上 下
44 / 44
第2章 僕が摂政をやらなければならないの!?

第43話 緊急事態

しおりを挟む
 ティエリがテオドロスを破った馬上槍試合の翌日。
 僕は軍の幹部たちを集めて、緊急の作戦会議を開いた。

「昨日、ニケフォロス・スグーロスと、ニケーアにいるゲルマノス総主教から、ほぼ同じ内容の緊急連絡が入った。
 イコニオンにいるトルコのスルタン、カイ=ホスローが10万の軍を召集し、わが国のスミルナを攻略目標として出陣の支度を整えているそうだ。
 この事態に至っては、予定していたロードス島への攻撃は当面中止し、トルコ軍の迎撃に全力を注ぐ他はない」
 僕が沈痛な面持ちで、全員に向かって説明する。それを聞いて、まずマヌエル・コーザスが真っ先に発言した。

「トルコ人は、タタール人に敗れたばかりで大打撃を受けているはず。トルコ人のどこに、一体そんな力が残っていたというのですか?」
「ゲルマノス総主教からの報告によると、確かにトルコ人はキョセ・ダグの戦いで、バイジュ・ノヤン率いるモンゴルの大軍に敗れ、モンゴルへの従属を余儀なくされた。
 しかし、スルタンのカイ=ホスローは、勝ち目がないと分かるとすぐに退却命令を出したため、軍が全滅したというわけではないらしい。
 そして、フィルズ・ベイからミラスの地が我が軍に奪われたとの報を聞くと、失われた国威を回復するため、ありったけの軍をかき集めてわが国への報復戦に乗り出すことにしたらしい。皮肉にも、モンゴルの属国となったため、モンゴル領に接する東方の守りに兵を割く必要がなくなり、それによって動員できる兵力が増えたらしい」

「しかし、10万という数は明らかに過大ですな。戦争の常として、動員する兵力は誇大に喧伝するものでありますから、良くて話半分と考えた方が良いのではないでしょうか?」
 ラスカリス将軍の指摘に、僕は確かにそうだと思い直した。こんな時にこそ頼れるのがイレーネだ。

「イレーネ、君の術で敵軍の数を調べてくれない?」
「トルコ人は、まだ軍を召集中。出陣する兵の数はまだ確定していないので、正確には答えられない」
「じゃあ、現在の段階で召集に応じている兵の数を教えて」
「了解した」
 イレーネは杖を振って、しばらく目を瞑って念じた後、

「……解析完了。現段階でカイ=ホスローの召集に応じる意向を示している兵の数は、合計51,429人。なお、これは戦闘員の数であって、従軍する非戦闘員の数は含まない」
「その兵士たちの内訳は分かる? 歩兵とか、弓騎兵とか」
「兵士たちのうち、スルタンの親衛隊である弓騎兵の数が2,122騎。不死隊と称される親衛隊歩兵の数が5,287人。配下の諸侯が率いる軍勢は、弓騎兵が3,922騎、突撃騎兵が1,412騎、歩兵が8,486人。それ以外は緊急に徴募された農民兵」
「詳細な報告ありがとう。そうすると、まともな訓練を受けた兵士の数は歩兵騎兵合わせて合計21,229人で、残る30,263人は農民兵ということか」

「それはちょっと違いますぞ、殿下」
 ヴァタツェス将軍がそう指摘してきた。
「どう違うんですか?」
「トルコ人のうち、質の上で脅威となるのはほぼ弓騎兵だけでございます。
 スルタンの不死隊というのは、名前だけは強そうに感じますが、実態は戦死者が出るとその度に欠員を補充しているだけで、歩兵としての練度はさほど高くありません。
 しかも、不死隊の多くは殿下と戦われたマイアンドロス河畔の戦い、さらにタタール人との戦いで多くの死者を出しているはずですから、今いる不死隊の大半は新兵と考えて宜しいかと。
 しかも、確か不死隊の定数は1万人でございますから、その定数すら埋められないとなると、敵側の状態はかなり深刻ですな。
 なお、諸侯が率いる歩兵隊というのも、これまで私がトルコ人と戦ってきた経験に照らし、大した敵ではありません。同数の兵で戦えば、ヴァリャーグ近衛隊はもちろんのこと、殿下の編成されたファランクス隊にも到底敵わないでしょうな」
「そうですか。では、突撃騎兵というのは?」
「文字どおり、敵軍に突撃を掛けるために編成された、重武装の騎兵隊のことです。もっとも、ティエリ殿の率いるラテン人の騎士隊に比べれば装備も貧弱で、練度も大したことはありません。せいぜい、我が軍の軽騎兵隊よりは少し強い程度です」

