恋する閉鎖病棟

れつだん先生

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第1章 閉鎖病棟

第5話 昼食

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 消灯の時間になり、薄暗い天井を眺めながら、いろいろと考えていた。僕が病気になった理由だとか、過去の嫌な思い出だとか。そういったものが渦を巻くようにして脳内で暴れている。そうなったらもう寝ることはできない。睡眠薬を飲んでいたとしても、だ。僕は携帯で時間を確認した。二十二時。スタッフステーションへと行った。
「すみません、眠れないんですが」
 若い男の看護師だった。ロラメットという薬を貰い、それを水で飲んだ。その日はなんとか寝付くことができたが、朝になってもどんよりとした気持ちが続いていた。朝飯を無理やり胃に流し込む。
 もうすでに述べたことだが、僕には過去、五年近く付き合った彼女がいた。と同時に、高校生のころから不眠症に悩まされていた。多数の睡眠薬を飲んでいた。彼女にフラれたと同時に、市販の睡眠薬や処方されていた睡眠薬を大量にビールで流し込み、救急車で運ばれ、一週間入院した。そしてあれやこれやで地元を出、東京へとやってきた。しかし、東京で仕事をしようにも、幻聴や幻覚に苛まされ、それで入院となった。ああ、考えているだけで嫌になる。
 しかし、今の僕には真理さんがいる。話しかけられるわけでもなく、ロビーの椅子に座って、真理さんを眺めている。すると、最初に面談した主治医がロビーにやってきた。
「よう」と気軽に声をかけてきた。
「あ、どうも」
「入院生活はどう?」
「いや、思ったよりいいですよ。なんかいろいろすっきりしましたし」
「確かにお前、入院してすぐによくなったよな。でも一ヶ月は様子見だなぁ」と言いながら別に患者の元へと行った。
 一ヶ月! 一週間か二週間と言われていたので焦っていたが、一ヶ月もあるとは! でも待てよ、と自分を落ち着かせる。真理さんがあと何日で退院なのかが気になる。気になるなら聞けばいいじゃな――そんなことできるわけがない! するしないんじゃないんだ。できないんだ!
 真理さんは遠くのほうで、若い女の子と笑いながら喋っている。それを、読書している振りをしながら眺めている僕。すぐそこにいるのになにもできない。手が届きそうなのに届かない。だったら手に届くところに行けばいい。
 僕は文庫本を閉じ、右手に持ったまま、真理さんのほうへと歩いていった。そしてあと数メートルと近づいたところで踵を返し、元の席へと戻った。なにをやっている? でも駄目なんだ。頭ではわかっていても、体が言うことをきかない。女ってなんなんだ? 全然わからない。僕みたいな、ちびの男が話しかけても迷惑だろうということはわかっている。でも話をしたい。そう、あの中年男のように。
 女とはなになのかということを考えよう。女とは男と違う。それは体つきだけではない。中身もそうだ。例えば? と言われてもわからない。そう、女とはわからないものなんだ。わかっていたら面白くないじゃないか。名言ができた。女とはなんなのか? わからない。わかっていたら面白くないじゃないか。by僕。
 そんなくだらないことを考えていると、普段ベッドでなんやかやしている患者共がロビーにやってきた。昼食の時間だ。今日の昼食は、ご飯にエビフライに味噌汁と野菜の付け合せ。至ってシンプルだ。そういう飯は嫌いじゃない。朝のどんよりとした気分も、徐々に落ち着いてきた。真理さんは、僕から見て斜め左の奥の席に座り、昼食を食べている。食べ方が可愛い。女の子や中年男――ここでも現れる、僕の永遠のライバル――と談笑しながら、昼食を食べている。僕はといえば、ひとりでただ黙々と食べているだけ。なんとなく思い出してきた。学生時代もそうだったじゃないか。好きな女の子に話しかけられず、隅で冴えない男共と昼食をとっていたあの日々。それからまるで成長していない。成長のせの字もない。情けなくなって、泣きそうになったのをぐっと堪え、食べ終わった食器を返し自分の病室へと帰った。そこでようやく気づいたのだが、窓の外には雪景色が広がっていた。文学的に言うなら、病室へ入ったら雪国であった。東京で見る雪はこれが最初だったので、少し興奮した。窓――当然開かない――に近づいて、携帯で写真を撮る。五センチほど積もっている。すると髭がぼうぼうに伸びた、まるで浮浪者のようなおじいさんが近づいてきて、太陽光が当たる床に寝そべった。どんな光景だ! 外は雪、中はじいさん! 僕はまだ連絡先を聞けずにいる! ああもう、考えても無駄だ。このじいさんのようにフリーダムであれ!
