ロンリー・グレープフルーツ

れつだん先生

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第6話 最高

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 チャットが終了したため、僕はメッセンジャーを閉じた。肩で息をしながら天井を見つめる。急激に冷めていた酔いが、頃合を計ったかのように一気に僕に押し寄せてきた。まるでそれは津波のようで、目を閉じると脳みそがぐるぐると掻き混ぜられるような気がして、世界が回る。目を開けば天井が回る。手を伸ばせば届くところにマウスがあるのに、それを掴むのさえできない。眼鏡を外すと視界はより一層モザイクが掛けられたかのようになり、うねうねと僕の周りを彷徨っている。
 なあ、おい、天井、見てたか。僕、あんな美人な人とチャットして、しかも顔も見れて、声も聞けて、二回もやっちゃって、しかも、今日はバイト先の女の子二人とご飯を食べて、最高の一日だったんだぜ、なあ、聞いてるか、おい、誰でもいいよ、メールだ、携帯、どこだっけ、あれ、ポケットじゃない、この、ごみの中――

 激しく鳴る目覚まし時計を手探り状態で捜し求めてスイッチをオフにし、頭の中にずんとくる重さを感じながら眼鏡を掛け、起き上がってパソコンを見る。昨日は何があったんだっけ? 何かがあったような気がするけど、何もなかったような気がする。僕は酒を呑むと人が変わると言われる。すぐに記憶が飛ぶ。その間に何をしてしまったのかを一切合財忘れてしまう。ごみを掻き分けながら携帯を探し出し、変なメールを送っていないかチェックする。良かった、何もない。ふとパソコンを見るとメッセンジャーとかいうアイコンがあるのを発見し、何だこれと思いながらそれをクリックする。起動していますという文字が現れ、すぐにメッセージ画面が開いた。どうやら僕は昨日彼女とチャットをしていたようだ。その履歴をざっと眺め、変なことを言っていないか確認する。特に何もおかしなことは言っていない。
 しかし、何だろう、この体のだるさは? 酒のせいじゃないような、体力が完全にゼロに近いようなだるさを感じながら、当たり前の動作のように煙草を手に取った。ラスト二本。吸殻で一杯になった灰皿に灰を落とし、寝る前に何があったのかを一生懸命思い出そうとするけれど、何かがあったような気がするのにも関わらず何も思い出すことができない。チャット履歴を見る。「滅茶苦茶美人じゃないですか」と僕が打っている。僕は昨日彼女の写真か何かを見たのか? 「イヤホンをさしてみて」との文字がある。僕は昨日彼女の声を聞いたのか? そんなことも、あったような、無かったような――
 と考えていると彼女からチャットが飛んできた。

 あっぷる:おっはー。昨日は酔ってたのに遅くまでごめんねー

 ふぅん、酔ってたのか。ああ、そうか、バイトの子と、呑んだっけ? その後、このメッセンジャーとかいうのをインストールして、彼女とチャットをした? まったく記憶に無い。とりあえず探りながら情報を得ていくしかない。

 ネギ:こちらこそ。変なこと言ってなくて安心したw
 あっぷる:VCならともかくチャットで変なこと言うとか無いでしょw
 ネギ:VC? ヴァーチャル何とか?
 あっぷる:ボイスチャットのことだよw
 ネギ:なるほどw
 あっぷる:今日はバイト?
 ネギ:今日はバイト。夜勤なのに夜寝ちゃったからきついかも……。
 あっぷる:専業主婦は楽でいいわーw
 ネギ:家事とかやるの?
 あっぷる:実家暮らしだから一切やらないw 子供の送り迎えだけだねー
 ネギ:羨ましい……
 あっぷる:旦那とももう別々の部屋で寝てるしね

