夜桜仇討奇譚(旧題:桜の樹の下で)

姫山茶

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不知火

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 お雪は、近くに住む農家の娘であった。
 お秋とも仲良く、たまに浅草まで一緒に遊びにいく仲だった。
 朝から畑仕事をしていた彼女はお昼になったので家に昼飯を食べに帰ろうとしたところ、あの浪人たちが現れて先程のような目にあったのだ。
「それにしても危ないな。そいつら見たことある顔だったのか?」
 そう話に入ってきたのは、この紅梅屋に手伝いに来ている裕次郎だ。
 彼もこの近在の農家の次男坊でお雪の家も近く、二人は幼馴染であるという。
 お雪はお秋と同じ数えで15、裕次郎は13である。
 まるで姉を心配するような弟の顔で、彼は眉を顰める。
 若い娘に乱暴を働こうとする不埒者は、残念だがどこにでもいる。
 だから、近在の者は若い娘や子供がそうした者たちの餌食ならないように、少しでも怪しい人物を見つけたら付近住民たちの間で認識できるようにしていた。
 会合などで話題にして注意を促し、少しでも危険を回避できるよう地域の力で住人を守っているのである。
 お雪はあの時の恐怖がまだの体を支配していて、思い出すとまた体が震えてしまいそうな気がした。しかし、それでもあえて思い返してみても、あの浪人たちには全く見覚えがなかった。
「…初めて見た顔だと思う。この辺には浪人者なんて、寝返り祠の松本様しかいないし。」
 この亀戸天神の近くに寝返り祠という祠があって、その近くある家に浪人が一人寝起きしていた。だが彼はこの辺りを治める名主の知人で、間違ってもそうした無頼の輩ではない。まだ、本人も穏やかな人柄で、この地域の人たちに慕われている。そんな彼には剣術の才があり、この辺りの用心棒としての役割もしてくれていた。
「とにかく今日のことは名主様に報告するぞ。名主様がきっと松本様に言って、危険がないようにしてくれるはずだ。」
「うん…」
 彼女ももう二度とあんな恐ろしい目に会いたくはなかった。未遂とはいえ助けがなければ今頃自分は傷物になって、人生がめちゃくちゃになっていたかもしれない。
 裕次郎の言葉の通り、後日名主から話を聞いた寝返り祠の松本は、不逞の輩がいないか辺りを巡回し始める。付近の住民も松本に協力して、時には一緒に巡回するようになる。
「裕や、おまえお雪を家まで送ってきな」
 嗄れた声でこの店の店主であるお鶴が、裕次郎に命じる。
 ちょうど昼時を過ぎ、店も落ち着いている時間帯だった。店には彼ら以外、客の姿がなかった。
 裕次郎はお鶴の言葉に頷くと、椅子に座っているお雪を促す。
「さぁ、お雪。家に帰るぞ」
 お雪は裕次郎の言葉に、ゆっくりと動き出す。そして沙絵と琥太郎の前にくると、深々と頭を下げる。
「危ないところを助け頂き、本当にありがとうございました。」
 お雪が感謝の言葉を述べると、二人は照れたように笑う。
「よしとくれよ。でも、本当に大事にならなくて良かったよ。」
 心底ホッとしたように、沙絵が言う。
 若い娘の人生があんな詰まらない浪人たちに壊されなくて本当に良かったと、沙絵は心底から思っていた。あのまま傷物になっていたら、彼女の人生はとても困難なものに変わってしまったことだろう。若くて綺麗でも傷物だと、結婚相手を探すのは難しくなる。もし、相手が見つかったとしても、十も二十も歳が上で後妻だとか、もしくは大店の旦那や隠居者の妾という話しかこないだろう。
「本当に。これからも気をつけるんだよ。馬鹿な奴らっていうのは、どこにでもいるんだ。」
 琥太郎が諭すようにいうと、お雪は深く頷いた。
 「琥太郎。あんたも裕次郎について、お雪ちゃんを家まで送るんだよ」
 あの浪人者がいなくなっているとは限らない。危険がないように二人を守るように沙絵は密かに琥太郎に命じる。
 彼は無言で頷く。
「さぁ、行こう。二人とも。」
 裕次郎は琥太郎の言葉に従い、お雪の横に並んでゆっくり歩き始める。
 お雪は店の入り口まで行くと再度振り向き、ゆっくりと頭を下げてから出て行った。
 離れて行くお雪の背中を、泣きそうな顔でお秋が見送る。
「…お雪ちゃん。」
 友人が危ない目にあったと聞いて、彼女も気が気じゃなかった。恐怖で怯えている彼女をみて、心が痛かった。
 しかし、琥太郎がついていれば大丈夫だ。彼は桔梗屋の近くにある剣術道場に通っており、かなりの使い手なのだ。
「お秋。こっちに来な。」
 祖母のお鶴がそう言うと、彼女は後ろ髪を引かれながらも沙絵のところに来る。
「沙絵姉さん、本当にお雪ちゃんを助けてくれてありがとう。」
 友人を救ってくれたお礼をお秋がそう言うと、沙絵は淡い笑みを浮かべた。
「お秋ちゃんの友達に大事がなくて、本当に良かった。」
「この辺りも物騒になったもんだ。お秋、あんたも気をつけるんだよ。一人で出歩いたりするんじゃないよ。」
 ブツブツお鶴は言いながら、調理場に入ると何かを作り始める。
 沙絵の腹の虫が鳴り始める。
 気がつくと昼八つ(午後三時)になろうとしていた。
「お沙絵坊、お腹が空いただろう?今蕎麦を茹でてやるよ。お秋、葱を刻みな」
「は~い」
 お秋は間延びした返事をして祖母の手伝いを始めるために、調理場の入り口にかかっている暖簾をくぐった。
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