 ヴァタツェス将軍の指摘に、ラスカリス将軍も同意した。
「殿下、将軍の仰るとおりです。トルコ人の軍隊は、数を頼みに攻めかかるのは得意ですが、練度が低いため勢いが持続しないという欠点があります。これまでも、2倍以上のトルコ軍を撃退したことは何度もございますから、守りをしっかりと固めれば、まず大敗することはございますまい」
「……まあ、ベテランのお2人が揃ってそう言われるのなら、たぶんそうなんだろうけど」

「ところで、スルタンのカイ=ホスローというのは、どのような男なのですか?」
 アレスが疑問を呈したところ、トルコ人の事情に詳しいメンテシェが答えた。
「カイ=ホスローは、戦死した前スルタン、カイ=クバードの息子です。跡継ぎになることは以前より決まっていたので、彼の即位は想定の範囲内ですが、これまで戦争でのめぼしい実績はなく、おそらくスルタンとしての器量は可もなく、不可もなくといったところです」

「とは言え、我が軍の2倍以上ともなる大軍に対し、野戦で勝負するのはさすがに危ういですな。大軍の利を生かしにくい山岳地帯に砦を築いて、敵を消耗させるのが最上の策かと考えられます」とヴァタツェス将軍。
「砦を築くのは良いけど、敵の予想進路は分かるのですか?」
「分かりますぞ。攻略目標がスミルナということは、トルコ軍の通る道は大体同じですからな」
 ヴァタツェス将軍の言葉に、ラスカリス将軍も頷いた。


 他にも将校たちはいるが、僕自身も含めてそのほとんどは若手であり、このような場合の戦略はベテランのヴァタツェス将軍とラスカリス将軍に任せるしか無かった。
 ヴァタツェス将軍の発案で、トルコ軍の通過が予想される山岳地帯に合計7つの砦を築き、互いに連絡を取り牽制しあって敵を防ぐという作戦が決まった。僕は作戦を主導するというより、むしろ複数の砦でどのように敵を牽制するのか、具体的な方法をヴァタツェス将軍に教わる立場となった。

■◇■◇■◇

 ともあれ、作戦が決まったので軍を動かすことになったのだが、その段階でようやく気絶状態から回復したテオドラが僕に文句を言ってきた。
「なんで、あたしが休んでる間に、面白そうなこと勝手に進めてるのよ! あたしも、あのヴァリャーキーが吹っ飛ばされるところ見たかったのに! ちゃんとあたしにお詫びしなさい!」
「お詫びって、具体的に何をすればいいの? 謝ればいいの? それとも何か欲しいの?」
「みかっちは、主人であるあたしに対するお詫びとして、疲れたあたしの身体をマッサージしなさい。ご主人様にご奉仕するのは、奴隷としての義務よ!」
 なんだかよく分からないが、とりあえずはテオドラの言うとおりにするしかなさそうだった。


「ああああん、いやああああん、みかっち、そこらめええええん……」
 なんかテオドラが嬌声を上げているが、別に僕はエッチなマッサージをしているわけではない。
 ルミーナに教わったとおりのやり方で、うつぶせになったテオドラの身体にオリーブオイルを塗った上で、背中とか腰とか、太ももとかのあたりをマッサージしているだけだ。
 ……もっとも、テオドラが一糸まとわぬ裸の姿というのは、かなり問題があるけれど。

「殿下は、マッサージの素質がおありですね。皇女様も、ルミーナがするときよりも気持ち良い声を上げておられますよ」
「そうなの? というか、女の子って背中のあたりなんかをマッサージされるだけで、そんなに気持ちよくなるものなの?」
「なりますよ。これで殿下も、女の子に関する知識が1つ身に付きましたね。
 でも、いくら皇女様がお綺麗だからといって、マッサージの最中にプリアポス様をそんなに大きくされるのは宜しくないですね。マッサージが終わったら、ルミーナと一緒に子作りしましょうか?」
「……いや、いい」
 僕のマッサージで相変わらず嬌声を上げているテオドラを見ながら、僕は心の中でため息をついた。これから大変な戦争が始まるというのに、僕は何てことをやらされているんだろう。


 その晩。
 例によってイレーネが僕の許を訪ねて来たので、いつもご奉仕してもらっているお礼も兼ねて、イレーネにも同じマッサージをを試してみることにした。
「……イレーネ、気持ち良い?」
「…………!」
 イレーネは、テオドラと違って嬌声を出すことこそなかったが、この種の刺激には慣れていないらしく、ピクピクと身体を震わせていた。
 イレーネが小柄なこともあり、僕は何も知らない子供にエッチな悪戯をしているような、とてもいけないことをしているような気分になってしまった。
 僕はマッサージを止め、イレーネに感想を尋ねたが、当のイレーネは感じすぎてピクピクしており、声を発することも出来ないようだった。
 
 未知の感覚に震えているイレーネはすごく可愛い。またやりたい。
 ……でも、ここまで刺激が強すぎるのであれば、しばらくは止めておいた方が良いか。

 何か、戦争に関する知識のついでに、おかしな知識も身に付いてしまった。

■◇■◇■◇

 話がちょっと脱線してしまったが、僕は山岳地帯に軍を進め、守りに適した要所に7つの砦を建設させた。
 第1砦は僕が陣取る本陣で、第2砦はアレス、第3砦はネアルコス、第4砦はティエリ、第5砦はダフネ、第6砦はヴァタツェス将軍、第7砦はメンテシェが防衛を担当している。
 もっとも、7つの砦は臨時に作った移動拠点で結ばれており、どこかの砦が攻められたときには、直ちに他の砦から救援を送れるようにしてある。

「殿下。この周辺には、1000年ほど前にローマ帝国がアフロディスアスという町を作ったと言われているのですが、それらしきものは見当たらないですね。長い年月の間に、地中へ埋もれてしまったのでしょうか」
 砦の建設作業中、僕に随行しているパキュメレスがそんなことを言ってきた。
「そういう記録でもあるの?」
「はい。お師匠様から聞いた話ですが、古い歴史書にはこの周辺にアフロディスアスという町があって、立派な劇場や競技場などもあり、美しい彫刻なども飾られていたそうです」
「今では、ほとんど人の住んでいない土地になっているけど、昔はそういう時代もあったんだね」
 とりあえず、僕は建設中の砦群に、アフロディスアスという名前を付けることにした。

 総大将の僕としては、砦が完成する前にトルコ軍が攻めてきたらどうしよう、トルコ軍が別の方向から攻めてきたらどうしよう、ここで戦っている間にアンリが休戦協定を破って攻め込んできたり、あるいは他の敵が攻めてきたらどうしようなどと不安で一杯だったが、そうした不安はすべて杞憂に終わった。
 すべての砦が完成した後、確かにトルコ軍はこの地へやってきて、陣を張った。しかし、敵の数は予想以上に夥しいもので、僕は敵陣を見るだけで震えが止まらないようになってしまった。

■◇■◇■◇

 トルコ軍への対応を決めるための軍議が開かれたが、この段階でようやく合流してきたテオドロス・マンカファースは、砦から打って出ての強襲を主張した。
「異教徒など恐れることはありません! 7つの砦から一気に攻め下れば、敵を壊滅させるのは造作もないこと。このマンカファースが先陣を務めましょう!」
「その策はあまりにも危険過ぎる。少なくとも現段階では採用できない」
 僕はマンカファースの提案を却下したが、マンカファースはならば自分の軍だけでも敵を蹴散らして見せると言って聞かなかった。
 僕のほか、ヴァタツェス将軍、ラスカリス将軍などもマンカファースを制止したが、彼は耳を貸さず、ある夜、自分の配下約1000人の狂信者集団だけで、僕に無断で敵に夜襲を掛けてしまった。
 マンカファースの軍は、当初農民兵たちを殺しまくって調子に乗っていたが、やがて敵の主力による反撃を受けて多くの損害を出した挙句、砦へ戻ることなく自領へ逃げ帰ってしまった。

「……一体何なんだ、あいつ」
「殿下、マンカファースはそういう男です。自領を守るときには強いのですが、非常に自惚れが強く、攻める時は無謀な攻撃を仕掛け、あっさり撃破されるのが常です」
 ヴァタツェス将軍がそう説明してくれた。とりあえず、マンカファースは戦力に数えない方が良さそうである。


 一方、マンカファースの軍を蹴散らして勢いづいたトルコ軍に対し、僕はニケフォロス・スグーロスを使者として派遣して和平交渉を申し入れたが、スルタンの返答は和平の条件として、フィルズ・ベイから奪った土地のみならず、スミルナとその町以南の全ての領土を割譲するよう要求してきたため、交渉は決裂に終わった。
「駄目でした。スルタンのカイ=ホスローは、マンカファースの軍を破って既に勝った気になっているようです。将兵たちもお祭り気分になっています。その一方で、カイ=ホスローと従軍しているフィルズ・ベイとの関係は悪化しているようです」
 使者に出したニケフォロスがそのように報告してきた。
 ニケフォロスを使者に送ったのは、彼がこうした観察眼に優れているからである。同じ使節でも、身分が高いだけが取り柄のテオドロス・イレニコスとはこのあたりが違う。

