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第2章 保護室と閉鎖病棟
第8話 観察
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「あ、Tちゃんだ」と七人の中の三十代の女性であるJさんが言った。
「Tちゃんどうしたの?」と六十代手前程のよく喋るHさんが言った。
Tちゃんと呼ばれた男性は少し悲しそうな表情で、「明日の教習所の試験って何時からなんですかね?」と言った。
僕にはわけがわからなかった。しかし他の人たちはわかっているらしく、「あー試験ね、明日の十一時からだよ」、「試験勉強しなきゃね」とTちゃんに言った。Tちゃんは、「あ、十一時からですか。ありがとうございます」と言い、また旅行鞄をがらがらと引きずりながら自分の部屋へと戻っていった。
「あの人――Tちゃんって言うんですか? 教習所ってどういうことですか? ここは病院ですよ」
するとHさんが大きく笑いながら言った。
「Tちゃんはね、この閉鎖病棟を教習所だと思い込んでるんだよ。毎日毎日、明日の教習所の試験は何時からかって聞くんだよね」
「そ、そうなんですか……」
精神病院で二度――今回を入れると三度――の入院経験があるが、こんな人は初めてだった。大体が情緒不安定であったり、リスト・カット癖があったりというものだった。あの人――Tちゃんは精神病なのか? 痴呆症ではないのか……?
なんの気なしにスタッフ・ステーションの方を眺めていると、また旅行鞄をがらがらと引きずったTちゃんがやってきた。スタッフ・ステーションの窓ガラスを叩き、看護師を呼んでいる。
「どうしましたか、Tさん」と長髪の男性看護師が対応した。
「家に帰りたいんですけど」とTちゃんは言った。HさんやJさん、その他の人たちは軽く笑っている。
「ここは病院だから帰れませんよ」
「いやでも僕、ここまで車で来たんですよ」
看護師は、もうわかっているのだろうか、黙っている。
「教習所を受けに来ようと、ここの地下に車を置いて来たんですよ」
「そうですか」
車の免許を取りに車でやって来るというのがもう意味不明だ。それに聞けばこの病院に地下はないという。
「あと売店に行きたいんですけど」
「この病院には売店はありませんよ」
「あ、そうですか。わかりました」
そしてTさんは病室へ帰っていった。旅行鞄をがらがらと引きずらせながら。
「何度ここは教習所じゃない、売店はないって言っても、一日経てば記憶がリセットするように、毎日繰り返すんだよ」
「そ、そうなんですか……」
夜の八時半になり、夜の薬を貰って飲んだ。しかし、当然のように眠気はこないので、十時と十一時に頓服を貰う。集団に誘われるまでは、薬を飲んで九時に消灯するまで読書をしていたが、今日からは違っていた。消灯すると看護師が見回り、「消灯しますので病室へ戻って寝てください」と言うが、KさんとSさんはそれを無視し、丁度スタッフ・ステーションから見えない位置にある席に座り、雑談をしている。どうせ眠れないんだし、と僕もそれに混ざる。会話の内容なんてありふれたものだ。九時になり、デイ・ルームの電気が落ちる。ふと、窓際に面した場所に置いてあるソファに目をやった。六十代ぐらいの男女が座って窓の外を眺めている。その男性のほうが大きく伸びをした瞬間、七部袖の甚平がめくれ、腕が露になった。それを見て僕は驚愕した。腕一面入墨だったのだ。
僕も高校の頃からずっと入墨を入れたいと思ってきていたのだが、働けなくなるからとなかなかできずにいた。それをこの人は、腕一面――当然それ以外の場所もやっているだろう――びっしりと。一体いくらぐらいのお金がかかっているのだろう。
十一時にKさんと僕が二回目の頓服を貰うと、夜会はお開きとなった。入院生活がようやく楽しく思えてきた。
今日もTちゃんはおかしかった。それ以外にもおかしい人が沢山いることがわかった。僕たちはスタッフ・ステーションから一番離れた場所に陣取っていた。スタッフ・ステーションの前のテーブルはどうやら、介護が必要な人が座るようで、主に高齢者が座っていた。ずっと独り言を言っている人や、ただぼうっと宙を眺めている人。一番びっくりしたのが、「殺されるんです!」とずっと叫んでいるお婆さんがいた。「殺されるんです! 朝ごはんに毒が入っているんです! 寝ると殺されるんです!」と叫んでいる。しかし半日で居なくなった。Kさんに聞くに、「重い人は二階に行くんだよ」とのことだった。
