触れてはいけない距離

相沢蒼依

文字の大きさ
45 / 45
もうひとつのIFエンド

それでも残るもの

しおりを挟む
 あの家には、もう綾乃はいない。湊もいない。静かだった家は、今ではまるで時間が止まったように静かだ。けれど不思議と、寂しさは胸を刺すほどではなかった。

 あの頃の自分には、「正しさ」しかなかった気がする。

 家の名を守ること。外聞を損なわぬこと。“夫”として“兄”として、ただ形を整えていた。

 愛していたのかと問われれば、正直、答えは曖昧だ。ただ綾乃を手放したことを、いまの自分は責めていない。それは彼女のせいではなく、俺の“選び方”が欠けていたから。

 仕事から帰って玄関を開けたとき、今でもあの朝食の匂いが幻のように蘇る。

 湊の靴が並んでいた場所。綾乃のマグカップが置かれていたキッチン。

 何もなくなった場所に立つと、心が妙に澄む。いま自分の部屋に置かれているものすべてが、「崇という男だけの人生」を映している。

 ――それは、ある意味で自由だった。

 手放すことでしか得られなかった静けさ。そこに罪悪感がないと言えば嘘になる。けれど、後悔とも違う。

 あの二人がどうなっていくかは知らない。知ろうともしなかった。ただ――。

(――綾乃が、自分の足でなにかを選んだのなら)

 そのことだけが、かすかな救いだった。

 ある夜、久しぶりにあの家の近くを通った。まだ売りに出されてはいない。誰もいないその場所は薄暗く、記憶の重さだけを残していた。

 扉の前に立って、ただ静かに佇む。忘れていた記憶が、遠くで波のように揺れる。

 たとえば、あの朝食の光景。湊の声に、綾乃が少し笑った瞬間。あの笑顔が、俺の知らない温もりを宿していた。

 自分はあの家の中で、いつもひとりだったのかもしれない。そしてその孤独に、誰よりも綾乃が気づいていた。けれど、もうその記憶を責める気にはなれなかった。

 人は誰かをしあわせにすることもできるが、誰かのしあわせを“邪魔しない”ことも、またひとつの優しさかもしれない。

 そんなことを、初めて思った。

 この先、誰かを選ぶことがあるかもしれない。けれど、あのとき交わした言葉の“結末”は、胸に刻み続けるだろう。

 綾乃。君があのとき“しあわせになりたい”と願ったことだけは、きっと嘘じゃなかったから。


最後まで閲覧、ありがとうございました!
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

数合わせから始まる俺様の独占欲

日矩 凛太郎
恋愛
アラサーで仕事一筋、恋愛経験ほぼゼロの浅見結(あさみゆい)。 見た目は地味で控えめ、社内では「婚期遅れのお局」と陰口を叩かれながらも、仕事だけは誰にも負けないと自負していた。 そんな彼女が、ある日突然「合コンに来てよ!」と同僚の女性たちに誘われる。 正直乗り気ではなかったが、数合わせのためと割り切って参加することに。 しかし、その場で出会ったのは、俺様気質で圧倒的な存在感を放つイケメン男性。 彼は浅見をただの数合わせとしてではなく、特別な存在として猛烈にアプローチしてくる。 仕事と恋愛、どちらも慣れていない彼女が、戸惑いながらも少しずつ心を開いていく様子を描いた、アラサー女子のリアルな恋愛模様と成長の物語。

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛

三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。 ​「……ここは?」 ​か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。 ​顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。 ​私は一体、誰なのだろう?

なくなって気付く愛

戒月冷音
恋愛
生まれて死ぬまで…意味があるのかしら?

処理中です...