやまちが大きければ大きいほど。
お前たち人間は、願ってしまうよな?
時間を戻したいと、間違った選択をやり直したいと。
そのためならば――
「悪魔に魂を捧げてもいい」って思っている奴もいるんじゃあないのか?
だがね、オレは知っているんだ。
現実に魂を売った人間が、どうなったのかを。選択から逃げ続けた者たちの末路を。
今から語られるのは、一人の男の運命だ。
悲しいほど貧弱で。
笑ってしまうほど情けなく。
イラついてしまうほどおろかな。
その男の名は――
夜澤やざわミライ。オレの、大切な友人の名だ。

ところで、あんたは何を願ったんだ?


第一章 うんめいさくどうのファーストリープ

十月のなまぬるい風に吹かれながら、僕は閉じていた瞳をそっと開いた。
――ここから飛び降りれば、何かが変わるのかな。
フェンスの向こうに広がるのは、人の営み。きらびやかな街の灯火あかりに照らされる表情の見えない人々。
街路樹や商店はハロウィンの装いに飾り立てられ、華やかな土曜日の夜を演出している。
まるで、別世界だった。
僕がいるのは、そんな日常から隔絶されたような、古びたマンションの屋上。
転落防止用の高さ百五十センチほどの金網に囲われ、外の世界を見下ろしていた。
――どうして、こんな結末おわりに。
金網を握り締めると、手から血がゆっくりと流れ落ちていった。
拳の傷は自分で付けたものだ。
痛みがほしくて、罰がほしくて、ただひたすらコンクリートの壁を殴り続けた。
理由はただ一つ。僕が数時間前、取り返しのつかない罪を犯したから。
罪の名は人殺し。
僕のせいで、妹は死んだ。僕が妹を殺した。
ふたたび目を閉じる。すると暗闇の中に浮かんだのは妹の姿ではなく、茶色い長髪を自慢げにかき上げる嫌味な面構えだった。
僕の友人を自称する同級生の林田章吾はやしだしょうご。そして林田に付き従う二人の男。
――何がトモダチだ。
僕は、奴らにすべてを奪われた。
金銭だけではない。平穏な日常も、人としての誇りも、そして家族さえも。
気付けば、生温いしずくが頬を伝っていた。涙だ。
どうやら、まだ泣くだけの感情は残っていたらしい。
自分の血に染まった袖で涙をぬぐう。
――ここから、飛び降りるんだ。
固まったのは一つの決意。
昼間のように明るい外の世界には数えきれないほどの人々が行き交っている。
目の前に人間が降ってきたら彼らはどう思うだろう。驚くだろうか。恐れるだろうか。
いずれにせよ、間違いなく興味を抱くことだろう。
「どうして、この高校生は死を選んだのだろうか」と。
そしてテレビや新聞は面白おかしく騒ぎ立て、真実を明らかにしてくれるはずだ。
自ら死ぬことでふくしゅうを果たす……。この上なく魅力的なプランに思えた。
じょうの空論どころか、実際は子どもの空想以下――そんなことはつゆほども考えない。
極限まで追い詰められたいまの僕には、の糸さえも、天から伸びる光り輝くはしに見えた。
惜しい物は何もない。未来も、命さえも。
――もう、楽になりたいよ。
本心が、漏れる。命懸けのふくしゅうなんて、ただの詭弁きべんだ。
本当は、逃げたいだけだ。自称「友人」の暴虐ぼうぎゃくが届かない所に。
耳に焼き付いた妹の叫び声が聞こえない場所に。
だからこそ、取れる手段は一つしかなかった。
このまみれの手で金網を越え、そしてすべてを終わらせる。
自分の身長より低いフェンスを越えるのは簡単なことだ。できる。いまの僕になら、あっさりと。
――さあ、越えるんだ。
死、終わり、未来、絶望、ふくしゅう、妹。
意味を成さない言葉のれつが脳裏を巡り、僕の体を突き動かす。
そのときだった。
無機質な電子音声が無人の屋上に響き渡ったのは。
『メールを受信しました』
音の正体は、僕の携帯電話スマートフォン。メールの受信音だ。
もしかして、誰かが僕を見ているのだろうか。死のうとしている僕を止めようとしてくれているのだろうか。
思わずポケットから取り出し、メール画面を開く。
「何だよ、これ」
かすれた声が無意識に漏れた。メールの内容が、予想だにしないものだったから。
両親からではない。数少ない知人たちからでもない。
それは――

