レツダンセンセイ・グレーテストヒッツ

れつだん先生

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ゴールデンバット

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 カーテンから微かに光が漏れていて、目覚まし時計が鳴っている。手探り状態でそのスイッチを切って天井を見つめる。そういえば今日は病院の予約を入れている日だったなということを思い出し、自分自身の臭いが染み付いた気持ちの悪い寝袋を体から剥がし、時計を見た。そろそろ出発しなければならないのにも関わらず、体は動こうとはしてくれない。大きく深呼吸してからまた同じように手探りで煙草を探し、それをふかした。ぼんやりと天井に漂っていく煙と色あせた天井を見つめている内にようやく体が動こうとしてくれたのを感じたので、体を起こす。首と背中を捻って音を鳴らし、二畳しかない僕の部屋の散らかり具合を情けなく思いながら煙草を消して部屋を出た。

 通常の精神状態であれば通わなくても良い精神科という所に通いだしたのは、半年前の二十四歳の誕生日に、僕が大量の睡眠薬と大量のアルコールを摂取して救急車で運ばれてからだった。残念ながら死ぬことは叶わず、入院費の九万円だけ毟り取られて、仕事を首になって、様々な人に迷惑と心配をかけただけだ。何にも残ってはいない。残ったのは希死念慮と少しの金と自分の命。必要ねえなあ。
 失敗してから最初の一ヶ月は病院に通ったものの、母親の「あんたはただ甘えているだけ。死ぬなら失敗なんてするな」という発言が引き金となって、元々持っていた被害妄想が爆発し、それからずっと通っていなかった。一応予約のキャンセルはしておいた。
 それから二ヶ月間は平常心でいられた。元々寝付きが悪く、二日に一度しか眠れないという状態も、浴びるように酒を呑めば寝ることはできた。しかしアルコールというものは怖いもので、気分が上がればよいのだが、下がると最早どうしようもなくなる。そして僕はベルトで首を吊った。しかしまた失敗した。次は多分失敗せずに死ねるだろう。そんな考えが頭を過ぎったと同時に、僕は携帯を手にし、病院へ電話をかけた。
「佐藤ですが、予約を、取りたいんですが」
 搾り出すようにしてやっと声を出し、精神科へ繋いでもらう。
「はい精神科ですが(またこいつかよ。お前なんて来たって無駄なんだよ)」
「予約を取りたいんですが」
「あー、はいはい、んー、四ヶ月近く間が空いてると、初診になっちゃうのよね。前よりも酷いの?(忙しい時に何でかけてくるかなあ。さっさと死ねばいいのに)」
「前より、酷いです」
「じゃあ朝の十一時半までに受付の横の機械に診察のカードを入れて貰える?」
 言うだけ言って、電話は切れた。

 市民病院は人で溢れかえっていて、入り口の自動ドアには大きく「ノロウィルスに注意!」と書かれている。僕は被っていたニット帽をさらに深く被り、ポケットに入れておいた音楽プレイヤーの音量をさらに上げた。そうしなければ人ごみの中へ入れないのだ。脳内から声が聞こえる。
「ほら、お前を嘲笑っているぞ」
「お前なんて死んだほうがいいんじゃないか」
「病院ってのは病気の人間が来る所で、もう手遅れのお前が来た所でどうしようも無いんだよ」
 さらに音量を上げる。
「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
 二三度迷った後に、診察のカードを機械に入れた。受付しましたと書かれた紙切れをちぎり取り、精神科へと歩いていく。全員が僕を嘲笑っているような気がする。全員が僕を嘲笑っている。
 名前を呼ばれた時に気づくために音楽プレイヤーの音量をゼロにした。全員が僕を嘲笑っている。三十分以上待たされ、ようやく僕の名前が呼ばれ、嘲笑われながら、診察室へと入る。僕の主治医は僕が入院していた時も何度か来てくれたことのある、若い女性だ。若いといっても僕よりは年上だろう。マスクをしているので赤いふちの眼鏡しか見えないけれど、手を見れば何歳ぐらいかはわかる。
「三ヶ月ほど来ていませんでしたが、気分はどうですか?」と優しく聞かれ、もう少しで涙が出る所だった。僕はこれまでの上京を全て話した。
「嘲笑っているような気がするだけ、なんですよ。会社の人も、私たちも、あなたの家族も、通りすがりの人たちも。だから、そんなことないって強く考える事が大切なんですよ」
「多分、嘲笑っているのは事実なんですよ」
 女性が相手だと上手く話せない僕は、右下の事務机を見つめながら言った。少しの間沈黙があった。
「死にたいのではなく死ななければならないんです。あの時死ねなかった事は今でも後悔しています。生き恥を晒しただけでした」
「その気持ちを消す薬を飲んだほうがいいかもしれませんね」とカルテを書きながらまるで他人事のように言った。その言い方はおかしいか。他人事だ。
「夜はちゃんと寝られてますか?」
「前と違って仕事をしているから、疲れもあってか、寝られる時は寝られます。それでもやっぱり寝付くまでに五時間以上かかりますね。だから毎日麦酒を六本飲んでいます」
「絶対にお酒は駄目ですよ!」
 整った眉毛をきゅっと動かして言った。僕は少しどきりとした。
「じゃあ、その気持ちを消す薬と、夜にちゃんと寝られるようになる薬を出します。絶対にお酒は駄目ですよ」
 お礼を言い、大量の嘲笑う声の中僕は歩いて受付で金を払い、薬を貰って、そこを後にした。

