WORLDS

植田伊織

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第一章

第一の依頼

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「いや、ちょっと待てよ、何がなんだかわかんないんだけど」
「昨日お前が拾ってきた迷子だ。猫と人間」
 ユリスは慌てて部屋着を脱ぎ捨て、簡単な服をひっかぶりながら、客間に向かうダルットをやっとのことで捕まえる。小声で耳打ちすると、思いっきり嫌そうな顔で応対されて、なんだか少しだけ傷ついた。
「全然覚えてない……どうしよう」
「知るか、救いようもない酔っ払いめ……」
 小声で言い合っているうちに、声の主のもとに到着してしまう。

 革張りのソファーに腰掛けていたのは、ひどく華奢で、色素の薄い少女だった。その膝元には「ノア」が、喉をゴロゴロ言わせながら丸くなっている。少女は愛しげに白猫を撫でていたが、ユリス達に気がつくと、手を止めて嬉しそうに微笑んだ。
「おはよう、”ゆりす”と”だるっと”」
「よぉ、よく眠れたか?」
 返答するユリスの表情はぎこちない。ダルットの座った目が明らかに、「忘れてたくせによく言うな」と言っていた。
 霧のように白く長い髪が特徴的なその少女は、肩のはだけたラベンダー色のワンピースを着ていた。袖からのぞく手足もまた、陶器のようになめらかで白い。年はユリス達より幾ばくか下だろう。可憐な顔立ちは奇妙なほどに左右対称で、人形のように整っており、灰色がかったアイスブルーの大きな瞳を飾る睫毛など、雪の結晶のようだった。
 その、色素の薄い容姿が魔術によって施されたファッションでないならば、彼女の身元は、閉ざされた北の大地に住まう『白の民』と言えるのだが、排他的な魔力至上主義の白の民が、己の住処を離れて”こんなところ”でウロウロしているはずがない。
 ユリスはちらりと目の端でダルットを見やると、魔力至上主義が好きではない同僚は、腕を組んで鋭い視線を少女に投げかけている。
 ――噛み付かないでくれよ――
 そう、ダルットの理性に訴えるように目配せすると、そんなことくらいわかってるとでも言いたいのか、一瞬ムッとした表情をした後、緋色の双眼は伏せられた。
 気を取り直して少女に視線を戻すと、少女のなめらかで傷ひとつ見受けられない足元にきらめく、銀色のミュールに目が留まる。ちらりと見えたその靴底は、「迷子」の割には痛みが見受けられず、ユリスはひっかかるものを感じた。
 それとなく観察する便利屋を、少女は首を傾げて不思議そうに見つめ返している。胸元の首飾りがしゃらりと揺れた。そのアクセサリーは、古びた大きな指輪に市販の細い鎖を通しだだけの物で、少女が好むとは思えない無骨なデザインに思えた。指輪のサイズからして男物のようで、ちょうど鎖が通っている部分に何やら植物の刻印がされているようだったが、リング全体が黒ずんでいるため判別出来なかった。
「良いネックレスだな」
 とユリスが言うと、少女は臆することなく
「ありがとう」
 と、唇だけで微笑んだ。
 ユリスは咳払いをすると、営業用の笑顔を貼り付けてから本題に入ることにした。
「さて、ごめんな、長い時間一人にして」
「平気。さっきうたた寝をするまでは、ノアと一緒だったから」
「――そう。ノアはお前の友達なのか?」
「違う、私の弟。昨日、話したはず」
「そ、そうだったか?」
 途端に笑顔がぎこちなくなったユリスを見て、少女は思わずといった風に顔を綻ばせた。その笑みは確かに麗しいのだが、本当に血が通っているのか不安になるくらい、無機質さを思わせる美であった。彼女はまるで、おもちゃの世界から飛び出してきたはいいけれど、帰り道がわからなくなってしまった人形のような存在に思えるのだ。
 少女と目線を合わせるために屈むと、猫の「ノア」がそっぽをむきながらも、目の端でこちらの動向を伺っているのがわかった。
 にっこりと、人懐っこい笑みを浮かべてみせて。
「俺はユリス。君の名前は?」
 柔らかい声音で訪ねてみせるが、
「わからない」
 少女はためらいなく言い切った。
「わからないはずはないだろう?」