《差出人:夜澤ミライ》
《送信日時:2012年 10月6日 17時32分》
《件名:リセットスイッチ体験版》
《本文:リセット条件→飛び降り後に死亡 残機数→1》

僕自身からの、メールだった。送信元のアドレスは、自宅のパソコン。
家には誰もいない。もう動くことのない、まみれの妹、真帆まほむくろが横たわっているだけだ。
ならば、一体誰が僕のパソコンから携帯電話にメールを送ったのだろう。
世間で話題になっている遠隔操作ウィルスとやらだろうか? 
「……いいや、違うね」
ちょうに唇をゆがめてつぶやく。声はビルを吹き抜ける風に溶けて自分の耳にも届かない。
きっといまのメールは、悪戯いたずらやウィルスではない。
妹からのメールだ。彼女は僕に伝えたいのだ。
『私を汚して殺したお兄ちゃん、早く死んでよ』、と。
気のせいだろうか。妹の声が頭の中に響いた気がした。
『ねぇ、死んでよ』
声が次第に大きくなっていく。不可視の手が僕の腕を引っ張る。
あらがうことを許さない、圧倒的な力だった。
『死んで』
その声に命令されるがまま、僕は携帯電話を握りしめ、不格好な体勢でフェンスをまたぐ。
『死ね』
最後の一押し。見えない力が、僕の背中をそっと押し――
僕の十八年にも満たない人生は、幕を下ろした。

死は一瞬のうちに訪れた。
体がバウンドしてろっこつが内臓を突き破るしょうげききんせんの千切れる悲鳴、全身の骨が砕ける音。
最後に聞こえたのは、耳元に迫るタイヤのさつ音。
自分の顔面が潰された音が聞こえた瞬間、世界が暗転した。
そう、僕は死んだのだ。死んだ、はずだった……
――なのに、何故……どうして?
目の前に広がる光景に、見えないはずの目を見開く。動かないはずの体が震える。
寒くもないのに歯がぶつかりあい、焦点が定まらず世界がゆがむ。
僕は、死んだ。間違いなく致命傷だったはずだ。まごうことなき即死だったはずだ。
――僕は飛び降りたんだ。しかも、最後は車に頭を潰されたんだぞ!?
頭の中が混乱と疑惑で満たされる。全身を不気味な寒気がおおい尽くす。
――どうして、どうして僕は……
まったくの無傷で、自室のパソコンの前に座っているのだ。
ポスターの一枚もない地味な部屋。あるのはスカスカの本棚と、テレビとパソコンだけ。
見間違いようもなく、僕の部屋だった。
飛び降り自殺したはずの僕が、自室のパソコンの前に座っている。意味がわからなかった。
「何だよ、これ」
のどの奥から声が漏れる。何より不可解だったのは、パソコンのモニターに表示された時刻だった。
十月六日午前三時三十分。
僕が死んだ時間より、十四時間ほど前。
「何が、起きてるんだ」
考えようとしても、頭が割れそうなほどに痛み、思考がまとまらない。
頭痛とともに意識が急速に遠くなっていく。
暗闇に沈んでいく視界に最後まで残っていたのは、明滅するモニター。
何故だろうか。画面のちらつきが、僕を見て嘲笑あざわらっているように感じた。

