WORLDS

植田伊織

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第一章

どんな世界で遊ぼうかしら

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  ――誰だ――
 言葉は紡がれることなく、沈黙の果てへと掻き消える。
 ユリス・ゾンネはすり抜けていった自らの声を追いかけようと試みたが、それらは泡がはじけるように跡形もなく消滅してしまい、叶わなかった。

 混濁した意識の中、無音の常闇で立ち尽くす。

 全てを拒絶しているかのような闇の中、少年の思考は糖蜜の中に紛れた枯れ葉のように緩慢で、五感全てに薄い膜がはっているかのようなぼんやりとした感覚に、ユリスは既視感を抱いていた。
 この先に何が起きるかを知っているはずなのに、どうしても、それが何かを思い出せぬもどかしさも、今日が初めてではないはずなのだ。

 ――今日はどの世界で遊ぼうかしら。魔法が使えるところがいいわ――

 歌うように溢れ落ちた幼子の声が、ユリスの両耳をくすぐってゆく。声の主を探さなければならない気がしたが、糖蜜の底では何もかもが億劫で、重い瞼をこじ開けておくのが精一杯だった。

 ――今日はどの世界で遊ぼうかしら。
   今日はどの世界が楽しいかしら――

 それは、どの服を着ようか鏡の前で迷うかのように。
 あるいは、朝食で食べるパンの種類を選ぶかのように。
 軽やかな声の主は、当たり前のように、自らが存在したい世界を選んでいる。
 ユリスは「その意味を」知っているはずなのだ。
 ――誰だ……? あんたは、一体誰なんだ?――
 
 すべてを創ることによって、至上の者は何を創るのか。
 ――自らを。
 しかし、すべてを創る前に、彼は何を創るのか。
 ――私を。
 
『私の世界を、乱さないで』

 突如として常闇が殺気にざわめき、ユリスの身を包んでいた蜜が業火に変わる。
 一瞬のうちに炎に飲み込まれた少年は、襲い来る激痛に身をよじり、焼けただれてゆく己の身体を狂ったように掻き抱きながらのたうちまわった。
 薄れゆく意識の中そらを仰ぐと、そこには箱庭を覗く巨大な目があった。
 常闇と見紛う漆黒の眼球が、憎悪を燻らせユリスを睨めつけているのだ。

 ユリスは確かに、知っていた。
 この憎悪の正体が、どうしても完遂させねばならぬ計画に、ふと紛れ込んだ誤情報バグに向ける類の殺意であることを。
 灼熱の蛇の舌がちろりちろりと蝕んでゆく視界の中で、助けを求めようと差し出した少年の手を、掴む者は居なかった。
 痛いほどの静寂の中で、ユリスはいつまでたっても孤独だった。


***

ガシャアァアァン!!

 常闇から彼を救ったのは、陶器の割れる音だった。
 奇襲をかけられたと認識した体は、考えるより早く飛び起きて床に伏せ、ベッドを盾にした。ユリスは全神経を叩き起こしながら、音のした方向へ瑠璃色の猫目をかっと見開き、迎撃せんと、呪文をいつでも唱えられるようにいくつか用意する。
 先程の夢の名残か、指先が細かく震えていた。唇をきつく噛み、爪を手のひらに突き立てる。
――他に誰も守ってはくれないのだ、しっかりしなければ――
 十六年の歳月で得た教訓を一度だけ心の中で再確認した後は、ひたすら魔術の発動に支障がないよう精神を集中させた。
 ひとつ、ふたつ、みっつ……ゆっくりと吸った息を何度か肺から吐き切っても、部屋に再び訪れた静寂を破るものは現れなかった。
 ユリスは眉をひそめながら、ゆっくりと身を起こしてあたりを伺う。
 部屋は雑然としていて、主人の性格を見事に表している。固く閉ざした雨戸から現在時刻を知らせる眩い光が零れ落ち、予期せぬ灯りに目を庇っていると、