 不眠は解消された。しかし妄想は止まらない。職場の人たちは僕を嫌っているし、家族は僕に早く死んでもらいたいと思っているし、古い付き合いの友人だってどう思っているかはわからない。「そんなこと無いよ」と眼鏡の女医は言っていたけれど、そんなこと無いこと無いのだ。
 十二時間労働をして、軽い飯を食べ、薬を飲んで眠る。最初は驚いた。こんなにすぐ寝付くことができるということに。昔から時間をかけるかアルコールを摂取しなければ寝付くことができなかったのに、処方された睡眠薬を飲むとすぐにまどろみの中へ入ることができるようになった。その分夢を見るようになった。悪夢と言ってもいい。昔好きだった女性や昔付き合っていた女性が毎回夢に登場してきて、目が覚めた瞬間、絶望感に包まれる。そして煙草――一番安物のゴールデンバットだ――をふかし、作業着に着替え、母親が作った弁当を持って原付で職場へ行く。
 一度かなり危ない日があった。妄想が映像を見せ付けてきたのだ。「さっさと飛び降りて死ねよ」という声と共に、僕が飛び降りる映像を繰り返し繰り返し見せてくる。さすがにその日の休憩時間はもう動く気も起きなかったけれど、人に言っても理解されないというのは両親に話した際にわかったことだし仕事なので動かないわけにもいかない。体が重い。足取りが重い。錘を取ってくれよ、誰か、なあ、なあ、なあ。

「誰だって色んな病を抱えているんだから、いちいち言う必要は無い」
「お父さんだって気分が下がる時はある。だけどそんなこと言ってられないだろ? 家族がいるから」
「病院には行くな。変な噂が立つ」
 多分そんなレベルの話ではないんだろうけれど、通じないので、僕はもう言うことをやめた。だから病院へ行っていることも薬を飲んでいることも言っていない。いちいち言う必要は無いんだ。

 ちょうど薬が切れそうになったので、僕は職場の上司に明日の午前は休ませて貰うように言った。その前の週も休んでしまったので少し顔を顰めたが、何とか納得してくれた。
 薬が欲しいというより、あの眼鏡の女医に会って話を聞いてもらいたいと思った。夢に出てきたこともあった。なぜだろう? 平常心になれる薬は欲しい。だけど女医にも会いたい。その日はその女医はいるのだろうか? 
「その女医もお前のことを心の中で馬鹿にしてるんだぜ」
 うるせえちくしょう。
 幻聴が幻聴で無くなった気がしたので、僕は寝る前に処方された三種類の薬を飲み、すぐ音楽プレイヤーのイヤホンを耳に入れ、音量を最大にした。
 でも消えない。
「だってこれが現実だから」
 でも寝られない。
「だってこれが現実だから」
 救いを求めるかのように僕は睡眠薬でふらふらになりながらコンビニへ行き麦酒を一本とチューハイを一本買った。部屋に入るなり音楽を聞きながらそれを飲み干すと、何もかもが嘘っぱちのような気がして、目の前に転がってるこれは何だ? 一年前に買って少し触ってそのまま部屋のオブジェクトになったギターじゃないか? 手を伸ばそうにも届かない。ちゃぽん、ちゃぽん、チューハイの缶の音。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね、たぶん幻聴。五年付き合って僕を振った元彼女が立ってる。たぶん幻覚。ふらふら、ふらふら、歩きながら、階段でこけそうになって、トイレに言って、用を足した。

「「「「「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」」」」」

 二週間ぶりの市民病院は人で溢れかえっていて、入り口の自動ドアには大きく「ノロウィルスに注意!」と書かれている。僕は被っていたニット帽をさらに深く被り、ポケットに入れておいた音楽プレイヤーの音量をさらに上げた。そうしなければ人ごみの中へ入れないのだ。脳内から声が聞こえる。
「ほら、お前を嘲笑っているぞ」
「お前なんて死んだほうがいいんじゃないか」
「病院ってのは病気の人間が来る所で、もう手遅れのお前が来た所でどうしようも無いんだよ」
 さらに音量を上げる。
「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
 二三度迷った後に、診察のカードを機械に入れた。受付しましたと書かれた紙切れをちぎり取り、精神科へと歩いていく。全員が僕を嘲笑っているような気がする。全員が僕を嘲笑っている。
「ほうら、あの子連れの主婦見てみろよ、お前を振った女性に似てるなぁ」
「佐藤さん」
 診察室へ入る。椅子に座ったあの眼鏡の女医が座っている。僕は何も喋らない。そして女医も何も聞かない。沈黙。
「夜はちゃんと寝られるようになりましたか?」と女医が口を開く。僕は抱き付きたくなる衝動を抑えながら「今まで寝付きが悪かったんですけど、飲み始めてからちゃんと寝られるようになりました」と答える。「死にたいとかそういう幻聴は無くなりましたか?」と女医がカルテに書きながら聞く。僕は抱き付きたくなる衝動を抑えながら「それはやっぱりまだ消えません」と答える。「次、仕事が休みの日はわかりますか」と女医が聞く。僕は「わかりません」と答える。「死ねよ」
「じゃあ今回は一か月分出しますね(前みたいに全部アルコールで飲んじゃ駄目ですよ)」微笑む。
「はい」頷く。
「あのね(死ねよ)」少し悲しそうな顔をする。
「はい」頷く。
「私、今月いっぱいで転勤するの(死ねよ)」少し悲しそうな顔をする。
「えっ」驚く。
「だから次からは違う先生になるけど(死ねよ)」少し悲しそうな顔をして欲しい。

 空は雲ひとつ無い晴天だ。僕は病院の中にある自販機で珈琲を買い、それを飲みながら煙草を吸った。煙草の先から漂う煙が消えるのをただじっと見つめていた。
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