きっかけはよくある出来事だった。
休日に駅前のカフェの前でクラスメイトに出会う。誰にでも起こりうるさいな偶然。
ただ、一つだけ不運だったのは、遭遇したクラスメイトが最悪の連中だったってことだ。
『おう、グーゼンだな』
僕からすべてを奪う事件は、三人組のリーダーである林田章吾の一言から始まった。
『ちょうどよかった、金持ってね? 友達だろ、貸してくれよ』
持ってないって言ってもむしり取るんだろ。知ってるよ。いつものことなんだから。
『ンだよ、シケてんな。これっぽっちじゃゲーセン代にもならねぇよ。仕方ねぇ。だったらコイツの家に行こうぜ。まだ行ったことなかったし』
止めろ! 家は、家は止めてくれ!
僕の抗議に対する答えは、腹部への重いひざりだった。
たったの一撃で僕は押し黙り、言われるがまま自宅に案内してしまう。
『いい家に住んでんじゃん。ってかお前、妹いるんだ。へぇ』
なんだその目は。何を考えている。
無遠慮に玄関の敷居をまたいだ林田が、た視線を運悪くリビングにいた妹の真帆へ向けた。
『夜澤の妹にしちゃ可愛いな。なあ、こんな虫野郎なんて置いて遊びに行こうぜ』
止めろ、何をしている。嫌がっているじゃないか。真帆はまだ中学生なんだ。
『ざけんなっ! 優しくしてりゃいい気になりやがって!』
『黙らせちゃおうぜ。いつもみたい、にさ』
おい、止めろ。なんだよ、そのナイフは……?
他人ひとの家で何をするつもりなんだよ。なぁ……?
『声を出したら、殺しちゃうかもよ?』
止めろ、止めろ。止めろ、止めてくれ。

「止めろぉぉぉぉぉぉっ!!」
自分の出した大声に驚き、現実に呼び戻された。
同時に襲い来る頭痛と眩暈めまい、そして寒気と吐き気。
汗が体をびっしりとおおい、シャツが貼り付いていた。
どうやら、寝ていたらしい。パソコンの前で突っ伏していたようで、頬に触れるとキーボードの形にへこんでいる。
最悪の目覚め。生まれてこのかた今日以上に不快な朝はなかった。
頭を振り、パソコンのモニターを確認する。時刻は十月六日の午前九時。
「……夢?」
だとしたらもっと最悪だ。実の妹が襲われる夢を見るだなんて、反吐へどが出る。しかも犯人は顔見知りだというのだから、尚更だ。
「うぷっ」
夢で見たさんを思い出し、のどの奥から酸っぱいモノがこみ上げてきた。そのまま手元にあったゴミ箱におうする。たっぷりと胃液まで出しきると、幾分か気分はマシになった。
「お兄ちゃん、どうかしたの?」
胃の中のモノをすべて出し切り、荒い息を吐いていると、ドアをへだてた廊下から声が聞こえた。
心配する声は、いま最も会いたくない相手。妹の真帆のものだ。
「大丈夫だよ。何でもない」
「具合が悪かったら、薬持ってくるけど?」
「大丈夫だから!」
「むむぅ。何かあったらすぐ言うように」
すねた声とともに真帆の足音が遠ざかっていく。完全に気配が消えたのを確認し、僕は大きく息をついた。
さっきまで見ていたものは夢のはずだ。現実では真帆は元気で、僕も自殺していない。
だけど、先程までの光景は夢と思えないほどにリアルだった。
――何かが、おかしい。けど、何が?
悪夢の中で、僕はあてもなく街をうろうろしていた。そして、偶然にも出会ってしまったのだ。駅前大通りにあるカフェの前で。
絶対に会いたくない三人組に。
――これ以上考えるな。
夢の記憶が最悪のシーンに達する前に頭を切り替えたほうがよさそうだ。
今日は一日家で大人しくしているべきだろう。
リモコンを手に取り、テレビを点ける。流れているのはNHKのニュースだった。
――夢の中だと出掛ける前のテレビで変なニュースをやってたような。
――そうだ。確か、今日の明け方に死体が発見されたって。
『今日午前四時ごろ、せんじきで女性の遺体が発見されました』
アナウンサーの声を聞き流しながら、記憶を掘り返す。
――見つかったのは若い女性の首なし死体。
『女性の首は切断されており、警察は事件と断定し捜査を開始しています』
――被害者の名前は蓮見はすみゆき子。二十一歳の大学生だったっけ。
「被害者の名前は蓮見ゆき子さん、二十一歳。死亡推定時刻は午前三時半ごろと見られており――」
「……えっ!?」
ようやく違和感の正体に気付き、声にならない声が漏れた。
テレビの中のアナウンサーは、僕のことなど構いもせずに淡々とニュースを読み上げていく。夢の記憶と一言一句相違ない言葉を。
「冗談、だろ」
予知夢、という単語が脳裏をよぎった。にわかに信じられない話だったが、偶然では済まされない一致だ。
震える指でテレビの電源を落とす。いま、僕の頭の中は一つのしょうどうに支配されていた。
恐怖。未知の出来事に、異様な恐怖を感じていた。
「確かめなきゃ」
現実味などまったくない。まだ僕は夢の中にいるのかもしれない。何が何だかわからない。
だからこそ確かめずにはいられなかった。自分の身に何が起きているのかを。
目の前の恐怖から逃れるために。
びしょ濡れのTシャツを脱ぎ捨て、急いで着替える。洗濯には後で出せばいい。
いまはとにかく、街に出なければならない。
薄手の白い上着を羽織り、部屋を飛び出し、階段を駆け降りる。妹の心配する声が聞こえたが無視することにした。とてもじゃないけれど、説明なんてできそうにないから。
僕が見た物は夢か、幻か。はっきりさせる方法は一つしかない。
――自分自身の目で確かめる。
夢の中で僕は林田たちに出会ったせいで絶望を味わった。奴らがたむろしていたのは、駅前のカフェの前。そこに行けば何かがわかるはず……!
どうしてだろうか。部屋を飛び出すまで、誰かがずっと僕を見つめているような気がした。

数十分後。
休日昼間の駅前。ビルとビルの隙間の狭い路地から大通りを覗くと、鬱陶うっとうしいほどの人ごみの中に見知った三人組の姿を見つけた。
かなり近付きはしているが、建物の陰に隠れているせいで相手から僕は見えないはず。
さらに見つかりにくくするため、黒いニット帽をぶかにかぶり、背筋を丸める。
「お前らさー、いまから女捕まえに行かね?」
三人の会話に耳を傾けると、リーダー格の長髪の男、林田が面白くなさげに提案した。
「あー、最近溜まってんもんな」
「でも、ちょっとヤバくね? ニュース見ただろ? 殺人事件でケーサツ多いじゃん」
取り巻きの二人であるやま三下みつしたみにくく口をゆがめ、あいづちを打つ。
夢と同じ場所に奴らがいる。
間違いない。僕が見たのは予知夢――
「大丈夫だって。いつもみたいに写真撮っちまって口封じすりゃいいんだよ、コレで」
――じゃ、ない?
林田が取り出したメタリックシルバーのデジカメを見た瞬間、僕の頭の中に電撃が走った。
カメラを起点にして、鮮やかで禍々まがしいフラッシュバックが僕を襲う。
下品な笑い。真帆の悲鳴。降り注ぐ暴力。最悪の瞬間。精神が崩壊するほどおぞましい光景がバラバラに浮かび、そして繋がっていく。
――そうだ。夢なんかじゃなかった。
これは間違いなく現実。僕はただ、記憶の中に封印していただけだ。余りに、辛すぎるから、夢だと思おうとしただけだった。
林田の持つデジカメを見たことにより、心の奥に封じ込めていた記憶が湧き出してくる。
封を切ったシャンパンが噴き出すように。
スタートとともに駆けだすマラソンランナーたちのように。
決壊したダムが荒れ狂うように。
過去に体験した音が、色が、声が、絶叫が、絶望が、鮮やかによみがえってきた。

