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ある春の日の出逢い
十
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「…私は死を覚悟しました。ここで母と共に、命果てるのだと。斬り殺される恐怖に震えていました。すると、短い男の悲鳴がしたかと思うと、知らない男の人が草むらの中から現れて、母の前に立ちはだかってくれたのです。」
沙絵の話は、尚も続く。
母の事を思うと、沙絵の目には涙がとめどなく溢れてくる。
突然に遭遇した母の不幸と理不尽に斬られた恐怖と悔しさを思うと、深い憤りで今でも身を焦がされるような気がした。
左馬之介の目も、涙で潤んでいた。
彼も予想以上に酷い母の最期に憤りを感じていた。
自分の母がそんな卑劣な輩に斬り捨てられて命を奪われていたとは、誰が予想をしようか。
「…現れたのは、助けてくれた御仁だな?」
「はい。その人は旅人で、行商人でした。その人は持っていた杖で襲いかかってきた男を撃退してくれたのです。」
沙絵は、誇らしげに微笑んだ。
その助けてくれた人が、その後沙絵の養い親になってくれたからだ。
「侍に杖一本で立ち向かって行くなど、剛毅な御仁だ。後で、礼を申さねばならぬな。私の母と妹の命を、救ってくれたのだからな。今もご健在であるのか?」
左馬之介も、ほんの少し笑みを浮かべる。
沙絵の後ろで話を聞いていた琥太郎も、幼い頃に沙絵が母親を亡くしていた事は知っていたが、ここまでの詳しい話は聞いてはいなかった。
彼も兄妹と同じく、悔し涙を流していた。
彼らの母が、そんな理不尽な目にあっていたなんて思いもしなかった。
江戸の世では通り魔的な辻斬りに遭遇したり、または恐喝・強盗にあったりする事はままある事だが、自分の主人のご母堂がそんな卑劣な侍に斬り捨てられていた事実に納得がいかず、またそんな奴が何の罰も受けないでいるのが許せなかった。
それに自分の主人と同じく、ご母堂も尊敬出来るお人であったのは間違いない。
「…本所深川で、うしとら屋という飯屋を営んでいます。」
うっすらと笑みを浮かべて、沙絵は言う。
うしとら屋は、本所深川ではちょっとした店として知られている。安くてうまい飯と酒を出す店として深川界隈は勿論、富岡八幡宮に参拝した後にわざわざ寄っていく人もいた。元々は養い親の義理の父に当たる人がやっている店だが、一年ほど前に養い親は稼業を引退し、その後店を受け継いでいた。
「うしとら屋だな。」
深く何度も頷くように、左馬之介は呟く。
近々訪れようと、彼は心の中で決める。
母と妹を救ってくれた人だ。礼を尽くさねばならない。
「そして、その後は如何した?」
幾分落ち着いた口調で、左馬之介は沙絵に先を促す。
「はい。侍はそのまま逃げて行きました。助けてくれた人はすぐ母の傷の具合を見て、そのまま母を近くにある神社に連れていってくれましたが、しばらくして母はそこで息を引き取りました。」
出血の量があまりにも多かった。吐血と背中を二度斬られたことにより、母は全身血の色に染まっていた。最後は虫の息で死ぬ間際まで沙絵の身を案じ、そして静かに彼女は息を引き取った。
亡くなった後の母は、全身真っ赤であったのにその死に顔は真っ青だった。
母が自分一人を残して逝ってしまうなんて、嘘だと幼い沙絵は思った。
沙絵はだんだん冷たくなっていく母の体に、取りすがってずっと泣いた。しばらくしたら、母がまた目を開けてくれるのではないかと、密かな期待が胸を占めていたために母から離れられなかったのだ。
「随分、辛い思いをしたな。一人でよく今まで生きていてくれた。私は三狐神と御仏に感謝しよう。国許の父にも、是非とも知らせねばならぬ。きっと、国許からすぐにでも江戸に戻ってこよう。」
