3 / 25
第二章 無意識に選ばれた部屋
1
しおりを挟む
店を出たのは、二十一時を少し回った頃だった。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったです」
先輩に紹介された彼女は礼儀正しく気遣いもできて、悪いところは何一つなかった。先輩が安心して、俺に薦めた理由もわかる。
――ちゃんとした人。結婚を考えるなら、こういう相手なんだろう。
彼女と駅の改札で別れ、電車に乗る。座席に身を沈めた瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
悪くなかった。彼女と会話も弾んだ。それなのに、胸の奥だけが置き去りにされたみたいに落ち着かない。
スマートフォンを取り出して無意識に画面を見るが、通知はない。
(……直人に連絡する必要はない)
そう思って、画面を伏せた。
あれこれ考えているうちに降りる駅を間違えそうになって、慌てて立ち上がる。改札を抜けて夜風に当たったところで、ようやく気づいた。
(――ここ、直人の家の最寄りじゃないか)
一瞬、足が止まる。自宅に戻ろうと思えば、戻れる距離。でも俺の手はポケットに伸びていた。合鍵の感触が指先に伝わる。迷いはなかった。
「……」
理由を探す前に体が動く。合鍵で直人の家の扉を開ける音は、驚くほど静かだった。
玄関に入ると、リビングの電気は消えている。直人はまだ帰っていないか、もう寝ているか。
「……」
靴を脱ぎ、室内に入る。この部屋の匂いを、もう知っていることに胸がざわつく。電気をつけてソファに腰を下ろした瞬間、深く息を吐いた。
今日は、ちゃんとした夜のはずだった。未来につながるかもしれない時間だった。なのに――。
これまでのことを反芻しながらキッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。中には、見覚えのある常備菜。三好が作ったものだ。ここで生活しているのが彼だという証拠みたいに、俺の目に映る。
(……なんで)
自分で自分に問いかけて、答えが出ない。そのとき、玄関の鍵が回る音がした。反射的に冷蔵庫を閉めて、玄関に視線を注ぐ。
「……恒一?」
やけに疲れた声だった。夜勤明けの少し掠れた声が耳に届き、リビングの扉の前に立つ。廊下に立つ三好と目が合った瞬間、時間が止まったように感じた。
「……おかえり」
「……ただいま」
言ってから違和感に気づく。ここは、直人の家だ。
「……今日、彼女と会ったんですよね」
三好は責めるでもなく、確認するように言った。
「ああ」
「そうですか」
それだけ言って制服姿のまま、ゆっくりリビングに入ってくる。
「恒一……なんで、ここに」
三好に聞かれて、初めて言葉に詰まった。
「……わからない」
「わからない?」
「気づいたら、ここに来てた」
俺の返事を聞いた三好は、少しだけ目を伏せた。
「合鍵、使っていいって言いました」
「……ああ」
「だから、責めません」
淡々とした口調が、逆に胸を締めつける。
「でも」
三好は一歩、あからさまに俺から距離を取った。
「条件は、忘れないでください」
条件――本命ができるまで期待しない。深入りしない。
三好に条件を告げられたことで、はっきりと自覚した。
(――破っているのは、どっちだ)
問いかけた瞬間、答えはもう出ていた。
「直人」
「はい」
反射的に名前を呼ぶと、三好は顔を上げた。俺に注がれる視線はまっすぐで、そこに濁りはない。
「……今日は泊まらない。このまま帰る」
「わかりました」
その返事は完璧だった。役として正しい。なのに、玄関に向かいながら思ってしまう。
彼女と会った夜に無意識に選んだのが、この部屋だったという事実を。
合鍵は、ただの合理性なんかじゃない。それを認めた瞬間、もう戻れなくなる気がして――一番怖かった。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったです」
先輩に紹介された彼女は礼儀正しく気遣いもできて、悪いところは何一つなかった。先輩が安心して、俺に薦めた理由もわかる。
――ちゃんとした人。結婚を考えるなら、こういう相手なんだろう。
彼女と駅の改札で別れ、電車に乗る。座席に身を沈めた瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
悪くなかった。彼女と会話も弾んだ。それなのに、胸の奥だけが置き去りにされたみたいに落ち着かない。
スマートフォンを取り出して無意識に画面を見るが、通知はない。
(……直人に連絡する必要はない)
そう思って、画面を伏せた。
あれこれ考えているうちに降りる駅を間違えそうになって、慌てて立ち上がる。改札を抜けて夜風に当たったところで、ようやく気づいた。
(――ここ、直人の家の最寄りじゃないか)
一瞬、足が止まる。自宅に戻ろうと思えば、戻れる距離。でも俺の手はポケットに伸びていた。合鍵の感触が指先に伝わる。迷いはなかった。
「……」
理由を探す前に体が動く。合鍵で直人の家の扉を開ける音は、驚くほど静かだった。
玄関に入ると、リビングの電気は消えている。直人はまだ帰っていないか、もう寝ているか。
「……」
靴を脱ぎ、室内に入る。この部屋の匂いを、もう知っていることに胸がざわつく。電気をつけてソファに腰を下ろした瞬間、深く息を吐いた。
今日は、ちゃんとした夜のはずだった。未来につながるかもしれない時間だった。なのに――。
これまでのことを反芻しながらキッチンに立ち、冷蔵庫を開ける。中には、見覚えのある常備菜。三好が作ったものだ。ここで生活しているのが彼だという証拠みたいに、俺の目に映る。
(……なんで)
自分で自分に問いかけて、答えが出ない。そのとき、玄関の鍵が回る音がした。反射的に冷蔵庫を閉めて、玄関に視線を注ぐ。
「……恒一?」
やけに疲れた声だった。夜勤明けの少し掠れた声が耳に届き、リビングの扉の前に立つ。廊下に立つ三好と目が合った瞬間、時間が止まったように感じた。