「じゃあ三階の人は比較的軽いということですか?」
「うん。あと四階と五階があるよ」
大きな病院だな、と思った。
「四階は一日の入院費用が数万円。五階は一日十五万円」
「じゅ、十五万円?」
僕は思わず声を上げてしまった。
「部屋にシャワーが付いてあって、ご飯も少し贅沢で、なにより喫煙スペースがあるんだよ」
「すごいですね。お金のない僕には無縁ですが……」
「噂だけれど、芸能人の――や――も入院したとか……?」
「へぇ、やっぱり金持ちが入る所なんですね」
「Tちゃんどうしたの?」と六十代手前程のよく喋るHさんが言った。
Tちゃんと呼ばれた男性は少し悲しそうな表情で、「明日の教習所の試験って何時からなんですかね?」と言った。
僕にはわけがわからなかった。しかし他の人たちはわかっているらしく、「あー試験ね、明日の十一時からだよ」、「試験勉強しなきゃね」とTちゃんに言った。Tちゃんは、「あ、十一時からですか。ありがとうございます」と言い、また旅行鞄をがらがらと引きずりながら自分の部屋へと戻っていった。
「あの人――Tちゃんって言うんですか? 教習所ってどういうことですか? ここは病院ですよ」
するとHさんが大きく笑いながら言った。
「Tちゃんはね、この閉鎖病棟を教習所だと思い込んでるんだよ。毎日毎日、明日の教習所の試験は何時からかって聞くんだよね」
「そ、そうなんですか……」
精神病院で二度――今回を入れると三度――の入院経験があるが、こんな人は初めてだった。大体が情緒不安定であったり、リスト・カット癖があったりというものだった。あの人――Tちゃんは精神病なのか? 痴呆症ではないのか……?
なんの気なしにスタッフ・ステーションの方を眺めていると、また旅行鞄をがらがらと引きずったTちゃんがやってきた。スタッフ・ステーションの窓ガラスを叩き、看護師を呼んでいる。
「どうしましたか、Tさん」と長髪の男性看護師が対応した。
「家に帰りたいんですけど」とTちゃんは言った。HさんやJさん、その他の人たちは軽く笑っている。
「ここは病院だから帰れませんよ」
「いやでも僕、ここまで車で来たんですよ」
看護師は、もうわかっているのだろうか、黙っている。
「教習所を受けに来ようと、ここの地下に車を置いて来たんですよ」
「そうですか」
車の免許を取りに車でやって来るというのがもう意味不明だ。それに聞けばこの病院に地下はないという。
「あと売店に行きたいんですけど」
「この病院には売店はありませんよ」
「あ、そうですか。わかりました」
そしてTさんは病室へ帰っていった。旅行鞄をがらがらと引きずらせながら。
「何度ここは教習所じゃない、売店はないって言っても、一日経てば記憶がリセットするように、毎日繰り返すんだよ」
「そ、そうなんですか……」
夜の八時半になり、夜の薬を貰って飲んだ。しかし、当然のように眠気はこないので、十時と十一時に頓服を貰う。集団に誘われるまでは、薬を飲んで九時に消灯するまで読書をしていたが、今日からは違っていた。消灯すると看護師が見回り、「消灯しますので病室へ戻って寝てください」と言うが、KさんとSさんはそれを無視し、丁度スタッフ・ステーションから見えない位置にある席に座り、雑談をしている。どうせ眠れないんだし、と僕もそれに混ざる。会話の内容なんてありふれたものだ。九時になり、デイ・ルームの電気が落ちる。ふと、窓際に面した場所に置いてあるソファに目をやった。六十代ぐらいの男女が座って窓の外を眺めている。その男性のほうが大きく伸びをした瞬間、七部袖の甚平がめくれ、腕が露になった。それを見て僕は驚愕した。腕一面入墨だったのだ。
僕も高校の頃からずっと入墨を入れたいと思ってきていたのだが、働けなくなるからとなかなかできずにいた。それをこの人は、腕一面――当然それ以外の場所もやっているだろう――びっしりと。一体いくらぐらいのお金がかかっているのだろう。
十一時にKさんと僕が二回目の頓服を貰うと、夜会はお開きとなった。入院生活がようやく楽しく思えてきた。
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「うん。あと四階と五階があるよ」
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僕は思わず声を上げてしまった。
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