泣き笑いをしながら、左馬之介は言った。
沙絵もまだ見ぬ父を思うと、ほっこりと心が暖かくなる。
今日こうして左馬之介に会えたのは、もしかしかしたら亡くなった母の導きかもしれない。
不忍池には「お穴様」と呼ばれるお狐様が住んでいると言われている。
江戸の初めの頃、それこそ幕府ができた頃の話である。上野山には弥左衛門という狐の主が穴に住んでいた。そして、その穴の辺りに寛永寺を造営する事が決まると、弥左衛門は天海僧正に自分の住処を壊さないよう頼みに行った。すると天海僧正は快諾し穴を保護することを約束すると弥左衛門はその事に感謝して、それ以来彼とその仲間の狐たちは上野山の守護霊となり、人々の願いを叶えてくるようになったという。
もしかしたら、そのお穴様が自分と左馬之介を逢わせてくれたのではないかと沙絵は思った。
「青木様は、本当に私の兄様でいらっしゃるのですね」
嬉しそうに沙絵が笑うと、釣られたように左馬之介も笑みを浮かべる。
「そうだ。沙絵、私のことを兄と認めてくれるか」
嬉しそうに左馬之介が聞くと、沙絵は大きく頷く。
「初めは兄様の言葉が信じられなかった。でも、兄様の話を聞いて行くうちに、もしかしたら母様がお穴様に頼んで兄様と合わせてくれたのではないかと思ったのです。」
「おお。そう言えば、上野には狐が住んでいたな。もしかしたら、そうかもしれぬ。勘解由小路の血が我らを呼び寄せたかもしれぬな。」
楽しそうに左馬之介も頷く。
和やかな空気が、辺りを包み始める。
「…母の最期は本当に無念だった。旅路の途中とはいえ母の仇を打てないのが口惜しいが、もう15年も前の話だ。母を斬った不埒者を探し出すのも難しいだろう。…もし、今もそ奴がのうのうと生きていたとしたら、私は迷わぬ。だが、それも詮無いことだ…。今は、こうして生き別れていた沙絵と再び逢えたことを喜ぶこととしよう。」
そう言って左馬之介は、目の前の妹の顔をマジマジと見つめる。
記憶の中の小さな妹はその面影を残しつつ、母に生き写しの大人の女性に成長していた。
町の者の中でも裕福な身なりをして付き人を従えていると言うことは、沙絵の嫁いだ桔梗屋はそれなりの身代の店なのだろう。顔色も良く溌剌としている沙絵の様子に、彼女が幸せであると左馬之介は確信した。
左馬之介の目から、はらはらと嬉し涙が流れる。
「沙絵。私はそなたが生きていてくれた事が何よりも嬉しい。本当によく生きていてくれた。あの力がなくなっているのは不可思議だが、きっとそれは母か、母を守ってくれていた狐がどうにかしてくれたのだろう。母亡き後、街中で住み暮らせるように力を封印してくれたのかもしれぬ。」
「…そう、なのでしょうか」
「きっと、そうに違いない」
左馬之介は一つ頷くと、涙を拭いた。
「今日は本当になんと良い日であるか。人生で最良の日の一つだ。後日、そなたを助けてくれた御仁に会いに行きたいのだが、迷惑ではないだろうか」
気遣わしげに左馬之介は、沙絵の顔を見つめる。
縁もゆかりもない娘をここまで大事に育ててくれた人たちは、突然肉親を名乗る自分を受け入れてくれるか左馬之介は心配だった。
沙絵は、大きく頷いた。
「お待ちしております。」
はっきりとした声で沙絵が返事をすると、左馬之介は花が綻ぶように笑った。
分かり合えた兄妹の語らいに、後ろに控えていた琥太郎はとうとう男泣きしていた。
その泣き声にうんざりした顔をして、沙絵は琥太郎へ顔を向けた。
「もう、琥太郎。いい加減におし」
「っ、だって…、お、女将…っさ、ん…」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で琥太郎は言うと、仕方ないと言うふうに沙絵はわざと大きなため息をつき、手元の巾着から手ぬぐいを出して琥太郎に渡す。
「いいから、涙をお拭き」
