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第七章 かめ、浅草を闊歩する
旅立ちの日に
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皇室に出仕する用意を終えた朝。
何もないガランとした部屋に佇んでいると、ふと、寂しさがこみ上げてきた。
もう二度と、公爵邸の敷居は跨がないかもしれない。
ここで生まれ育ったとはいえ、あたしは公爵家とは縁もゆかりもない。
なんなら影武者に任命された運命のあの日に、たけさんや他の使用人たちと同様に切り捨てられていたかもしれない、ちっぽけな存在なの。
頭では理解していても、心は悲しく押しつぶされそうになる。
いつになく感傷的になっていると、ノックの音がして新二が入って来た。
「用意できた?」
あたしは目尻を手で拭うと、旅行鞄を手にした。
「ええ、すぐに行けるわ。」
「それ、持つよ。」
あら、気が利くわね。
あたしの荷物なんてこれ一つよ。
新二はあたしの旅行鞄を受け取ると、おもむろに床に置いた。
あれ? 車まで運んでくれるのかと思ったのに。
新二は茶色の前髪の隙間からあたしをまっすぐに見た。
「かめは、本当に皇妃になりたいの?」
ん?
「いつか俺に言ったよな。『髪結いになりたいから皇妃は考えていない』って。
それとも、半年間で考えが変わったの?」
んん??
どうして今、そんな質問を?
唐突な会話の内容に、あたしの解析が追いつかないわ。
「今なら、間に合う。」
新二は近づいてくると、あたしの両肩をガッと強く掴んだ。
「あんたが望むなら、今すぐここから逃がしてやるし、どこか行きついた先で髪結いの仕事も教えてやる。俺と一緒に行かないか?」
ぶっきらぼうでどこか冷めているヤツと思っていた新二が、切羽詰まった口調であたしに激しく問いかけた。
まさか、こんな情熱を胸に秘めていたなんて・・・。
「あたしは・・・。」
心臓がバクバクして、頭の中が整理できないわ。
「俺じゃ、駄目か?」
新二は切なそうに目の縁を紅潮させた。
正直、何度も逃げ出したいと思っていたし、今もこの申し出に心が揺らぐ。
やり直しができるなら、何もかも捨てて新二について行くのも悪くないのかもしれない。
ただ・・・。
「そ、そんなことをしたら、新二が新一の信用を失くすんじゃないの?
兄弟なんだから、気まずいでしょ。」
とっさに出たあたしの言葉に新二の眉がピクリと動いた。
「兄上とか、関係ない。それに俺とちゃんと血がつながってる兄弟は新三郎だけだ。」
あたしはゴクリと生唾を飲んだ。
「それ、どういうこと?」
「事情があって同じ家で育っただけで、俺たちと兄上は他人なんだ。
むしろ、兄上と東宮が・・・。」
その時不意に扉が開いて、新一がドン! と壁を拳で殴った。
「お前、そんなにお喋りだったのか?」
ド派手な大礼服に身を包んだ新一は、部屋に長い足を踏み入れた。
「お前は他人だと思っているかもしれないが、俺にとっては可愛い弟だ。
覚えていないかもしれないが、お前のおしめを取り換えたり、哺乳瓶でミルクをあげたりしたのは俺だぞ。」
わーん、いじめっ子!
新一ってあたしだけじゃなく、どんな状況でも誰に対してでも茶化す態度は崩さないわよね。
ある意味、尊敬するわ・・・。
「俺は・・・兄上みたいになりたくない。
好きな女には、幸せになってほしい。それだけだ。」
あ、あたしのことッ⁉
【好きな女】という文言に、あたしは胸をグサリと刺された。
大蒼もだけど、こんな芋虫女中を同時に好きになってくれるなんて。
物好きも良いところだわ。
2人とも【審美眼が崩壊する流行り病】に侵されているんじゃないのかしら。
(そんな病があるとは、聞いたことがないのだけど。)
一度、病院で検査してきてね!
「ごめんね、新二。あたし、やっぱり皇室に行くわ。」
気まずい沈黙に耐えきれず、あたしが口火を切った。
「だからって、髪結いを諦めたわけでもないし、皇妃になりたいわけじゃない。
だって、あたしの本性を見たら大蒼の熱意が冷めて内定破棄されるかもしれないしッ!
ほら、鼾が豚みたいだとか、お尻かきながら歩くとか、食い意地が張ってるとか、あたし、ぜんっぜん淑女じゃないから‼」
「それは飾らない姿だろ。あんたは、それが魅力なんだよ。」
フッと表情を緩めると、新二は後ずさりした。
「俺は、諦めない。
もし、東宮があんたを蔑ろにしたりしたら、俺が飛んでいって攫ってやるから、安心しろよな。」
新二は踵を返すと旅行鞄を手に部屋を出ていき、あたしと新一はポツンと取り残された。
新一の秘密を聞いたあとだから、何を話していいのやら。
しかも新二が、大蒼と新一の間にも何らかの秘密があると言いかけたけど、それは何なのかしら。
あたしは迷いに迷って、一番聞きたいことを聞いた。
「新一は・・・あたしが東宮の典侍になることをどう思っているの?」
「別に。」
新一は顔にかかる長い前髪をかきあげると、美しい眉間に不機嫌そうなシワを寄せた。
「お前は?