『妹をヤったのはオメーだかんな、夜澤』
ケダモノたちが蹂躙じゅうりんを終えた後、裸体の真帆を指差して林田が僕に語りかけた。
『俺たちじゃねぇ。オメーなんだ』
へたり込む僕に、ねっとりとした声でささやく。だけど林田の声は僕の耳に入らない。すでに僕は、妹と同じように心を失っていたから。
『納得いかねーってツラぁしてんな。だったらわからせてやんよ』
僕が無言でいると、苛立った口調とともに林田が顔をゆがめた。
やまみつした、コイツ脱がせろ』
されるがままにズボンを下ろされても、僕は言葉が放てない。
余りの出来事に思考が完全にしていたから。何も考えたくなかったから。
しかし――
『おい、命令だ』
林田が次に放った言葉。
『お前、妹とヤれ』
それは外道と表してもまだ足りない、悪魔の発言。
『そんな、できない。できるワケないだろ!』
僕は大声で叫んだ。言葉のハンマーがしびれた頭に叩きつけられ、眠っていた精神が無理矢理起こされたのだ。
もちろん僕の悲鳴は黙殺され、取り巻きの二人はゲタゲタと笑うのみ。
いくら叫んでも、抵抗しても無駄だった。
『あー、駄目だ。章吾。こいつ、フニャフニャだわ』
『じゃあ、指でいいわ。コレで撮るから。あぁ、叫んだら刺すから。声出すなよ』
のど元にナイフが突きつけられ、抵抗すら封じられる。
『俺が憎いか? 憎いだろう。けどな、俺もお前が大嫌いだ』
切っ先を首に突きつけながら、林田が目を細めて僕に言い放った。
『その何もかもあきらめたみてぇなくつな目が、丸めた背中が、どんなコトされてもされるままの態度が……何もかも憎たらしいんだよ。反吐へどが出るほどな』
林田の言葉を合図に、取り巻きによって僕の指が真帆の白い太腿ふとももへと運ばれていく。
悲鳴と、笑い声と、嘆きが渦巻く中。
やがて湿り気が指先に走り、不気味な体温が指全体をおおっていき――
そして、意識が闇へ落ちた。
目を覚ますと、取り返しのつかない光景が広がっていた。
獣たちはもういない。めちゃめちゃに倒れた椅子やダイニングテーブルは綺麗にせいとんされている。
まるで、何事もなかったかのようだった。三人が家にやって来たことも、ちくしょうにも劣る狼藉ろうぜきも、嘘だったみたいに見える。
たった一つの点を除いて。
床に広がった、真っ赤な血。のどをかき切った、妹の死体。
そう。真帆は、自ら命を絶っていた。
僕の指は血と粘液にまみれ、妹の体の生温かい感覚がどうしようもないくらいに染みついていた。
自分の指が、腕が、全身がどうしようもなく汚らわしいものになってしまったみたいだった。
だから僕は、死を選んだ。真帆と同じように。この世の地獄から逃げるために。

「……僕のせいだ」
妹が、自ら命を断ったのは。
実の兄に汚された心の傷に真帆は耐えられなかった。だから、死を選んだ。
そして僕は後を追った。近所にあるマンションの屋上から飛び降りた。
駅で林田たちに会わなければ。もっと抵抗していればと後悔を胸に抱きながら。
同時に一つの疑問が浮かぶ。
――じゃあ、何で僕は生きてるんだよ。
妹を失った悲しみも、地面に激突したしょうげきも、ろっこつが内臓に突き刺さった痛みも、何もかも鮮明に思い出せるというのに、ただ一つだけわからないことがあった。僕の身に、何が起きているのか。
三人を視界に収めたまま、ビルの陰でただ震える
答えは、出ない。何が現実で、何が夢なのか。いまがいつで、ここがどこなのか。
不安と恐怖に支配された僕が取った行動は――
この場から逃げ出すことだった。