鼻をすすり上げながら琥太郎は、沙絵から渡された手ぬぐいで涙を拭いた。いつものことなのだろう。沙絵は呆れた顔して、琥太郎を見ている。
左馬之介は目の前の主従のやりとりを、微笑みながら黙って見守る。
窓の外は大分太陽が傾き、夕刻になりつつあった。
沙絵の話は、尚も続く。
母の事を思うと、沙絵の目には涙がとめどなく溢れてくる。
突然に遭遇した母の不幸と理不尽に斬られた恐怖と悔しさを思うと、深い憤りで今でも身を焦がされるような気がした。
左馬之介の目も、涙で潤んでいた。
彼も予想以上に酷い母の最期に憤りを感じていた。
自分の母がそんな卑劣な輩に斬り捨てられて命を奪われていたとは、誰が予想をしようか。
「…現れたのは、助けてくれた御仁だな?」
「はい。その人は旅人で、行商人でした。その人は持っていた杖で襲いかかってきた男を撃退してくれたのです。」
沙絵は、誇らしげに微笑んだ。
その助けてくれた人が、その後沙絵の養い親になってくれたからだ。
「侍に杖一本で立ち向かって行くなど、剛毅な御仁だ。後で、礼を申さねばならぬな。私の母と妹の命を、救ってくれたのだからな。今もご健在であるのか?」
左馬之介も、ほんの少し笑みを浮かべる。
沙絵の後ろで話を聞いていた琥太郎も、幼い頃に沙絵が母親を亡くしていた事は知っていたが、ここまでの詳しい話は聞いてはいなかった。
彼も兄妹と同じく、悔し涙を流していた。
彼らの母が、そんな理不尽な目にあっていたなんて思いもしなかった。
江戸の世では通り魔的な辻斬りに遭遇したり、または恐喝・強盗にあったりする事はままある事だが、自分の主人のご母堂がそんな卑劣な侍に斬り捨てられていた事実に納得がいかず、またそんな奴が何の罰も受けないでいるのが許せなかった。
それに自分の主人と同じく、ご母堂も尊敬出来るお人であったのは間違いない。
「…本所深川で、うしとら屋という飯屋を営んでいます。」
うっすらと笑みを浮かべて、沙絵は言う。
うしとら屋は、本所深川ではちょっとした店として知られている。安くてうまい飯と酒を出す店として深川界隈は勿論、富岡八幡宮に参拝した後にわざわざ寄っていく人もいた。元々は養い親の義理の父に当たる人がやっている店だが、一年ほど前に養い親は稼業を引退し、その後店を受け継いでいた。
「うしとら屋だな。」
深く何度も頷くように、左馬之介は呟く。
近々訪れようと、彼は心の中で決める。
母と妹を救ってくれた人だ。礼を尽くさねばならない。
「そして、その後は如何した?」
幾分落ち着いた口調で、左馬之介は沙絵に先を促す。
「はい。侍はそのまま逃げて行きました。助けてくれた人はすぐ母の傷の具合を見て、そのまま母を近くにある神社に連れていってくれましたが、しばらくして母はそこで息を引き取りました。」
出血の量があまりにも多かった。吐血と背中を二度斬られたことにより、母は全身血の色に染まっていた。最後は虫の息で死ぬ間際まで沙絵の身を案じ、そして静かに彼女は息を引き取った。
亡くなった後の母は、全身真っ赤であったのにその死に顔は真っ青だった。
母が自分一人を残して逝ってしまうなんて、嘘だと幼い沙絵は思った。
沙絵はだんだん冷たくなっていく母の体に、取りすがってずっと泣いた。しばらくしたら、母がまた目を開けてくれるのではないかと、密かな期待が胸を占めていたために母から離れられなかったのだ。
「随分、辛い思いをしたな。一人でよく今まで生きていてくれた。私は三狐神と御仏に感謝しよう。国許の父にも、是非とも知らせねばならぬ。きっと、国許からすぐにでも江戸に戻ってこよう。」
泣き笑いをしながら、左馬之介は言った。
沙絵もまだ見ぬ父を思うと、ほっこりと心が暖かくなる。
今日こうして左馬之介に会えたのは、もしかしかしたら亡くなった母の導きかもしれない。
不忍池には「お穴様」と呼ばれるお狐様が住んでいると言われている。