 旦那という文字を見た瞬間、僕の中で落胆の文字が浮かんだのを感じた。というよりも実際に落胆した。そう、彼女はいくら僕と仲良くなろうとも、例え、可能性はほぼゼロに近かろうとも、僕と付き合うなんてことは一切ありえないのだ。恋人が欲しいならまだバイト先の子と仲良くなるほうが得策。得策なのに、それをせず、こうやって睡眠とバイトの時間以外は彼女とチャットをしている。いくら仲良くなったところで、どこに住んでいるかもわからない女性と、これ以上進展するだなんてことはありえないのだ。他人から見れば馬鹿馬鹿しい行動かもしれないけれど、彼女とのチャットは、僕がこうして生きている中で唯一といってもいいほどのオアシスになっているんだ。その瞬間消え飛んでいた記憶が一気に頭の中に入ってきた。そうだ! 僕は昨日彼女の顔を見て声も聞いたんだ!

 あっぷる:今度ウェブカメ買ってきてよ
 ネギ:僕のグロい顔なんて見たって仕方ないよ
 あっぷる:そう言われると逆に気になるしw

 わあ! そうだ! 僕は昨日、彼女の動画を見て、声を聞いて、二回オナニーをしたんだ! 残骸がベッドの脇に転がっていたので、慌ててそのティッシュをゴミ袋へ詰め込んだ。「最近ティッシュの減りが早い」という母親の皮肉と顔を思い出し、慌てて昨日見た彼女の顔を思い浮かべた。暫くあの微笑んだ表情を思い浮かべながら、にやにやと天井を眺めていた。

 あっぷる:お互いウェブカメ持ってると、テレビ電話みたいな感じでできるよ
 ネギ:なるほど
 あっぷる:ていうかその前にヘッドセットマイク買ってこなきゃ! ボイスチャットしようよ

 ど、ど、ど、ど、どういうことでしょうか応答願います! 彼女からボイスチャットの誘いが来た場合どうすればいいのでしょうか? どこにも何も書いていません! 彼女の取扱説明書なんてものがあればことは簡単だけれど、そんなものもありません。誘いを受けたら、その誘いに乗るしかないのでしょうか応答願います!

 ネギ:じゃあ今日仕事行く前に買ってきますよ
 あっぷる:お願いねー。じゃあちょっと出かけてくる

 打ってしまったからには仕方が無い。でもヘッドセットマイクを買ってきたところで、僕は彼女と会話らしい会話をできるのだろうか? ことが簡単に進みすぎている。あまりにもおかしい。これは何か裏があるのではないだろうか? 僕の脳内で様々な憶測が飛んでは消え飛んでは消えを繰り返している。こうやってモテない冴えない気持ちの悪い男から金をふんだくろうとしているのだろうか?
「誰が気持ちの悪い顔だ! バカ!」
 と自分でこうしてノリツッコミをするところも気持ち悪いこの僕と、会話をして、果たして彼女に何の得があるのだろうか? 損得勘定で何でも考えてはいけない、という言葉を何かの本で読んだことがある。そこまで深読みしなくてもいいのだろうか? 
 わかった。
 向こうには僕に対して特別な感情は一切無いんだ。結婚もしていて子供もいて、幸せな家庭を築いている彼女に、僕に対する特別な感情なんてあるわけがない。ただこうしてインターネット上で友人を作りたいだけなんだ。僕だってそうだろう? たまたま相手が美人な女性だったからこうして勝手に一人で盛り上がっているだけで、インターネット上で恋人探しをしようだなんて思いで始めたか? いや断じてそんなことは無い。なるほど何だ。そう考えると一気に心が落ち着いてきた。一階の台所へ降りて珈琲を作り、部屋に戻って軽やかに煙草を一服する余裕さえ出てきた。何もそんな興奮して慌てることは無いのさ。
 そう考えていると、珈琲を飲んだのにも関わらず、いつの間にかうたた寝をしてしまっていた。起きたのは日も傾いてきた四時。バイトまでまだ時間がある。僕は読みかけの小説を手にとって数ページ読んだ。激しくつまらない。僕に今起きているでき事以上に面白いことなんて一つも無いんだ。順風満帆の最高の人生。これだ。僕はこれを望んでいたんだ。
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