「……おかえり」
「……ただいま」
言ってから違和感に気づく。ここは、直人の家だ。
「……今日、彼女と会ったんですよね」
三好は責めるでもなく、確認するように言った。
「ああ」
「そうですか」
それだけ言って制服姿のまま、ゆっくりリビングに入ってくる。
「恒一……なんで、ここに」
三好に聞かれて、初めて言葉に詰まった。
「……わからない」
「わからない?」
「気づいたら、ここに来てた」
俺の返事を聞いた三好は、少しだけ目を伏せた。
「合鍵、使っていいって言いました」
「……ああ」
「だから、責めません」
淡々とした口調が、逆に胸を締めつける。
「でも」
三好は一歩、あからさまに俺から距離を取った。
「条件は、忘れないでください」
条件――本命ができるまで期待しない。深入りしない。
三好に条件を告げられたことで、はっきりと自覚した。
(――破っているのは、どっちだ)
問いかけた瞬間、答えはもう出ていた。
「直人」
「はい」
反射的に名前を呼ぶと、三好は顔を上げた。俺に注がれる視線はまっすぐで、そこに濁りはない。
「……今日は泊まらない。このまま帰る」
「わかりました」
その返事は完璧だった。役として正しい。なのに、玄関に向かいながら思ってしまう。
彼女と会った夜に無意識に選んだのが、この部屋だったという事実を。
合鍵は、ただの合理性なんかじゃない。それを認めた瞬間、もう戻れなくなる気がして――一番怖かった。
10
あなたにおすすめの小説
攻められない攻めと、受けたい受けの話
雨宮里玖
BL
恋人になったばかりの高月とのデート中に、高月の高校時代の友人である唯香に遭遇する。唯香は遠慮なく二人のデートを邪魔して高月にやたらと甘えるので、宮咲はヤキモキして——。
高月(19)大学一年生。宮咲の恋人。
宮咲(18)大学一年生。高月の恋人。
唯香(19)高月の友人。性格悪。
智江(18)高月、唯香の友人。
バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?
cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき)
ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。
「そうだ、バイトをしよう!」
一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。
教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった!
なんで元カレがここにいるんだよ!
俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。
「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」
「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」
なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ!
もう一度期待したら、また傷つく?
あの時、俺たちが別れた本当の理由は──?
「そろそろ我慢の限界かも」
【完結】恋した君は別の誰かが好きだから
海月 ぴけ
BL
本編は完結しました。後日、おまけ&アフターストーリー随筆予定。
青春BLカップ31位。
BETありがとうございました。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
俺が好きになった人は、別の誰かが好きだからーー。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
二つの視点から見た、片思い恋愛模様。
じれきゅん
ギャップ攻め
キミと2回目の恋をしよう
なの
BL
ある日、誤解から恋人とすれ違ってしまった。
彼は俺がいない間に荷物をまとめて出てってしまっていたが、俺はそれに気づかずにいつも通り家に帰ると彼はもうすでにいなかった。どこに行ったのか連絡をしたが連絡が取れなかった。
彼のお母さんから彼が病院に運ばれたと連絡があった。
「どこかに旅行だったの?」
傷だらけのスーツケースが彼の寝ている病室の隅に置いてあって俺はお母さんにその場しのぎの嘘をついた。
彼との誤解を解こうと思っていたのに目が覚めたら彼は今までの全ての記憶を失っていた。これは神さまがくれたチャンスだと思った。
彼の荷物を元通りにして共同生活を再開させたが…
彼の記憶は戻るのか?2人の共同生活の行方は?
ある新緑の日に。
立樹
BL
高校からの友人の瑛に彼女ができてから、晴臣は彼のことが好きなのだと認識した。
けれど、会えば辛くなる。でも、会いたい。
そんなジレンマを抱えていたが、ある日、瑛から
「肉が食べたい」と、メールが入り、久しぶりに彼に会うことになった。
「出来損ない」オメガと幼馴染の王弟アルファの、発情初夜
鳥羽ミワ
BL
ウィリアムは王族の傍系に当たる貴族の長男で、オメガ。発情期が二十歳を過ぎても来ないことから、家族からは「欠陥品」の烙印を押されている。
そんなウィリアムは、政略結婚の駒として国内の有力貴族へ嫁ぐことが決まっていた。しかしその予定が一転し、幼馴染で王弟であるセドリックとの結婚が決まる。
あれよあれよと結婚式当日になり、戸惑いながらも結婚を誓うウィリアムに、セドリックは優しいキスをして……。
そして迎えた初夜。わけもわからず悲しくなって泣くウィリアムを、セドリックはたくましい力で抱きしめる。
「お前がずっと、好きだ」
甘い言葉に、これまで熱を知らなかったウィリアムの身体が潤み、火照りはじめる。
※ムーンライトノベルズ、アルファポリス、pixivへ掲載しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる