2 / 45
忘れられない輪郭
1
しおりを挟む
***
玄関の扉が閉まる乾いた音。その瞬間、綾乃はそっとため息を吐いた。
足早に会社へ向かって行った崇の背中に「いってらっしゃい」と呟いた声は、空気の中にふわりと消えていく。それが届いたかどうかさえ、もう確かめる気力はない。
静まり返ったリビングに、時計の針の音がカチカチと無機質に響く。
テーブルの上に置かれたマグカップの中のコーヒーは、まだ湯気を立てている。けれどそのあたたかさすら、今の綾乃にはどこか遠いものに思えた。
手早くエプロンを身に着け、飲みかけのコーヒーを流しに捨てる。マグカップをすすぐ水音の中で、崇が出がけに言い残した言葉を思い出した。
「今日の午後には、湊が来るから」
そのひとことに、綾乃の胸の奥でなにかが小さく波打ったのは、気のせいだろうか。
廊下を突き進み、北側にある客間のドアを開ける。普段は使われることのないその一室に、梅雨の光が柔らかく差し込んでいた。カーテンを勢いよく開けて、窓をわずかに開く。
しっとりとした雨の匂いが鼻をくすぐり、室内の空気が静かに蠢く。
綾乃はベッドカバーを手に取り、布団を整えながら、思わず湊の顔を思い出した。
三年前の春、大学を卒業して海外に行く直前、ふらりと家に顔を出したときの湊。あの頃はまだ無邪気で、どこか危なっかしい青年だった。けれど笑ったときのあの目だけは妙にまっすぐで、じっと見つめられると胸の奥にざわめくあの感覚を、綾乃は今でも覚えている。
『義姉さん、昔より綺麗になったね』
あの日、そう言って嬉しげに笑ったあの声。不意に告げられた言葉は冗談めいていたハズなのに、天真爛漫な笑顔で告げられた声が、今でも耳の奥に残ってる。
「……馬鹿みたい」
綾乃は小さく首を振って、ベッドのシーツを整える手を止めた。ただの義弟。血のつながらない家族の一人。そう思い込んできた。
――なのに、どうして。
記憶の中の湊は、どうしても”家族”には見えなかった。あの視線もあのほほ笑みも、まるでどこか別の感情を隠しているような気がして。
「……これ以上は、駄目」
誰に向けたわけでもないその言葉が、雨音に溶けていく。それでも胸の奥には、ずっと触れてこなかった感情が、ゆっくりと動きはじめていた。
玄関の扉が閉まる乾いた音。その瞬間、綾乃はそっとため息を吐いた。
足早に会社へ向かって行った崇の背中に「いってらっしゃい」と呟いた声は、空気の中にふわりと消えていく。それが届いたかどうかさえ、もう確かめる気力はない。
静まり返ったリビングに、時計の針の音がカチカチと無機質に響く。
テーブルの上に置かれたマグカップの中のコーヒーは、まだ湯気を立てている。けれどそのあたたかさすら、今の綾乃にはどこか遠いものに思えた。
手早くエプロンを身に着け、飲みかけのコーヒーを流しに捨てる。マグカップをすすぐ水音の中で、崇が出がけに言い残した言葉を思い出した。
「今日の午後には、湊が来るから」
そのひとことに、綾乃の胸の奥でなにかが小さく波打ったのは、気のせいだろうか。
廊下を突き進み、北側にある客間のドアを開ける。普段は使われることのないその一室に、梅雨の光が柔らかく差し込んでいた。カーテンを勢いよく開けて、窓をわずかに開く。
しっとりとした雨の匂いが鼻をくすぐり、室内の空気が静かに蠢く。
綾乃はベッドカバーを手に取り、布団を整えながら、思わず湊の顔を思い出した。
三年前の春、大学を卒業して海外に行く直前、ふらりと家に顔を出したときの湊。あの頃はまだ無邪気で、どこか危なっかしい青年だった。けれど笑ったときのあの目だけは妙にまっすぐで、じっと見つめられると胸の奥にざわめくあの感覚を、綾乃は今でも覚えている。
『義姉さん、昔より綺麗になったね』
あの日、そう言って嬉しげに笑ったあの声。不意に告げられた言葉は冗談めいていたハズなのに、天真爛漫な笑顔で告げられた声が、今でも耳の奥に残ってる。
「……馬鹿みたい」
綾乃は小さく首を振って、ベッドのシーツを整える手を止めた。ただの義弟。血のつながらない家族の一人。そう思い込んできた。
――なのに、どうして。
記憶の中の湊は、どうしても”家族”には見えなかった。あの視線もあのほほ笑みも、まるでどこか別の感情を隠しているような気がして。
「……これ以上は、駄目」
誰に向けたわけでもないその言葉が、雨音に溶けていく。それでも胸の奥には、ずっと触れてこなかった感情が、ゆっくりと動きはじめていた。
10
あなたにおすすめの小説
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
数合わせから始まる俺様の独占欲
日矩 凛太郎
恋愛
アラサーで仕事一筋、恋愛経験ほぼゼロの浅見結(あさみゆい)。
見た目は地味で控えめ、社内では「婚期遅れのお局」と陰口を叩かれながらも、仕事だけは誰にも負けないと自負していた。
そんな彼女が、ある日突然「合コンに来てよ!」と同僚の女性たちに誘われる。
正直乗り気ではなかったが、数合わせのためと割り切って参加することに。
しかし、その場で出会ったのは、俺様気質で圧倒的な存在感を放つイケメン男性。
彼は浅見をただの数合わせとしてではなく、特別な存在として猛烈にアプローチしてくる。
仕事と恋愛、どちらも慣れていない彼女が、戸惑いながらも少しずつ心を開いていく様子を描いた、アラサー女子のリアルな恋愛模様と成長の物語。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛
三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。
「……ここは?」
か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。
顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。
私は一体、誰なのだろう?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる