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第七章「セックス」
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アンブローネは、空中に手のひらをかざして炎を燃やす。
素手のまま拳を握りしめて、大きく一歩踏み込みながら勢いよく振り払う。すると、つむじ風に巻かれた焔が一瞬にしてかき消える。
「ちょっと手加減をしすぎたかしら。生かさず殺さずって難しいわね」
「一体、何が起こったんだ……?」
あまりにも早すぎて目で追えなかったのか、それとも本当に目の前で消えてしまったのか。
真っ正面からまともに爆発を浴びてしまったものの、火傷どころか髪の毛ひとつ燃えていない。何やらほのかにふわっと焦げくさい煙が鼻をくすぐるように感じた程度だ。
それだけに、いささか驚愕しつつも動揺を見せずにあえて余裕ぶったアンブローネの態度が、かえって不気味でならない。
「まあいいわ。今の試練に耐えられたのなら、とりあえずは合格ってことね」
「合格だと……?」
「とにかくこれで、あなたが童貞だってことはわかったわ。ひとまず武器を下ろして、落ち着いて話し合いましょう」
「……なぜだ! どうしてわかる!」
「さっきの反応を見れば一目瞭然よ。だってあなた、私の魔法がまったく通じないんだもの」
魔女アンブローネは、その名の通り本物の魔女だった。
しかしながら、たとえいかなる魔法や錬金術をもってしても、絶対に実現できないと言われることがある。
不老不死。若返り。死者の蘇生。生まれ変わり。
いわゆる神のみぞなせる御業というやつだ。
人間は神様によって作られた存在であり、それゆえに禁忌を犯してはならない。宗教にかわって科学が信仰されるようになった現在でも、そのように考える人々は少なくない。
さらに時代をさかのぼると、かつてエール帝国という文明が発展を遂げる以前までこの世界に住んでいたであろう人々は、生命の神秘についてこんなふうに考えていた。
およそすべての命は、生まれながらにして霊魂で満ちており、あるいは生まれつきそれを作り出すための能力が備わっており、死期が近づくにつれて少しずつ失われていくと。
そして魔女と呼ばれる者たちは、初潮を迎えるまえか、もしくは閉経を迎えたあと、おのれ自身の秘められた才能に気づくことが多い。老齢に差しかかり体力が衰えるにつれて、ますます霊感が強まっていく傾向にある。
まるで生殖力の強さと反比例するかのように。
「さがっていろ、エロナ。どうやらあの女が狙っているは、俺じゃなくて君みたいだ」
「だからもう、あなたたちと争うつもりはないって言っているでしょう? 勘違いしちゃってごめんなさい。ちょっとからかってみただけよ」
アンブローネはそう言うと、両手を上げて降参の意思を示した。
ぱっぱと尻をはたいて焚き火のそばに腰かけると、足を組みつつ膝の上で頬杖をつく。鼻歌まじりに癖のある髪の毛をもてあそび、さっきから自分の爪ばかり気にしている。
若作りした見た目に反して年相応にしわがあるアンブローネの手には、王家の印章が彫られた純金の指輪がはめられている。
聖女から授けられる帝冠、宮殿に据えられた玉座、竜を倒したと伝わる王剣などと並んで、博物館に飾られるべき伝説級の国宝だ。
それを手に入れた者は、皇帝にかわって天下にあまねく布告を発することができる。いわば法律や条約に判を押すための印鑑だ。偽造されないように極めて微細な彫刻がほどこされている。
「もしよかったら、この私とセックスしない?」
「……何だって?」
「だから、セックスよ。初めてなんでしょう? だったら優しく教えてあげる」
アンブローネは、さも思わせぶりになで回すような仕草で手まねきをした。こっちこっちと舌なめずりをしてクライオを呼び寄せる。
相手の話し声が小さくてうまく聞き取れなかったクライオは、警戒しつつも油断せずに少しずつ距離を詰めていく。
「あんた、さてはこの土地の者だな?」
「ええ、そうよ」
「だったら、その意味をわかったうえで言っているのか?」
「そんなの、誰にも見つからなければいいだけのことよ。ほら、一度でいいからやらせてほしいと言ってごらんなさい。そしたら、好きなようにさせてあげる」
クライオは、おのれ自身の中で獣の本能が目覚めるのを感じた。どくん、どくんと心臓の鼓動が早まり、ますます吐く息が白くなる。
「――ひょっとして、今のは呪いの言葉か何かですか? わたくしにも教えてくださいませ、クライオ様。セックスというのは、一体どういう意味なのです?」
あやうく心を揺さぶられ足腰がふらつきかけた瞬間、今まで背中越しに隠れて様子をうかがっていたエロナが、クライオの腕をつかんで引き留める。
「セックスはセックスだ。それ以外の何物でもない」
「先ほどからちょくちょく気になっていたのですが、セックスとはもしかして、あれのことだったのですか? わたくしったらてっきり、人を殺めて命を奪うことだとばかり……」
「俺たちにとって、絶対に犯してはならない禁じられた行為のことだ」
「それってつまり、いわゆるあんなことやこんなことですよね? 具体的に言うと、どこまでなら良くて、どこからが駄目なのでしょう?」
「――うるさい、黙れ! いちいち話しかけるな!」
クライオは、つかまれた腕を強引に振りほどいてエロナを突き飛ばす。熱くたぎった血潮が全身を駆けめぐり、流れに逆らって頭までのぼってくる。
北方民族に古くから伝わる獣化という術は、我を忘れて獣のごとく暴れ狂う危険な技だ。死の境地へと至った者のみが習得できる究極の奥義と言ってもいい。
しかし、あまりにも興奮しすぎておのれの限界を超えた途端、いきなり鼻血を噴いて倒れてしまったり、どんどん呼吸が浅くなり意識を失ってしまう。
「その申し出、もしも断ったら?」
「あなたを殺すわ」
アンブローネは、さも事もなげに言った。真っ赤な紅を引いた口元に不敵な笑みを浮かべながら。
「どうやら、話し合いは無駄みたいだな」
「あなたは、私たちにとってとても危険な存在なの。残念だけど、セックスしてくれないんだったら殺すしかないわ」
「だから、どうしてそうなるんだ。まったく意味がわからん」
「今はまだ、私の目的について話すつもりはない。もしもこんな計画がばれたら、私自身だって危険だもの。あなたが私のことを好きになってくれたら、教えてあげてもいいわよ」
「わざわざ知りたくもないね」
「あなたにとって、私のかわりなんていくらでもいる。だけど、この帝国で生きるすべての女にとって、あなたはたった一人だけの特別な存在。だからこそ、この私を選びなさい。あなた自身に選んでほしいの。選んでくれないなら、選ばせてあげる」
「やっぱりあんたは、ちょっと冷静じゃない。頼むから、今日のところはもう帰ってくれ。それがお互いのためだ」
「ええ、そうね。私としたことが、ついつい喋りすぎてしまったわ。でも、これだけは言わせて。私はただ、このお腹の中にあなたの子が欲しいだけ。それ以外には何もいらない」
アンブローネはそう言って、みずからの下腹に手のひらを当てて優しくさする。
大きく開いた胸元の谷間や、ぱんと張った尻回りについつい目が行きがちだが、背中の筋肉は反り返るほど引き締まっており、普段から稽古を怠らず鍛えているように見える。
「それとも、私みたいなおばさんじゃご不満かしら?」
「誰もそんなことは言っていない」
「ふふっ、素直じゃないのね。あなたみたいな子、私も嫌いじゃないわ」
アンブローネは、鼻を鳴らしてすり寄ってきた馬のたてがみをなでつつ、恥じらいもなくドレスの裾をたぐって太ももをさらす。
誰の手も借りずに足をかけて鞍にまたがると、手綱をしならせるなり馬上で揺られながらゆっくりと山を下りていく。
「その気になったら、いつでもよくてよ。次はあなたのほうから会いに来て」
素手のまま拳を握りしめて、大きく一歩踏み込みながら勢いよく振り払う。すると、つむじ風に巻かれた焔が一瞬にしてかき消える。
「ちょっと手加減をしすぎたかしら。生かさず殺さずって難しいわね」
「一体、何が起こったんだ……?」
あまりにも早すぎて目で追えなかったのか、それとも本当に目の前で消えてしまったのか。
真っ正面からまともに爆発を浴びてしまったものの、火傷どころか髪の毛ひとつ燃えていない。何やらほのかにふわっと焦げくさい煙が鼻をくすぐるように感じた程度だ。
それだけに、いささか驚愕しつつも動揺を見せずにあえて余裕ぶったアンブローネの態度が、かえって不気味でならない。
「まあいいわ。今の試練に耐えられたのなら、とりあえずは合格ってことね」
「合格だと……?」
「とにかくこれで、あなたが童貞だってことはわかったわ。ひとまず武器を下ろして、落ち着いて話し合いましょう」
「……なぜだ! どうしてわかる!」
「さっきの反応を見れば一目瞭然よ。だってあなた、私の魔法がまったく通じないんだもの」
魔女アンブローネは、その名の通り本物の魔女だった。
しかしながら、たとえいかなる魔法や錬金術をもってしても、絶対に実現できないと言われることがある。
不老不死。若返り。死者の蘇生。生まれ変わり。
いわゆる神のみぞなせる御業というやつだ。
人間は神様によって作られた存在であり、それゆえに禁忌を犯してはならない。宗教にかわって科学が信仰されるようになった現在でも、そのように考える人々は少なくない。
さらに時代をさかのぼると、かつてエール帝国という文明が発展を遂げる以前までこの世界に住んでいたであろう人々は、生命の神秘についてこんなふうに考えていた。
およそすべての命は、生まれながらにして霊魂で満ちており、あるいは生まれつきそれを作り出すための能力が備わっており、死期が近づくにつれて少しずつ失われていくと。
そして魔女と呼ばれる者たちは、初潮を迎えるまえか、もしくは閉経を迎えたあと、おのれ自身の秘められた才能に気づくことが多い。老齢に差しかかり体力が衰えるにつれて、ますます霊感が強まっていく傾向にある。
まるで生殖力の強さと反比例するかのように。
「さがっていろ、エロナ。どうやらあの女が狙っているは、俺じゃなくて君みたいだ」
「だからもう、あなたたちと争うつもりはないって言っているでしょう? 勘違いしちゃってごめんなさい。ちょっとからかってみただけよ」
アンブローネはそう言うと、両手を上げて降参の意思を示した。
ぱっぱと尻をはたいて焚き火のそばに腰かけると、足を組みつつ膝の上で頬杖をつく。鼻歌まじりに癖のある髪の毛をもてあそび、さっきから自分の爪ばかり気にしている。
若作りした見た目に反して年相応にしわがあるアンブローネの手には、王家の印章が彫られた純金の指輪がはめられている。
聖女から授けられる帝冠、宮殿に据えられた玉座、竜を倒したと伝わる王剣などと並んで、博物館に飾られるべき伝説級の国宝だ。
それを手に入れた者は、皇帝にかわって天下にあまねく布告を発することができる。いわば法律や条約に判を押すための印鑑だ。偽造されないように極めて微細な彫刻がほどこされている。
「もしよかったら、この私とセックスしない?」
「……何だって?」
「だから、セックスよ。初めてなんでしょう? だったら優しく教えてあげる」
アンブローネは、さも思わせぶりになで回すような仕草で手まねきをした。こっちこっちと舌なめずりをしてクライオを呼び寄せる。
相手の話し声が小さくてうまく聞き取れなかったクライオは、警戒しつつも油断せずに少しずつ距離を詰めていく。
「あんた、さてはこの土地の者だな?」
「ええ、そうよ」
「だったら、その意味をわかったうえで言っているのか?」
「そんなの、誰にも見つからなければいいだけのことよ。ほら、一度でいいからやらせてほしいと言ってごらんなさい。そしたら、好きなようにさせてあげる」
クライオは、おのれ自身の中で獣の本能が目覚めるのを感じた。どくん、どくんと心臓の鼓動が早まり、ますます吐く息が白くなる。
「――ひょっとして、今のは呪いの言葉か何かですか? わたくしにも教えてくださいませ、クライオ様。セックスというのは、一体どういう意味なのです?」
あやうく心を揺さぶられ足腰がふらつきかけた瞬間、今まで背中越しに隠れて様子をうかがっていたエロナが、クライオの腕をつかんで引き留める。
「セックスはセックスだ。それ以外の何物でもない」
「先ほどからちょくちょく気になっていたのですが、セックスとはもしかして、あれのことだったのですか? わたくしったらてっきり、人を殺めて命を奪うことだとばかり……」
「俺たちにとって、絶対に犯してはならない禁じられた行為のことだ」
「それってつまり、いわゆるあんなことやこんなことですよね? 具体的に言うと、どこまでなら良くて、どこからが駄目なのでしょう?」
「――うるさい、黙れ! いちいち話しかけるな!」
クライオは、つかまれた腕を強引に振りほどいてエロナを突き飛ばす。熱くたぎった血潮が全身を駆けめぐり、流れに逆らって頭までのぼってくる。
北方民族に古くから伝わる獣化という術は、我を忘れて獣のごとく暴れ狂う危険な技だ。死の境地へと至った者のみが習得できる究極の奥義と言ってもいい。
しかし、あまりにも興奮しすぎておのれの限界を超えた途端、いきなり鼻血を噴いて倒れてしまったり、どんどん呼吸が浅くなり意識を失ってしまう。
「その申し出、もしも断ったら?」
「あなたを殺すわ」
アンブローネは、さも事もなげに言った。真っ赤な紅を引いた口元に不敵な笑みを浮かべながら。
「どうやら、話し合いは無駄みたいだな」
「あなたは、私たちにとってとても危険な存在なの。残念だけど、セックスしてくれないんだったら殺すしかないわ」
「だから、どうしてそうなるんだ。まったく意味がわからん」
「今はまだ、私の目的について話すつもりはない。もしもこんな計画がばれたら、私自身だって危険だもの。あなたが私のことを好きになってくれたら、教えてあげてもいいわよ」
「わざわざ知りたくもないね」
「あなたにとって、私のかわりなんていくらでもいる。だけど、この帝国で生きるすべての女にとって、あなたはたった一人だけの特別な存在。だからこそ、この私を選びなさい。あなた自身に選んでほしいの。選んでくれないなら、選ばせてあげる」
「やっぱりあんたは、ちょっと冷静じゃない。頼むから、今日のところはもう帰ってくれ。それがお互いのためだ」
「ええ、そうね。私としたことが、ついつい喋りすぎてしまったわ。でも、これだけは言わせて。私はただ、このお腹の中にあなたの子が欲しいだけ。それ以外には何もいらない」
アンブローネはそう言って、みずからの下腹に手のひらを当てて優しくさする。
大きく開いた胸元の谷間や、ぱんと張った尻回りについつい目が行きがちだが、背中の筋肉は反り返るほど引き締まっており、普段から稽古を怠らず鍛えているように見える。
「それとも、私みたいなおばさんじゃご不満かしら?」
「誰もそんなことは言っていない」
「ふふっ、素直じゃないのね。あなたみたいな子、私も嫌いじゃないわ」
アンブローネは、鼻を鳴らしてすり寄ってきた馬のたてがみをなでつつ、恥じらいもなくドレスの裾をたぐって太ももをさらす。
誰の手も借りずに足をかけて鞍にまたがると、手綱をしならせるなり馬上で揺られながらゆっくりと山を下りていく。
「その気になったら、いつでもよくてよ。次はあなたのほうから会いに来て」
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