あいつのことを生涯愛し、支える自信はあるのか?」
「そんなの・・・まだ分からないわ。」
「じゃあ、俺はその件についてはどうも思わない。」
新一はあたしを鏡台に座らせると、髪を結いながら言葉を続けた。
「俺は俺の考えがあるし、お前の人生はお前のものだ。
誰が何と言おうと、やりたい事をやるべきだし、やりたくない事はやるべきではない。」
「・・・そうはいかないわよ。」
張っていた糸がプチンと切れたように、あたしは新一にわめき散らした。
なぜだか分からないけど、胸が苦しくて八つ当たりせずにはいられなかった。
「だって、やりたくない事をやるのが普通でしょ?
あたしは可愛くないし、、貧乏だし器用でもないから、そうやって15年間生きてきたわ。
今さら自由に生きろと言われても、運命の荒波には抗えないし、どうすることもできないのよ!」
あたしの髪を触る新一の手が止まった。
「新一には、あたしの気持ちは分からないわよ!
新一は美しいし、髪結いの技術があるし、皇室の官吏だし、みんなにちやほやされて自由に生きられるから!」
「そんなんじゃない。」
黒いゴムでキュッと一束の根本を締める新一と鏡越しに目が合った。
「でも、かめも俺の気持ちは分かっていないから、おあいこだよ。」
目が合った瞬間、儚げに新一が微笑んだ。
うう。この美しさが、またあたしの思考を止めてしまうのよ。
「もっと真剣に聞いてよ!
あたし、本当に出仕するか悩んでいるのに。」
「もしかして・・・皇妃なんか辞めて俺と逃げようって言ってほしいのか?」
意地悪な口調で、新一があたしをからかった。
「あ、あるわけないでしょ。あれだけ毎日虐められていたのに!」
「それでいい。」
そう言いながら、新一は後ろからあたしの肩に手を置くと、深い吐息とともに耳元で囁いた。
「俺では、お前を幸せにはできない。」
何もないガランとした部屋に佇んでいると、ふと、寂しさがこみ上げてきた。
もう二度と、公爵邸の敷居は跨がないかもしれない。
ここで生まれ育ったとはいえ、あたしは公爵家とは縁もゆかりもない。
なんなら影武者に任命された運命のあの日に、たけさんや他の使用人たちと同様に切り捨てられていたかもしれない、ちっぽけな存在なの。
頭では理解していても、心は悲しく押しつぶされそうになる。
いつになく感傷的になっていると、ノックの音がして新二が入って来た。
「用意できた?」
あたしは目尻を手で拭うと、旅行鞄を手にした。
「ええ、すぐに行けるわ。」
「それ、持つよ。」
あら、気が利くわね。
あたしの荷物なんてこれ一つよ。
新二はあたしの旅行鞄を受け取ると、おもむろに床に置いた。
あれ? 車まで運んでくれるのかと思ったのに。
新二は茶色の前髪の隙間からあたしをまっすぐに見た。
「かめは、本当に皇妃になりたいの?」
ん?
「いつか俺に言ったよな。『髪結いになりたいから皇妃は考えていない』って。
それとも、半年間で考えが変わったの?」
んん??
どうして今、そんな質問を?
唐突な会話の内容に、あたしの解析が追いつかないわ。
「今なら、間に合う。」
新二は近づいてくると、あたしの両肩をガッと強く掴んだ。
「あんたが望むなら、今すぐここから逃がしてやるし、どこか行きついた先で髪結いの仕事も教えてやる。俺と一緒に行かないか?」
ぶっきらぼうでどこか冷めているヤツと思っていた新二が、切羽詰まった口調であたしに激しく問いかけた。
まさか、こんな情熱を胸に秘めていたなんて・・・。
「あたしは・・・。」
心臓がバクバクして、頭の中が整理できないわ。
「俺じゃ、駄目か?」
新二は切なそうに目の縁を紅潮させた。
正直、何度も逃げ出したいと思っていたし、今もこの申し出に心が揺らぐ。
やり直しができるなら、何もかも捨てて新二について行くのも悪くないのかもしれない。
ただ・・・。
「そ、そんなことをしたら、新二が新一の信用を失くすんじゃないの?