「ニャー……」

 申し訳無さそうな細い鳴き声が、ベッドの下から聞こえた。
「……なに、もしかしてお前の仕業?」
 安堵の混じった苦言を受けて、ベッドの下から、ごろごろと控えめに喉を鳴らす音がした。
 ユリスは再度、肺の空気をからにして、黄金色の髪を片手でぐしゃぐしゃとひっかき回しながら、勢い良く雨戸を引き上げた。太陽は部屋に蔓延る闇を掻き消し、もう間も無く昼時であることを告げる。春風が彼の頬をなで上げると、動かなくなったシーリングファンが申し訳程度にギィと動いた。
 ユリスは、先程の悪夢や、それに関する様々な感情に丸ごと蓋をして、飲み干すかのように外気を貪った。ゆっくりと世界に音が戻って来て、肌に陽のぬくもりが感じられるようになってきた頃、光に照らされた己の部屋を振り返ってみて絶句する。
「……やりやがったな」
 犯人を睨んでやったが、早くも日向ぼっこを所望しているらしい当の白猫は、もぞもぞと香箱座りを始めている。
 床一面に散らばった厚ぼったい陶器の破片や、装飾に使われていたガラス玉を見るに、お気に入りの薬入れは修復不可能だろう。

 薬入れだった物の残骸とともに散乱するのは、多量の小さな丸い木の実である。薄ぼんやりと自ら発光するそれの名は『リグ』と言い、口にした者の魔力を奪う代わりに精神を高揚させる効果を持つ。
 一見すると光り輝く小さな粒にしか見えない、幻想的なその木の実は、アルコール同様、使い方を間違えると依存という悲劇を生む嗜好品である為、良い印象を持っていない者も多い。ユリスの同居人達がそうだ。
 リグ反対派にとやかく言われる前に片付けてしまおうと、光の粒を拾い集めると、
「随分派手に暴れたな」
 低いが透明感のある、落ち着いた声が投げかけられた。そちらを振り返ると同時に、りんごが目の前に放り投げられたので、ユリスは慌ててそれを掴む。まるで、「お前が顔にりんごをぶつけようが知ったことではない」とでも言いたげな投げ方にムッとした。
「この部屋の惨状は、俺がやったんじゃない」
「どうだか」
 声の主はその姿には似つかわしくない、可愛らしい花束と大きな紙袋を抱えていた。大方、慕われている女性に差し入れでも持たされたのだろう、紙袋には、先程ユリスに放り投げたと思わしきりんごや、焼き菓子やらがみっしりと詰まっている。
「また随分と甘い物ばかり貢がれたな……すっかり餌付けされちゃって」
「ちゃんと断っている。押し付けられたんだ。食い物に罪は無いだろう」
「……『罰当たりなことばっかりしていると、いつか混沌に落とされる』ぜ。昔から言うだろ?」
「あいにく、おとぎ話には疎くてね」
 ユリスの減らず口を素知らぬ顔で受け流す銀髪の美青年は、緋色の大きな切れ長の目を苦々しく歪めて、ユリスと、床に散乱した薬入れだった物を交互に眺めた。その視線がリグに留まり、美しい双眼が鋭くなる。
「あ、俺そのポテトパイの方がいい!」
 その視線を黙殺しようと朝食を要求してみれば、
「駄目だ」
 と、素気無く断られた。しかし、口ではそう言うものの、恨めしそうな顔をして見せれば「仕方ないな」と目を伏せながら、焼き菓子を幾つか寄越してくれる。
 ダルット・デルーテは、鋭い刃物のような近寄りがたい美貌の持ち主だが、中身は案外、面倒見が良いのだ。
「にゃぁん」
 先程まで香箱座りをしていた猫が、いつの間にかダルットの足元に身をすり寄せている。喉を鳴らして甘えるその姿が、彼を慕う女性たちの姿と重なった。
 ダルットは荷物を脇に置き、まるで恋人を抱き上げるかのように猫を撫で、
「こんなに可愛い子がイタズラするはず無い。どうせお前が酔っ払ったか寝ぼけたかしたんだろう?」
 と、きっぱり言ってのける。
「違う!」
 反射的に言い返した後で、ダルットの浮かべる余裕の笑みに気がついた。ユリスはこめかみに指を当て、必死に冷静さを取り戻そうと目を閉じる。
「……クソ、なんでいつもこいつと休みが重なるんだ!」
「それは俺の台詞だ。お前が事務所にいると、いつものみんなが遊びに来てくれないからな」
 ――彼の言う「いつものみんな」とは、この近所を溜まり場にしている野良猫のことである。猫と戯れる鋭い目つきの美丈夫という、好みの分かれる奇妙な光景は、便利屋事務所『チームクラウンズ』の密かな名物であった。

 ダルット目当てに仕事を持ち込む猫飼いの乙女たちのおかげで、ここしばらくの仕事内容は猫一色だ。高額の報酬が望めない割に拘束時間が長いため、チームクラウンズの店主であるユリス・ゾンネは、猫嫌いになりそうだったし、ペット専門の便利屋だと勘違いされることが増えたのも、同業者に影で『猫の便利屋』と呼ばれ始めたのも気に食わなかった。
 しかし、不名誉なあだ名の原因は猫ばかり相手に仕事をしているからだけではなく、彼の特徴的な、猫のような瑠璃色の双眸が発端だということを本人は知らない。
 獅子の鬣に似た、豊かな黄金色の髪に彩られる中性的な美貌には幼さが残っており、小柄な体躯だというのも手伝って、百獣の王というよりも飼い猫を連想させるのだ。
 自分だって容姿は整っていると勝手に自負していたユリスだが、ダルットとともに仕事をするようになり、その自信はとうに吹き飛んでいる。

 ユリスはリグを拾い集めると、サイドチェストの上に乗せたグラスに避難させ、続けて床に散らばった陶器の破片を片付け始めた。
 横目でそれを見ながら猫を撫でていたダルットは、リグの入ったグラスを一瞥して微かに眉をひそめたが、ついと目を伏せて立ち上がり、どこからか箒とちりとりを持ってきて、店主に手渡した。ユリスはそこに、自分を気遣うというよりも「素手で割れ物の後片付けなんて、横着な真似をするな」という言外の意を汲み取れる程度には、同僚のことを理解している。

「今日のフリーは?」
 集めた破片をからのゴミ箱へガラガラと投げ入れながら、ユリスは尋ねた。ダルットは瞬きの間だけ何も言わなかったが、何事もなかったかのように猫を優しく床に降ろして、言った。
「全員だ」
「マリアも休みか、珍しいな。最近、録に顔を合わさないくらい仕事入れてたろ。他のメンバーは……」
「猫の仕事と占いのアシスタントが嫌で、一人残らず辞めただろう」
「そうでした」
 また猫三昧な毎日がやってくる、だの、三人で家出猫の捜索かよ、だの、細々と独りごちる店主をよそに、ダルットは脇に寄せておいた紙袋の中からチョコレートの小包を取り出して、ひょいと口の中に放り投げた。ユリスの腹はそれをみて、ぎゅうと悲鳴をあげる。先ほどわけてもらったポテトパイを思い出し、いそいそと包み紙をつまみあげ、
「マリアは出かけたのか?」
「――役所に行くとか言ってたな」
「役所?」
 ポテトパイに舌鼓をうちながら、役所にて支払わねばならないあれやこれやの期日を確認していると、ダルットが呆れたように言った。
「本当に、何も覚えていないんだな」
「……何が?」
 今日、何の支払日だっけ? そう、言葉を続けようとしたが叶わなかった。

『ねぇ、どこにいるの?』

 突如として、昨晩、夢の中で聞いた鈴の音のように軽やかな声が、転がり込んできたからだった。
 ユリスは耳を疑い、弾かれたように身構える。背筋が凍った。
 昨夜の悪夢が眼前に蘇り、なすすべなく身を焼かれる自分の姿がありありと見える。

『ノア、どこにいるの?』

 少女の声が少しずつこちらに近づいてくるにつれ、ユリスの鼓動は早鐘となり、生命の危機を知らせる警鐘へと変わる。
 不自然な沈黙を不審に思ったダルットは、絶句した。
 血の気が引ききり、紙のように真っ白な顔をした、同僚の尋常では無い様子に気がついて、「どうかしたのか?」の一言が喉奥にはりついて出てこない。

『ノア、ノア!!』

 思わずといった風に、後ずさったユリスをよそに、
「にゃぁーん」
 白猫が優雅な仕草で、部屋の外へ出て行った。
 予期せぬ出来事に虚をつかれるも、
『ノア! こんなところにいたのね! 良かった!!』
 ユリスの鼓膜に触れたのは、少女の、猫との再会を喜ぶ声だけだった。
「なんだ……猫のことか」
 惚けたように動かない同僚を一瞥し、ダルットは安堵半分、呆れ半分といった声音で、
「全く、記憶が無くなるまで飲むのもいい加減にしてくれ」
 と吐き捨て、リグの入ったグラスにチラと視線をやってから、部屋を出て行った。
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