エロサーガ 童貞と処女の歌

鍋雪平

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第七章「セックス」

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 それから夜が明けて、次の日。
「ああっ、いけませんわご主人様……。わたくしめは、身分の卑しき召使いでございます……。そんな汚いところの匂いを嗅がれては……」
 昨晩遅くまで夜更かしをしたせいか。それとも長旅の疲れが溜まっていたのか。エロナは、びっしょりと汗をかくほど熱を出して寝込んでしまった。
 虫か何かに肌をくすぐられてこそばゆそうにむずむずしながら、少し荒っぽい寝息を立てている。んんっ、とわずかに眉を寄せた表情も、何か言いたげで苦しそうだ。
「ご主人様ったら、こんな恥ずかしい格好をさせるなんてあんまりですわ……。わたくしのことを焦らしていらっしゃるの……?」
 いつものように山奥の渓谷から水を汲んできたクライオは、濡らした布巾をしぼっておでこを冷やしてやった。干した肉や野菜をふやかしてだし汁をこしらえ、さじの先ですすらせる。
 寝床から抱き起こされてほんの一時だけ目を覚ましたエロナは、いかにも不味そうに喉を鳴らしてごくっと飲み下す。
 狩りや釣りにも出かけずつきっきりで看病しているあいだ、クライオは、エロナの枕元に置かれていた書物を取って読みふける。
 革製の分厚い表紙で綴じられた、ずっしりと重たい本だった。まるで魔導書みたいに立派な装丁がなされている。
 そして、古びて黄ばんだ紙が傷まぬようにそっとページをめくり、おのれ自身の出生に隠された秘密を知った。
「わたくしったら、とんだ朝寝坊をしてしまいました。どうぞお声をかけて起こしてくださればよかったのに」
「あんまり気持ちよさそうに寝ていたんで、そっとしておこうと思ってな」
 エロナは、テントの中で隠れて着替えを済ませると、寝癖を直してぱっぱと身だしなみをととのえる。
 幸い、得体の知れない毒きのこにあたってお腹を下した程度だったらしく、身体の中から悪いものを出し切ってしまえば、まるでそれまでの症状が嘘だったかのようにすっかり元気になった。
 とはいえ、病み上がりに無理をしてぶり返してしまっては元も子もない。しばらくは安静にしておいたほうがいいだろう。
「ちょっと用事があるから出かけてくるぞ」
 それだけ言い残して住み慣れた森を離れたこの数日間、はたしてクライオ自身に一体どんな心境の変化があったのか、詳しいことは語られていない。
 普段からあまり人付き合いはよくなかったようだが、畑仕事の手伝いやら獣退治やらで村の百姓たちにいくらかの貸しがあり、あちこち知り合いのつてを頼って借金をしている。
 一応それなりに信用があったらしく、いくらかの穀物袋に加えて駄馬を一頭連れて帰っている。当時の相場で換算すると、だいたい銀貨五、六枚ぶんくらいの価値だ。節約すれば二三ヶ月は食いつなげるが、当面の旅費としては心もとない。
 それから、精霊術の師であるウルリクへ別れを告げに行った。
「おまえはすでにセックスを極めている。もはや教えることはない」
「いいえ、俺はまだ何もわかっていません。今まで一度もしたことがないんですから」
「童貞とは、いまだ女を知らざる者にあらず。かのごとく女の敵ならざる者なり。その心、大人になっても忘れるでないぞ」
 この人物について確かな記録は残っていないが、クライオ自身の人生に与えた影響は大きく、後年、父は誰ぞやと聞かれてウルリクの名前を挙げた。さらに母は誰ぞやと問われて、聖女フローディアと答えた。
「それにしても、本当によろしいのですか?」
 エロナが不安そうな面持ちで突然こんなことに言い出したのは、旅支度を済ませていよいよ出発する間際のことだった。
「クライオ様の正体が世間に知れてしまったら、あの暴君ダリオンからお命を狙われることになります。きっとアンブローネ様のように、よからぬことをたくらんで近づいてくる女性もいるでしょう。わたくしはただ、それだけが心配で……」
「ご主人様のことが大切なんだろう? だったら助けに行こうじゃないか」
 クライオは、借りてきた駄馬に荷物を積んでロープで縛りながら、何気なく答える。
「俺はただ、できるだけ多くの人々がそうであってほしいと望むように生きるだけだ。今までも、これからもな」
「できるだけ多くの人々が、そうであってほしいと望むように……?」
「子供のころに母さんから教えてもらった言葉だ。だから俺は、みんなから尊敬される立派な王様になると決めた。誰もがうらやむような自慢の息子に。こんなふうに考えるのは、間違っているだろうか?」
「いいえ、僭越ながらとても素晴らしいお考えでございます。この帝国を統べる君主となるのに、あなた様ほどふさわしい人物はおりません。ですが、しかし……」
 エロナは、どこか心の奥に何とも言えないもやもやとした気持ちを覚えた。
 このお方は、お母様への思いがあまりにも強すぎる。もはや偏執的とさえ言えるほどに。揺るぎなき固い意志とは裏腹に、ひどく弱くて頼りない部分を隠し持っており、それが悔しくもありもどかしくもある。
 このわたくしが、正しき道から外れぬように陰ながらお支えして差し上げなければ……。それこそが、ご主人様から与えられたわたくしの役目……。いいえ、これからはこのお方こそが、わたくしの新しいご主人様なのだから……。
「どうぞ、お受け取りくださいませ」
 エロナは、クライオの足元にひざまずいて頭を下げると、賢者グリフィムから託された王家伝来の剣を献上する。
「これよりわたくしは、あなた様の従順な召使いでございます。この身も心もすべて、あなた様だけのもの。お望みとあらばどんな行為もいといません」
「すまないが、他人から持ち物を奪うことはできない」
「いいえ、奪われるのではありません。わたくしから差し上げるのです」
「この俺にセックスをさせるな」
「セックス……?」
「どうしても必要になったら借りるとしよう。それまでは君が預かっておいてくれ」
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