 ユリスが苦笑してみせると、間髪を入れずにダルットが切り捨てた。声音こそ穏やかだったが、緋色の双眼には背筋が凍りそうな程の、激しい敵意の炎がゆらめいている。
 ――これは……面倒なことになるかもしれない――
 ユリスはうんざりした様子を表に出さないよう、そっと息を吐いて目を伏せる。
 実のところ、あの手この手で事務所に留まろうとする少女の存在は初めてではなかった。そのほとんどが家出少女で、日常の逃避先として便利屋家業をしてみたがったり、職員の恋人になりたがったりと、その対応に頭を抱えたのも一度や二度では無い。
 大抵は、ダルットが冷淡に対応し、ユリスがフォローに回って優しく話を聞いてやることで帰宅を促せた。しかし先日、どうしても事務所に置いてくれと言って聞かない、とある少女に手を焼いた記憶が新しかったせいか。ユリスは、目の前の人形のような少女もその類の人間なのだと、早合点した己に気がつかなかった。
 また、そう思ったのはダルットも同じだと、彼の呆れた声音が証明していた。
「俺たちはアンタのお遊びに付き合えるほど暇じゃない。帰れ」
 しかし、白い髪の少女はきょとんとダルットを見つめたまま動かない。ラチがあかないと判断したユリスは、笑顔を貼り付けたまま助太刀をする。
「ごめんな、こいつちょっと短気なんだ。言いたくないなら焦らなくて良い。昨日話したかも知れないけど、俺は便利屋でね。何か、君の力になれないか?」
 爽やかな所作で差し出されたユリスの右手を見て、少女は反射的に少年の手を握りしめてしまう。どうしてそんなことをしたのか、後で説明しろと言われても出来ないはずだ。”そういう魔術”を、ユリスは使ったのだから。
 ――その刹那。
 パキリと、ガラスが割れたような音とともに、空気が軋んだ。わずかな衝撃がユリスを起点に少女を襲い、彼女の白髪をそらに放る。痛みに耐えるかの如く眉を顰めた少年を、弾かれたように見上げた少女の両目が映したのは、大きな瑠璃色の瞳に金箔のような、光の粒がチラチラと舞っている姿だった。
 黄金色の長い睫毛が瞳を覆うと、ユリスの両目はすぐに元の色に戻り、まるで先の光景が白昼夢かと思えるほど、凪いだ湖のような静かな双眸に変化した。
「あんたの名前は、”レーゼ”だ」
 穏やかな声で告げられたそれは、恐れも迷いのない――例えば「空は青い」という自明の理を告げるに似た、明言だった。まるで、はじめから少女の名前を知っていたかのようなユリスの様子に、レーゼと呼ばれた少女は身じろぎ一つせず、彼を見つめ続けた。見開かれたアイスブルーの丸い目が、何度か瞬きのたびに揺れ、客間は静寂に包まれた。
 その、水を打ったような沈黙を打ち破ったのは、
「レーゼ、俺たちに嘘は通用しない。大事になる前に家へ帰った方がいい。協力できることがあるなら力になるから――」
 という、ユリスの少女を諭す声――ではなくて、
「――やっぱりあなたは本物ね。やっと、失った記憶を取り戻してくれそうな人に巡り会えたわ」
 という、レーゼと呼ばれた少女の、静かながらも興奮を抑えきれぬ歓喜の声だったのだ。
「……え? 記憶が……なんだって??」
「それにしても、今のはどうやったの? 手に触れるだけで相手のことがわかるなんて魔法、聞いたことがない」
 予想外の出来事に面食らい、レーゼの疑問がユリスの鼓膜を上滑りしてゆく。
 助けを求めるようにダルットを見やると、彼は額に青筋を立てつつ、
「本当に、何の依頼を受けたんだ、アンタ……」
 ギラリとユリスを睨めつけた。
「おー……ダメだー……思い出せない」
「ご自慢の”力”を使えば、すぐに思い出せるだろ。ホラ、もっと頑張れよ」
「そう思い通りになるわけじゃないんだよねぇ……」
 のらりくらりと時間稼ぎをしながら、レーゼと出会った瞬間を思い出そうとするものの、記憶が吹っ飛ぶまでしこたま飲んだことしか覚えていない。ユリスの胃はキリキリと痛んだ。
 人間どもの事情なんぞ知ったことかと言いたげに、レーゼの膝の上で丸まっていた猫のノアが大きなあくびをする。
 昼時を告げる鐘の音が街中をかけめぐり、
「お腹すいたね、ノア」
 ぽつりとつぶやくレーゼにむけて、猫のノアは、伸びをしながらウィンクをしたのだ。
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