「カイ=ホスローと、フィルズ・ベイの間に何があった?」
「どうやらカイ=ホスローは、我が国からミラス周辺の領土を取り返しても、それをフィルズ・ベイに返す気はないようで、それにフィルズ・ベイが腹を立てているようです。他の将たちも、既にわが国から領土を奪うことを前提に、奪った領土の分配をめぐって言い争いを始めています」
「ご苦労だった。今後も敵に探りを入れてみてくれ」
 何となく付け入る隙が出て来たように思われたが、それでもトルコ人の大軍を相手にする僕の不安は収まらなかった。

■◇■◇■◇

 僕が、砦の中で不安に駆られつつ、久しぶりにマリアに会いたいななどと埒もないことを考えながら眠りに就くと、次の日僕は、久し振りに日本で目を覚ましていた。
 この日本では、ビザンティン世界と違って敵の大軍に襲われる心配などはしなくてよい。学校で久しぶりに何もない平和な1日を過ごそうなどと考えて、いつもの通り授業に臨んだ。戦場でも教科書などを持ち歩いて、少ない時でも1日1時間くらいは授業の復習などをしているので、授業について行けないということは無い。

 今日も、何事もない学校での一日が終わるかと思われた放課後のホームルーム。
 クラス委員長の中崎さんから、「新しい席順が決まりましたので、予告どおり只今から席替えを行っていただきます」との報告があった。
 ……そう言えば、そんな話もあったなと、僕は今更のように思い出した。
 席替えの予告があったのは、日本時間ではたぶん1週間くらい前の話だと思うけど、その間に僕は、ビザンティン世界で数か月くらいの時間を過ごしている。そのせいで、席替えの話まで覚えていなかったのだ。


 そして、新しい席の配置を知って、僕は驚愕した。僕の隣に座るのは、マリアそっくりの湯川美沙さんだった!
 どうしよう。心臓がバクバクして、冷や汗が止まらない。おそらく、トルコの大軍を見たときより、今の方が緊張している。
 あの湯川さんが隣に来たら、一体僕はどう対処すればいいんだろう。僕が錯乱しかけたときに、

「まずはきちんと挨拶することからだよ。頑張って、お兄ちゃん」

 例の不思議な声が聞こえてきた。そうだ、ここは最初にきちんと挨拶をして、今までの悪い印象を克服することだ。僕は少しだけ落ち着きを取り戻した。


 僕は自分の席を所定の場所に移動し、湯川さんも僕の隣の席に移動してきた。そんな湯川さんに僕が挨拶しようとすると、なんと先に湯川さんの方から挨拶してきた!
「ゆ、湯川美沙、なのです。……これから、宜しくお願いします、なのです」
 顔だけでなく、声や喋り方までマリアにそっくりだった湯川さんの挨拶に内心驚くも、僕は何とか挨拶を返した。

「さ、榊原雅史です。こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
 ちなみに、榊原雅史というのは、日本の世界における僕の名前。
 読み方は「さかきばら まさひと」である。
 日本世界での僕なんかどうでもいいと思っていたので今まで名前は出さなかったが、誰かさんに『名無しの権兵衛』などとからかわれるのはもう御免なので、一応名前を出しておく。

 挨拶は無事終わったものの、二人とも無言になってしまい会話が続かない。ここは何でもいいから話を切り出さないと。
「ゆ、湯川さん。君と話すのは初めてだけど、ちょっと変わった喋り方だね。何でも『なのです』って付ける感じで」
「す、すみません……なのです。その、小さい時からの癖で、最後に『なのです』って付けないと、何となく舌がよく回らない、なのです」
「いや、別に謝ることじゃないよ。僕も湯川さんと似たような喋り方をする人を知っているし、その喋り方、何というか、すごく可愛くて良いと思うよ」
 僕がそう言うと、湯川さんは顔を真っ赤にして、
「か、可愛い、なのですか? わたし、そんなこと言われたこと、これまで一度もないのです。……言われるのは、喋り方がおかしい、だけなのです」
 どうしよう。湯川さんすごく可愛い。もし許されるなら、この場でマリアみたいに抱きしめたい。

 でも、僕はそんな気持ちを辛うじて抑えて、湯川さんに言葉を返した。
「うん、独特な喋り方も1つの個性だから、自信を持っていいと思うよ」
 放課後の挨拶でこれ以上の長話をするのもおかしいので、僕は「それじゃあ、湯川さん、明日からよろしくお願いします」と言って、この日はそのまま湯川さんと別れた。

 学校を出て自転車で帰路に就いている間も、僕の心臓はバクバクとしていた。
 それでも、僕にとって最大の緊急事態は、何とか乗り越えられたのだ。奇妙な話だけど、これならトルコ軍との戦いも何とか乗り越えられると思うようになった。

(第44話に続く)
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...