 僕は、ロビーに早歩きで行った。携帯は右手に握り締められている。真理さんは若い女の子と中年男――ああもう!――と談笑している。僕は三度深呼吸をし、隣のテーブルに座り、会話を聞くことにした。
「あのお爺さんってほら、ディズニーのコロボックルに似てない?」
「あ、確かに似てます! 記念に写メっとこうかな」
「髭剃ったら変わりそうだけどね」
 うーん、激しくつまらない会話だ。僕だったらもっと面白くできる気がする。所詮気がするだけだ。真理さんと喋るというありえない展開になったら、しどろもどろになって、手には汗、額には脂汗、わきからは流れる汗、背中には滲み出る汗、汗、汗。掌が汗ばんできた。僕は昔から手汗がすごい。それをズボンで拭い、テーブルにぽつんと置かれている文庫本を開いた。
 文学の世界に浸っている間、僕は自由になれる。初対面の女性とまったく喋れない僕は、その世界には存在しない。でもそれは単なる現実逃避でしかないことをわかっている。僕がすべきことはただ一つ。真理さんに連絡先を聞いて、退院後も連絡をとり、どこかへデートへ行き、付き合うことになり、セックスをし、またどこかへデートへ行くのだ。頭ではわかっているプロセスながら、それを実行できないというのが本当に情けない。僕が歯軋りをしている間にも、真理さんは若い女の子と中年男と談笑している。あの若い女の子と中年男は敵だ。壁だ。あの二人がいる限り、僕は連絡先を聞くことはできない。つまり、真理さんひとりになったときがチャンスなのだ。そんなチャンスは巡ってくるのだろうか? 待つしかないのだろうか? それとも半ば強引にでもあの輪に入り、若い女の子と中年男と真理さんと仲良くなり、「そういえば、連絡先教えてくださいよ」などと言うのが一番手っ取り早いのだろうか。でもそんなこと僕にはできやしない。できるできないじゃない、やるかやらないかなんだ! と自分自身に言い聞かせても、行動に移すことができない。本当に情けない。
 そうやって貴重な時間を浪費していると、晩飯の時間になった。昼飯と同じようにわらわらと人がやってくる。それを平らげると、また読書という現実逃避へ没入する。気がつけば三十分が経っていた。やけにしんとしている。僕は文庫本を閉じ、周りを見た。誰もいない。テレビは消してある。斜め左を見ると、真理さんが座って本を読んでいる。つまりこのロビーには僕と真理さんだけということだ。こんなチャンスが、望んだその日にやってくるとは! 僕は興奮しきっていた。全身にやる気という名の血が巡るのを感じる。僕は携帯をポケットから取り出し、立ち上がった。真理さんは僕が立ち上がったことに気づいておらず、本を読み続けている。そして僕は一歩ずつ歩き出す。あと真理さんと数メートルというところまで近づいたところで、「あの」と声を出したが、看護師の、「はい、薬の時間ですよ」という声にかき消され、真理さんは本を閉じて僕のほうを向き、微笑んで薬を飲む席へと歩いていった。どこまでタイミングが悪いんだ! 畜生! 僕も薬を飲まなければならないので、せめてもと、真理さんの隣に座った。
 そこでなにかを話しかけられるわけもなく、真理さんは薬を飲んで部屋へと帰っていった。僕も薬を飲んで部屋へと帰り、携帯にイヤホンを差し込んで、ラジオを聴いた。今日も当然のように、処方された薬だけでは寝ることができず、三度頓服の薬を飲んだ。
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