どれだけの時間が経ったのだろう。気付けば、日も沈みかけていた。
僕はどことも知れない路地裏の、廃材の陰で震えていた。
いままで何をしていたのかよく覚えていない。
すべてを思い出した直後、僕は何かから逃げるように走り、ここまで辿たどり着いた。
怖かったのだ。自分自身に起きている現象が。
とてもじゃないが、家には帰れない。あんなことをした僕が、妹の顔をまともに見られる気がしなかった。
ポケットから携帯電話を取り出す。時刻を確認。午後五時五分。とっくにすべてが終わっていた時間だ。
アドレス帳から妹の電話番号を呼び出し、コールボタンを押そうとした瞬間――
突如、着信音が鳴り響いた。驚いて思わず取り落としてしまう。
不意打ちで携帯が鳴り出したからではない。
――そんな、まさか。
画面に映し出された名前を見て、緊張で息が苦しくなる。
額から、背中から、手先からびっしりと汗が噴き出し、背筋が凍る。手は震え出し、携帯電話を拾うことさえも困難だった。
液晶に映し出されたのは――
夜澤真帆。妹の名前だった。
「あ……あぁ……」
真帆の亡霊が僕に電話をかけてきたのではないか。
根拠のない妄想が思考のすべてを支配する。
事実を知るためにも、僕は電話に出なければならない。そして、確かめなければならない。
歯を食いしばり、恐怖を無理矢理抑えつけて通話アイコンへ親指を伸ばす。
笑ってしまうほど大きく震える指でタッチし、耳元に運ぶ。
直後に聞こえてきた声は――
亡霊のじゅ、ではなく。
悲鳴と嬌声きょうせい、でもなく。
『やっと出た。具合悪そうだったのに何してんの? もうすぐお母さんたち帰ってくるよ』
のんな真帆の声だった。
「……は、はは」
乾いた笑いとともに、全身から力が抜けていく。
『ねぇ。何してんの? ホント大丈夫?』
「大丈夫、すぐ、か、帰るよ」
真帆の普段と変わりのない声と、記憶の中での絶叫が重なり、思わず声が震えた。
「とにかく、いまから帰るから。ごめん、心配かけて」
『風邪薬ならあるから、帰ったら飲むように。おーけー?』
「うん、オーケー。約束する」
それだけ言って通話を終える。さすがに会話を続ける勇気はなかったけれど、僕の胸はあんの気持ちで満たされた。
「記憶」の中において、僕は林田たちと出くわしたせいで最悪の結末が訪れた。
しかし「現実」においては、奴らに見つからなかったことで無事だったということだろうか。
――とにかく、帰ろう。
今日は色々なことが起き過ぎた。考えるのは後にしてゆっくり休みたい。一晩眠れば少しは頭も整理されるだろう。
思考を無理矢理切り替え、膝に力を込めて立ち上がろうとした瞬間だった。
「うわああああああああああっ」
ちかけた建築物の谷間に男の絶叫が響き渡った。反響したのは、二人分の男の声。
声はかなり近くから発せられたようだった。何が起きたのかもわからず思わず身構える。
立ち上がり、改めて周囲を見渡す。
僕が立っているのは、薄汚れたビル群の隙間のようだ。人の気配はまったく感じられない。
恐る恐る開けた道に顔を出す。僕の目の前に広がっているのは、まばらにそうされた殺風景な大通り。建設途中のまま放棄された都市の亡霊だった。
「再開発地区――?」
再開発地区。天野丘あまのがおか駅から歩いて十五分と離れていない地元では有名なスポットだ。
十年ほど前、当時の市長の肝入りで工場跡地などの再開発が始まったものの、関係者の度重なる不祥事が明るみに出たため計画が凍結。責任者である市長がリコールされ、開発を続ける予算は下りず、撤去するにも莫大な金がかかるために放置された、我が街自慢のゴーストタウンである。
無意識に人がいない方に走り続けた結果、この場所に辿たどり着いたのだろう。
だが、問題は場所ではない。いま、何が起きているかだ。
さっきのは、尋常ではない悲鳴だった。巻き込まれないうちに逃げ出したい。
建物の陰に隠れたままそっと周囲を警戒する。あたりにほとんど光源はない。薄闇の中で聞こえてくるのは、足音と男の声。
「どうしようどうしようどうしよう。章吾が、章吾が、章吾が……」
「死んだ、死んだ。死んだ死んだ死んだ死んだ殺されちまった」
――章吾? 林田章吾?
名前だけではない。声そのものにも聞き覚えがあった。林田の取り巻きである二人、山田と三下のものだ。
――死んだ? 殺された? 林田が?
僕の疑問をよそに、二つの影が目の前を横切って行く。見えた顔は、間違いなく山田と三下だった。走り去る二人がビルの隙間にたたずむ僕に気付く様子はない。
――何が起きてるんだ?