江戸の初めの頃、それこそ幕府ができた頃の話である。上野山には弥左衛門という狐の主が穴に住んでいた。そして、その穴の辺りに寛永寺を造営する事が決まると、弥左衛門は天海僧正に自分の住処を壊さないよう頼みに行った。すると天海僧正は快諾し穴を保護することを約束すると弥左衛門はその事に感謝して、それ以来彼とその仲間の狐たちは上野山の守護霊となり、人々の願いを叶えてくるようになったという。
もしかしたら、そのお穴様が自分と左馬之介を逢わせてくれたのではないかと沙絵は思った。
「青木様は、本当に私の兄様でいらっしゃるのですね」
嬉しそうに沙絵が笑うと、釣られたように左馬之介も笑みを浮かべる。
「そうだ。沙絵、私のことを兄と認めてくれるか」
嬉しそうに左馬之介が聞くと、沙絵は大きく頷く。
「初めは兄様の言葉が信じられなかった。でも、兄様の話を聞いて行くうちに、もしかしたら母様がお穴様に頼んで兄様と合わせてくれたのではないかと思ったのです。」
「おお。そう言えば、上野には狐が住んでいたな。もしかしたら、そうかもしれぬ。勘解由小路の血が我らを呼び寄せたかもしれぬな。」
楽しそうに左馬之介も頷く。
和やかな空気が、辺りを包み始める。
「…母の最期は本当に無念だった。旅路の途中とはいえ母の仇を打てないのが口惜しいが、もう15年も前の話だ。母を斬った不埒者を探し出すのも難しいだろう。…もし、今もそ奴がのうのうと生きていたとしたら、私は迷わぬ。だが、それも詮無いことだ…。今は、こうして生き別れていた沙絵と再び逢えたことを喜ぶこととしよう。」
そう言って左馬之介は、目の前の妹の顔をマジマジと見つめる。
記憶の中の小さな妹はその面影を残しつつ、母に生き写しの大人の女性に成長していた。
町の者の中でも裕福な身なりをして付き人を従えていると言うことは、沙絵の嫁いだ桔梗屋はそれなりの身代の店なのだろう。顔色も良く溌剌としている沙絵の様子に、彼女が幸せであると左馬之介は確信した。
左馬之介の目から、はらはらと嬉し涙が流れる。
「沙絵。私はそなたが生きていてくれた事が何よりも嬉しい。本当によく生きていてくれた。あの力がなくなっているのは不可思議だが、きっとそれは母か、母を守ってくれていた狐がどうにかしてくれたのだろう。母亡き後、街中で住み暮らせるように力を封印してくれたのかもしれぬ。」
「…そう、なのでしょうか」
「きっと、そうに違いない」
左馬之介は一つ頷くと、涙を拭いた。
「今日は本当になんと良い日であるか。人生で最良の日の一つだ。後日、そなたを助けてくれた御仁に会いに行きたいのだが、迷惑ではないだろうか」
気遣わしげに左馬之介は、沙絵の顔を見つめる。
縁もゆかりもない娘をここまで大事に育ててくれた人たちは、突然肉親を名乗る自分を受け入れてくれるか左馬之介は心配だった。
沙絵は、大きく頷いた。
「お待ちしております。」
はっきりとした声で沙絵が返事をすると、左馬之介は花が綻ぶように笑った。
分かり合えた兄妹の語らいに、後ろに控えていた琥太郎はとうとう男泣きしていた。
その泣き声にうんざりした顔をして、沙絵は琥太郎へ顔を向けた。
「もう、琥太郎。いい加減におし」
「っ、だって…、お、女将…っさ、ん…」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で琥太郎は言うと、仕方ないと言うふうに沙絵はわざと大きなため息をつき、手元の巾着から手ぬぐいを出して琥太郎に渡す。
「いいから、涙をお拭き」
鼻をすすり上げながら琥太郎は、沙絵から渡された手ぬぐいで涙を拭いた。いつものことなのだろう。沙絵は呆れた顔して、琥太郎を見ている。
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