兄弟なんだから、気まずいでしょ。」
とっさに出たあたしの言葉に新二の眉がピクリと動いた。
「兄上とか、関係ない。それに俺とちゃんと血がつながってる兄弟は新三郎だけだ。」
あたしはゴクリと生唾を飲んだ。
「それ、どういうこと?」
「事情があって同じ家で育っただけで、俺たちと兄上は他人なんだ。
むしろ、兄上と東宮が・・・。」
その時不意に扉が開いて、新一がドン! と壁を拳で殴った。
「お前、そんなにお喋りだったのか?」
ド派手な大礼服に身を包んだ新一は、部屋に長い足を踏み入れた。
「お前は他人だと思っているかもしれないが、俺にとっては可愛い弟だ。
覚えていないかもしれないが、お前のおしめを取り換えたり、哺乳瓶でミルクをあげたりしたのは俺だぞ。」
わーん、いじめっ子!
新一ってあたしだけじゃなく、どんな状況でも誰に対してでも茶化す態度は崩さないわよね。
ある意味、尊敬するわ・・・。
「俺は・・・兄上みたいになりたくない。
好きな女には、幸せになってほしい。それだけだ。」
あ、あたしのことッ⁉
【好きな女】という文言に、あたしは胸をグサリと刺された。
大蒼もだけど、こんな芋虫女中を同時に好きになってくれるなんて。
物好きも良いところだわ。
2人とも【審美眼が崩壊する流行り病】に侵されているんじゃないのかしら。
(そんな病があるとは、聞いたことがないのだけど。)
一度、病院で検査してきてね!
「ごめんね、新二。あたし、やっぱり皇室に行くわ。」
気まずい沈黙に耐えきれず、あたしが口火を切った。
「だからって、髪結いを諦めたわけでもないし、皇妃になりたいわけじゃない。
だって、あたしの本性を見たら大蒼の熱意が冷めて内定破棄されるかもしれないしッ!
ほら、鼾が豚みたいだとか、お尻かきながら歩くとか、食い意地が張ってるとか、あたし、ぜんっぜん淑女じゃないから‼」
「それは飾らない姿だろ。あんたは、それが魅力なんだよ。」
フッと表情を緩めると、新二は後ずさりした。
「俺は、諦めない。
もし、東宮があんたを蔑ろにしたりしたら、俺が飛んでいって攫ってやるから、安心しろよな。」
新二は踵を返すと旅行鞄を手に部屋を出ていき、あたしと新一はポツンと取り残された。
新一の秘密を聞いたあとだから、何を話していいのやら。
しかも新二が、大蒼と新一の間にも何らかの秘密があると言いかけたけど、それは何なのかしら。
あたしは迷いに迷って、一番聞きたいことを聞いた。
「新一は・・・あたしが東宮の典侍になることをどう思っているの?」
「別に。」
新一は顔にかかる長い前髪をかきあげると、美しい眉間に不機嫌そうなシワを寄せた。
「お前は?
あいつのことを生涯愛し、支える自信はあるのか?」
「そんなの・・・まだ分からないわ。」
「じゃあ、俺はその件についてはどうも思わない。」
新一はあたしを鏡台に座らせると、髪を結いながら言葉を続けた。
「俺は俺の考えがあるし、お前の人生はお前のものだ。
誰が何と言おうと、やりたい事をやるべきだし、やりたくない事はやるべきではない。」
「・・・そうはいかないわよ。」
張っていた糸がプチンと切れたように、あたしは新一にわめき散らした。
なぜだか分からないけど、胸が苦しくて八つ当たりせずにはいられなかった。
「だって、やりたくない事をやるのが普通でしょ?
あたしは可愛くないし、、貧乏だし器用でもないから、そうやって15年間生きてきたわ。
今さら自由に生きろと言われても、運命の荒波には抗えないし、どうすることもできないのよ!」
あたしの髪を触る新一の手が止まった。
「新一には、あたしの気持ちは分からないわよ!
新一は美しいし、髪結いの技術があるし、皇室の官吏だし、みんなにちやほやされて自由に生きられるから!」
「そんなんじゃない。」
黒いゴムでキュッと一束の根本を締める新一と鏡越しに目が合った。
「でも、かめも俺の気持ちは分かっていないから、おあいこだよ。」
目が合った瞬間、儚げに新一が微笑んだ。
うう。この美しさが、またあたしの思考を止めてしまうのよ。
「もっと真剣に聞いてよ!
あたし、本当に出仕するか悩んでいるのに。」
「もしかして・・・皇妃なんか辞めて俺と逃げようって言ってほしいのか?」
意地悪な口調で、新一があたしをからかった。
「あ、あるわけないでしょ。あれだけ毎日虐められていたのに!」
「それでいい。」
そう言いながら、新一は後ろからあたしの肩に手を置くと、深い吐息とともに耳元で囁いた。
「俺では、お前を幸せにはできない。」
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