二人がやってきた方向へ視線が吸い寄せられる。広がるのは、ありとあらゆる暗色の混じり合った闇。
見てはいけない。近付いてはいけない。本能が警告する。
危険だ、人が殺されている。犯人が近くにいるかもしれない。朝のニュースで目にした事件の犯人がいる可能性だってある。
けれど、僕は確かめずにはいられなかった。林田の死を確かめなければ、安息は訪れない。なかば脅迫観念じみたしょうどうに突き動かされる。
ゆらり、ゆらりと、足が一歩、また一歩、闇に吸い込まれていく。死神に引き寄せられるもうじゃのように。
荒れた地面を踏みしめ少しずつ、だが着実に僕は現場へ近付いていた。
――声?
数十メートルも進まないうちに、一つの変化が訪れた。
聞き覚えのない少女の声が、かすかに聞こえる。しかも、すぐ近くから。
理屈や論理ではなく、直感が告げる。目の前が事件現場なのだと。誰も訪れないゴーストタウンの裏路地に死体があるのだと。
体が、勝手に動いた。足音を殺し、一歩踏み込む。けれど何も見えなかった。
さらに、一歩。そしてまた一歩奥へ進む。
闇はどんどん深くなり、そして――
何かを、踏んだ。
固くて、柔らかくて、不快な物を。
足元を、確認する。何も見えない。
自然と息が荒くなる。何を踏んでしまったのか、僕にはもう予想がついていた。
心臓の鼓動はどんどん加速し、ドラムロールのような振動を僕の体に響かせていた。
慌てて携帯電話を取り出し、震える手で液晶のライトを足元に向ける。
案の定。
僕が踏んでいたのは、林田章吾の死体だった。
闇の中にぼんやりと浮き上がるのは、林田ののどから生えた無骨で大振りのナイフ。
僕を脅したときと同じ物だった。
さらに、明かりに照らされたのは――
「私じゃない。私じゃない。私じゃない私じゃない私じゃ――」
地面に転がる薄手のジャンパー。脱ぎ散らかされ、土に汚れた服と下着。そして、壊れた音楽プレーヤーのように同じ言葉を繰り返す、半裸の少女だった。
黒く長い髪を振り乱し、光のない目を見開いている。
ガタガタと震える姿が妹と重なり、胸が張り裂けそうになる。
何が起きたのか、一目瞭然いちもくりょうぜんだった。
――引き返せ。通報しろ。関わるな。
頭の中の警報音がこれ以上ないほど大きくなる。だが、僕は動けない。
恐怖からではなかった。確かに、現実離れした光景に震えは止まらない。
だけど、僕自身の恐怖などちっぽけに思えてしまうほど目が離せない理由があったのだ。
薄闇に浮かぶ、うつろな瞳。
何も映さず、すべての物から心を閉ざしてしまった絶望の表情。林田たちに汚された妹と同じ、そして飛び降りる直前の僕と同じそうが、少女にも浮かんでいたから。
共感なのか同情なのかはわからない。
けれど、放っておいてはいけないと、本能が叫んでいた。
「だ、大丈夫。ぼ、僕は何もしない。だから、落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから」
情けないほど声は震えていた。笑えるくらいちんな言葉しか出てこない。みっともないことこの上なかったけれど、僕の精一杯の台詞せりふだった。
「違うの。私じゃ、私じゃないの。私は殺してないの」
「うん。わかってる。わかってるから」
死体に刺さっているのは、林田自身のナイフだ。あくまでも想像でしかないが、彼女の意思によるものでなく、偶然突き刺さったのだろう。
「何が、あったの?」
僕の言葉に、少女が顔を上げた。死の色をたたえた瞳で、真っ暗な表情で。
「いきなり、声かけられて、無理矢理連れ込まれて……私、家に帰ってハンバーグ作らなきゃいけないのに。何で。何でこんなこと」
「落ち着いて。ゆっくりでいいから。大丈夫、僕は君の味方だよ。君、名前は?」
「アカリ。クギョウアカリ」
「年は?」
「じゅう、よん」
「そっか。僕の妹と同い年だ」
クギョウアカリ。知らない名前。だが間違いない。彼女は、僕と同じ被害者だ。奴ら三人にすべてをメチャメチャにされた何の罪もない女の子だ。
会話が成立したことで少しだけ落ち着いたのか、彼女はゆっくりといま起きたことを語り始めた。
彼女の語りは感情的でめつれつだったが、どうにか意味を理解することはできた。
「……え?」
彼女の話を聞くうちに、裏返った声が漏れた。同時に、胸の奥に薄暗い闇がい寄ってくる。
たとえるなら不安。たとえるなら後悔。
何故なら――
彼女を襲った不幸は、僕の行動のせいで起きてしまった、としか思えなかったのだから。

  ◆◆◆
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